第4話 裏返る

「え? あ、いや、やっぱりそう見えるんですか。昔、大学のときの友達に、同じようなことを言われた覚えがあります。けど、違う」

 さも心外そうに言い切ると、桐谷先生はテーブルに手をついて身を乗り出すような姿勢を取った。

「僕はこの写真集を見て以来、少女を愛せなくなった。何故そうなったのか、理由ははっきりしません。多分、この写真集の中のあなたを芸術品として捉えてしまったからだと、自己分析しています。侵さざるもの、神聖視すべき存在という観念が固まったんです。そして同じような年齢の女の子、つまり同級生の女子には手を触れることはおろか、話し掛けることすらできなくなった」

「でも、中学高校と学年が進めば、女の子達だって成長した姿になる……」

「自分もそう思って楽観していたのですが、期待は裏切られました。何しろ、女子に話し掛けた経験がほぼ皆無なので。少し年齢が上がった程度では、どうすればいいのか分からないんですよ。むしろ、逆に難しくなった気さえする」

 小さな子しか恋愛対象にならないと言い出すのかと思ったら、違っていた。それならばと、ちょっと安堵する。単なる女性恐怖症みたいなものじゃないのかしらと想像した。

「大人の女性、はっきり言えば『おばさん』と表現できるような人が相手なら、全く問題ありません。でも、自分と同じかそれ以下の年齢の女性は、どうもいけない。実は、高校の教師になってからも、かなり苦労しています。指導の際、男子生徒にばかり話し掛ける形になってしまう」

 娘の言葉を思い出した唯織。女生徒に関心が薄い様子なののはきちっと線引きのできた男性教師なんだろうと解釈していたが、ちょっとずれがあったようだ。

「こんなことで病院に駆け込む訳にも行かず、僕は自力で調べました。そしてあの写真集を見たことに根本的な原因があると信じるようになった。だったらそれを取り除くにはどうすればよいか? また自力で色々調べた結果、大人になった桜井しずねに会って、どんな人物に育ったのかをこの目で確かめるのがいいのではないかという結論に達したんです」

「……会えて、どうでしたの?」

 当事者として、探り探り尋ねる。

 桐谷先生は首を捻った。

「よく分からない。見ただけでは何とも言えない」

「知りたいことがあるのなら、遠慮なく聞いて。できる限り、答えるから」

 もしも、今現在の桜井しずねの身体を見せてほしいと言われたら、応じるという選択肢はあった。それが自分と娘を守るためになるのであれば。

 が、桐谷副担任は相変わらず首を捻るばかりだった。

「いや。聞きたいことはいっぱいあったはずなんですが、そんなことどうでもいい気がしてきて。えっと、どんな経緯であんな写真を撮ったのかとか、今はどう思っているのかとか。あるいは家族にはやっぱり言ってないのか、いつか打ち明けるつもりはあるのか。大人が怖くならなかったのか。今、幸せなのか。

 あなたを見たら、まあ幸せなんだろうなと。写真集の件を持ち出しても予想していたほどは動じないし、旦那に不満がある様子も見受けられない。だから、どういう風に育ったのかは、分かったつもりになりました。ただ、それで今の僕が変化できたかって問われると、違うような。

 あの、緊張されてますか。誤解しないでもらいたいのは、僕は腕力に訴えることはしたくないし、しません。現在の桜井しずねを知ることと、それによって自分が変われることが目的で来たんです」

「……こちらで何かお手伝いできることがあるのでしょうか」

「それを考えていたんですけど、お願いできます?」

「言ってもらわないと何とも」

「じゃあ、これから僕があなたに告白するので、袖にしてもらえるでしょうか」

「え」

「あなたに、桜井しずねにふられたら、すっきりする。心理がリセットされるような気がします」

「……そんなことで?」

「はい、多分。できる限り口汚く、僕が幻滅するくらいに手ひどくふってくれるのがいい」

 神聖視していた崇拝対象の偶像を壊すという意味か。相手の理論は納得できた。だけれども、まだ完全に信用しきれていないのも事実。求められた通りに汚い罵りを交えてふって、彼がいかなる反応をするのか。それは本人にも掴めていないんじゃないだろうか。

「あんな写真集でも、私のファンになってくれた人に、告白を断るだけならともかく、汚い言葉で返事するなんて……」

 理由を作ってでも拒もうと試みる。だが、桐谷先生も頑なだった。

「ファンの願いを叶えると思えば、できるんじゃないでしょうか」

「それは……そうかもしれませんが」

「お願いします。助けると思って。頼みます」

「――一度きりなら」

 川戸唯織は性根を据えた。条件を付けて承諾することに決める。

「今後、この写真集の話は一切持ち出さないとお約束していただけるのなら、応じます」

 副担任を代えてもらいたい気もしたが、とりあえず学校には言わないことにした。


             *           *


「ただいまー、お母さん」

 高校一年三学期の終業式を終えて、川戸真優は早々と帰宅した。三月中旬にしてはきゅっと冷え込んだだけあって、昼前だというのに吐く息が白い。

「お帰り。何かなかった?」

 帰宅直後、母親の唯織が聞いてくるのはいつものこと。だから真優の方も前もって考えておくのが習慣になっている。

「それがね、あったんだ。副担任の桐谷先生が」

「え、何?」

 昼食の準備の手を止め、台所から出てくる母。その表情を見て、真優は少し噴き出した。

「そんな一大事!みたいな顔しなくても」

「あ、そうね。でも、先生の名前が出てくるなんて、滅多にないから」

 言いながら、濡れた手をタオルでふきふき、深呼吸する母。

「それで桐谷先生がどうかしたの」

「あ、うん。来年度もクラス担任や副担任でいられるとは限らないから、言っておきたいことがあるって呼び止められたの」

「あ、あなた一人だけ?」

「うん。ああ、他にも声を掛けられた人はいたわよ。別々にだけどね」

「そ、そう」

「私、何ごとかと思って身構えちゃった。先生、何て言ったと思う? 『お芝居をやらないか』だって」

「お芝居……演劇部ってことかしら」

「分かんないけど、桐谷先生自身が出たいみたいだから、違うのかな。でも演劇部の顧問の先生、今度で定年を迎えるって聞いたな、そういえば」

「それから? 桐谷先生は何て言ったの」

「えへへ。ヒロインは私しかいないって。顔やスタイルにちょっとは自信がないではなかったけれども、背が低いから。まさか劇のヒロインに誘われるなんてね」

 冗談めかして言う真優だったが、母親はちっとも笑わなかった。どちらかというと、表情は険しくなったようだ。

「お母さん?」

「――その劇で、先生はどんな役をやりたいのか、言っていた?」

「うーんとね。簡単に言うと、物語はヒロインを取り合う男性が三人ぐらいいて、その中の一人が桐谷先生。こっぴどくふられる役をやりたいんだって。変わってる!と思ったから理由を聞いてみたら、男子生徒にやらせると気の毒だ、あまりのふられ方にお芝居でも立ち直れなくなるだろうから、だって。一年間、副担任で、私は最前列の席ばっかりだったから、近くから見てたんだけどな。こんな変な面白いこと言う先生とは思ってもいなかったわ」

「……」

 口元に両手を当て、何か考え込む様子の母。気になった真優だが、とりあえず聞いてみた。

「ねえ、この勧誘、受けた方がいい? お芝居に興味なくはないし、内申点がよくなるかもしれないし」


 終わり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

形見分けの中にヘンな写真集が一冊、混じってた 小石原淳 @koIshiara-Jun

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ