第18話 いかなる暗黒がおまえを追うか

18 いかなる暗黒がおまえを追うか


 そして、ふたたび日課となっている労役がはじまる。

 肩に背負うようにして、糸を引いているぼくのミミにタクシーの急停車音がつきささる。ドァが閉じる音。母の足音が迫る。

 ――お帰りなさい。病院は混んでましたか。返事はない。

 ぼくは糸を12メートル引き、端の腕木に丸く輪にしてある耳糸を掛ける。

 ふりかえる。石塀に片手をかけて肥満した体を支えて、息を切らしている。母は饒舌になる。

 ――肉を食べないから疲れてしまった。医者はわたしの話すことなんかきいてくれない。不満があるのなら、他の病院にいってください……だってよ。てんで、相手にしてくれない。ちかごろの医者は、忙しすぎて患者のいいぶんなんか、きいちゃくれないんだから。でも、わたしにゃ、わかるんだよ。じぶんの体だもの。じぶんのことは、じぶんに一番よくわかるんだよ。肉を食べなかったから、栄養がとれなかつたから、それで、こんなにクタビレタのさ。ねぇ、おまえ、ミチコによくいっおいてよ。肉がたべたいよ。

 沈黙。石塀にへばりついていた肉体は、ぼくの目前でふくれあがる。

 ぼくはあわてて言葉をさがす。ぼくの声は母にはとどかない。とどいたところで、理解されないだろう。

 激流に突き出たつるつる滑る岩の上に立つ二匹の動物のように、母とぼくは敵意をむき出しにした視線を交わす。

 母の顔に凶暴な表情があらわれる。

 黙って正面に進む。母が怯えたようなしぐさをみせた。柔らかな、ぶよぶよ肥った肉の塊を背負うために、ぼくは母に背中をむけて前かがみになる。ころぶまいとして、脚がもつれた。ぼくの体にぼくではないものの、肉体の重圧。

 ……これはまだ夢だ。ぼくは夢のつづきをみているのだ。叫び声がきこえる。しかし、妻はこんどは、起こしてくれなかった。そして……ぼくはこのときはっきりと悟った。病気なのは、母や父ではない。疲れきったぼくらなのだ。

 妻はやせ細り、ぼくは大地に倒れそうだ。

 母の顔に、青ざめた妻の顔が重なり、その妻の顔によびかけようと、ぼくは背後からの重みに耐えて夢の中で歩きつづけていた。


     完了




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人間もどきの終焉 麻屋与志夫 @onime_001

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