第16話 冬景色に熱がこもる
ここ数か月、相澤さんと会っていない。理由は単純なもので、お互いに忙しかったから。普通は不安になってくるものでも、僕はそんな要素はなかった。付き合っていればあったかもしれないが、僕らは恋人同士ではない。毎日とまではいかなくとも、二、三日に一度は電話もし、言葉を交わしてイチャイチャする。ただし、相澤さんは頑なに好きとは言ってくれない。岩のような意思の固さ。僕も少し楽しんでいる節がある。
大荷物を抱え、待ち合わせ場所で何度も腕時計を確認した。今の今まで緊張していなかったのに、いざ目の前に車が止まると背中が操り糸で張られたようにまっすぐに伸びた。
「久しぶり、元気にしてた?」
「してました。相澤さんもお元気そうですね。風邪引いてませんか?」
「大丈夫だよ。さあ、乗って」
荷物を後部座席に置き、助手席に座った。乗った途端の数か月ぶりのキスに僕も答える。肌は冷たいのに唇だけが異様に熱い。
「ちょっと痩せました?」
「分かる? 忙しくてさ、甘いものを食べる暇がなくて」
「お菓子のカロリーって舐めてかかると恐ろしいですよね。クッキーなんてすぐに手が伸びちゃうし」
「分かるよ。煎餅もチョコレートもプリンもあればあるだけ食べたくなる」
相澤さんは、僕が体型が変わらなくて羨ましいと言う。それは身長があまり伸びていないと同じ意味だ。相澤さんに比べたら、どうせ小さい。
「そろそろさ、俺のこと名前で呼んでみない?」
「相澤さんが僕のことを好きだって言ったら呼びます」
「そうきたか」
相澤さんは笑う。それも楽しげに。実は、こっそり家で練習もしたりした。賢さん。一度だけ、こっそりと。
車から降りる直前、相澤さんは僕の二の腕に触れた。気持ち良くもないだろうに、何度か揉む。もう一度キスをした。角度を変えて啄み、離れると外からの視線に気づく。大人は背をこちらに向けていたが、手を繋いだ子供がフロントガラス越しに見ていた。まだ言葉もおぼつかない年だ。
「見られたね」
「はい……とりあえず降りましょうか」
降りても子供はじっと僕らを見つめている。子供の視線なんてそんなものだ。気になる箇所を穴が空くほど見つめて、何事もなかったかのように振る舞いをする。僕たちも気にしなければいい。
「どうする? 手繋ぐ?」
「でも……」
「ちなみに俺は繋ぎたいね」
最初から僕の意見なんて聞いていなかった。どうしよう、うれしくて飛び跳ねたい。
「この、獣臭さが好きなんですよ。動物たちが身近にいるって感じがして」
「将来、何か飼いたいって思う?」
「クマが理想ですけど、あまり現実的じゃないですからね。クマ以外だと猫も好きです。おばあちゃんが庭の野菜の手入れをしていると、縁の下から出てくるんです」
「餌とかミルクはあげたりするの?」
「野良猫なので、さすがにあげてはいないです。何をするわけでもないのに、おばあちゃんの畑仕事を眺めて、終わるとまた縁の下に戻っていくんです」
「それは可愛いね」
クマが手を掲げてこいこいという仕草をしている。手を振っているクマもいる。
「餌の欲しさからだろうけど、クマも考えるもんだね」
餌は数百円で買えるため、迷わず購入した。こんなチャンスは滅多にない。
「もうっ。いきなり何してるんですか」
「藍君が落ちたら危ないと思って」
「見られても知りませんよ」
がっつり見られている。先ほどの子供も含め、色の含んだ視線だ。
相澤さんは僕を後ろから抱き、僕が持つ餌入れに手を伸ばす。前に見た船が沈むラブストーリーを思い出し、顔から熱が抜け出せない。
「こういうのは好きじゃない? なんだか藍君って、俺と手を繋ぐのもハグするのも厳しい顔つきになるときがあるから」
「そんなこと……ないです。本当に嬉しいんですけど、相澤さんが変な目で見られないか心配になってしまって。僕はもう慣れてますけど」
「慣れてるわけじゃないだろ? キツい言葉は慣れなくていい。何か言われたってこれからは一緒だから」
下から見る相澤さんの目は、少しクマができていた。運転疲れもあるし今日は早めに寝ようも提案しても、きっと彼は納得してくれないだろう。
「今日はたくさんサービスしますね」
息を呑む音が聞こえると、相澤さんはこれ見よがしに下半身を押しつけてきた。欲望に忠実で分かりやすい人だ。
「……へんたい」
「今日は一緒にお風呂も入ろう。絶対」
かく言う僕もへんたいでいい。
最後の餌を投げ終わり、もうないと手を振り返すと、クマは用済みだと言わんばかりにそっぽを向いてしまった。つれないところもまた可愛い。僕を包み込んでくれる大きなクマさんみたいな人は、対照的にずっと側にいてくれる。
相澤さんの運転で宿泊する旅館に着いた。手配は任せてほしいと言われていたので、どんな旅館に泊まるのかも聞かされていなかった。
「すごい……」
「あとで温泉に入ろうね。一緒に」
「部屋にお風呂はついてるんですか?」
「ついてるよ。ちゃんと温泉も出る。一緒に入ろうね」
「料理、楽しみですね」
半笑いになってしまった。え、という顔の相澤さんの手を握ると、分かりやすいくらいに機嫌が良くなる。
和室にテーブル、座椅子、お茶菓子や茶器一式が置かれている。まずはお茶でも入れようかと急須に手を伸ばす。
「甘いお煎餅ですか? 夕飯食べられなくなりそうです」
「甘いものは別腹って言うじゃない。これ止まらなくなる。久しぶりの甘いものだ……染みる」
「本当に食べてなかったんですか」
「忙しいのは嘘じゃなくて、塾講師が減ってしまってさ。けっこう忙しかったんだよ」
「そういえば、遠山さんは元気にされていますか?」
ぴたりと止まったメールはそのままだ。僕も特に用はないので、何も送ったりはしていない。
「けっこう前に飲みに行った。正直に話すけど、俺がゲイだってことがショックだったらしい。遠山からしたら身近にいる先輩がまさかという感じで、どう接したらいいのか分からなくなるって」
「正直ですね。それでいいと思います」
「俺はゲイってわけじゃないって言っても、自分が恋愛対象に見られたらどうしようって背筋が凍るとまで言われたよ。俺にも好みがあるからそんな心配は微塵もいらんと伝えておいた」
「人付き合いの難しさが身に染みます。カミングアウトは誰にもすべきじゃないなって学びました」
「俺は隠す必要はないと思う。けど、わざわざ言う必要もないと思ってる。必要であれば言う」
個々が持つ概念が普通であり理想となってしまうため、きっとこういう小さな争いは将来も絶対になくならない。大小あれど、どこの世界でもある。ひっそりとは生きるつもりはないが、人付き合いは選ぶべきだと、相澤さんや近藤さんと出逢って学んだ。僕は、良い出逢いをして人に恵まれていると思う。
広い和室に料理が運ばれてきた。山の幸だ。近くの山で採れたのだろう。大好きな天ぷらもあり、山菜もある。
「……これ、何のお肉ですか?」
「牛肉でございます。お好きですか?」
「す、好きです……」
嫌な予感が胸の内に現れたが、現実にならなくて心底良かった。
女将が出ていくと、相澤さんは堪えていた笑いをこれでもかというほど吹き出した。
「隣はクマ牧場ですよ? 笑い事じゃないです。日本の宝が危うく一頭失うところでした」
「良かったねえ。命の糧は大切にして、牛も頂こうか」
いつもより念入りに手を合わせ、食事に手をつけた。
天ぷらがぱりぱりしていて、天つゆにつけるとしっとりする。幸せを噛み締めながら口に入れた。
「家でも天ぷらって作るの?」
「あまり……。おばあちゃんは油っこいものはあんまり得意じゃなくて、たまに僕のために作ってくれる感じです。僕もそんなに得意ってわけじゃないですけど」
ふたりで存分に味わい、ほとんどの皿は底が見えた。ふたりしてダイエットは明日から宣言をして笑い、いかがわしいこと一歩手前くらいで触りっこをし、それとなく甘い雰囲気となった。
「お風呂入る?」
「…………はい」
風呂という隠語の陰に隠れる意味を想像して、身体の芯に火が灯る。大した距離もないのに手を繋いで浴場へ行き、後ろ向きになって服を脱いだ。色味の含んだ声が聞こえたが、知らないふりを決め込んだ。
「先に行ってるよ」
覚悟を決めて歩んできてほしいという相澤さんからの願いにも聞こえた。
こっそり引き戸を引くと、相澤さんは髪を洗っている。後ろから近づき頭に添えると、鏡越しに目が合った。
「洗ってもいいですか?」
「お願いしようかな」
硬めの髪に指を絡め、マッサージしながら頭皮に力を入れた。相澤さんは気持ちいいと独り言が漏らしうっとりと身を委ねた。
ひと通り爽快感を得た後は、今度は僕の番だと場所を交換した。
「全身洗ってあげようか?」
「それはまだいいです。恥ずかしいしっ」
「じゃあ髪だけ」
相澤さんは力も強い。腕に浮き出た筋に指を這わせると、好きなようにさせてくれた。
「好きなの?」
「実は……ちょっとフェチです」
「よし、これからもジムで鍛える。トレーナーさんからさ、腹回りに肉がつきやすいから気をつけようって言われたばっかりなんだよ」
「前より腕ががっしりしたなあって思ってました。僕も腹筋しようかなあ」
洗ってもらった後は一緒に湯船に浸かった。檜の暖かみのある良い香りがして、ふたりで足を投げても充分な広さがある。
「大浴場もあったけど、そっちの方が良かった?」
「不特定多数の男性の裸と向かい合うのはちょっと……。僕は意識してしまうので」
「あー、そっか」
相澤さんは僕を抱き上げると、太股の上に乗せた。
「気持ち良かった……」
「それはなにより」
「あの、僕もします……」
「今は気持ち良さそうにしてる藍君を見ていたい。次は露天風呂がある部屋がいいな。ふたりで景色を観ながらお風呂に入る。この上なく幸せ」
「冬の景色も春の景色も素敵でしょうね」
「藍君が真っ赤になるところも見てみたい」
「さっきので赤くなったのにこれ以上?」
「薔薇を散らしたみたいな顔で、上目遣いで見られたらいろいろとたまらないかも」
背中をくすぐってみると、相澤さんは身をよじって仕返しとばかりに抱きしめてきた。
熱い身体がさらに熱を帯びていく。
これ以上は駄目だと訴えても遅い。
僕たち、というより、僕が我慢できなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます