それは世界の終わりに似ている

うなじゅう

 俺は息せき切って走っていた。

 身を切り裂くような鋭い冷たさの風が襲いかかる。口から白い息が断続的に吐き出されては散って行く。手にしている学生鞄の重さが煩わしい。際どい時間に起床したせいで朝食を摂っていないから空腹だ。

 だがそんなことは気にしていられない。なぜなら急がなくては電車に間に合わないからだ。電車に乗れなければ高校に遅刻してしまう。そのため学生服に着替えて便所で小便を済ませるとすぐに家を出たのである。

 俺は走りながらスマートフォンを取り出して時刻を確認した。後一つ二つ角を曲がった先に駅がある。この位置ならこのまま走り続ければ間に合う計算だ。

 まずは一つ角を曲がった。百メートルほど先にある二つ目の角を続いて曲がる。駅が見えた。

 俺は急いで階段を駆け上がる。同時に懐から定期入れを取り出し定期券を手にした。目の前には改札がある。電車はまだ来ていない。いける。俺は定期券を改札機に通した。券が出てくる時間すらもどかしい。短く高い機械音と共に出て来た定期券を右手で取る。目的のホームへ向かうために再び階段を駆け上がった。

 上に出る。けたたましい音を立てながら電車が入って来た。間に合った事にほっと胸を撫で下ろすと便意が来た。しかしここで引き返して便所に行くと遅刻してしまう。俺は我慢して電車に乗る事にしたのだった。

 列に並んで電車に乗り込む。中は人で詰まっていた。俺は禿げた中年男性と頭髪を茶色く染めた大学生らしい青年の間に挟まって大人しくする。そもそも身動きが出来ない。吊り輪に掴まる事も出来やしない。息苦しさを感じながらも電車は空知らぬ顔で出発した。

 危惧していた便意はいつの間にか収まっている。これなら大丈夫だ。俺は電車に揺られながら目的地に着くのを待つ。

 満員電車は毎朝の事でもう慣れた事ではある。だが周囲に人ばかりがいるこの環境はいつまでたっても不快感が募る。

 俺は顔を動かして周囲を見やった。少し離れた所で同じ高校の制服を着た女子が吊り輪に掴まっているのを発見する。さらに視線を顔へ向けると偶然にも同じ教室の子。黒髪ボブカットの彼女は初めて見た時から少し気になっていた。彼女は恰幅の良い男性と横幅のある女性に挟まれて窮屈そうにしている。不意に彼女がこちらを見た。俺と目が合ってしまう。彼女は困ったような顔をしてはにかんだ。お互い大変だね。そんな風に言っているように俺には思えた。俺は肩をすくめて応える。彼女は笑ってくれた。たったそれだけの交流で気分が晴れやかになるから不思議なものだ。

 けれど次の駅に着いた。幾人かが降りたがそれ以上に人が乗り込んで来る。身体が圧迫されてさらに窮屈になった。彼女は大丈夫だろうかと顔を向けると人に紛れて見えなくなってしまった。

 残念に思っていると電車は発車した。そうしてそれは再来したのである。強烈な便意が。

 俺は即座に不味いと直感した。電車に乗る前に感じたものとは全く違っている。堪えていなければ今にも出てしまいそうだ。一刻も早く便所に行かなければ。この電車の先頭車両に便所がある。しかしすし詰め状態で全く動けない。かくなる上は次の駅まで我慢するしかない。けれど電車は出発したばかり。次の駅までまだ遠いのだ。

 脂汗が滲み出た。自然と内股になってしまう。腸に蓄えられた内容物は出口から脱出しようとじわじわと下ってくる。俺は括約筋を締めた。

 電車の不規則な揺れが俺の邪魔をする。堅く閉じた肛門がこじ開けられて行く。

 負けるものか。今ここで漏らすわけにはいかないのだ。迫ってくる糞を押し返す。

 耐えろ俺の肛門。祈りに似た気持ちで念じる。しかし敵は強大だ。少しずつ進むのを止められない。焦る。身体がもじもじと擦り動く。彼女から見えていなくて良かったと思う。見られていたら恥ずかしすぎて死にたくなる。

 周囲から見れば挙動不審に思われるだろう。まさか絶体絶命の危機にあると思うはずが無い。そもそも俺に関心を払っているとも思えない。誰が生意気そうな男に注目するのか。可愛らしい女の子なら別だろうが。身体が接するほど近いのに関係性が遠いのは奇妙だ。現代社会の縮図とかいう奴だろうか。などと哲学的な事を考えている場合ではないのだった。

 次の駅はまだなのか。俺は焦れったい気持ちを抱く。いつもよりも遠く感じる。思考はまたも明後日の方向へ飛ぶ。もしかしたら感情によって距離や時間は変化するのかもしれない。その事を証明できればアインシュタインの相対性理論も目じゃないはずだ。とは言え俺は相対性理論が何なのか良く理解していない。科学と化学の違いすらよく分からない。世界が戦争ばかりしている理由も知らない。地球温暖化のせいなのだろうか。みんな一生懸命温暖化を止めようとしているからきっと正しい。だがそんな事よりも重大な問題がある。今も肛門から出て来ようとしている憎いあいつをどうにかしてくれ。まじで。

 そうして待ちに待った駅に辿り着く。気の抜けた音がして扉が開く。だが間の悪い事に俺の反対側の扉。俺は声を上げながら強引に電車から出る。

 初めて降りた小さな駅。便所は何処だと見回した。生憎ながら表示は見つからない。ともかく案内に従い出口を目指す。きっとそこにあると信じて。足は自然と早足になる。俺の視界に彼女の顔が一瞬映る。心配している表情。やはり可愛い。でもそれ所じゃない。

 果たして改札手前に便所はあった。俺は桃源郷を見つけた心境だ。だが俺の肛門は決壊寸前。

 速く速く。足を急かす。けれど改札付近のせいで人だかりが出来ている。思うように進まない。焦燥感が募る。人体の廃棄物が門から少し頭を出した。

 群衆の間に空いた僅かな隙間を進む。男子便所だと確認。俺は中に入った。

 列が出来ている。だが小便器の行列だ。大便器は一つだけ空いている。神様ありがとう。産まれて初めて神に感謝した。

 俺は大便器が置かれた個室に入室。扉を閉めて鍵をかける。よし。間に合った。と思った瞬間。

 腸に溜まった空気が盛大に漏れる。腹に滞在している何かは消えていた。その代わりにねっとりとした感触が尻に伝わってくる。

 俺はゆるやかな動作でズボンとパンツを脱いで便座に腰掛けた。

 ため息を吐つ。見るのが怖い。とても認めたくないけれど嫌な予感がする。

 恐る恐る覗き込む。案の定の結果。

 うんこをお漏らししてしまったのである。

 世は無情なり。というかこのパンツどうしよう。まじで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

それは世界の終わりに似ている うなじゅう @unajuu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ