第18話 ここから始まる
家に入る直前、足が硬直して動かなくなってしまった。寒さのせいではなく、緊張と恐怖でおかしくなった。
八つ当たりをするように太股を叩くと、賢さんに手を押さえられてしまった。こんなときに好きなんて言うものだから、僕は開いた口が塞がらない。そういうことは、車の中か暖かな布団の中で言ってほしい。
玄関を開けると、見知らぬ女性ものの靴が一足ある。血の繋がりはあるはずなのに、見覚えがまるでない。滑稽で笑いが込み上げてくる。
祖母が出迎えてくれ、賢さんはクマ牧場で購入してきた手土産を渡した。祖母はとても喜んでくれた。
女性の靴から少し距離を置いて靴を並べ、囲炉裏の間に入った。賢さんを盾にしたくはない。先に入ろうとする彼を押しのけ、僕が先に踏み入れた。姫を守る武士にでもなった気分だ。
しばらく会っていなかった母は、頬が痩せこけ以前の勢いがなくなっていた。僕を見るたびに罵声を浴びせていたあの母が。泣いていたあの母が。肩幅が小さく感じられた。
「初めまして。相澤賢と申します。藍さんとお付き合いをさせて頂いております」
「……藍の……母です…………」
声にも覇気がない。あのときの勢いはどこへ行ったのか。
僕は賢さんの隣、祖母は母の隣に座った。
「お会いできて光栄です。お話ししたいと思っておりました」
「……………………」
「藍さんとはメールで知り合いました。お供え物として探していた琥珀糖が欲しいとお店に連絡したところ、藍さんが対応して下さいました。店で扱っていないため、一から練習し、商品になるまで試行錯誤を繰り返し、作って頂きました」
「……………………」
「彼の優しさや暖かさに触れ、ずっと一緒にいたいと考えるようになりました」
母は俯いたまま何も言わない。考えていることが分からない。
「……藍…………」
久しぶりに母に名前を呼んでもらえた。身構えしてしまうほどの恐ろしさで震える。嬉しさは、ほとんどない。
「ごめんね……」
「……今、謝ったの?」
僕は訝しみ、まぬけな返答をしてしまった。
「藍……ごめん……」
「お母さんはね、ずっと藍に対して後悔してたのよ。あなたに酷いことをしてしまって、何度もうちに来たのに声もかけられなくてね。たまに料理を作って置いていってくれたのよ」
料理に関しては、思い当たる節がある。
食卓には、祖母が作ったと思えない洋食が並ぶときがあった。今思い返すと見覚えはあるが、母の味とは思えなかった。とうの昔すぎて忘れてしまっていた。
「蓮にも……藍にも……まっとうに生きてほしかった……どうしたらいあのか分からなくて、怒鳴ることしかできなかった……」
「僕より長く生きている分、つらいこともたくさん体験しているからこそ、ゲイを受け入れられないんだと思う。僕もお母さんのことを分かろうとしなかった。いろんな考え方を持てたのも、賢さんのおかげだよ」
「藍…………」
「許すことはできない。僕が落ち込んだり、また誰かに罵声を浴びせられたりしたら、過去のことがフラッシュバックすると思う。そのたびに、きっとお母さんを恨むよ」
涙が止まらないのは僕も同じだ。恨んでいたはずなのに、やせ細った彼女を見ているとなぜ気づいてやれなかったのだろうと自身も恨む。このまま母が死んでしまったらどうしようと、後悔の念が押し寄せてきた。
「おばあちゃんが思うには、藍は悪者にはなれないんだよ。誰かが藍に悪で染めようとしても、絶対に染まらない人ね」
「違うよ、おばあちゃん。元々真っ黒なだけ。黒に黒を混ぜても黒いままだよ」
「白を混ぜれば色は変わるのよ。どんなに悪人面していても、泣いてしまうのは藍の優しさが綺麗な証」
祖母も賢さんも手を差し伸べてくれるものだから、滝のような涙が流れる。
「店を継がせないなんて……酷いことを言ったわ……」
「うん……それが一番辛い。うちの家族はみんな和菓子作りなんてしないのにさ……誰よりも作っている僕を除け者扱いして……」
「藍、それには訳があるのよ。店を畳もうと思ってるんだよ」
「な、なにそれ? 初めて聞いた。どういうこと?」
「腰も痛いしねえ……お店も古いし、今の若い子たちには向かない店さ。藍には作り方を伝授するから、将来の役に立ててね」
駆け抜けていく人生のレールに、僕はついていけない。
「藍は和菓子の流行にも敏感で、季節を感じて表す才能がある。和菓子職人に向いてるよ。店が無くなっても、藍が繋いでくれたら無くならないものもある。だから、藍は自分で店を持てばいい」
「そんなこと言われたら、嫌だって言えないじゃんか」
「藍ならなんだってやれるよ。ちゃんと側で見守っているからね」
決定事項だと、揺るがない言い方だ。僕の入る隙間なんてない。
「賢さんも知ってたの?」
「ごめん、実はおばあちゃんから聞いてた。お母さんのことも。お母さんが今までのことを後悔していて、謝りたくても遅すぎて子供が成人を迎えてしまう。せめて今からでも母親らしいことをしたいって」
やっと母と目が合った。だが、すぐに逸らされてしまう。
「僕は蓮たちは幸せな家庭を築いているんだと勝手に思ってた。苦しんでるなんて知らなかった」
僕の口からは謝罪の声は出せなかった。今まで苦しんできて、やはりなかったことにはできない。でも、家族に会えない苦しさは同じくらい味わった。
「僕はこれからもここでおばあちゃんと暮らすよ。でも、たまには柊家にも顔は出す。蓮とも……また仲良くやりたいし。……この前、看病してもらってまだお礼もしっかり言えてないし」
僕が何か口にするたび、母の目に命が宿った。神の言葉というわけでもないのに、ハンカチで目を覆う。
祖母は四人でご飯を食べましょうと誘うが、母は家でご飯を作らないといけないと言い、断った。賢さんを盗み見して何か言いたげだが、賢さんも僕も知らんぷりを決め込んだ。言いたいことがあるなら、自ら話せばいいのだ。世間話をできるほど心を開いたわけではないし、気を使いたくない。
母は食べてほしいと煮物を作って置いていった。僕たちは三人で食卓を囲み、肉じゃがでしんみりとした食事会をした。母の作る肉じゃがと祖母の作る肉じゃがは、味が違う。食べ慣れていないのに、懐かしい味がした。賢さんも、美味しいと何度も言って残さず食べた。
帰りはいつもの公園まで送った。寒かったが、手を繋げば熱が腕を通り暖かい。
「やけにあっさりしてて、どうしたらいいのか分からなかったです。母を許せなかったのに、涙を見せられたら二人分の辛さが混じって怒りたくても怒れなかった。これ以上責めたら、賢さんやおばあちゃんにまで悲しい思いをさせる気がして」
「良い選択肢だったと思うよ。現におばあちゃんは泣いてなかったし、藍の新しい門出に対面できて、俺も嬉しい」
「門出かあ……。高校生のとき、お母さんに入学式に来てもらいたかったなあ」
「大学の卒業式に頼めばいいよ」
ベンチに腰掛け、薄暗い街灯は寂しげに佇んでいる。夏であれば、細かな虫たちが寄ってきていてやけに賑やかなのだ。
「賢さんの大学生の想い出ってなんですか?」
「仲間と酒飲んで大騒ぎしてたら記憶が無くなって、次の日なぜかベッドにいたってことかな」
「うわあ……」
「引かないで。親にも怒られた」
親。今まであまり聞かなかったが、いたって不思議なことではない。
「言わなかったけどさ、親に藍を紹介してもそんなに驚かないと思う。のほほんとしているっていうか、世間のしがらみから一歩抜きん出たところにいるっていうか」
「いずれご挨拶をさせて下さい。ちょっと、怖いですけど」
「大丈夫だよ。心配しているようなことは絶対にない。歓迎してくれる」
そこまで断言され、言い方が妙に引っかかった。
「ひょっとして、僕のこと話してます?」
「……………………」
「賢さん?」
「はい」
「嘘でしょ……」
「未成年に手を出してって怒られた。勘違いだ、大学生だけど成人は迎えてるって説明したら、今度連れておいでって笑ってた。ホットケーキが得意だから、一緒に食べようって」
なんて人だ。頭を抱えたくなる。こんな人が僕の彼氏だなんて……最高だ。優しくて暖かくてちょっと食いしん坊でエッチなこの人が僕の彼氏なんだ。
「俺はお母さんに認めてもらえたってことでいいのかな? 付き合ってることに対してあまり触れてはもらえなかったけど」
「まだ戸惑いはあるんだと思います。昔の母なら怒声だけでは済まなかったですよ。いろいろと……ありがとうございました。賢さんにはお世話になりっぱなしで、僕はちっとも返していないです」
「……ぜひ身体で」
ぽすんとお尻に拳をかまし、賢さんの口を塞いだ。
「おばあちゃんにもご挨拶できたし、俺もつきものが取れた感じ。家にも堂々と遊びにおいで」
「はい、ぜひ。嫌いだった公園も、今は楽しい想い出が上書きされています。過去は無くすことはできないけど、新しく見える景色も賢さんと一緒に見続けたいです」
「だね。どんどん増やしていこう。藍が社会人になれば行ける範囲も広がるだろうし、地球の裏側にだって行ける。日本が良いなら、また温泉にしよう。次はおばあちゃんも連れて」
返事の代わりに、キスを強請った。誰も見ていないのをいいことに、賢さんも悪戯っ子の笑顔で顔を傾けた。
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