落ちていくその刹那と誓い

小峰綾子

落ちていくその刹那と誓い

彼はその時駅のホームから落ちた。

夜20時、平日夜の駅のホームは帰宅ラッシュも重なりまあまあの混み具合だった。しかし彼は酒に酔っていたわけではないし、歩きスマホをしていたわけでもない。なぜか突然、ホームから落ちたのだ。ひしめき合う人々に押し出されたのだろうか、あるいは…


ー落ちていくその刹那、彼は何を見たか。暗闇の中で。着地した先は線路ではない。落ちていく。深い闇へ。声が聞こえるー




「吉原さん、この書類お願い」

同僚から話かけられて我に返った。あの人が駅のホームから落ちて搬送されたと聞いてから今日はうわのそらで働いている。同僚たちが彼のことを好き勝手に口にする。

「事故だって言われてるけど、実際ねぇ。どうなんだろ」

「誰かに突き落とされたとか?」

「そういう恨みを買うタイプじゃないだろう」

そう、彼は誰かに、殺意などの強い感情を抱かせるタイプではなかった。狂おしいほど愛されることもないかもしれないが。

「自殺っていう可能性もあるよな。まあわかんねえけど」

一方で、彼は電車に飛び込むことを自ら決意できるほどの決断力があるのかどうか疑わしいと思う。彼のことをよく知らない人に限って知ったようなことを言うのだ。

みんな、彼のことを知らないくせに。みんな、あいつは何考えてるかよく分からないとか、ミステリアスだとか、または何も考えてないでくの坊だとか適当なことを言う。


誘うときはいつも私からだった。愚痴も相談も、否定もせず肯定もせず、時々「へーそうなんだ」などと言いながら聞いてくれた。何を食べても飲んでも、とりあえず美味しそうな顔をしていた。そんなところも良いと思った。

彼のことが好きだったのか。わからない。そうだとも言えるし何か違う気もする。ただ、恋愛感情など関係なく一緒にいてくれる存在が心地よかったのだ。彼を利用していた?そんなつもりはなかったけど、多分そうなのだろう。

「今度、休みの日に空いている日に合わせて、ピクニックみたいなことしない?お弁当とかお酒とかつまみとか買って」

ある日ふいに彼にメッセージを送った事があった。なんでそんなことを思いついたのか今となってはわからない。

「いいね」

いつもの通り彼は断らない。

「なんか、自分で行ってて気づいたけどなんかデートみたい」

「デートでも別にいいけど」

相変わらずののんびりした返事だった。

でもこれが彼と交わした最後の会話、というかメッセージである。彼氏もいなくて仕事も楽しくなくて、去年始めた婚活も手応え無し。もう転職するか実家に帰って家業でも手伝うか、などと思っていたつまらない日常にちょっと光が差した。

疑似的であっても、来週になればデートだと思ったらそれまでの日々を楽しく過ごせそうな気がしていた。

しかし、そんな疑似デートの約束は反故になってしまった。

一体、私こそ彼の何を知っていたと言うのだろう。他の人が知らない顔を知っている優越感に浸っていたが、優しくて穏やかな彼は、誰にだって同じように接していたかもしれない。

暇なときや話を聞いてほしいときに彼を呼び出すのは私だけでは無いのではないか、と感じてはいた。誘われたら彼は断らないだろう。

都合よく呼び出され飲みに付き合わされ、好き放題愚痴を聞かされ、相手は勝手に満足して帰っていく。付き合わされる方は大変だろうな。

もしかしたら彼はいろんな人の愚痴や負の感情を体の中に貯めこんでいたのだろうか。自分も気が付かないうちに心身の深いところにドス黒いものが溜まり、蝕まれていたのだろうか。黒いものに飲み込まれた体はいつのまにか彼を乗っ取り予想外の行動をとらせた。そんな想像を巡らせてしまう。

そして彼はホームから落ちた。

私のせいか、とはさすがに思わないのだけど、彼はどんな人間なのか。何が好きなのか。ムカつくことや悩みはないのか、そんなことを何一つ思いつけない。一緒に過ごした時間はけっこう長かったのに。もし彼が生きて戻ってきてくれるのなら今度は、彼の話を聞きたいと思う。

どうか、生きて。聞きたいことも聞いてほしいことも、まだまだ溢れている。

「真野さん、電話です」

前のデスクに座った部下から声をかけられ、心臓が跳ね上がるような気持ちになった。

「警察からです」

そう言われるんじゃないかと今日は気が気ではない。

「○○商事の○○さんからです」

取引先の担当者からだったのでほっと胸をなでおろす。そう、まさか警察から俺のところに連絡なんてあるはずがない。俺が何かしたわけじゃない。

部下が連絡なしで欠勤した。

許せねぇ、解雇だ!処分だ!と昨日は吼えてみたが、そんな非常識なことをするやつではないことは分かっていた。何かあったのかもしれない、その不穏な予感が的中したことを夕方になって知る。彼は駅のホームから落ちたのだ。不幸中の幸いで、即死は免れた。しかし今現在も油断できない状態であるらしい。

俺のせいなのか?そんなわけない、あいつだって別に嫌がっていなかったじゃないか。いつもへらへら笑っていた。飲みに誘うと断ることもなくついてきた。

「ごちそうさまっす」

そう言ってビールだのつまみだのを遠慮なく注文していたではないか。でも、それさえも嫌々付き合っていただけだとしたら。

へらへらしているくせに内心傷ついていたのかもしれない。

パワハラだと指摘されたら俺は言い逃れができるのだろうか。

ちょっとしたミスをするたびに、だからお前はだめなんだよ、何度言ったら覚えるんだよ、となじったことは何度もあった。いやしかし適度に冗談や笑いも織り交ぜていたはずだ。

彼は別に駄目な部下という訳ではなかった。人より突出したところも特にないが、基礎能力は高かった。あらゆることをそつなくこなすタイプだ。ほかの部下の方が細かい部分で詰めが甘かったり確認が足りなかったりで、注意するべきところはあった。ではなぜ、あいつだけいじったり罵ったりしてしまうのか。

それは「つい」としか言いようがない。あいつなら、何を言ってもブチ切れたりしない。ストレスのはけ口にしてもびくともしない。そんな気持ちが彼への「いじり」をエスカレートさせた。

「あなたのいじめを苦にして彼は自殺を図ったんですよ」

誰かにそういわれることを昨日からずっと恐れている。

違う。おれは誰よりもあいつの能力を買っていた。

「彼をしつこく注意し、罵倒し、馬鹿にしていたじゃないか」

いや、それは一種の愛情表現であって、信頼関係があったゆえのことであって

「それが分かるような態度をお前は示していたのか」

言わずとも分かるはずだ。

「じゃあお前はあいつが何を思っていたのか知っているのか。」

いや…考えたこともなかった。そしてあいつは自分の気持ちを声に出して言うことなんてなかった。ただ笑って、へらへらしていただけだ。

一番信頼しているのも、期待しているのもお前だとただの1度でも、酔った勢いでも、言ってやれば良かったのだろうか。言えれば、違ったのだろうか。

結局は警察が俺のところに来ることは無かった。パワハラで告発されないことを祈る一方で、そんなことはどうでもいいから、あ戻ってきてほしいと思った。

兄が事故で、意識不明の重体。一命はとりとめたが未だ予断を許さない状態。そんな状態でも私は今日はいつも通り働いていた。一報を受けて母はすぐに東京に向かった。私は急に仕事を休むことはできないと言って着いて行かなかったが、事情が事情なだけに、職場に頭を下げて休むことは本当はできたと思う。でも行かなかった。私が駆け付けたところで何も変わらないだろうという思いがあった。あとは、やっぱり怖かった。


3つ年上の兄とは、仲は良い方ではあった。ただ兄が上京してからは、年に2〜3回、向こうが帰省した時ぐらいしから顔を合わせる機会が無かったが。

兄は小さい頃から、なにも言わずに私の代わりに怒られたり、私の悪事を黙っていてくれたことがたくさんあった。第一子ということで割と親の風当たりも強かったが、特に戦うわけでもなく、のらりくらりしているように見えた。

もしかしたら兄は、誰かの悩みや困りごとを一緒に抱えてしまうタイプなのではないか、と感じていた。嫌と言わず、いやな顔もせず、人のトラブルに巻き込まれていく、そういうところがあった。

兄が東京でどんな働き方をしているのか私はよく知らない。普通のサラリーマンだよ、何も面白くない。そう笑って言っていたが、面白くないという言葉にどんな意味が含まれていたかなんて気にしたことは無かった。

もっと兄に興味をもって話を聞いていれば良かったのか。日常的にメールしたり、時々会いに行ったりすればよかったのか。

でも異性の兄弟なんて、大人になったら距離ができるのはごく普通なのではないか。友人の中には、弟や兄となんてほとんど口もきかない、なんて子も普通にいる。

それに、悩みが真剣であればあるほど、身内には言わないだろう。そういう性格の兄だ。

だけど、もしかしたら。母にはそんなこと口が裂けても言えないのだが、もう会えないのかもしれない。二度と話すこともできなくなるかもしれない。


こんなことになるのなら、もっと仲良くしておけばよかった。もっと、いろんな話をしておけばよかった。意味のない小さな後悔ばかりが頭に浮かぶ。気が付いたら涙が流れていたのでトイレに駆け込んだ。個室に入り、呼吸を整える。


看護師という仕事をしていて、2年と言う間にもいろんな場面を見てきた。いろんな家族と接する機会があった。死という場面にも何度か直面してきた。

あの時どうして笑顔で応えられなかったのだろう、もっと家族を顧みればよかった。それぞれの家族に思いがある。それぞれの今までを振り返って、多かれ少なかれ後悔の念を抱く。みんな好きなように生きてきたはずなのに。取り戻すことのできない時間を振り返って何かを思う。

もし、兄が助かってもういちど話ができるなら。

でも、それがかなわなかったときにものすごく自分を責めてしまいそうだ。

まだ仕事中だ。何とか今日の勤務だけは乗り切らなくてはならない。

父とともに病院を訪れた少年。身内の死というものに初めて直面するが、親やその周りの親族たちの雰囲気から、それがただ事ではないこと、ただ、なんとなくみんな予測していたこと、そして彼の祖父にもう会えなくなることは察していた。

祖父が倒れたのは3日前、彼は小学校にいいつも通り通学していた。学校から帰ると母が深刻な顔で「病院に行くよ」と言った。

もう祖父は意識がなかった。いくつかの管と呼吸器につながれた祖父を眺めながら、まるで自分が知っている人間とは別の個体がそこに横たわっているような気がする。

一方で彼は「しまった」と激しい波が胸に押し寄せるのも感じていた。

「うるせえ、じじい」

彼が、祖父に最後に投げた言葉がそれだった。大したことは無い。いつもより少し遅く起きた彼は、かき込むように朝食を食べていた。

「そんな急いで食べたら、のどにつかえるぞ」

起きぬけの不機嫌もあって、彼は祖父の忠告を無視して朝食をかきこみ続けた。

「あんまりいそがんで、ゆっくり食べな」

「うるせえ、じじい」

イライラして彼は、祖父にそう言い捨てた。

彼は機嫌が悪いとそのような悪態をつくことも良くあったので、祖父は特に気にするでもなく新聞を読み続けた。


祖父は、家族に見守られながら息を引き取った。父や母、おじ、年上の従妹はみんな泣いていた。意味がよく分かっていないであろう妹も泣いていた。でも、彼一人、泣けなかった。

祖父が自分を愛してくれていたことも知っていた。自分が祖父を大好きだったことも分かっていた。最後の言葉があれだったところで祖父は自分を恨まない。だれも自分を責めない。祖父がどのタイミングで倒れるかなんて誰も予想はできなかったのだから。

でも、やはり後味の悪さと後悔は8歳の少年の胸に重く残っていた。

今日が、その人と言葉を交わせる最後かもしれない、そう思って生きよう。8歳の少年の誓いは固く、時を超えて、場所も超えて、彼や周りを取り巻く人々たちの意識に滑り込み、いつか誰かの生きる道を、その行く末を変えるかもしれない。

駅の階段を前にして急に足が動かなくなった。彼女と何度もこの階段を上ったのを思い出したのだ。なぜ今日は一人なのか。昨日まで当たり前だと思っていたことが急にそうでなくなる。どこで間違った?どこから違っていた?

「おっと。危ない」

後ろから声がした。駅のホームに向かう階段。人の流れに沿って歩いてきて階段を直線にして急に前の人が止まったらそれはびっくりするだろう。つんのめって俺にぶつかりそうになったところ何とかよけて、横にそれていった。その次に続く人に舌打ちをされる。背中に圧を感じた。俺の後ろに軽く渋滞ができているのだ。それらを理解するのに数秒かかった。ベルが鳴る。次の電車、急行電車の発車の合図だ。

いつもなら、そんなところで急に立ち止まったりしない。後ろに人に迷惑だし危ないからだ。でもその日、彼女から急に別れを切り出された俺はぼんやりと過ごしていた。周囲の音が何か膜を覆ったようにぼんやりと聞こえる。彼女の声ははっきりと思い出せるのに、現実の音は直接耳に入ってこない。目に見える光景も現実感がなかった。

たかが失恋で、と他人は言うかもしれない。でも大学生になって、人生で初めてできた彼女、自分はラブラブだと思っていた彼女に浮気されていて、しかも相手の男の方が好きになったからという理由で振られた。その衝撃は大きかったのだ。

しかし、俺の人生と直接かかわりのない人間にはそんなこと関係がない。俺のせいで急行に乗り遅れた人はそのことのほうが一大事だろう。

我にかえって階段を上ろうとした。急行にはもう乗れないだろうが次の各駅でも別にいいか、バイトの時間まではまだ余裕がある。そう思って一歩上ろうとしたところで肩が当たる。後ろから気が男性がわざとぶつかってきたのだ。驚いた俺の肩を、そのおっさんはつかんだ。

「何急に止まってんだこのやろう」

「すいません、すいません、ちょっと考え事してて」

「乗り遅れたじゃねぇか。どうしてくれんだ」

胸ぐらをつかまれる。そんなに怒るか、と思ったが、俺と同様、このおっさんにもなにか事情があったのかもしれない。

俺が謝っても開放する気はないらしく、おっさんは俺を掴む手に力を込める。周りは一時騒然となった。

「おい、誰か、駅員。」

そういう声が遠くに聞こえる。

おっさんが一度手を離す。解放してくれるのか、そう思ったが次の瞬間おっさんは右手を振りかぶった。

殴られる。

本能的に察したがよける暇はなさそうだ。咄嗟に身を小さくして目を閉じる。

衝撃は来なかった。

目を開けると、背の高い少しガタイのいいスーツの男がおっさんを羽交い締めにしていた。

それに乗じて何人かの人が間に入ってくれていた。

「おじさん、やめなよ」

「殴ることねえだろ」

まだ怒り狂ってるおじさんは身動きが取れなさそうだ。

「おい、兄ちゃんもう行けよ。こいつは駅員に引き渡しとくから」

間に入ってくれた人の1人が俺に言っている。

「すいません。ありがとうございます」

俺はその場にいた人たちに礼を述べて足早に立ち去った。怖かった。わざとではないにしても、他人の憎悪の矛先になったことが。

まっさきにおっさんを羽交い締めにして助けてくれたスーツの人に、ちゃんとお礼を言えればよかったな。浮き足立っていて冷静な思考でいられなかったから仕方ないけど。

深い闇。俺は、どうしたんだ。自分は誰なのか、なぜここにいるのか。全てが遠い。何故か駅の光景が目にちらついている。自分はあそこにいたのか。自分が誰かを押さえつけている。暴れる人を後ろから羽交い締めにしていた。その場面はそこで途切れ、次に見えたのは、駅のホーム。バランスを崩す。何かとぶつかった衝撃。その前後は覚えていない。その記憶さえも遠くなる。

今度は、病室。今度は自分の姿が見える。まだ小さい子供。周りの大人や妹が涙を流す中、泣くこともできず笑うこともできず、ただ何かを見つめている。

今度はいろんな声が聞こえた。子供の声、大人の声、男、女。知っている気がする人、知らない人。入り交じっている。

「おじいちゃんに、ひどいこと言っちゃった」

「ごちそうさまっす」

「私のせい?」

「お兄ちゃんは関係ないことまで抱え込みすぎなんだよ」

「俺は、ほんとはお前に期待してたんだよ」

「いつも私の話ばっかりでごめん。」

「おじいちゃん」

「あのこ、全然泣かないのよ。おじいちゃんにはかわいがってもらったのに」

「最後に喧嘩したままなのがまだ受け入れられてないんじゃないか」

「戻ってきてくれ。悔やんでも悔やみきれないんだよ」

「ほんとは大好きだったのに。それさえも、もう言えないの、いやだよ」


様々な後悔、悔いのことば。

俺にどうしろと言うのだ?

どうしようもないじゃないか。 起きてしまったことは仕方ない。過去は変えられない。

「過去は変えられない?本当にそうなの?」

子供の方が聞こえる。誰だ?なぜか聞き覚えがある気がする。

「過去が変えられないなら、君の運命ももう、取り返しがつかないのかな」

取り返しがつかない?ああ、そうかもな。

「でもまだ間に合うかもしれない」

間に合う?何に? 

「君はまだ、落ちてないんだ」

落ちてない?ああ、そういえば駅のホームから落ちたんだ。電車が来ていた。じゃあもう、助からないじゃないか。

「ねえ、覚えてる?誓いのこと。君が小さかった頃の、あの日のこと」

ん?ああ…じいちゃんに、俺ひどいこと言っちゃったから

「その日から君は、頑張ってくれたんだね。今日まで」

そうだったかな。

「あの日から違う人間になった」

ただ、出来るだけ優しく、穏やかに、喧嘩せずに、いたかった。それだけだ。

「でも、それが余計人をイライラさせたり、もどかしい気持ちにさせたり、したこともあったね」

俺のせいかもな、と思うこともあった。

「でもみんな、後悔してるよ。君が落ちた後の世界のみんなは」

落ちた後の世界…。

「君は落ちて行こうとした、自分から」

自分から?

「君は自分から飛び込んだ。走ってくる電車に」


違う!そんなことはしない。


「でも、みんなはそうだと思っている。口には出さないけど、自分のせいだと思っている」

違う。

「でも、君は疲れて全部嫌になって飛びこんだ」


ちがう。


「違うのか」


駅のホームが混んでいて。


「ぼくには本当のことを言っていいんだよ。誰かにそれを喋ったりしないよ」


違う。と思う。でも自信はない。でも


「でも?」


みんなは平気で、感情を剥き出しにしたり、愚痴を言ったりする。喧嘩したり、無視したり。そういうことが分からない。分からないから、疲れるんだ。

「そっか。じゃあ、このままでいいのかな」

でも、そんな世界でも。

俺は、俺は…

戻りたい。

みんなを後悔させたまま、このままいけない。もう一度…まだ間に合うなら…

「分かった。それが聞けてよかった。じゃあ一度だけだよ。もう落ちちゃだめだよ。さようなら、ありがとう」

待って。君は誰なんだ?もしかして、あの日の…

もう子供の声は聞こえなくなった。

黒い闇が渦巻いて濁流になる。流れは上へ、吹き上がる。光が見える。静寂の世界から喧騒へ向かって、さまざな声を巻き込んで強い力で押し出されていく。


駅のホームに立っていた。帰宅ラッシュの時間という事もあり、大変混んでいた。なんか一瞬フラっときたような気がする。立ちくらみだろうか。うっかりホームにでも落ちたら大変だ。彼は半歩後ろに下がった。

さっき、若者に何か大変ブチ切れて突っかかっていたおじさんを羽交い絞めにして止めた。考えたわけではなく体が勝手に動いたのだが、あれで良かったのだろうか。後悔しているわけじゃないし、止めなければおっさんはあの人に殴りかかっていたと思う。でも、あのおっさんもなんか事情とか、あったのかもしれないし。

彼はいつも、こんな風にいろいろ考えすぎて答えのない問いに逡巡している。どうにもならないことばっかりだな。

ポケットで彼のスマホが震える。

メッセージが二件。

珍しく妹から。

「お兄ちゃん、元気?年末はいつ帰るの?」

「多分31日かな。元気だけど、急に何?」

「ううん。特に意味はないよ。なんか、久々に二人で飲もうよ。いろいろ話したいし」


そういえば最近、妹と二人でじっくり話したことなんてなかったかもしれない。もうお互い大人だし二人で飲みに行くのも悪くないかもな。そう思った。

もう一件は上司からだった。また叱責のメールだろうか。と彼は思う。

「今日は言い過ぎた。申し訳なかった。お前には本当は期待してるがつい言葉がきつくなってしまう。また明日打ち合わせよう」


退勤後であるのでメッセージは返さないことにした。よく怒られてはいるが、実は上司に期待されていることも薄々知ってはいた。彼も上司のことを嫌いではないし、尊敬もしている。でも、それも本人に言ったことは無かったことに気が付く。向こうが少し本音を言ってくれたのだ、こちらも伝えてみよう。


そう思って彼はスマホを再びポケットにしまった。


先ほどのごたごたで、予定よりも帰宅が遅くなってしまった。まあいいさ、急いでいるわけでもないし。次の電車に乗ればいい。

彼は今度は、列に並んで電車に乗り込んだ。

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落ちていくその刹那と誓い 小峰綾子 @htyhtynhtmgr

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