第4話


 田中はビールを追加した。

 追加しながら思う。

益々この佐古部と言う男が分からない。

田中はそう思いながらバーテンダーが持ってきたビールを受け取った。二年ほど前に初めて佐古部とこのバーで会った。酒も飲めないのに週末になるとこの男はバーにやって来て一人で微睡んでいる。

 最初はこの奇妙な男と少し距離を置いていたがやがてある日この男から声をかけられてから距離が近くなった。

 その日、田中は猫の写真を見ていた。

 一人暮らしが長い。せめて猫でも買って一人のときの心の慰めにでもしようと思い、ペットショップに出ていた猫の写真を眺めていた。

「猫ですか?」

 声がして横を振り向くと佐古部が興味深そうに写真を覗き込んでいる。

 なんだ、という表情で田中が佐古部を見た。

それに気づいて佐古部が軽く頭を下げた。

「いや、なかなか可愛らしい猫の写真を見ているものですから・・つい」

 咳払いをして田中が言う。

「猫に興味がおありですか?」

「いやいや」

そう言いながら満更でもないような表情をして佐古部が答えた。表情が非常に柔らかい。

「猫ね・・ふうん、失礼。田中さんでしたね。いつも週末にはここに来られていますね。いつかお声をかけたいなと思ってはいたのです。私は佐古部と言います。いやー実に羨ましい猫をお飼になられるなんて。ほらその写真のイギリス産のスコティッシュフォールドの子猫、可愛くて堪りません。それいかがです?」

 あまりの猫への傾倒ぶりが見える態度に田中は意地悪心がふっと出て来た。

 にやりと心で笑いながら答えた。

「猫?全然興味ないですね。これはたまたま上司が僕に見せてくれた飼い猫写真です。猫何て僕はどうでもいい」

 そう言って佐古部の顔を見た。

 顔が何とも言えない程邪悪に満ちていた。

「何て人なのだ。猫の可愛さが分からないなんて。田中さん、あなたは人ではないですね」

 それから二人の交流が始まった。

(しかし)

 と田中はビールを口に運びながら思った。

 どこか偏執的な執着心があるのは付き合いだして分かり始めたが、この男にはまだ自分が知らない引き出しが沢山あるのだと知った。

(自分の会社の事情も何故かこの男は知っている)

それだけでも十分驚きだったが、この男の偏執的ともいえる探求心の深さにも驚きだった。

普通御子神のようなそんな性癖の男とは誰も付きあわないだろう。秘密の性癖を打ち明けられたとき、眉をしかめるのが普通の感覚だ。

しかしこの男はそうしたことを一切気にせず、御子神と言う人物の性癖の深い部分を悪魔のような探求心で覗き込んだ。

しかし結果としてそれが不明になっている佐伯裕子を探す手掛かりになっている。

(話の続きを聞こう)

 そう思って佐古部を見た時、唇が動いて何か言おうとするのが見えた。

それを素早く押さえる様に田中が言う。

「三度目とは言わせない」

 すごく残念そうにする佐古部の表情が見えた。

 ちっと舌打ちする音が聞こえる。少し満足気に田中は鼻を鳴らした。

そして言った。

「続けてくれ、話を」

「分かりましたよ」

佐古部が答えた。

「それで僕は誰が彼のマンションの鍵があることを知り得ることができたか考えたのです。両隣はどうやら普通の子供のいる家族のようでした。生活のリズムもあり、とても悪意が感じられない」

「他の階の人間の可能性は考えないのかい?」

 ぷっと佐古部が笑う。

「田中さん、あなたマンション暮らしでしょう?現実に他の階の人間に興味とかあります?」

 田中は無言になった。

「でしょう?都会の生活で人は誰にも関心が無くなっている。そんな現代でマンションに住む他の階の人間に興味がある事なんてまずないでしょう?むしろ関わりを持ちたくない、それが本音ですよね」

(成程、佐古部の言うとおりだ)

 田中は頷いた。

「じゃ少し考えを飛躍して一日中望遠鏡で覗いている人物がいるだろうか。先程も言ったようにここは5階で他を見渡しても大きなマンションはタワーマンションだけです。そこのベランダから覗いている人物がいて彼の生活リズムを知っていれば犯行は可能です。でもそんなことは不可能です」

「どうして?」

「マンションの一階入り口はオートなのですよ。中から誰かが開けてくれるか、誰か出てくるときに合わせて入るかしかできない。そんなタイミングよく走って来て入る事なんてできませんよ。だっていつ彼が帰ってくるかなんてわかりませんから。タワーマンションからこのマンションに来るだけでも5分はかかりますよ」

 そこで佐古部はバッグから新しい煙草を取り出した。包装のフィルムをとき新しい煙草を口に咥えた。

 そしてぽつりと言った。

「ですが・・その距離が近ければ可能です」

佐古部がライターで煙草に火を点ける。

ライターの明りが一瞬、佐古部の相貌を照らしだした。

 目が光っているのが田中には見えた。

「そう思って、僕は煙草の煙をマンションの外へ吐き出したのです。その時です、偶然ですが病室の窓が開いたのです。窓の向こうに半身起きて自分を見ている男の姿を僕は見ました」

 煙をゆっくりと吐き出す。

「かなりはっきりと男の容貌が分かりました。建物同士の距離は道路を隔てているだけで20メートルそこそこあるぐらいですからね。髭を生やした頭が剥げている男でした。顔は青白かったですね。丁度その時、御子神がドアを開けて僕を呼んだのです。どうやらやはり見つからないと言いました。それですまないが今日は帰ってくれないかと。それで家に僕は帰りました」

「それが先週の土曜日か?」

 佐古部は頷く。

「そして休み明けの月曜日、御子神は会社に出て来ませんでした。火曜日も、水曜日も。それで僕が彼のマンションに行くと彼は出てこなくて、管理人に事情を言って部屋に行くと既に彼は荷物をまとめて消えていました」

 面倒くさそうに佐古部が言った。

 慌てて田中が言った。

「それじゃ、御子神が小切手を失くしたって言って君に偽装演技したのじゃ」

 佐古部が首を振った。

「換金は銀行指定です。調べたところまだ換金されてはいないようです。と言うことは本当に失くして恐ろしくなりその罪から逃れるために高跳びしたのでしょうね。また会社のルールを破ったことを聞かれれば彼自身大変なことになるのは目に見えて分かる。まぁ300万、小さな金額じゃありませんよ」

「それじゃ佐伯君の事はどうするのだ?御子神と言う男がいなけりゃ、手掛かりがないじゃないか」

「だからこれって言っているじゃないですか?」

佐古部が紙袋を叩く。

 いらつくように田中が言う。

「君はさっきからこの紙袋の事を言うけど一体何だって言うのだい?」

 ゆっくりと紙袋を田中の前に出した。

「開けてみてくださいよ」

「何?」

「まぁいいから」

 仏頂面で田中が紙袋を開けた。

「・・・・・!」

 直ぐに紙袋の口を閉じる。

 驚く田中の顔を見ながら佐古部がにやにや笑っている。

「おい、これは・・!」

 佐古部は煙草を灰皿に押し付けて火を消した。

「そう、現金300万ですよ」

「ど・・、どういうことだい?つまり君は御子神が失くしたって言う小切手を見つけたっていうのか」

 佐古部が静かに首を縦に振った。

「どこで・・?なぁ・・どこで?」

 田中が佐古部のスーツの襟首をつかんで懇願するように言う。

「ちょっと、田中さん止めてくださいよ。その汚い手で僕のスーツに触れないで下さい」

「いやだめだ。早く教えろ!早く!」

 興奮して襟首をつかむ田中の手を放すと佐古部は少し息を切らせて言った。

「まぁ落ち着いて下さいよ。つまりこうです」

 佐古部は息を整えた。

「僕は彼が居るかどうか水曜日に確認に訪れたのですが、彼は今言った通り部屋に居なかった。それで僕はふとあの病室に居た男の事を思い出したのです。もしその男が入院していたら1日中ベットから窓から見える同じ風景を見ているわけですよ。となれば彼が鍵を隠している場所も生活のリズムも分かる。それだけじゃない。足が不自由じゃなければ彼と同じように部屋を出たタイミングを合わせれば丁度マンションの入り口ですれ違うことも可能だとね」

 乱れたスーツを正して席に座り直す。

「それで病院に行きました。五階に上がって病室を覗くと男はいません。それで不思議に思っていると年配の女性看護師が僕に声をかけてきたのです。『條辺さんのご親戚の方ですよね。これ亡くなられた條辺さんの遺品です。今丁度受付で忘れ物があるとご遺族の方を呼び出したのですけど直ぐ来てくれて助かりました』そう言って僕に青いバッグを渡したのです。そう、そのバッグこそ御子神の失くしたバッグでした。開けてみるとそこにはちゃんと小切手が入っていたのです。それで僕は遺族の真似をして丁寧に頭を下げて病室を出たのです」

 呆気に取られて田中は佐古部を見た。

「そうそれで僕はこの事情を整理して、佐伯裕子の失踪で相談を受けていた田中さんのところの手島部長の所に行きました。実は手島部長と僕は或る秘密倶楽部の会員でね、知り合いなのですよ。いえいえ、御子神のような変態倶楽部ではないですから心配せずに」

「手島部長にだって?」

「そうです」

「何の秘密クラブだっていうのだい?」

 目を丸くして田中は言う。

佐古部は小さく息を吐いた。

「そうですね・・まぁいいでしょう。秘密と言うほどじゃないですからね。猫、猫ですよ。猫ちゃんの愛好家倶楽部ですよ」

「猫・・・」

 田中は力が抜けるように息を吐いた。

「そう、しかしただの猫じゃない。或る血統種を護るれっきとした倶楽部です。ちなみにその倶楽部では僕は上位会員で手島部長は下位会員ですがね」

どうでもいいと言う顔をして田中は言葉を吐いた。

「つまりその倶楽部で知り合いと言うことか。そして君が上位会員、でうちの部長が下位会員と言うわけね」

「あとS製薬の例の常務さんもね」

 それを聞いて天を見上げて田中が阿保かと呟く。見上げる田中に佐古部が言う。

「人間、表の世界だけではなくちゃんと裏の世界もありますからね。そしてその席で僕は彼らからそうした話を聞いたのです。良く考えてくださいよ。結婚なんてそんな簡単にできると思いますか?何か強い繋がりが無ければいくら何でも難しい。さて、話を本題にもどします。手に入れた小切手・・まぁあとはこれを現金化するだけです。それはうちの方でしました」

呆気にとられながら田中が呟く。

「猫ちゃん倶楽部繋がりね・・」

 それにはむっとして佐古部が言い放った。

「れっきとした倶楽部です」

 はいはい、分りましたそんな感じで田中はビールを口に含んだ。苦い味が口に広がった。

「良く分からない。何故、その病室の男が御子神の部屋に忍び込んだのだ。金目当てかな」

 佐古部も同じようにグラスの中の青い液体を口に含んだ。そしてそれをゆっくり置くと伏し目がちに田中に言った。

「警察に僕の知り合いがいるのですがね。門谷っていう刑事ですが。彼に條辺という人物について何か知らないか聞いたのですよ」

「警察にも猫ちゃん倶楽部の人間が居るのかい?」

 それには無視して佐古部は言った。

「條辺と言う男、覗きが趣味らしくその関係で警察にしょっ引かれたことがあるらしいのです。なんでも女性宅に小型ウェブカメラを仕掛けてそれを録画して楽しむそうですよ」

「じゃ、御子神宅へ忍び込んだのも?」

「でしょうね。週替わりで女が男の部屋にくる。それを病室の窓から覗いていたらあとは部屋の中で何が行われているか、覗きたくなるという欲望が沸き上がるのを押さえられなくなったのでしょう。ちなみに取り返した御子神のバッグの中にはウェブカメラの映像を映して録画する専用のスマホがありました。おそらくこれは亡くなった條辺のものでしょう」

 そう言ってジャケットの内側から佐古部がスマホを取り出した。

「中を見たのか?」

 それには佐古部は首を振った。

「あとで遺族の方にお返ししようと思います。この中には故人の大事なコレクションが入っているのですから。余人には変態の趣味でしょうが、この方にとってはピカソやルノワールと同じぐらいの価値ある芸術品でしょうからね。届けてやることで窃盗をしたことへのせめてもの罪滅ぼしになるかと」

 それには田中は何も言わず、小さく息を吐いた。

「変態同志の繋がりか、同じ穴のむじなのドミノ倒しだな」

「そうですね」

 佐古部が笑う。

田中も同じように笑った。

「佐伯裕子について聞きたい」

 ええ、と佐古部は言った。

「今日彼女をここに呼んでいます」

「え?」

「もうすぐ、来ると思いますよ」

「彼女今までどこに居たのだい?何故会社に出てこなかったのだ」

 田中が眼鏡の縁に手をかけた。

「一体、どうして・・」

「それはですね。彼女、御子神に結婚するのでこのことを秘密にしてほしいと言ったらしいのです。そしたら御子神が『それは出来ない。何せ君の売る先はもう決まっているのだから。どうしてもと言うのなら二百万現金で用意するのだな』と言ったそうです。それでその現金を稼ぐため風俗の世界へ・・というよくあるストーリです」

「なんていう男だ。御子神ってやつは・・」

「どうやら御子神、そうした手で女を食い物にしていたところがあるようですね。まぁ重ねて変態でどうしようも無い酷い奴です」

「全くだ」

 田中はそう言って一気にビールを飲み干した。

「彼女をどこで見つけた?」

 少し首を佐古部がかしげる。

「まぁ手っ取り早く大金を稼ぐためには高級何とやらです・・ですから先程言った門谷って刑事に調べてもらったのですよ。その刑事その辺が仕事でも遊びでも専門ですからね。そしたら入手した或る倶楽部の名簿に彼女の名前があった。だからそこに刑事を行かせて連れ戻してきてもらったのですよ」

「連れ戻す?一体どこなのだ」

「フィリピンです」

「・・・・」

 田中は手を上げた。お手上げだった。想像を超えていた。

「海外へ居たのか」

「ええ・・田中さんまぁいろんなところでいろんなことが起きているのですよ。決して日本だけでは無いですから。この世界は闇が深い。それにそのフィリピンで稼ぐことも御子神が佐伯さんに吹き込んだらしいから、全くどこまでも食えぬ男です。それで今日その刑事が彼女を連れてここに来るのですよ」

そうかと疲れたように田中が言った。

どうもすれば気が狂いそうな程、壮大な話だった。しかし自分が知らない世界がこれほどあるとは思わなかった。

普段人々は真面目に生きている。

だがこの世界は表と裏が実は縦に横に交わって出来ていることをこのことで思い知ったように感じて、グラスを持ってうなだれた。

(驚きとはこのことだな。まるで諺の・・)

 ふと田中は顔を上げてカウンターに置かれたままの聖書を見た。

(そうか、成程な)

「それで君は僕に言ったわけか『目からうろこ』とね」

「どうです。本当に身に染みる良い言葉ですよね」

「そうだな」

 田中が同意する。

「御子神はどうなる?」

「彼は明日警察に横領罪と言うことで届を出しますよ」

「ここに現金があるのにかい?」

「ええ、手島部長が言うのはこの金は佐伯裕子の売り先人に渡せと言うことです」

「本気か?」

「ええ、そうした倶楽部ではとてつもなく恐ろしい人物が控えていることがあるのですよ。売り渡しの約束を反故にされて、そのことに根を持って暗闇から手を伸ばして光り輝く人生を歩く人を地獄に突き落とす輩がね」

「やはり恐ろしい世界だな」田中が眉間に皺を寄せる。

「ですから闇の世界には闇の正義たるルールに従うべきだというのが部長のお考えです」

「好きにするがいいさ、俺は何も知らない。それだけさ」

 佐古部は頷いた。

 するとバーのドアが開いた。そこに短い角刈りの男に付き添われて立つ女性が居た。二人は自分達を探しているようだった。

 田中にはその女性が佐伯裕子だと分かった。

「佐伯君・・」

 そう言って立ち上がろうとする田中の手を佐古部が抑えた。

「ちなみに田中さん、これ・・彼女の売り先人の名前です」

 一枚の紙を出されて田中はぎょっとした。

「これは・・」

「そう」

 佐古部がにやりと笑う。悪魔の様相で。

「彼女の婚約者ですよ。彼もまた御子神の所属する倶楽部の一員です。でも祝福しなくては。二人は結婚して結ばれるのですからね。ちなみにおつりで百万程残るのですが、田中さんいかがです?ほらこのリストの所に百万と書かれている女性が居る。どうです?一度勉強ということでこの変態倶楽部に入りませんか。そうすれば本当に『目からうろこ』がおちてこの世界の素晴らしい真実に触れることができるかもしれませんよ。まぁその保証はできませんけどね」


(終わり)

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田中と佐古部 / 『嗤う田中』シリーズ 日南田 ウヲ @hinatauwo

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