さよならを覆す最高の方法――Mar.

ただの数字にはならない

「嘘……ですよね?」


 渡された指令書の文面を読んで、カーラルの頭は真っ白になった。素っ気ない紙を使った投げやりな文書には、『リガー渓谷』の文字。そこはこの国エスタスの最北に位置する渓谷で、つまりこの国の国境沿い。

 現在、北に位置する国アルバランとの戦争状態にあるこの状況で、そんな指令が下されるその意味を、カーラルは正確に汲み取っていた。


「俺に、死んでこいってことですか……?」


 指令書をだらりと下ろし、執務机の向こう側で難しい顔をして座っている上司を呆然と見下ろす。髭を綺麗に整えた上司は、顔を歪めて重々しく頷いた。この人は良い上司だった。カーラルのことを慮ってくれている。そんな彼が今回に限ってこんな理不尽を押し付けてくるということは――彼の権限を越えた、より上層からの指示だということで。

 覆せない。そうと知りつつ、カーラルは上司に詰め寄った。


「わ、私は、妻が妊娠していて……私が出征してしまえば、身重の妻が、一人に」

「マッケインくん」


 動揺を隠せないカーラルの訴えを、上司は悲壮な顔でばっさりと切り捨てた。


「君だけではない。君だけではないのだよ」


 カーラルは虚脱した。その通りだ、カーラルだけではない。死地に向かうよう宣告されたのも、言い渡されたそれぞれに家族や事情があることも。

 だからって、どうして。カーラルの目頭が熱くなる。どうして、自分がその貧乏くじを押し付けられなければならないのか。

 脳裏に妻の顔が浮かぶ。自分にはもったいない美人の妻だった。見た目だけでなく心根まで美しく、カーラルは惚れ込んでいた。惚れて、口説いて、ようやく結ばれたのが去年のこと。順風満帆に新婚生活を送って、子どもを授かって。脳裏に描いていた家族三人の幸せな生活が、いよいよ現実味を帯びてきた頃だというのに。

 自分は、戦の最前線に送り込まれるのだ。毎日死者の報告が送られてくる、激戦の地へ。

 生きて帰れる可能性など、ないに等しい。そんな場所へ。


「……配置まで、一週間ある」


 上司は重々しく告げた。与えられた慈悲の期間は、決して十分とは言えなかった。ただ一つカーラルが思ったのは、妻の出産には立ち会えない、そのことだけだった。


「思い残すことのないようにな」


 ――無理に決まっている。

 懸命にも、カーラルは上司に口答えをしなかった。頭を下げることもせず、のろのろと上司の机の前から辞する。

 一部始終を見ていたのだろう、周囲の視線が刺さる。同情の声。それ以上に多いのが、嘲りの声。お前は軍属なのだから当然だろう、と安全圏にいる奴らが嗤っている。

 とても仕事に戻る気になれず、カーラルは自席に戻ることなく、無慈悲なまでに整然とした居室を出た。扉を閉める。雑音が遮断される。それだけで、ひとまず落ち着きを取り戻せた。


 人通りなく静かな廊下を横切り、窓際へと寄る。ガラス越しに、憎々しいまでに晴れ渡った青空と生き生きとした樹木が見える。戦時下であることが信じられないくらいの平穏がそこにあった。戦場となっているのはまだ国境付近のみ。だが、カーラルが行かねば、ここまで戦火が及ぶかもしれない。愛しい妻も巻き込まれる。

 そうとは知っていても、この平穏に背を向けるのは、勇気を要した。自らが迎えるだろう最期が、脳裏に浮かぶ。銃弾を浴びるのか、砲撃に粉々にされるのか、あるいは――。

 拳が震える。唇をへし曲げて、涙を堪えるのに必死だった。死にたくない。行きたくない。今すぐ家に帰り、妻の膝の上に縋りつきたい。慰めてもらって、「どうか行かないで」と言ってもらって、世間から耳を塞いで家の中に引き籠もって、どうにかこの世界に居座って……。


 できるはずがない。


 カーラルは窓ガラスに額をぶつけた。現実が重くのしかかる。逃げることも頭をよぎった。だが、身重の妻との逃避行は現実的ではない。軍をやめても、世間の風当たりが悪くなるだけで、妻を守ることはできない。

 カーラルが戦場に行くことが、最善なのだ。


「シャーリー……」


 妻の名を口にする。まず彼女にこの事実をどう伝えるべきかを考える。それに、一人になる彼女が頼れる伝手を探さなければならない。やることはいっぱいある。一週間、心残りがないように過ごさなければ。

 そうは思っても、カーラルの身体は動かなかった。冷たいガラスに額を押し当てて、敷地の芝をただ見下ろしていた。

 唐突にもたらされた別れに、心がまだ追いつかない。

 自分がこの世界から切り取られる事実。

 妻に何も残してやれない事実。

 生まれてくる子に、認識されなくなる事実。

 それらを受け入れることができない。


「……カーラル?」


 不意に名前を呼ばれる。顔を上げると、長い黒髪に浅黒い肌の眼鏡娘がこちらを凝視していた。腕に何冊かのファイルを抱え、眉を顰めている。


「イルザ……」


 名前を呼ぶ。十九と、庁舎にいるにはまだ若い年齢の娘。六つも年下ではあるが、彼女はカーラルの大学時代の同期だった。現在は、同僚だ。飛び級で大人の世界に入った彼女のお世話係ゆうじんでもある。


「そんなところでどうしたの? 何かあった?」


 イルザは重い荷物を抱えたままで、カーラルに近寄った。楕円の眼鏡の向こうから、黒い瞳がカーラルの眼を覗き込む。泣きそうだったのを見透かされるような気がして、恥ずかしくなって、カーラルは慌てて目を逸らした。


「別に……」


 なにもない、と答えようとして、無意味であることに気づいた。彼女は〝国事記録官〟――国であったことを記録する仕事に就いている。その記録には軍の記録も含まれているので、いずれ異動のことも知らされるに違いない。

 カーラルは観念して、辞令のことを口にした。


「異動? 何処に?」

「リガー渓谷」

「それは……!」


 イルザは目を見開いて、絶句する。軍務に関わらない彼女でも、激戦地の情報くらいは知っているようだ。


「そんなの嘘だ。認められるはずがない。だって、君には家族が……」


 後に続く言葉を、イルザは飲み込んだ。俯き、抱えるファイルを抱きしめる。自分の身を案じてくれる友人を見下ろしつつ、何処か遠くのものを見る心境の中でカーラルは首を傾げた。ところで何故、国事記録官が軍部こんなところにいるのだろう。

 ファイルが、イルザの腕の中から一冊零れ落ちた。表紙が開き、中身がさらされる。屈んで拾ってやろうとしたカーラルが目にしたのは、軍の戦況報告書。書かれている数字は、損害――死者の数。

 いずれ自分の数が足される、無味乾燥な数字。

 カーラルは屈み込んだ体勢のままでイルザを見上げた。彼女はつらそうな表情で、カーラルから視線を逸らしている。


「……そうか」


 ファイルを丁寧に戻しながら、カーラルは立ち上がった。


「お前、今、戦争の記録をしてるのか」


 うん、と小さく返事があった。


「良かったじゃないか。書きたかったんだろ、この国を揺るがす事件を」


 投げやりになったカーラルは、イルザがいつも口にしていた言葉を思い出す。


『ボクはねぇ、歴史が書きたいんだ。この国の有り様を大きく揺るがし、語り継がれる事件ものがたりの、その執筆者になりたい。だからボクは国事記録官になったんだ!』


 いつも平和的に終わる国事を『つまらない』と評していたイルザ。戦争の記録は、間違いなく後世に語り継がれるもので。それは彼女の夢が叶ったことになるのではないか。

 昏い気分でカーラルはそう思う。その夢の中で、カーラルはつまらない数字として書き足されるのだ。

 だが、イルザは傷ついた表情で、目をまんまるに見開いて、カーラルを睨みつけた。


「そんなわけない! 良い訳がない。ここに書かれているのは、死んだ人間の数なんだ! 喪われた命の数なんだよ!」


 泣きそうな顔で必死に訴えるイルザを見て、カーラルは一転、胸の奥が熱くなった。軍の上層部が報告書の数字をただの損害としてしかみなさない中で、彼女はそこに人の命を見てくれている。軍属として――これから死地に赴く人間として、嬉しいことだった。

 それに。


「大きくなったな」


 カーラルは、イルザの頭に手を載せた。事件を〝刺激的な物語〟とだけ捉えていた彼女が、そこに人の命を見るようになった。子どもだった彼女の成長の証に、カーラルは嬉しくなった。心残りが一つなくなった気分だった。頭の良さ故に子どものまま大人の世界に放り込まれた彼女の行く末は、友人として心配だったから。


 イルザは唇を尖らせて、カーラルの手を払った。それから、カーラルの手からファイルをひったくる。カーラルのいじわると子ども扱いに、イルザは完全に機嫌を損ねているようだった。

 そういうところは、まだ子どもだ。カーラルの口元が綻ぶ。

 だが、イルザは腹を立てて立ち去ったりはしなかった。ファイルの束を抱きしめたまま項垂れて、カーラルの前に棒立ちになる。


「……行かないでよ」


 ぽつりと落とされた声が染み渡る。

 カーラルは首を横に振る。不思議と、先程よりもずっと冷静に、自分が戦地へ行くことを受け止めることができていた。イルザと話して、心の整理をつけることができた気がした。

 ……まだ、一抹の寂しさはあるけれど。

 引き留めてくれる人がいるという事実が、カーラルの心の安定を齎した。


「達者で暮らせよ」


 すれ違いざま、イルザの頭をぽんぽんと叩く。顔を歪める彼女に、カーラルは笑った。まったく、昔はカーラルのことも物語の一つに加えようとしていたくせに。


 ――そうか。

 唐突に、閃くものがあった。

 自分が、世界に居残る方法。

 ひょっとすると、生まれてくる子どもにも、自分のことを知ってもらえる最高の方法。


 イルザの隣を抜けようとしたカーラルは、その足を止めた。


「なあ、イルザ。前に、俺の勇姿を書くって約束だったよな」

「それは……」


 苦々しげなのは、子どもだった己を恥じた故か。

 だがそれが、カーラルの希望を繋ぐ細い糸になる。


「頼むよ」


 イルザの顔を直視できず真正面を睨みつけたまま、カーラルは懇願した。


「お前が満足するような英雄になると誓うからさ」


 そうすれば、歴史に名を残せる。妻に恩恵を齎すことができ、いずれ子どもにも認知してもらえる。

 記録され語り継がれるほどの功績を上げるには、死の恐怖に打ち勝つ勇気を奮い立たせなければいけないけれど。

 だけど、何も残さずにいるより、ずっと良い。

 ただの数字になるより、ずっと。


「嫌だよ。私は書きたくないよ!」


 イルザが思い切り振り返るのを感じつつ、カーラルは居室へと向けて足を動かした。


「カーラル! さよならなんて、絶対に嫌だよ!」


 イルザの叫びを背後に置いて、カーラルは彼女を振り切るように居室へと戻った。慌ただしく閉じた扉に、同僚の注目を浴びる。誤魔化し笑いを浮かべて扉から離れ、カーラルは自席へと戻った。雑然とした机の前に座り、背もたれに寄りかかる。

 天井から降る明かりは、天啓を齎すような輝きのあるものではないけれど。

 カーラルの心には、一筋の光が差していた。


「……さよならじゃないさ」


 今ここにいないイルザへと宛てる。

 彼女が記録を続けてくれる限り、自分たちはまた会える。

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企画「同題異話SR」森陰作品集 森陰五十鈴 @morisuzu

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