第19話 エピローグ
大学を卒業し、僕は社会人に……と言いたかったが、実はまだ学生だったりする。
和菓子を一から学びたいという欲が強くなり、僕は母に相談した。「頑張りなさい」と言葉をくれて、今は専門学校に通っている。祖母から習った基礎にさらに基礎を加えた知識が混じり、頭が困惑するときもあるが、無駄な時間ではないと思っている。
「よし、できたっ」
隣で厳しい目で見ていた祖母は、とたんに口元が綻んだ。僕お手製の上生菓子は、ウグイスに梅の花を咲かせたものだ。春を先取りした桜をイメージしたものもある。デザインも僕ひとりで一か月以上前から考えた。なんていったって、今日は特別な日だ。
ラッピングを終えて祖母にお礼を言い、私服に着替えた。緊張するとおかしな呼吸になり、心臓がいつもと違う音を奏で始める。しっかりと吐ききってから存分に酸素を取り込んだ。
公園にある桜の木はまだ蕾で、もうすぐ春がやってくる。雪が溶けたら春。こんな当たり前のことを昔の僕なら、汚い道路しか残らないと思っただろう。誰かさんみたいで、くすりと笑えた。
今日は、僕は愛しい人の我儘を叶えに行く日だ。二月十四日。恋人たちが目の色を変える日。甘ったるい匂いを漂わせる日。僕の印象はこの二つだが、恋人からすると性の匂いを漂わせている日らしい。変態にも程がある。けれど、僕も彼に染められている。
職場は事前に聞いていて、僕は駐車場へ向かった。何度も乗った彼の車には、クマのぬいぐるみが二体置かれている。首に巻かれたリボンはそれぞれ赤と青。去年のクリスマスに購入したものだ。
「……藍君?」
久しく見ていない顔だ。数人の生徒と現れたのは、遠山さんだ。あの頃とは違い、黒髪にオールバックという講師をイメージする風貌へと変化していた。
「先生の友達?」
「誰?」
「俺の友達っていうか、相澤先輩の……ね」
遠山さんは意味深に笑うと、生徒たちは怪訝そうな顔で僕を見た。
「もうすぐ来ると思うよ」
「相変わらず意地悪ですね」
「その袋を見てると意地悪したくなる」
僕は紙袋を後ろに隠した。
「さっさと帰りなさい。今は暗くなるのが早い」
賢さんだ。彼は僕に気づいていない。生徒に先生と呼ばれている。仕事をしている彼を見るのは初めてだった。
「藍君?」
気づかれてしまった。恥ずかしかったけれど、紙袋は後ろに持ったまま、遠山さんの陰から顔を出した。賢さんはにやけそうな顔を必死で抑えようとし、止まらないルーレットみたいな顔になっている。
「じゃあね、藍君。今度また飲みに行こうね」
「はい、ぜひ」
僕と遠山さんは飲み友達となっていた。一度賢さんに内緒で二人で会ったら、この世の終わりだという顔をされた。以来、三人で食事をしたりしている。それでも賢さんは不服そうだ。
一揖して彼らを見送り、僕は賢さんの車に乗る。
「一度やってみたかったんだよ。職場に恋人が迎えにきてくれるってやつ」
「夢は叶いましたか?」
「半分くらいはね。その後泊まりってのは、これから叶うから。……藍」
賢さんはふたりっきりのとき、藍と呼ぶ。人がいれば藍君だ。恥ずかしいけれど、嬉しい。
背もたれに手をかけてきた。次にされる行為は分かるが、外から聞こえる笑い声に身体が離れていく。今は駄目だ。
「買い物に行きませんか?」
「鍋の材料買ってあるよ。お肉もたくさん」
「それならまっすぐ帰りましょう」
僕と賢さんは何度か鍋を食べている。祖母と鍋をすると九割くらいが野菜だが、賢さん流の鍋は五割が肉である。美味しいが、身体が心配になる。
部屋にお邪魔させてもらうと、賢さんに抱きしめられた。ズボンの中に入り込む不届きものを叩き、手を背中に回す。
「ふー、落ち着く」
「ですねー」
「学校はどう? 虐められたりしてない?」
「ないです。専門学校だし、皆自分のことで精一杯ですよ。中には僕と同じく和菓子屋の息子だって人がいて、仲良くなりました」
「いいライバルを持ったね」
賢さんは僕の頭を撫でる。子供扱いは嫌いじゃない。この前、お返しに冗談で賢さんの頭を撫でたら、無言で頭を傾けてきた。身体の疲労だけではなく、精神も癒されてほしい。
クマのエプロンを身につけ、鍋の準備に取りかかった。奮発した国産の高めの鶏肉を切り、野菜もそれぞれ切って鍋に入れる。上から出汁をかけて、煮立てば出来上がり。賢さん直伝の鍋。同じ鍋といっても、家庭それぞれの味がある。
「賢さんの家庭って、お肉多めで食べるんですね」
「…………いや、」
「あっもしかして、実家ではもっと野菜多めで食べてたんじゃ……」
「一人暮らしって気ままでいいよね」
「……野菜多めに入れて良かったです」
土鍋の蓋を開けた。野菜八割、肉二割。僕の家ではいつもこうだ。祖母が作る鍋はこれでも肉が多いくらいで、食べ盛りの僕のためにいつも少し多めに入れてくれる。
賢さんは目を凝らして肉の在処を探し、笑顔になった。
「そういえば、公園の辺りは大丈夫?」
「はい。問題ないです」
僕が中学生のときもあったが、変質者がまた現れたと一週間ほど前に地元がテレビに映った。夜遅くに帰ると、決まってパトカーと鉢合わせをする。安心感と一瞬の緊張感が合わさり、何とも変な感覚を毎度味わっている。
「よく警察官が、この辺で変な人を見かけなかったかって質問をしたりするじゃん。ドラマとか観てるとさ」
「ええ」
「俺たちの想像する変わった人って、サングラスにマスクみたいな人じゃない? 有り得ないっていうね。変質者っていうのはだいたい目立たないサラリーマン風の人らしいし」
「怪しい行動をしている人はいないかっていう質問も答えにくいですよね。庭を覗いたり見るからに怪しい感じの人ってなかなか見ないでしょうし」
肉がもうない。今度は新しく肉団子を入れた。
「心配なのは僕より蓮です。僕より帰りが遅いし、真っ暗になってから帰宅なんてザラだし」
「蓮君とはうまくいってる? 最近会ってないけど元気かな」
「うまくいってます。三日前は一緒におばあちゃんの家でご飯を食べました。おばあちゃんも気合いを入れてすき焼きを作ってくれて、すごく美味しかったなあ」
「次はすき焼きもありだな」
冷凍食品をほぼ食べなくなった賢さんは、お腹回りがスリムになった。自炊をするようになって、健康的になってきている。
ふたりで片づけをした後は、ソファーの上でまったりといちゃついた。僕に集中してほしいのに、後ろの紙袋をちらちらと見ている。
「忘れてませんよ」
「ほんとに?」
紙袋ごと彼に手渡すと、思っていた以上に喜んでくれた。
「すごい……また腕上げたね。春だなあ」
「春ですねえ。ホワイトチョコレートと白あんを求肥で包んでます」
「ちょっと写真撮ってもいい?」
「ふふ、どうぞ」
賢さんは僕が言い終わる前に端末を出し、僕の手作りの上生菓子を写真に収めた。
「お菓子作りの名人を恋人に持つと、バレンタインはサプライズすぎる。チョコレートがまさかこんな風に変貌を遂げるとは……こういう使い方をするのは藍だけだよ」
いつもの大口ではなく、一口が小さい。ウグイスの顔が無くなった。
「……………………」
「どうですか?」
「……めちゃくちゃ美味しい。優しい味がする。ほっとする」
「良かった……チョコレートの原型がないので、バレンタインとしてどうかなあとも考えてました」
「こっちの方が藍っぽくて好きだよ。チョコレートでも嬉しいけどね」
「今、好きっていいましたね?」
「え? あ、チョコレートね、白あんも好きだしチョコレートも好き」
未だに賢さんは、僕に好きとあまり言ってくれない。言うのは専らベッドの中だけだ。最初は数えていたが、ベッドに入るたびに言ってくれるので数えることも止めた。きっと今日も言ってくれるだろう。悪戯に太股の内側を撫でると、熱が手の甲に当たる。僕の手を太股で挟み、押しつけてきた。
僕たちのバレンタインも、性の匂いがした。
翌日、ふたりで朝と昼兼用の食事を作り、ソファーで抱き合っていたら、あっという間に太陽が隠れてしまった。
「時間が経つのは早いね。送っていくよ」
「ありがとうございます。なら、もうちょっと一緒にいられますね」
「ああ、もう」
大きな手が臀部に回ってきた。これ以上したら、僕のお尻が壊れる。引き裂かれる。
「来月は俺からプレゼントしたいんだけど、何がいい?」
「んー……思いつかないです。一緒に過ごせればいいかな」
「嬉しいけど、嬉しいけどさ、うーん」
「あっなら抹茶を点てる道具がほしいです」
「抹茶? 習い事でも始めるの?」
「趣味程度ですがやってみようかなって思って」
賢さんにも振る舞いたいとは言わないでおこう。実は過去に祖母から習って経験はあるが、プレッシャーが身に降りかかるため言うか躊躇う。
バレンタインが一日過ぎ、散歩をしながら街を通ると昨日はバレンタインと掲げていた看板は、すでに来月のイベントに切り替わっていた。
「早くない? もうホワイトデーか」
「イベントにばっさり切り捨てられた気分です。踊らされている感が凄まじい……」
「分かるよ、分かる。でも恋人がいると止められないんだよなあ。結局楽しんだ者勝ちってことで」
来年は僕がバレンタインにもらう予定だ。そしてホワイト・デーは賢さんがくれる。毎年交互に渡すというのも、面白い。彼の言う通り、楽しめばいいのだ。
車に乗ると、誰かからメールが届いているのに気づいた。弟の蓮だ。
──た
「た?」
「どうした?」
「蓮からメールが来てたんですけど……一文字です」
「返事してみたら?」
賢さんも心配そうに運転席から画面を見やる。
──どうしたの?
メールを送ってみたが、早々返事が来るわけではない。蓮はメールを先延ばしにする性格だ。普段からすぐに返さない。
電話をしてみると、虚しくコール音が鳴るだけでやはり出なかった。
「おばあちゃんの家じゃなくて、実家に行ってみる?」
「そうしようかな……多分おばあちゃんのところにはいないだろうし」
駅の駐車場に停め、気持ち早歩きで慣れた道を通る。自然と口数が少なくなった。焦るな、と賢さんは無言で僕の手首を掴む。
思い出深い公園を通り過ぎようとすると、中から人の声がした。子供の声ではない。男性の、大人の声だ。
「蓮……?」
ベンチにうなだれている僕の弟と、知らない男性が二人。うずくまる全身黒ずくめの男性は、夕暮れすら過ぎた今の時間ではさらに漆黒に見えて不気味だった。
真逆に白いトレーナーを着る男性は、逃げようとする漆黒の男性を取り押さえ、薄い笑みを浮かべている。這いつくばる黒服の男性より恐ろしかった。
「蓮!」
高校生になって一気に背が伸びた蓮は、数日ぶりに会っても成長したとしみじみ思う。だが今の蓮は、何かに怯えている小さな子供だった。
「何があった? 怪我は?」
「うん……大丈夫。兄貴は……ああ」
賢さんを見て察したのか、特にそれ以上言わなかった。
「警察は……呼んだよ」
「どうしたんですか? その人は……」
「うん……怪我はしてる。でも仕方のないことだよ。その子は君の弟?」
不思議な空気を醸し出す人だ。焦る気持ちが浄化されていく。
「はい、そうです」
「隣のあなたは体格がしっかりしているね。悪いけど、押さえるのを任せてもいいかな? もう彼には動ける力はない。だから……大丈夫」
賢さんは白いトレーナーの男性の代わりに、黒ずくめの男性を取り押さえた。
「君の弟が襲われていた」
「ち、違う……たまたま……居合わせただけで」
「居合わせただけでなんで蓮君の服が乱れてるんだ?」
賢さんはドスの利いた声を出す。
「そういえば、この辺りで変質者が出ると噂になっていたね」
僕はゴミを見るような目で黒ずくめの男性を見下ろした。
「警察は君の弟が呼んだ。もうすぐ来るよ」
目いっぱい、弟を抱きしめた。最初は身体を固くしていた蓮も、僕の背中に手を回す。
「命があって……本当に良かった……」
「うん……ナイフ突きつけられて……どうしようもなくて、俺……」
「全部警察に話そう。兄ちゃんがついてるよ。一緒にいるから」
「うん……」
震えていた蓮は、次第に落ち着いて乱れていた呼吸も整ってきた。
公園の入り口でパトカーが数台停まると、賢さんの口から安堵のため息が漏れた。一人で犯人を押さえていたのだ。緊張感もひとしおだろう。
「あれ?」
先ほどの白いパーカーの男性はいなくなっていた。事情の説明を求められても、詳しいことは答えられない。蓮は襲われたと大雑把な説明をし、ベンチの下に転がっているナイフを指差した。
「君が取り押さえたの?」
「違います。他の男性の方で、ええと……なんて説明したらいいのかな。変わってくれって言われたんです。そしたら、その男性はいなくなっていて、」
賢さんはしどろもどろになりながら、たった数分間の出来事を話した。僕も似たようなことしか言えない。気配なくいなくなるなんて、人間の類ではないのかもしれないと身震いしたが、しっかりと足跡は残っていた。
僕たちは個別で聴取を受けたが、話せることと言えば蓮との関係と白いパーカーの男性の話だ。力無く横たわる男性については、犯行現場を目撃したわけではないので何とも言えない。
パトカーから降りると、僕が最後の聴取だった。ベンチで蓮が賢さんにもたれかかっている。
「別に……そんなんじゃねえぞ」
「分かってるよ。貸してあげる。僕のだけど」
「ふふ」
「ふふー」
「なんだよふたりして」
蓮の頭を撫でると、睨まれてしまった。けれど振り解いたりはしない。
「よく頑張ったね」
「ああ……。公園で小銭を落としたから探すの手伝ってほしいって言われたんだよ」
「それで公園内に入って手伝ったの?」
「手伝ったわけじゃなく、手伝うふりだ。公園で金落とすって有り得ねえだろ。自販機もないのに。怪しい奴だと思ってたよ」
前はあった自動販売機の場所に、今は花壇が設置されている。
「まさか刃物持ってるとは思わなかった。俺の考えが至らなかった。揉み合いになったとき、さっきのパーカー男が助けてくれたんだ。面白いくらいにぼこぼこだったぜ」
「そんなに強い人だったんだ。武道家かな……」
ショックというより、悔しさが滲んでいる顔だ。
「一発殴っとけば良かった」
「そうなったら蓮も逮捕だよ」
蓮まで手錠をかけられるなんてごめんだ。今、こうして話せているだけで幸せを噛み締めている。
「警察官の方が家まで送ってくれるってさ。お言葉に甘えよう」
のろのろと立ち上がり、再びパトカーに乗った。とにかく口が重くて、蓮は目を瞑ったまま微動だにしない。精神的な負担は大きいだろう。兄としてうまい言葉をかけてあげたいが、何も思い浮かばない。
実家の前では、すでにパトカーが停まっていた。
「げっ……」
「げってなに?」
「親には内緒にしとこうと思ってたのに」
「何それ? 心配するでしょうが。蓮はまだ未成年だし、連絡は行くよ」
パトカーから降りた瞬間、母が勢い良く飛びかかってきた。昔のようなやつれた面影はもうない。少しふっくらして、健康的だ。そして泣き虫なのは相変わらずだ。
「助けて頂いて、本当にありがとうございました……」
「いえ、私はほとんど何もしていないです。旦那さんはお帰りですか?」
「ええ、います」
「ならば大丈夫ですね。藍君はどうする?」
「んー……」
祖母が心配だ。けれど、一緒にいてと別れ際の子犬のような顔をする母を見ても放ってはおけない。
「こうしようか? 俺はおばあちゃんの様子を見に行くよ。藍君はお母さんと蓮君のSPになる」
「任せてもいいんですか?」
「大丈夫だよ。この時間ならまだ起きてるよね?」
「はい」
祖母は賢さんにお任せすることになった。母はよろしくお願いしますと頭を下げ、懇願した。
できれば、というよりかなりキスしてお別れしたかったが、蓮と母の目があるので堪えるしかない。賢さんも物足りなそうだ。目配せをし、手を振ると彼も諦めてくれ、パトカーに乗る。あとでメールを送ろう。
見えなくなるまで見送ると、母は怒っているのか泣いているのか分からない声で暴走し、なぜか僕まで怒鳴られてしまった。昔と違うのは、居心地は悪くないということ。けれどまともに取り合っていたらしばらく続くため、僕と蓮は適当に促した。
「ったく、心配性の度を超えてるぜ」
「父さんと足して割ればちょうどいいくらいなのにね」
「全くだ」
この家を出ていってからも、僕の部屋はあのときと同じままになっている。前のように蓮が入り浸るものだから、小学生時代に戻ったみたいだ。
夕食を食べたというのに隠し持っていたスナック菓子を持ってきては、蓮はテーブルに広げていく。ちょっとした秘密基地だ。ついでに炭酸ジュースで乾杯した。
「今日会った白パーカーの男だけどよ、多分あれは幽霊だ」
「足跡あったけど」
「じゃあ瞬間移動のできる人間だ。足跡はあっても、足音はなかったぞ。誰も見てないなんて、おかしい」
大真面目に、蓮はしみじみと呟く。
「会いたいの?」
「……あんま顔は見えなかったけど、良い男だった」
「やっぱり? 実は僕もそう思ってた」
「賢さんにチクるぞこら」
「止めてっ。案外嫉妬深いし」
ちょうどいいタイミングで、賢さんからメールだ。祖母の家に泊まることになったらしい。お茶漬けが美味しいと追伸で入る。
「なんか外が騒がしくないか?」
車通りのほとんどない場所なのに、車のライトがカーテンの隙間から漏れてくる。こっそり覗いてみると、数台のワゴン車が家の前に停まっていた。
「え? え? 誰?」
「兄貴、ちょっとやべえぞ。カーテン開けんなよ」
端末に流れるニュースには、見覚えのありすぎる家が映し出されていた。いくらモザイクがかけられていても分かる。まさしくここだ。
「マスコミってこと?」
「なんで分かるんだよ……」
落ち着こうとベッドに座る。違う。足が震えて立てなかったのだ。
玄関が開く音がした。続けて父の声がする。蓮は僕の部屋の扉を開けて、声が聞こえるようにした。
──うちの家族に近づかないで頂きたい。
──未成年の子供もいます。
──これ以上居座るようなら、警察に……。
聞いたことのない父の声だ。凛とした通る声は、いつも母の陰にいる父ではなく、一家を引っ張る強い声だった。
「なあ、警察呼ばね? ワゴン車また増えてるぞ」
蓮は窓際に立って、隙間を覗く。僕は頷いて端末に三桁の番号を入力した。生まれて初めてだった。
十分ほどで助けに来てくれ、すぐに喧騒は過ぎ去った。見回りもしてくれるらしく、ひとまず安心だ。
僕は蓮を残して部屋を出ると、ちょうど廊下で父と鉢合わせになった。
「父さん……」
気まずいのは僕も同じ。母とは前のように話せるようになっても、未だに父とはうまくいっていない。ならば。
「父さん……ありがと」
「……………………」
「蓮もまだ学生だし、あんな目にあったばかりだし。助けてくれて嬉しかった」
歩み寄るきっかけは、僕が作ればいい。
父は口を開き、閉じた。
僕は言葉を待つ。
何か言ってくれると信じて。
「……父さんだからな。あんまり遅くに寝るなよ」
ぽんと頭を叩かれた。
父は部屋に戻っていく。
僕はしばらく廊下に佇み、部屋に戻った。
「ちょっ……兄貴、どうしたよ」
残ったお菓子を貪っていた蓮は驚嘆の声を上げる。
机に起きっぱなしの端末には、賢さんからメールが届いていた。
──おばあちゃんから藍の子供の頃のアルバムを見せてもらってるよ。家族と一緒にいる。暖かい家族だね。
僕は涙が止まらなかった。
琥珀糖とおんなじ景色 不来方しい @kozukatashii
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