第15話 先の見えない不安と未来
相澤さんと近藤さんはヒーローなのかもしれない。身体を張って守ってくれた近藤さん、さり気なく警察をちらつかせて大人の交わし方を見せた相澤さん。どちらも僕にとっては正義の味方だ。
僕はゲイで、好きな人は男性で社会人だと近藤さんに漏らしても、うまくいくといいね、と心から応援してくれた。
「……どうぞ」
「お邪魔します」
裏口から入る直前、繋がれた手を離した。気恥ずかしかったのだ。祖母しかいないと分かっていても、気持ちを知られてしまっていても、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「おばあちゃん、相澤さん連れてきたよ」
祖母は嬉しそうに歓声を上げ、僕たちを出迎えてくれた。揚げたての天ぷらを作ろうと張りきっている。夕食は祖母に任せ、相澤さんを部屋まで案内した。
「散らかってますけど……どうぞ」
「絶対綺麗だと思うけどね。ほら、綺麗じゃん」
昨日、掃除をしておいて本当に良かった。昨日までは散らかっていた。
「噂には聞いてたけど、すごいね、テディベア」
「机にあるのが、大学受験に連れていったテディベアです。こっちが、おばあちゃんから誕生日プレゼントにもらったもので、あれが……」
と言いつつ、口が止まる。枕元にあるテディベアに、片づけておけば良かったと頭を抱えた。
「俺があげたやつは、一緒に寝る用?」
「違います。棚に置いていたのにベッドに落ちちゃっただけです」
「布団被ってるけど」
「……………………」
ベッドから抜こうとするも、相澤さんが手を重ねてきた。
「そのままにしてよ。一緒に寝かせてあげて」
相澤さんか気持ち悪くないのなら、そのままにしておこう。
自然と隣に座り、壁にある染みを見つめた。ベッドに座っているのにこの前のような雰囲気にならないのはなぜなのか。きっと、話さなければならないことが山積みだからだ。
「お尻は大丈夫?」
「痛くはないですけど、ちょっとだけ違和感があります。相澤さんは?」
「腰が……少し。けど俺のは完全に運動不足だから。ごめん。あのときの俺はどうかしてた」
「……なかったことにするんですか?」
「まさか。それはできない。俺は後悔してない。別の理由で後悔はしてる部分はあるけど」
「別の理由……」
「もっと、気持ちに酔った勢いじゃなくて藍君の記念になるようなときにしたかった」
「……なかったことにされたら、多分……僕は生きていけなかった」
「大袈裟だよ。人生捨てちゃ駄目だ」
「大袈裟じゃないです。僕は……それくらい……」
あなたのことが、好きなんです。
喉につっかえたまま、吐き出せなかった。
勇気もなく、恋愛なんて諦めきっていた僕。
もしここで告白したら、彼はなんて答えてくれるだろうか。
「藍君は藍君の人生があって、そこに俺が介入していいものか悩んだ。真剣だからこそ、すぐに答えは出せなかった。あんなことをしておいて言えた義理じゃないけど、それでも一緒にいたいしか答えは出てこなかった。そして謝りたい。無理させて欲に負けてごめん。大人の俺が止めるべきだった。あのときの藍君を思い出して、何度か抜いた」
「最後ちょっと違うのが混じってますけど」
「もっとちゃんとやり直そう。クマ牧場に泊まりに行きたい。ふたりで」
相澤さんは怯えた目を揺らし、声を震わせた。カーブのかかった言葉は互いに次々と出てくるのに、たった二文字が言えない僕たち。
「案外、似た者同士なのかもしれないですね。肝心なことが言えないと、それが別れの原因になるって聞きました」
「受け入れられなかったらどうしようって、俺はチキンなんだ……」
「困りました。お肉が食べたくなりました」
「どこにでも連れていくよ。ステーキ屋でも焼き肉屋でも。だから……俺と……」
「好きです、相澤さん」
「な、なんで先に言うんだ……」
「相澤さんが言ってくれないからです。駄目なら駄目だと断って下さい。それなら僕は二度と会わないし、潔く諦めますから」
「ちょっと待ってよ。俺の気持ちも聞かないで」
「じゃあ早く言って下さい」
自棄になるとわりと言えてしまうものだ。一方の相澤さんはというと、怯えた目は未だに元通りにはなっていない。
相澤さんは僕の肩に手を置くと、顔を近づけ唇を重ねた。
「……チキンなんですね」
「告白より、勇気がいると思うけど」
「駄目です。やり直しして下さい」
「ごめん、チキンでいい。こっぱずかしい」
キスはよくて告白はできないなんて、度胸があるのかないのか。
囲炉裏の間から祖母が僕らを呼ぶ声がする。結局、うやむやな関係のまま、食事をする羽目になってしまった。
チキンを食べたいと思う気持ちが通じた。鶏肉と大根の煮物がある。僕の好物の天ぷらもだ。
「なんだかすみません。突然お邪魔してしまって」
「仲良くしてもらえて、おばあちゃんもねえ、嬉しいんだよ」
「図々しいついでに、お願いがあります。藍君と泊まりでお出かけしたいのですが、お許しを頂けませんでしょうか?」
「ええ、ふたりで決めなさい」
「おばあちゃん、あっさりしすぎだよ。いいの? 前も泊まっちゃったけど」
「楽しんでおいで」
「母親に聞かせてやりたいよ、ほんと。おばあちゃんは優しすぎる」
相澤さんは僕を一瞥しただけで何も言わなかった。
好物のシソの天ぷらを味わって食べ、ご飯を口に放り込む。これが幸せの瞬間だ。鶏肉も柔らかくて美味しい。最新の家電はあまり利用しない祖母だが、こんなに美味しく作れるなんて筆を選ばないタイプだ。
相澤さんは美味しいと何度も漏らし、手料理に飢えていたと話す。
僕も相澤さんも、ご飯を茶碗二杯分食べてしまった。シソの天ぷらの効果は偉大だ。満足と後悔が残り、複雑な気持ちになる。
「ダイエットは明日から頑張る」
そう言う相澤さんの目はしっかりと泳いでいた。
「シソの天ぷらって、ご飯に良く合うんです」
そんな僕の目も泳いでいた。
三人でまったりとお茶を飲み、大学や仕事の話、裏庭で育てている野菜の話もたくさんした。弟の蓮の話も加わり、この前看病してくれたときのことも話した。相澤さんは何度も相槌を打ち、良かったねと言葉少なめに漏らす。
二十一時を回った頃、相澤さんと一緒に外に出た。
「美味しかった……藍君がおばあちゃんにぶり大根の作り方を学んだって分かるよ」
「本当ですか?」
「うん。味つけが似てる。箸が止まらなくなる」
僕は胃に手を当てた。ぺったんこな腹部がこんもりと盛り上がっている。
「部屋での話の続きだけどさ、」
「はい」
また相澤さんに手を繋がれた。今度は僕もしっかり握り返す。相澤さんの言葉を待つが、一向に話す気配がない。
「どうしたんですか?」
「……幸せを噛み締めているところ。好きだって言われるし、美味しい煮物や天ぷらは食べられるし、ねえ?」
「僕は言われてませんけどね」
公園の前を通るとき、誰もいないのにまた足がぎこちなくなった。
「公園に寄りませんか?」
「いいの? 大丈夫?」
「僕は平気です。優君のことで、ちょっと話したくて」
ふたり並んで公園のベンチに腰を下ろした。街灯には羽虫が飛び回り、見ていて気持ちのいいものではないのに目が離せない。
「優君と駅前で言い争ってましたが、大学でも中学のときと同じように言いふらされてしまったんです。近藤さんが間に入ってくれて、一時的でもその場は収まったんですけど」
「うん」
「講義後はサークル活動をしようとしたら、また彼が現れたんです。近藤さんも混じり、なぜか三人でカフェに入ることになって。近藤さんはカフェなら怒鳴ったりしないだろうと計算に入れてくれていて、冷静に話すことはできました」
羽虫を見ていると、言葉がしっかりと出てきた。
「あのときのは嫌な思いをさせてごめん。もう好きではないし、どうか捕らわれないでほしい。そう伝えました」
「そしたら?」
「真っ赤になって、怒り心頭です。それはそうですよね。告白して回りにからかわれ、あのときのことはなかったことにしてくれ、ですから。でも謝るしかできなかった。水に流せとしか言えなかった」
「それしか方法はなかったと思うよ。俺は、優君が人の気持ちに素直になるべきだと思う。優君以上に、回りでからかっていた子たちは特に」
「ありがとうございます。救われます」
僕が微笑むと、相澤さんは肩に手を置いてきた。目を閉じれば唇に暖かいものが触れ、太股に置く手が小刻みに揺れる。この人は、大胆なのかチキンなのか分からない。
「外なのに」
「だよな……」
「そういうところも、好き、ですけど」
「ま、また言われた……その顔と言葉で抜ける」
「どんな顔ですかっ。変態ですね、ほんと」
それから身体を触りっこしたり、唇を合わせたり、誰もいない場所で街灯だけが照らす中、僕たちは欲をぶつけ合った。この前の夜のように、相澤さんはとても渋い顔をしている。身体の変化に気づいてはいたけれど、知らないふりをしておいた。好きと言ってくれない、僕なりの罰だ。
駅まで送るつもりだったのに、相澤さんはここでいいと言って聞かなかった。遅いし、前に変質者が出る話をしたせいか、過保護にも寄り道せずに帰るように言う。家はすぐそこなのに。
「じゃあ……またね」
「はい……また」
惜しむ別れの最後にはもう一度抱き合い、僕は見えなくなるまで見送った。帰ろうとしたとき、公園内の草むらが不穏を知らせるざわめきが聞こえる。
正体は野良猫だった。タイミングの悪い話だ。白い猫は僕をじっと見つめた後、気持ちを少しも理解しようとせず、草むらの中へ入っていく。葉同士が擦れ、夜に不気味な音が鳴り続けた。
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