弾く

村井篤浩

液状の根性

 カフェインの過剰摂取により弾けたらしい彼――寺嶋は、棺桶のなかで安らかに眠っているように見えた。首から下がどうなっているのかは誰にも聞かなかったし、聞きたくもなかったので知らない。

 寺嶋の顔を、その場に実在するものとして見るのはこれきりだ。高校を卒業してから季節が一巡したあたりで催された同窓会から七年が経つ。それから三年前くらいに彼が帰省してきたときに食事をした。昔からの仲ではあったし、もっと会っておけばよかったと、いまとなっては思わずにはいられない。

 眼球を通したその画を、懸命に脳味噌に刻もうとはするものの、血の通わないその肌は、そう遠くない未来にぼやけて風化していく。解ってはいたが、最期の最期まで、目を逸らすことは出来なかった。


*


 葬儀場の外にある喫煙スペースに行くと、見知った女がいた。

 予測はしていたのに、声を掛けるべきか否か判断ができなかった。かといって、その思考を逡巡させるだけの間をその場で過ごしてしまったために、引き返すこともできず、やや後方でコートの内隠しから煙草を取り出す。

 なかなか火の灯らないライターをかちかち鳴らしていると、見かねた彼女が黙って僕にライターを渡した。

 冬の煙草は旨い。ふうっと吐き出した煙が、泥に汚れたマーブル模様の積雪に散っていくのを眺めた。乾いた唇を舐めて、ひっそりと声を出してみる。

「なんて言ったらいいか……」

「いいよ。そういうの、別に」

「……悪い」

 濡れた路面のアスファルトが、青く抜けた空から注ぐ日照りを反射している。未だ寒さは衰えないが、快晴であった。

「木戸くんはいいの。みんなのところ行かなくて」

「まあ」

 できれば一人にしてほしいんだけど、なんて台詞が彼女から出ないか構えてみたが、捕まるのは沈黙だけだ。

「伊藤も大変だったな」

「ん」

「大丈夫か」

「うん」

 伊藤は寺嶋と同棲していた。高校時代からの恋仲だった。

 誰かが話していたのを聞いたが、寺嶋が弾ける瞬間を、伊藤は見ていたらしい。

 僕には想像もつかない。カフェインの摂りすぎで、身体が内側から爆発する人間がいて、隣にそれを目撃した人間がいる。

 煙を吐きながら盗み見た伊藤の横顔はやけに白く、伏せた目には疲れがまとわりついていた。

「みんな――クラスの奴らとは、話したのか」

「ううん」

「まあ、そうだよな」

 心臓がきゅっと締まる感じがする。胃袋が浮くような感じがする。遠くで、救急車のサイレンが聞こえた。

 まだ短くなっていない煙草を灰皿にそっと捨てて、伊藤の横に立つ。

「残念に思ってる。寺嶋とは旧い付き合いだったし」

「知ってる。小学校からなんでしょ。彼もよく話してたよ。木戸のこと」

「……ああ。たまに連絡もとっていたんだけど、あいつ、悩みとか相談とかそういうのしたがらないから」

 気付かなかった。カフェインで弾け飛ぶほどの生活を重ねていたなんて。

 そこまで言いかけて、この期に及んで何の意味もない言葉だと自覚した。それどころか、一緒に生活をしていた伊藤が、寺嶋への気遣いを怠ったかのような物言いですらある。

「いやその、ごめん。変な言い方だったよな」

「言ってたよ」

「え?」

「忙しすぎて参ってるって。でも頑張らなくちゃだから、またコーヒー淹れてくれって」

 そうなのか、と返そうとした口をつぐむ。彼女は僕を見ていない。ここではないどこかを見つめながら、彼女は話していた。

「彼が音楽の仕事やってたのは知ってるよね。さいきん上手くいってたみたいで、所属してた事務所辞めて、新しいところに移ったんだ」

 寺嶋は、ここさいきんで名の売れ始めたミュージシャンだった。作曲家でもありシンガーでもある彼の、叙情的でアコースティックな音楽は着実に周知され、深夜のラジオかなにかで新曲を耳にしたこともあった。

「仕事も増えたみたいでさ。帰ってきてもほとんど部屋にこもってた。私のためなんて言ってはいたけど。もっと構ってあげたらよかったかな」

「なあ伊藤、寺嶋は」

「――だから音楽なんてやめたらって言ったのに。ほんと、かわいそう」


*


 認めてもらいたいんだ。

 歳をとった男ふたりが久しぶりに出会ってする話なんて仕事のことくらいだろう。三年前に会ったとき、寺嶋はやや赤い顔でそんなことを言っていた。

 自身を観たり聴いたりしてくれる人間は少なからずいてくれて、評価してくれるお偉いさんや先輩もいて、ほんとうに感謝している。でも、めちゃくちゃな勝手を言っていると思うけど、それじゃ俺にとって意味は無いんだ。あの人に届いてなくちゃ、何も意味なんて無い。

 アーティストでもなんでもない凡庸な人間からすれば、なんとも眩い贅沢な思想だとしか思えなかったが、寺嶋は真剣そのものだった。


 誰かの一番になれたって、あの人じゃなきゃ駄目だ、そのために俺は息をしている。


 過剰に摂ったカフェインは、彼にとってはただの負債にしかならなかったのだろう。

 彼の願いは成就しなかった。期待もコーヒーも、中枢神経を摩耗させるだけの、ただの劇薬だ。

 ギターの弦によって分厚くなった指も、きっと弾けた。どうしようもなくなって、いてもたってもいられなくなって、爆発した。

 寺嶋に限ったことではないが、カフェインによって弾けた人々にとって、その死は如何なるものなのだろうか。

 それが無念極まりないアクシデントなのか、オートマチックな救済なのか、僕には判らない。

 

*


「その、何かあったら――」

 三秒。重量を感じる喉をほぐすように、咳払いをする。

「何か力になれることがあったら、いつでも言ってほしい。ほんとうに、いつでも」

「別にないよ」

 突風が吹く。首筋に冷たさが凍みた。

「なあ。伊藤と寺嶋が付き合ったのって、何でだったっけ」

「なに、もう昔話?」

「そういう訳じゃない」

「学祭だよ。私が冗談半分で、個人発表のステージで歌ってみてよって彼に言った。なんでそんな話になったかは覚えてないけど。そうしたら彼、馬鹿みたいに練習して――本番のステージ上で私に、付き合ってくださいって」

 ああ、と笑いながら二本目の煙草を灰皿に押し当てて、伊藤の横顔を見つめる。

 夢追い人にすらなれなかった僕には、あの寺嶋にとっての彼女がどれだけの存在なのか計り知れない。

 それでも、あんたは、寺嶋の音楽は好きだったのか――とは、聞けなかった。

 

*


 自動販売機に百円玉を一枚、十円玉を二枚入れる。すぐに熱いスチール缶が落ちてくる。少し振ってプルタブを開け、口に運ぶ。

 この黒い苦味だけが、彼を立たせるだけの唯一の燃料だった。渇望が喉を通り、胃袋に流れ落ちていく。

 隣に置いてあった満杯のごみ箱をふと見ると、そこかしこに茶色の染みが付着していて、僕が手に持っているのと同じ缶が転がっていた。

 液状の根性を飲み干し、斜陽のなかへ歩き出す。

 薄汚れた雪塊は、何もかもをぶちまけたようだった。

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