第14話 荒ぶっても前に進むしかない
どうしても我慢ができず、自我を失ってしまう人物がいる。その子が近くにいると身体が反応し、欲をさらけ出してみっともなくなる。我ながら情けない。
「ああああ……どうしたら…………」
朝起きたらベッドの空きスペースがもぬけの殻だった。人の温もりすら感じられず、あの幸せは夢だったのではないかと、頭をよぎった。ゴミ箱にはいろんな残骸が残り、夢ではなかったと安堵した。だが安心もしていられない。
ベッドから這い上がると、圧倒的腰の痛さ。きっと藍君はさらに痛みで悶えているだろう。寝室のドアを開けると、廊下は良い香りで満たされていた。キッチンの方向からだ。
じんわりと身体が熱くなり、目が霞んではっきりと見えなくなった。人の手作りご飯というものは、腹だけではなく心も満たしてくれる。作るのに時間もかかっただろうし、彼はほとんど寝ていないのではないか。
ダイエットは明日からいう言葉を胸に、白米とインスタントのみそ汁、そして藍君お手製のぶり大根が今日の朝食となった。一人暮らしでこんな夢のような食事を取ったのは久々だ。
空腹ではまともな思考が働かず、メールをしても冷静ではいられない自信があった。腹ごしらえをしてから、さっそく藍君にメールを打つ。
「……『尻が痛い』」
思わず二度見をしてしまった。藍君のメールは、うっすらと悲しみと怒りの色が混じっている。続けて、熱を出して休んでいるとメールが来た。
「どう考えても俺のせいだ……」
藍君に会いに行くべきか。行きたいが、俺が行ってさらに熱を上げてしまわないか心配だ。けれども家にいたって落ち着かなくて、俺はデパートに向かった。
せめてぶり大根のお礼にと何か好んでくれるものがあると嬉しいが、すぐに見つかった。彼の好むものがあったではないか。テディベアだ。女児が好むようなおもちゃコーナーに行くと、今流行っているアニメの人形やコスプレ衣装などが大量に売られている。
非常に恥ずかしかったが、娘のものですという顔をしてテディベアをレジまで持っていった。
「プレゼント用ですか?」
「はい……まあ」
「お誕生日でしたら、こちらのリボンが……」
「いえっあの、青いのがいいです」
紙袋に青色のリボンをつけてもらい、逃げるようにしてその場を後にした。
あとはスポーツドリンクやらいろいろ購入して紙袋に入れ、柊和菓子店に向かった。
今日は店の営業日ではなかったようで、シャッターが閉まったままになっている。さて、どうしようか。
「おやあ?」
裏口から店主が出てきた。不思議そうに首を傾げた。俺は直立から頭を下げ、お久しぶりです、と声をかける。
「相澤です。先日は琥珀糖をありがとうございました」
「いえいえ、いつも藍と仲良くして下さって、ありがとうねえ」
「藍さんが熱を上げて体調がよろしくないと伺ったもので。こちらを」
「あら、まあ。上がっていきますか? 藍は部屋で寝ていますよ」
「いえ、さすがに部屋に上がるのは……。藍さんには、後でこちらから連絡を致しますので」
「そうかい? ちょっと待っていておくれ」
おばあさんは一度引っ込み、俺が渡したものとは違う紙袋を持って出てきた。
「よければ、おうちで食べて」
「いいんですか? ありがとうございます。とても嬉しいです」
ダイエットは明日からではなく、明後日から開始しよう。それがいい。
「あの子はね、相澤さんといるときがとても楽しくて仕方がないみたい」
「そうですかね……俺の存在が迷惑をしていないといいのですが。本日はお孫さんの帰りが遅くなってしまい、申し訳ございません。引き留めてしまったのは私で、家でお預かりしておりました」
おばあさんはにこにこと笑うだけだ。この笑顔はどうと取るべきだろうか。ひたすら謝るしかない。大事なお孫さんだ。
「好いてくれているのね」
「…………はい」
「ふふ……」
ああ、言ってしまった。
おばあさんの目には光るものが浮かんできて、俺は見ていられなかった。気まずい雰囲気になってもおかしくないのに、暖かな空気に包まれているのはおばあさんの人柄だろう。
お礼を伝え、まっすぐに帰宅した。誰も出迎えてくれない、誰もいない部屋は寂しくて、いつもは気にならない自分の足音が気になる。人がいる暖かさを知ってしまった今、しばらく元に戻れそうにない。
机を挟んだ向こう側で、後輩がちらちらと俺を見てくる。パソコン作業が進まない。
「なんだ?」
「……なんでもないです」
俺が一言話していると三つも四つも先を行くのに、今日に限っておとなしい。だがしたたかなところがあるため安心はできない。
「言いたいことがあるなら言え」
幸いにも、この教室にいるのは俺と遠山だけだ。
「まさかまた資料を削除したとかじゃないよな?」
「……柊さんのことなんですけど」
「ああ」
「本当は好きだったりします? 学生なんて子供みたいだし」
「違うだろう。学生だからじゃなく、聞きたいのは性別のことなんじゃないのか」
押し黙るのは正解の証だ。
「そもそも結婚もできないのに、なんで男を好きになるかね」
「遠山はなぜ女性を好きになる?」
「そりゃあ……昔からだし知らないっすよ。いちいち覚えてませんって」
「答えは出ているだろ。性別で恋愛相手を決めつけるもんじゃない」
「それ、自分に言い聞かせてます?」
そうだ、ともはっきり肯定しづらい。
「ねえ先輩、今日奢らせて下さいよ」
「断る。裏がありそうだ」
「違いますって。単純に飲みたいだけ」
「今度にしよう。今はダイエット中なんだ」
あれこれ聞かれたくないのもあるが、嘘ではない。今日の昼はコンビニで購入した鳥のむね肉を食べたが、藍君のぶり大根が美味しすぎてご飯を二杯も食べてしまった。今日の夜こそ、炭水化物は絶対に摂取しないと決めている。
滞りなく授業も終わり、帰る前に端末を確認するが、藍君からも連絡がない。しつこくメールを送りつけて嫌われたくも怖がらせたくもない。
帰り際、一緒に帰る約束もしていないはずなのに、遠山はぴったりとついて離れなかった。言う気力もないのでそのままにしておいた。
「焼き鳥の匂いが俺を誘ってきます……」
「分かる」
「タレ、塩、ねぎま、ぼんじり……」
「分かるぞ」
「そんなに分かってくれるなら付き合ってくれてもいいのに!」
「厳しい道のりが待ってるんだ。緩やかな道を進むだけじゃ理想の俺になれない」
「柊さんに嫌われるから?」
「彼は関係ない」
いや、実はちょっとある。もうすぐ俺も三十代だ。けっこう差は大きい。にしても、藍君の話を持ち出すわりにはいやに刺々しい言い方だ。
「先輩」
「どうした?」
「関係ないにしても、あれは助けるべきだと思います」
遠山の目線の先を辿ると、一日中会いたいと思い続けた人物に出会った。運命を感じたいところだが、人目を引くほど揉めている。隣には女性が一人、そして女性と言い争いをしている男性が一人。憎しげに藍君を見つめ、女性は藍君を庇っている。
「ちょっとヤバくないっすか? あっちにお巡りさんがいるし」
後ろで遠山が何か言っているが、それよりも気丈に振る舞う藍君を守らなければと足を進めていた。
「すみません、この子の保護者の者です」
突然現れた俺に、藍君は心底驚愕したと顔が物語っている。俺も同じ気持ちだ。藍君に吠え続ける男性は俺を見て怒りを収めてくれたが、一瞬で元に戻ってしまった。
「何があったか分からないけど、この場は丸く収めてくれないかな?」
「……………………」
「向こうに警察官がいたよ。誰かが呼んだのかもしれない」
「別にいいっすよ。もう用はないんで」
やけにあっさり引き下がった様子から見るに、言い争っていたのは犯罪関係ではなかったようだ。これにはまずひと安心だ。
「あの、任せても大丈夫でしょうか?」
巻き髪の女性は藍君の肩に手を置き、遠慮なく俺を見上げる。見知らぬ人でも話せる度胸はある子だ。
「君は大丈夫? 一人で帰れる?」
「全然平気です。じゃあ、お願いします」
女性もいなくなり、俺と藍君のふたりきりとなった。遠山もいなくなっている。先ほどの女性の手が置かれていた肩に、俺も重ねた。
「藍君……」
「ぐ、偶然ですね……」
逃げたいのか、藍君は顔を背けたままだ。
「藍君、帰ろうか。送っていくよ」
「え」
やっと顔を合わせてくれた。不安に顔を歪ませているようだ。
「嫌?」
「嫌では……ないですけど。……助けて下さり、ありがとうございます」
「無事で良かったけど、なんで言い争ってたの? おとなしい藍君にしては珍しい」
「……あの男の人、僕が中学生のときに告白した人なんです」
「家の近くの公園で告白したっていう?」
「はい。学科が違うんで会うことがなかったんですけど、偶然に廊下で会ってしまって。さっきの女性は近藤さんっていうんですけど、同じサークルの人なんです。誤解しないで下さいっ」
「誤解してないよ? 同じサークルに所属してる人で、藍君の肩を触った人でしょ? してないしてない」
「ああっもうっ」
俺はわりと根に持つタイプだと知った。様子を見ていると女性は藍君に対して恋愛感情はなさそうだが、油断はできない。
タクシーを拾い、藍君の家の最寄り駅を告げた。話したいが、運転手の目線が気になって言葉が喉につっかえたままだ。
「公園で少し話さない?」
「家に来ませんか?」
タクシーを降りたとき、動じに言ったものだから互いに顔を見合わせた。やっと藍君の笑顔を見られた。
「相澤さん、うちに来て下さい」
「でも、おばあちゃんがいるでしょ? 急に行ったら……」
「ご飯を食べていってほしいから、ぜひ呼びなさいって前々から言われていたんです」
少なくとも、あんなことがあっても嫌われてはいない。証拠にこっそり手を繋いでみても、振り解いたりはしなかった。
公園前を通らなければならないが、藍君の足取りは気持ち早くなった。ここで告白した男性と先ほどまで揉めていたのに、配慮が足りなかったと反省した。
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