第13話 元親友は眠り、先輩は盾となる

 まだ薄暗い道を歩き、僕は裏口から家に戻った。幸い祖母はまだ起きていなくて、こっそり部屋に戻ると倒れるようにベッドに転がった。

「いたい……」

 鈍痛が脳に届き、今日一日動くなと訴えている。腰、臀部、そして中。普段使わない箇所が破損しているかもしれない。それほど苦しく、続く痛みだった。

 慣れたベッドが安心したのか、数時間眠りについた。起きてこない僕を心配したのか、祖母が部屋に入ってきて僕は起床した。体温計を渡され、測ってみると三十八度を超えていた。どうりでふらふらするわけだ。額に手を当てると、冷えた指先に熱が伝わる。

 坐剤を使おうとする祖母に断固として断った。坐剤を使えば楽になっただろうが、ある意味悲鳴を上げる。

 祖母が卵粥を作ってもってきてくれた。相澤さんは僕の作った朝ご飯を食べてくれただろうか。鍋を借りてぶり大根を作ってきた。祖母の味にはまだ遠いが、味見をしたら悪くなかった。

 食欲はないわけではなく、卵粥はすべて平らげた。優しい、祖母の味がした。食後は飲み薬を飲み、再び眠りについた。

 部屋で誰かが椅子に座っている。僕の椅子は座ると軋む。ゆっくりと目を開けた。外は明るい。今は何時だろう。

「……やっと起きたか」

 椅子に座っていたのは、弟の蓮だった。普段本なんて読まないのに、僕が読み終わった文学書をぺらぺらめくっている。読むというより、見ているだけだ。

「なんで、いるの……」

「ばあちゃんに見てろって言われたんだよ」

 蓮はつまらなそうに、本を棚に戻した。

「何か食うか? コンビニのパンかおにぎりしかないけど」

「いらない……」

 蓮はペットボトルのお茶を枕元に置いた。僕は開けようとしたが、指に力が入らない。見かねて、蓮はふたを開けてくれた。

「ありがと……」

「無理すんな」

 久しぶりにかけられた優しい言葉だ。蓮を見ると、彼は罰が悪そうにそっぽを向いている。罪の意識から逃れるように、僕とは目を合わせない。

「おばあちゃんは?」

「俺ん家に帰ってる。なんか母さんと話があるんだとよ」

 嫌な予感しかしない。動けない僕が戻ってもかえって迷惑になるだけだ。せめて祖母が心に傷を負わないよう、祈るしかない。

「学校はどう?」

「俺の親かよ。今はちゃんと行ってる」

 謝罪の言葉を口にしそうになり、慌てて口を閉じた。自分の尊厳を守るためにも、謝罪は絶対にすべきではない。

「行ってるって言っても、週に三回くらい。部活は行ってない。教師どもは来いってうるさいけどな。どうぜ自分たちの面子が潰れるからだろ」

 いつもの蓮に、少しほっとした。

「もしかして、お母さんと喧嘩した?」

「…………まあ」

 やはり、としか思えない。親と喧嘩をすると、蓮はいつもより饒舌になる。

「原因は何だったの?」

「バスケやりたいから海外に行きたいって言ったら、わめき散らされた。日本でもできるって言って聞かねーんだよ」

 海外とは大きく出た。そこまでバスケットが好きだとは知らなかった。けれど学びたいから海外を引き合いに出したわけではなく、現実から逃れたいがために海外を口にしたように聞こえる。

「まだ時間はあるからゆっくり考えてみるといいね」

「……俺だって別に行きたくてそう言ったわけじゃねえよ。表面上の声しか聞き取ってくれなかったことに幻滅してんだ」

「うん……分かるよそれ」

 何度母と衝突したことだろう。僕の性癖だって理解を求めてなんかいない。放っておいてくれたらそれでいいのだ。

「これからどうするの?」

「兄貴こそどうすんだよ。相澤さんのこと」

「あ、相澤さんは別に……母親には紹介する気はないよ」

「付き合ってんのか?」

「まさか」

 そう、付き合ってはいない。いないのに、身体の関係は結んでしまった。僕は気持ちより欲が勝ってしまっていたし、あの様子だと相澤さんもきっとそうだろう。

「……うまくいくといいな」

 顔を上げると、蓮は僕を避けるように立ち上がった。コンビニの袋からお菓子を出して机に置くと、何も言わずに出ていってしまった。お菓子とお茶、ぶっきらぼうで暖かな言葉を残した蓮。何も変えようとしない僕より何歩も先を歩んでいる。

 鞄に入れていた端末を出すと、メッセージが数件、着信は二桁も入っていた。誰からなんて見なくても分かる。相澤さんだ。

──ぶり大根ありがとう。とても美味しかった。

──昨日のことで話がしたい。

──君と終わりにしたくない。

 良い意味でとってもいいのだろうか。今は返事をする気にはなれない。治まったはずの頭痛が起こり、僕はベッドに伏せた。

 焦った内容から、彼は僕と性行為をしてしまったことを後悔しているのか、少し怖い内容だ。けれども僕も終わりにしたくない。

 ベッドで何度か寝返りを打ち、思い切ってメッセージを送ることにした。

──お尻が痛いです。

 八つ当たりとも取れる言い方だ。痛いのは事実。負担は僕の方が大きい。

──他は? 痛いところはある?

──熱出して、休んでいます。薬を飲んだのでだいぶ良くはなりました。

 既読がついたので読んだのだと分かるが、それっきり相澤さんから返事はなかった。

 僕はもうひと眠りし、目覚めるとカーテン越しの暖かな光は僕を照らしてくれない。

 机に紙袋が置いてある。引っ張って取ると、中にはミニチュアテディベアとお菓子、スポーツドリンクが入っていた。

 居間では祖母がお茶を啜っている。僕を見ては微笑み、おいでと手を振った。

「お腹は空いてるかい?」

「うん……」

 台所に行った祖母は、お盆に一人用の土鍋を乗せて戻ってきた。代わりに体温計を渡し、さっそくふたを開けると卵を落としたうどんだった。

「熱は下がったようだね。でも安心はできないよ」

「うん。食べたら薬飲むよ。それで、あの……」

「さっきねえ、相澤さんが来たわ」

 さっきとはいつになるのか。壁時計は二十時を回っている。

「喧嘩したんかい? 随分思いつめていたようだけど」

「喧嘩ってわけじゃないんだけど、会いづらくなって。メールはしてる」

「熱が出たのは自分のせいだって、責任を感じていたよ」

 それでテディベアをわざわざ買ってくれたのか。彼にとって、僕はテディベアで心を揺さぶられる男に見えているようだ。これから一緒に床に入ろう。

「早く仲直りできるといいねえ」

 喧嘩ではないのに、祖母は喧嘩だと思い込んでいるようだ。喧嘩よりも厄介なわだかまりだからこそどうしたらいいのか悩んでいる。

 食べ終わり再びベッドに横になるが、寝過ぎたせいでなかなか寝つけない。ネットで『身体の関係のみ』という大胆で身も蓋もない言葉で検索をした。

 目を疑いたくなる回答ばかりで、単なる遊びやら本命は他にいるだの、嘘であってほしいと願いたくなる。

「でも、相澤さんは終わりにしたくないって……」

 こんなときなのに、お尻の奥が疼き出した。痛いばかりではなかった行為は、僕の心にも身体にも爪痕を残した。見なければ良かった。

 翌日、気分の乗らないまま大学に行くと、偶然には偶然が重なるようで、今の今まで忘れていた人物がいた。

「なん、で……」

「優君……どうして……」

 大学は広い。都内だけではなく、全国いろんな都道府県から集まっている。広すぎて知り合いに会うことなんて滅多にない。身近な人物だった人で、誰よりも会いたくない人が目の前にいる。別の意味で、相澤さんとは違った会いづらさだ。

「……ここでは会うことはないと思ってたのに」

 彼は僕がこの大学に通っていると知っていたのだ。

 彼の目は心底気持ち悪いと訴えていた。

「どけよ。俺の通る道にもお前はいらない」

「……………………」

「お前のせいで変な噂は立てられるし。俺までホモ扱いだ」

 憎しみを込めた一撃は、僕にも回りの人間にも大打撃を与えた。立ち止まって僕を見る人、どんな人間か上から下まで見る人、様々だが立ち会わせた人たちは皆『赤の他人』にすぎない。他人だからこそ、僕という生き物はどうでもいい存在価値で傷つけてもいい人間となる。

「はいはい、ストップね」

 乾いた音が二、三度響いた。どこかへ行きかけた意識が戻る。手を叩いた近藤さんが僕を覗き込んだ。

「柊は講義室に行きな。もう始まるわよ。それと放課後はサークル活動するから」

「わ、分かりました……」

「じゃあまたね」

 近藤さんが遮ってくれたおかげで、優君の無遠慮な視線に射抜かれずに済んだ。感謝の気持ちと、ばれてしまったという心の発狂が漏れてしまいそうだ。けれど、近藤さんは特に何も言わなかった。むしろ知っていましたよという、それとない態度はなんだったのか。

 何にせよ、放課後は彼女も僕に聞きたいことがあり、僕もなかったことにはできない。

 この日、授業に集中できなかった。

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