僕の私の飼育日誌

ぶいさん

自由研究

 滑舌のよい女性の声が動物関連のニュース原稿を読んでいる。切り替わった画面には冬眠の時期にもかかわらず痩せ細り衰えたクマが捕獲された様子を映し出している。檻の中のクマがりんごを食べる姿にコメンテーターたちは顔を綻ばせながら口々にかわいいですねと言葉を発している。



 薄暗い部屋。時間はもう日暮れの頃で、公共放送が子供たちに帰る時間を伝えている。レースカーテン越しに見える空は橙色から藍色に変わりつつあった。室内は鳴動するテレビにほの明く照らされているだけで電灯は点いていない。

 垂れ流されている音声を背中に、僕はいる。飼育ケースに入れて育てたカブトムシの死骸に白くカビが生えているのをじっと眺めている。


 網目の空気穴のついたケースの蓋を手のひらで掴んでほんの少し力を込める。蓋は簡単に開いた。途端に、ほとんど密閉されていたケースの中の匂いが漏れる。カビ臭さが嗅覚を直撃して顔をしかめずにはいられなかった。


 長いこと幼虫でいたような気がする。ある夏にペットショップで売っていたのを見て飼い始めたものだった。寿命の短い生き物だ、あっという間に育つだろうと思っていたが虫が羽化するまでの時間は思いのほか長かった。

 ほうっておけば勝手に育つものと軽い気持ちで飼い始めたものの、湿度や温度の管理がなかなか面倒であれこれ手間と時間のかかるものだと気付いたのはいつだったか。羽化を見届けたときはそれなりに達成感があったはずだ。しかし羽化したあとは唐突に飽きた。僕はそのカブトムシがいつ命を終えたのかとんと覚えがないのだ。


 鎧のような重厚感と圧倒的な存在感を放っていたカブトムシは、今や腹を天井に向けて足を折りたたんだこじんまりとした姿になっている。僕がケースを動かしても沈黙したカブトムシの死骸は揺れに伴ってカサカサと音を立てるだけだ。

 天寿を全うしたかどうかはわからないが、庭に穴を掘って埋めようか。


 この家には小さいながらも庭がある。

 庭へつながる戸を開けようとしたところ、サッシが詰まっているのか感触は重い。擦れた鈍い音を立ててゆっくり開く。外はすっかり日が暮れて戸の隙間から冷たい風が中に吹き抜ける。寒い。冷たい風に意欲は失われ、埋めるのはやめようと思った。寒い中庭に穴を掘って死んだ虫を埋める?いやだよ面倒くさい。寒いのは苦手なんだ。

 僕は窓から腕を伸ばしてケースを逆さまにする。重力に従ってカブトムシの死骸が庭に放り出される。黴びた土も黴びたカブトムシも軽い音を立てて地面の上に着地した。僕はそれからまた鈍い音を立てながらまたゆっくりと窓を閉めた。ケースは主を失って空っぽになった。

 次は何を飼おうかな。そう考えてペットショップのWebチラシを見る。鳴かない動物がいいな。小動物がいい。餌をやり忘れても簡単に死なないような生き物がいい。

 


 明け方に地震があった。

 部屋の揺れに目を覚まして枕元に置いていたスマホで震源や震度を確認する。それからすこしの間起きていたが、地震はそれ以上揺れることも続報もなかった。そしてまだ起きる時間でもなかったので僕は布団に潜り込んで二度寝した。



 目覚ましのアラームが枕元で鳴っている。お気に入りの曲だ。けたたましい電子音のアラームで目覚めるのは苦手だから好きな曲を設定している。気持ちよく起きたい。

 夢を見た気がする。どんな夢だったか思い出せない。あくびをしたついでに伸びをしてまたあくびをする。眠い。起きたくない。面倒くさい。

 しかし今日は彼女と約束があるから起きなくてはならない、行かなくてはならない。約束を放り出して再度の二度寝をキメたいが、時間は虚しく過ぎていく。


 パッとスマホの画面が点いて、誰かからラインが来たことを報せている。彼女だろうか。僕は交友関係が広い方ではないから、よほど珍しいこと、例えば誰かが死んだだとかそういったことがない限りは、いつもの決まった人間からの連絡だけしか来ない。画面を見るのが面倒くさくてスマホはそのままだ。急ぎの用事ならまた来るだろう。

 身支度を整えなければと思いつつ、首を掻きながらだらだらとトイレで用を足しその足で家の中を歩き回る。つけっぱなしのエアコンで喉が渇いた。冷蔵庫を開けるといつの間にか補充されていたミネラルウォーターを取り出して一口飲む。


 この家は不動産業の親が管理している家で、僕が外出中や眠っている間に食料や日用品の補充、掃除なども済ませておいてくれる。僕はそれらを享受しているだけでいい。生活を管理されることに苦はない。管理されるの生活だけで、交友関係には口を出されることはなかったからだ。面倒なことは専門家に頼めばよい。とても恵まれている。実家が太いのは運がよい。これが日常なものだから親の機嫌取りも大して必要でなかったことが大きい。

  

 スマホ画面にはラインのポップアップが並んでいる。身支度してスマホを手に取り、慣れた手つきでラインを開く。


─まだ寝てるの?

─今日の約束忘れてないでしょうね?


─今起きたよ。

─これから出るからおとなしく待ってて。



 もふもふのフェイクファーのついたおちついた渋色のモッズコートに袖を通して、家を出る。彼女の家に行くまでに駅前の小さなケーキ屋で彼女の好きなケーキを買っていこう。

 ショーケースに並んだ色とりどり様々なスイーツを見ていると甘い匂いにうっとした。僕自身は甘いものが得意ではない。彼女は甘いものや可愛らしいものが好きだ。砂糖菓子の人形が乗った可愛らしい装飾がされたショートケーキを選んだ。選んだものを買い包装されるのを待つ間に紅茶缶を追加で買う。特にこだわりもないので、店員のおすすめのものを買った。

 

 彼女の家の前で「来たよ」とラインを打つ。ほどなくしてが家の扉を開けた。美咲が笑顔で僕を迎える。かわいい。緩く流した焦げ茶色の髪先がふわふわ揺れている。「お邪魔します」と家に入る。フローリングに靴下が少し滑る。美咲が先導して部屋へ歩く。淡いピンクで丈の長いセーターにワイン色のミニスカート。そして美咲は巨乳だ。豊かな胸が歩く度に揺れる。ふっくら温かい体、きめ細やかでなめらかな肌。長く伸びた肢体。気は強いが美咲は僕を疑わない。突然その体を押し倒しても彼女は甘んじて僕を受け入れるだろう。僕は信頼されている。


 それにしても女性の体は不思議だ。僕と美咲の体は、同じヒト科の生き物なのに個体や成分量の差異はあれど同じ物質や似た成分で体が構成されているはずなのに、どうしてこうも異なるのだろう。

 体を切り分けたらどうなっているんだろう。

 豚と人間は体の構成が似ているんだと理科の授業で習った。切り分けられた豚の内臓が実験台の上に並べられた光景を思い出す。確かめてみたい。自分の手で確かめてみたい。観察がしたい。哺乳類の手足をもいだらどうなるのか。それには場所が必要だ。カブトムシでは比較できない。どれだけの時間と手間がかかるのだろう。


 疾しい思考を打ち切ったのは地震だった。


 地震だ。強い横揺れだった。なんてことだ、よりにもよってこんなところで災害に遭うなんて。立っていられないほど強い揺れに動けないでいたが、美咲は「出口を確保しなくちゃ…」と慌てて窓に近づいていた。

 地面はまだ大きくゆっくりゆらゆらと揺れ続けている。ガラスが割れたらどうするんだ。危ないじゃないか。そう口にしようとしたがそれを遮ったのは美咲の絹を裂くような悲鳴だった。可愛らしい悲鳴ではない。「ああああああっ!!!」美咲は悲鳴と同時に後ずさり肩でぶつかってきた。僕は彼女の肩を抱いて「どうしたんだ、なにがあった…?!」と半ば叫ぶようにして聞いたが、ブルブルと震えて美咲は答えない。言葉にならない悲鳴を繰り返して指先を窓へ向ける。


 すると不意に部屋が暗くなった。雲が出て日が遮られたのか?

 僕は見た。


「うわああああああああああっ…!?!?!?!?!?!!」


 僕は美咲を突き飛ばした。わけもわからず部屋を飛び出した。こんなところにいられるか!家に、僕の家に帰らなくては…!!!僕は靴を履くのも忘れて裸足で街を走っていた、とにかくここから離れたい。汗が鼻水が涙が、あらゆるものが穴という穴から吹き出していたが構ってられない、あんなものが、あんなものがっ…!!!

 ああ窓に、窓にっ…!!!! 

 恐怖で頭が混乱して、もうなにもわからない、あれは一体何なんだ!!!あんな恐ろしいもの初めて見た、初めて見たものだった、あれは、あれは…













*****



 先日から飼い始めた飼育ケースを覗く。いきものが動かない。生きているのかどうかケースを指でつつくともぞもぞと動き出す。しかしまたすぐに動かなくなる。このいきものは寝てばかりだ。なまけものだ。


 つがいを買ったが、このいきものは繁殖力に乏しく発情をしても肝心の繁殖が見られないことが多いのだという。個体によってはたくさん子供を産むと言うが、私の買ってきたつがいはどうだろうか。

 餌の食い付きはまあまあだ。長い目で見てやらなければならない。たくさん増えたら業者が買い取ってくれるというから楽しみだ。暇つぶしで小遣い稼ぎができるならそれも面白い。


 オスとメスは普段は離れた場所に巣を作っている。餌箱もそれぞれに用意した。同じケース内でも縄張りがあるのだろう。つがいを買う際に飼育キットをセットで買ったのは口車に乗せられたと思ったものだが、これを見ると業者の勧める通りに購入して良かった。


 ある日、オスが餌を運んでメスに渡しているのを見つけた。興味深い行動だ。これは求愛の一種だろうか。動物らしいといえば動物らしい。オスが求愛してメスが行為に応じるのはどの動物も同じなのだろう。

 もっとも、我々ペティグリュヌ六等星人には性別や発情や性行為など下等生物に見られる野蛮な行動は一切ないと断言ができる。なぜならば、我々はおよそ1億6千年前から、母体の脇からつぼみが芽吹き母体が枯れ落ちる時新たに子として生まれ続けている。生命の神秘、ペティグリュヌ六等星人、万歳。


 業者が言うには、このいきものは強いストレスで死んでしまうことがあるので、蓋を開けたことでの生体死亡での保証はつかないと説明書にもあったっけ。蓋を開けたくらいでなにをひ弱なことを言っているのだ。ちょっと覗くだけだちょっとだけ。


 おや、下等ないきものが互いの体を絡みつかせて性行為をしているではないか。この状態でケースをつついてやったらどうなるか、慌てふためいてきっと面白いぞ。そら動け。やれ動け。

 ケースを掴んで思い切り横に揺さぶってやると、いきものはケースの中のオブジェクトに掴まっているのか動かない。

 なんだつまらない、もっとよく見せておくれよ。

 

 結論から言うと、私の飼育は失敗した。生き物を育て増やして業者に買い取ってもらう夢は潰えたわけだ。とはいえ飼育キットさえ手元にあれば新たな生体を追加注文すれば済む。いきものを飼うのはなんとも難しいものだ。

 ちょっと覗いただけなのに。そんなことで死んでしまうとはなあ。

 次を買ったらいろいろと試してみよう。


 

 私は、飼育ケースを逆さにしていきものの死骸を庭へ放り投げた。

 夏休みはまだまだこれからだ。

 次は何を飼おうかな。

 

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