君に運命のプロポーズ！

君に運命のプロポーズ！

「ゆうき、大好きなんだ。結婚しよう」

　ずっと言えなかった言葉を言う。

　これは君に伝える、僕からのプロポーズ。

　三条（さんじょう）尊道（たかみち）は左手のひらの上で宝石箱を開ける。

　燭台の光が反射するトパーズ。

　前に座る大人びた女性が口元を押さえた。

　彼女の名前は、御池（おいけ）ゆうき。

「――うれしい。ほんとに？　ほんとに？　尊道（たかみち）くん？」

　上品なボートネックニットの首元から伸びる白い項（うなじ）。

　耳朶にはクリスマスイブにプレゼントされたイヤリングが揺れている。

　その潤んだ瞳は、まるで少女みたいで。

「私、……もう、駄目かと思ってた。だって、去年のクリスマスイブに言ってくれなかったし。もう、尊道くん、その気は無いのかもしれないって」

　涙まで浮かべるゆうきのことを、尊道は「馬鹿だなぁ」って優しい目で笑う。

「そんなわけないじゃん。心配させたのは、悪かったけどさ。男にだって、決心のための時間とか、あと、験担（げんかつ）ぎのための時間とか、あるんだから」

「そうなの？」

　潤んだ瞳で尊道の顔を覗き込む、ゆうき。尊道は頷いて続ける。

「そうさ。今年、君も僕も三〇代になる。二〇代最後の年に、君に出会えた。これはきっと運命なんだって思っているんだ」

「――尊道くん」

「まだ、出会って三ヶ月。きっと三〇代になる前のスピード婚だって、周りは言うかもだけど。でも、そうじゃない。僕は君との出会いを人生の道標（みちしるべ）にしたいんだ」

　ゆうきは静かに耳を傾けている。

　尊道の左手のひらの上で光るトパーズに視線を落として。

　それは大切なことだった。

　三条尊道という人間を、新たなステージへ進めるために。

　胸を張って、これからの人生を歩いて行くために。

「この前、話したかもしれないけれどさ。一〇代、二〇代の僕は酷（ひど）い奴だったんだ。身勝手かもしれないけれど、僕は三〇代からは一途な人間になりたいんだ。ゆうき、――君に出会って全てが変わった。君が僕を変えてくれたんだ」

「――尊道くん」

　店内に響くジャズの生演奏が、妙に心地よくて、三〇代の始まりに相応しい雰囲気を生んでいた。そして、しばし見つめ合う二人。

　三条尊道は左手の上からトパーズの婚約指輪を右手の指先で取る。

　左手の上の宝石箱を純白のテーブルクロスの上にそっと置く。

　彼の左手が伸びて、彼女の左手を誘（いざな）った。重ねられる白い左手。

　すっと伸ばされる左の薬指。

　尊道は宝石箱から煌めくトパーズの指輪を指先でつまむと、その小さな輪を大好きな女性の薬指へとゆっくりと通し始めた。

　女性の心臓に一番近いと言われる、左手の薬指へと。

　思い出が蘇る。これまで、尊道が歩んできた三十年間が。

　それは決して、胸を張れる生き方ではなかった。

　純粋な恋だけに生きた半生でもなかった。

　運命に翻弄された、半生だった。

　♡　♡　♡　♡　♡

　二〇代の三条尊道は酷い男だった。

　尊道という漢字からは程遠く、「道」を踏み外し、「尊」敬に足らない男だった。

　仕事の面での問題はなかった。

　百点満点に限りなく近い学歴と職歴。決して妥協しない仕事への姿勢。

　それが、彼に業界の中で信用に足る人物としての地位を与えていたし、同世代と比較しても相対的にかなり高い年収を与えてもいた。

　問題は女性関係だ。

　三条尊道という男は女性関係に節操の無い男だった。

　言葉は悪いが「女性を食い散らかす」という表現が適切だろう。

　本人は合意のない性交渉はしないと明言しているが、男女関係とは一時的な合意がありさえすれば良いというものでもない。

　次から次へと付き合う相手を変えた。行きずりの女を抱いた。

　自分に付き合っている彼女がいるときでも、後輩の女の子からの誘いを受けた。

　取引先の社員の奥さんと不倫関係を持ったことがばれて、レバノンに飛ばされそうになったこともあった。

　常務取締役に連れて行かれたキャバクラの女の子と仲良くなって、同伴したこともあった。

　十年間で抱いた女は百を下らない。

　それでも、尊道の心は満たされなかった。

　どの女性も、彼にとって、数多くの女性の一人にすぎなかった。

　数多くの女性の一人として見ると、その一人ひとりのことを大切だとか、特別だとか思えなくなる。二億四千万の瞳に愛を歌い上げる、エキゾチック・ジャパンな郷ひろみのことを、凄いなって思った。心の底から。

　何人もの女性を抱きながら、尊道の心はたった一人の女性を求め続けていたのだ。

　尊道は最初から女性に節操のない男だったのではなかった。

　――それは反動だった。

　「このままじゃ駄目だ」と藻掻いた彼が、行き過ぎた先だったのだ。

　♡　♡　♡　♡　♡

　一〇代の彼は奥手だった。

　いや、女性恐怖症だったと言ってもいいだろう。

　女性との付き合いを怖がった。誰かを女性として好きになることを恐れた。

　大学に入ってから、悩み抜いた彼は変身したのだ。いわゆる大学デビュー。

　もともと素質もあったのだろうし、カリスマナンパ師なんていう碌（ろく）でもない男が親友だったことも影響して、彼は開花した。そして行き過ぎた。

　でも、一〇代の彼は女性と付き合ったことさえない奥手な少年だった。

　二〇代の三条尊道を知る者には信じがたいことだろうが。

　一〇代の彼がモテなかったわけではない。

　控えめに言って美男子で、スポーツも勉強もそこそこに出来た。生徒会副会長も務めていた尊道は、年に数度は女子生徒から校舎裏で告白される程度には人気だった。

　でも、彼はその全てを断った。

　高校のマドンナと言われる生徒会長の先輩から告白されたときだって、にべもなく断った。理事長の娘を敵に回すと怖いぞと、担任の教師にまで諭されたが、尊道には関係なかった。

　もはや女性恐怖症の域に達していた三条尊道にとって、怖いのは理事長ではなく、お付き合いを迫ってくる女性達だったのだ。

　自分が女性を好きになってしまうことが怖かった。

　女性が自分を好きになってしまうことが怖かった。

　だって、その気持は、いつか裏切られてしまうかもしれないから。

　幼少の時に手痛い失恋を経験してしまった三条尊道という男の根底には、そんな気持ちがずっと存在していたのだ。いちばん大切な相手を失ってしまった悲しみが。

　一生癒えないと思っていた、悲しい恋の結末。

　♡　♡　♡　♡　♡

　生まれてから一〇代前半にかけて、彼は恋をした。

　小学生の頃の初恋。幼馴染との初恋。

　そんな、淡くて、彩り豊かな恋。

　相手は姉小路（あねこうじ）さんの家のハルちゃん。

　肩までの髪をさらりとした伸ばした女の子。

　近所の子供が着ないような、お姫様みたいな服をいつも着て、それでいて、溌剌とした笑顔を浮かべる可愛い女の子。

　親同士が仲良しで、時々、向こうのお母さんが尊道の家まで連れてきてくれた。

　公園の砂場では家を作って、家族ごっこをした。

　いつも、尊道がお父さんで、ハルちゃんがお母さんだった。

　幼い尊道が「ハルちゃん、ハルちゃん！」と呼ぶと、ハルちゃんが「たーくん、たーくん！」と応じる。

　その天使のような二人のやりとりを、母親たちは微笑ましそうに見ていた。

　もしくは、安心して放ったらかしにしながら、自分たちの趣味の話で盛り上がっていた。

　母親同士は同じ趣味の持ち主で、会うたびに大量の漫画や薄い本を交換していた。

　幼い尊道たちは、大人というのはそういうものだと思っていたし、それに何の疑いも抱かなかった。

　ハルちゃんは可愛かった。

　幼稚園を卒園して小学生になっても、尊道はハルちゃんのことを変わらずに好きだった。同じ小学校の女子たちが同じ女子だと思えなくなるくらいに、尊道はハルちゃんのことを一番可愛いと思っていた。

　三条尊道は恋愛に関して早熟な少年でもあった。

　母親の持つ少女漫画を読んでは中学生や高校生の恋愛物語に心を動かされた。

　小学生中学年の頃には、男の子にしては珍しいくらいの恋に対する憧れを持っていた。もう、結婚願望だって持っていた。

　恋に恋するお年頃。そんな言葉を使うなら、尊道少年にそれが訪れたのは小学生の頃だったに違いない。

　ふと、その「恋」への憧れを、尊道少年が自分自身の心に問いかけてみた時、彼の胸の中にいたのは、たった一人の女の子だった。もちろんそれは

　――ハルちゃん。

　小学校高学年になる頃には、もうはっきりと意識していた。

　自分はハルちゃんに恋していると、ハルちゃんのことを大切にしたいんだって。

　二人でいる時には手を繋いだ。

　母親たちが二人で盛り上がっている時には抜け出して、二人で少し遠出をした。

　近くの丘に登って、林の中のベンチで手を繋いだ。

　誰も居ない森の中で、そっと頬にキスをした。ハルちゃんも尊道にキスをした。

　森の中で、小学校六年生の尊道はハルちゃんのことを抱きしめながら言った。

「ハルちゃん……僕たち、大きくなったら結婚しようね」

「……うん。できると――いいね」

　尊道はハルちゃんとの未来を疑わなかった。

　自分は必ずハルちゃんと結ばれるものだと信じて疑わなかった。

　でも、そうはならなかった。

　そもそも前提が間違っていたのだ。

　ある日、尊道は母親に思い切って言った。

「僕、大きくなったらハルちゃんと結婚するから」

　ちょうどハルちゃんのお母さんと喧嘩して、虫の居所が悪かった母親は、不機嫌な声で言い放った。いつもより、ずっと冷たい声で。

　それは今更すぎる言葉だった。

「何言っているの？　ハルちゃんは男の子よ？　結婚できるわけないじゃない？」

　そして尊道少年の世界は――崩れ始めた。

　初めの内は、母の言葉の意味がわからなかった。

「お母さん、何を言っているの？　だって、ハルちゃんは、いっつも女の子の格好してるじゃん？　男の子はスカートを穿かないよ？」

　ハルちゃんだよ？　あの可愛い、ハルちゃんなんだよ？

　小学校のどんな女の子よりも女の子らしくて、天使みたいな女の子。

　さらさらとした髪を肩まで伸ばして、お姫様みたいな服を着た女の子。

「あれはハルちゃんのお母さんの趣味なのよ！　子供に女装させるの！　そういう性癖なのよ。――あいつは！」

　尊道の母は大きな溜息をついて、吐き捨てるように言った。きっと、彼女も、もう黙っておくのは限界だと感じていたのだろう。

　でも、小学六年生の尊道に「性癖」という言葉は、まだ難しすぎた。

　だけど、なんとなく分かった。ハルちゃんのお母さんが、何か理由があってハルちゃんに女の子の格好をさせていたのだって。

　だから、ハルちゃんは男の子なんだって。

　最初はどうしても信じられなかった。

　でも、次々と出される証拠。

　尊道それを事実として認めるしかなかった。

　――ハルちゃんは、男の子だったのだ。

　崩れていく世界。失われる世界線。

　もう、ハルちゃんと結婚できる未来はないのだ。

　この世界のどこにも。

　だって、ハルちゃんは――男の子だから。

　胸が痛かった。

　切なかった。

　辛かった。

　許せなかった。

　一〇年ちょっとの人生だけど、その半生の半分をかけて育てた恋が、音を立てて崩れていくのを、尊道少年は、ただ、頭を抱えながら耐えるしかなかったのだ。

　尊道は家を飛び出した。二人で遊んだ公園を抜け、丘を駆け上がった。

　そこは二人の思い出の場所。初めてハルちゃんとキスをした森。

　見下ろした街並みは、ハルちゃんと眺めた世界だった。

　尊道は泣いた。涙が枯れるまで泣いた。

　彼の心には、経験したこともない喪失感だけが残った。

　胸の奥にポッカリと開いた穴は、どんな言葉でも埋められない虚ろな空隙。

　その日を境に、ハルちゃんは家に来なくなった。

　尊道も、男の子だとわかったハルちゃんに、どんな顔をして会えば良いのかわからなかったから、母にそのことを尋ねることはしなかった。

　結局、自然消滅。切ないくらい呆気なく去った、初恋。

　そして、尊道は、自己暗示を掛けるように、ハルちゃんとの思い出に蓋をした。

　そして彼は、恋を恐れ、女性を恐れる少年に変わった。

　心から好きになってしまうのが怖かったから。

　大切な人をまた失うのが怖かったから。

　それから一〇年間、彼は女性恐怖症を抱えながら青春時代を過ごした。

　その次の一〇年間、その反動で女性を食い散らかす無節操な男として生きた。

　そして、彼はハルちゃんのことを完全に忘れた。

　ようやく、忘れることが出来たのだ。

　それが彼の三〇年間だった。

　♡　♡　♡　♡　♡

　だけど、二九歳の秋に、ついに彼は出会った。

　女性関係に苦しめられた二〇年間を乗り越えて、新しい自分自身として生きていくためのパートナーに。

　心から好きだと思える相手に出会えたのだ。

　――御池ゆうき

　それが今、三条尊道の目の前に座る女性。

　その目尻は優しく垂れて、幸せそうな笑顔を浮かべている。

　まだ、出会って三ヶ月しか経っていけれど、会うたびに惹かれていった。

　出会ったのは、行きつけのジャズバー。その店の客にしては、落ち着いた服装で柔らかな雰囲気を身に纏った彼女に、尊道が興味を持って声を掛けた。

　見知らぬ女性を口説くときの尊道の言い回しに、彼女は照れたような表情を浮かべて応じた。初めは「余裕だな。落とせるぜ」なんて下衆なことを考えていたけれど、彼女と話していると、何だか自分自身の方が無防備にされていって、気づけば和やかな世間話に興じていた。

　思いがけず恋に落ちた。三〇歳を目前にしてのプラトニックラブ。

　まるで一〇代と二〇代に忘れてきた青春みたいな恋だった。

　女性経験豊富な尊道に、ゆうきは屈託ない笑顔で「私、エッチは、結婚した相手としかしないって決めているの」と笑う。

　そんな笑顔が、尊道の胸の奥にあった恋の欠片を捕まえて、ぎゅって締め付けた。

　二人はすぐに付き合いだした。

　働きながらだから、週末にデート。紅葉狩りやイルミネーション。

　平日だって会いたくなって、時々、仕事終わりに落ち合った。

「私、もう、三〇歳近いし、結婚前提じゃないと、付き合えないよ？」

「――まだ、結婚とか、想像できないけれど。真剣に考えるから」

　そうやって付き合い始めた。

　だから、彼女がクリスマスイブにプロポーズを期待したのは、当然のことだった。

　付き合いだして、一ヶ月が経ち、秋から冬に季節が変わるころには、もう、尊道の気持ちは固まっていた。

　この女性（ひと）しか居ないんだって、この女性（ひと）と生きていくんだって、そう思っていた。

　でもその前に、自分の中で区切りをつけないといけなかった。

　あまりに酷かったこの十年間に。そして、その前の十年間に。

　だから、二〇代最後の年が終わるのを待ったのだ。

　傍から見たら、意味のないことかもしれないけれど。

　でも、それは尊道にとって、大切な区切りだった。

　尊道という名前に恥じない、これからの人生を歩むために。

　胸の奥で誰かの声がした。「たーくん」って。

　♡　♡　♡　♡　♡

　煌めくトパーズの指輪が、大切な人の薬指へと吸い込まれていく。

　御池ゆうきが左手を広げた。細長い指を一杯に開いて。

　瑞々しい唇が、嬉しそうに開かれる。「わぁ〜」って小さな声。

　尊道は少年みたいに照れくさくなる気持ちを抑え込む。

　彼女の喜ぶ笑顔こそ、彼にとって、最高のプレゼント。

「……尊道くん、ありがとう。ふつつかものですが、末永く、よろしくおねがいします」

　膝の上に両手を置いて、ゆうきは頭を下げる。

　それはまるでお姫様みたいで、それでいてお淑やかな令嬢のようで、悪戯っぽい街の娘みたいで。可愛かった。

「……こちらこそ」

　尊道は彼女と一緒暮らせる未来に感謝する。

　何だか、そんな嬉しさで、胸が詰まって、涙が溢れそうになった。

　シャンパングラスを手にとって、二人は囁くように、言葉を交わす。

「――ハッピーニューイヤー」

　♡　♡　♡　♡　♡

「ねぇ、尊道くん。ずっと言えてなかったことがあるんだけど、聞いてもらえるかな？」

　プロポーズを終えてから始めた食事。

　本当なら、プロポーズは食事の最後にすることが多いらしいのだけれど、大切なことは先に終えてから、夕食を楽しもうというのが二人でした暗黙の了解だった。

　コースの料理が次第に進み、尊道はフォアグラにフォークを立てている。　　

　フォークとナイフを置いて、ゆうきはシャンパングラスを口につけた。

「なんだい？　ゆうき？」

　プレートから顔を上げる尊道。その顔は、ほんのりと赤く上気している。

　アルコールだけのせいだけだとは言えない。幸福が彼の頬を朱色に染めていた。

「うん、実はね。私、尊道くんと出会ったの、三ヶ月前じゃないんだよ？」

「――え？　どういうこと？」

「本当は、昔、尊道くんと出会っていて、尊道くんのこと覚えていたんだ〜」

　驚く尊道。記憶を遡る。

　もしかして、二〇代に抱いた女性たちの内の誰かだろうか？

　それとも、一〇代の時に、告白してくれた女の子の内の誰かだろうか？

　でも、こんなに可愛い子なら、ゆうきみたいな特別な子なら、そんなに簡単に別れたり、告白を断ったりしているとは思えない。

　そういう記憶の中に、ゆうきの姿は見つけられなかった。

「……えっと。気のせいじゃなくて？」

「酷いなぁ。気のせいなんかじゃないよ。いつか思い出してくれるかなぁ、って思っていたのに、全然気づかないんだもん！」

　ぷうっと、ゆうきが冗談っぽく頬を膨らませる。

　首を傾げる尊道。

　悪戯っぽい笑みを浮かべると、ゆうきは、ボートネックニットから綺麗な項（うなじ）を覗かせながら、左手薬指のトパーズを唇に近づけた。

　そして、その愛のしるしに、幸せそうなキス。

「私だよ。『ハルちゃん』だよ。……たーくん！」

　向日葵のような笑顔。

　三条尊道の脳内にはイメージの奔流が巻き起こった。

　封印されていた記憶。闇に葬られていた世界の痕跡。

　公園の砂場。お姫様みたいな女の子。

　林のベンチ。森の中で初めての口づけ。

　どうして忘れていたんだろう？

　どうして思い出せなかったんだろう？

「――ハルちゃん？　でも、ゆうきじゃん？　名字だって『御池』だし……。たしか、ハルちゃんの名字は――『姉小路』」

　そんな疑問はお見通しと言わんばかりに、ゆうきは肩を竦めた。

「『悠（ハル）ちゃん』っていうのはお母さんが私を女装させる時に使っていた名前なんだよね〜。漢字の読みを変えているだけだけど。あと、『姉小路』は離婚したお父さんの名字。お母さんの名字が『御池』なの。――今の名前は御池（おいけ）悠希（ゆうき）だよ？　だから、嘘はついてないからね？」

　尊道の中で、記憶がまた蘇る。そうだ。それなら辻褄が通る。

　悠希で「ハルちゃん」、そして「ゆうき」。そういうことだったのだ。

　幼かったころの恋心が蘇り、全ての思い出が繋がりだす。

　ハルちゃんのことが大好きだった記憶。「結婚しよう」って抱きしめた記憶。

　ただ、一つだけ、大切なことが、引っかかった。

「でも、『ハルちゃん』って男の子だったんだよね……？」

　そう、それはとても大切なポイント。

　だって、「ハルちゃん」が男の子だったから、二〇年前、サヨナラしないといけなかったのだから……。あの別れは、子供の頃の辛く、悲しい思い出だった。

「うん。あの時はね。でも、心配しないで、たーくん。もう、私、戸籍上もちゃんと女の子だから！」

　そして、浮かべるとびっきりの笑顔。

　くしゃりと閉じた瞼に、二十年前の「ハルちゃん」の面影が重なった。

　――そうか！　だったら、もう、問題ないじゃんっ！

　三〇歳手前になって、運命の女性に出会って恋に落ちたと思っていた。

　でもその相手は、物心ついた時から好きだった、思い出の中の幼馴染で。

　三ヶ月の恋なんかじゃない。三〇年越しの運命の恋だったのだ！

　見つめ合う二人を温かな空気が包む。

　尊道とゆうきがシャンパングラスを掲げる。

「『ハルちゃん』……僕たち、やっと結婚できるんだね」

「うん。ありがとう、『たーくん』。また、見つけてくれて……」

　そして、テーブルの上で響く乾杯の音。

　そして、三条尊道と御池悠希は、幸せそうな微笑みを浮かべた。

　まるで、森の中で隠れてキスをする小学生の少年少女のような、無邪気で幸せそうな笑顔を。

　君に運命のプロポーズ。

　それは、ずっと続いていた二人の物語。

　だからこれは、ずっと続いていく二人の物語。

　今年もまた、世界中の恋人たちに、祝福がありますように。

　みんなの運命に――ハッピーニューイヤー。