第17話 楽園から見る景色
揺れるたびに汗が僕の身体にかかるが、それすらも吸い取ってしまいたい。愛する人と幸せになれる瞬間を分かち合えると、雪が溶けると春になるなんて、少し気取ったことも言える気がした。
誰かの話し声で目が覚めた。布団の中で伸びをしてこっそり隙間から覗くと、朝日を浴びながら誰かと電話をしている賢さんがいる。温泉に浸かったのか、髪はまだ濡れていた。
もう一度頭ごと潜ると、上から重みがのしかかる。
「んもう、重いっ」
「もうすぐ七時になるよ。そろそろ朝食の時間だ。そしておはようのキスの時間でもある」
「詩人みたいですね」
眩しくて目が開けられない。すかさず僕の唇は塞がれた。しばらくこのままがいいと思っていたのに、すぐに離れてしまった。
「続きはシャワーを浴びた後にしよう。行っておいで」
名残惜しさを残すなんて、社会人のやることは汚い。隙を見て頬にキスをしてやった。
鏡を見ると、肩には齧られた跡がある。そして腰が痛い。硬いものに叩き付けられた痛みだ。
あれだけ汗塗れになったのにもかかわらず、汚れた跡は見当たらない。寝落ちしてしまった後、賢さんが拭いてくれたのだと思う。
全身さっぱりして部屋に戻ると、朝食は用意されていた。豪華なご馳走で食べられるか心配だったが、ぺったんこな腹部は早く入れてくれと物申している。賢さんはまた誰かと電話していた。
「もしかしてお仕事の電話ですか?」
「ん? 仕事じゃないんだけどね。身体は怠くない?」
「大丈夫です。賢さんは?」
「……大丈夫」
賢さんは口元を押さえ、振り返ってしまった。
「どうしよう、嬉しい。もう呼んでもらないかと思ってた」
「特別なときだけにします?」
僕は笑って答える。
「それだと一週間に一回とかじゃない。固定してよ」
「え、一週間? 嘘でしょ……そんなに?」
「……冗談でしょ」
そんなにしたら、僕のお尻が壊れる。使い物にならなくなる。
「なんで賢さんが顔真っ青になるんですかっ」
「そこら辺はふたりで決めよう。性の不一致は別れの原因にもなる。それとそろそろ朝食食べない? お腹が空いておかしくなりそう」
今のところ、性の回数は不一致だが朝食への欲求は一致したようだ。
生卵や納豆、焼き魚、みそ汁、和え物、デザートは小さなまんじゅうが用意されている。激しい運動の後だったからか、無言で食べ進めた。
食べ終わり、いざ帰りの支度をしていると寂しいもので。これで別れてしまうと次はいつ会えるのかと不安もよぎる。昨日まで数か月会えなかったのだ。後ろから抱きついてみると、手を背中に回して撫でてくれた。
「ふふー」
「ご機嫌だね。できればその笑顔を崩したくはないんだけど」
「なんです?」
「藍」
呼ばれて嬉しいが、嬉しい呼び方ではない。緊張感の詰まった言い方だ。
賢さんはこちらを振り返り、両の手を僕の肩に置いた。
「これから、藍の家に行くよ。俺も一緒だ」
「はい」
「絶対に離れないし、隣にいると約束する」
「はい」
「藍のお母さんも呼んでいるんだ。おばあちゃんもいてくれる。ちゃんと話そう」
「……………………」
絶句した。言葉を失った。
「そんな顔しないで。おおよその事情は藍からもおばあちゃんからも聞いている。将来のこともきちんと話そう」
「さっきの電話って……」
「おばあちゃんと話してた。ばらばらになった家族のことをすごく、すごく心配していた。これから藍はどうなるんだろうとか、助けてほしいと俺に対して何度も頭を下げてた。家族ともう一度顔を合わせて話してほしいのに、きっかけがないとも言ってた」
悲しみでも怒りでもない。二度と会うとは思わなかった人との対面がすぐ側にやってきていて、今ある感情は無だ。何もない。僕はもう、家族に対して何の期待もしていない。
「そんな顔しなくていい。さっきも言ったけど、側から絶対に離れないから」
「僕は今、どんな顔をしていますか?」
「感情が消えている。そんな顔をするのなら、いっそ怒って八つ当たりをしてくれた方が良かった」
「賢さんに怒るなんて……そんなことできないです。僕のためにしてくれたのに。僕を家から追い出した連中です。むしろ僕の側から離れないで下さい。あなたが何か危害を加えられる前に、僕が盾になります」
「そんな心配はいらない。そうはならない」
母に会ったことはないはずなのに。その自信はどこからやってくるのか。
車の中で行きも帰りも緊張したが、帰りの方が肩の凝る緊張だった。優秀で人としてのレールを外さないように育ててきた母。僕の人生は彼女にとって、目を背けたくなるものだろう。確かに、中学の頃も迷惑をかけた。学校中に知れ渡った僕の性癖のせいで、母は肩身の狭い思いをしただろう。それでも僕は、あのとき……。
「藍、もうすぐで着くよ。ああ……緊張する。どんな人なんだろうね。藍に似て綺麗な顔立ちの人かな」
「……惚れたら、嫉妬で母を刺すかもしれません」
「あはは、大丈夫。すっ……付き合ってるのは藍だよ」
「頑なに好きって言ってくれないんですねっ」
「だ、だって恥ずかしいし」
賢さんは分かっていない。どれだけ僕が惚れていて、横を通る女性にすら嫉妬していることを。
分からずとも、こうして手を握ってくれたり頭を撫でてくれたりする。うれしい。彼と出逢って、僕は頭を撫でられるのが好きだと知った。
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