2度目のケンジとわたしの秘密

やしろ慧

第1話


「おはよう、里美さん。僕があなた貴女の夫です」


 夫と同じ顔、同じ声、同じ眼鏡をした青年は数十年ぶりに目を覚ました「私」に向かって文字通りにっこりと微笑んだ。


「これからどうぞ、よろしく」


 どこかつるりとした血色の良い笑顔を浮かべた夫は私に手を差し伸べ、私は反射的に握り返す。ひんやりとした指だけは記憶の中と違って、別人のように冷たいのだと、奇妙な感慨を抱いた。




 ◆◆◆

「冷凍保存治療(コールドスリープ)の治験があるんだってさ」


 病室で林檎の皮を剥いていた「わたし」は、窓からぼんやりと雲を見上げていた夫が唐突に発した言葉に驚いて、つと顔を上げておうむ返しに口にする。


「治験?」


 治験。ちけん。病気を治すための、方法を試す、実験。

 効果があるかはわからないけれど、やってみる価値はある、かもしれない不確かなもの、だ。


「うん。身体を凍らせてぐっすり眠って、起きたら五十年後。そこからこの病気を治療して、人生をリスタートさせる、って実験」

「知ってる……。漫画みたいだよね」

「漫画みたい、か」


 夫の健一はすっかり細くなった腕を撫でて、嘆息した。


「今の僕の状況も、漫画みたいなものだけどね」

「どういう例え?」

「展開が早すぎて、現実味がない」

「そうだねぇ」

「やりたい事も、すぐには思い浮かばない。情けないもんだ。今じゃ外を歩き回るのも辛いし。重病人だな」

「ほんと、絵に描いたようような重病人だね」

「漫画の連載みたいに、いきなり打ち切られなきゃいいけど」


 明るく嘆く彼に、私は林檎を剥いて渡した。


「ああ、うさぎ、懐かしいなあ!しかも、相変わらず、むくのがへたくそだなあ!」

「仕方ないでしょ、不器用なのよわたし」


 夫がはしゃぐので、わたしもわざとらしく声を立てて笑い、お互いにシャリ、と噛んで沈黙する。


「美味しいね」

「うん。義兄さんにお礼言わなきゃね」

「私が言っておくよ」


 わたし達は沈黙のち、微笑みあった。

 曇り後、晴れみたいに。


 夫が発病したのが本当はいつだったのか、正確には分からない。

 夫は体の具合は悪いのが当たり前な人で、それに、昇進したばかりで絶望的に多忙だった。毎年ひっかかる二次検診をサボって、逃げて、夏になったある日とうとう激痛で倒れ医師に呼ばれた狭い診察室で、夫はあっさりと余命を告げられた。

 まだ三十代も半ばで、こんなにも簡単に残りの人生の長さを突きつけられてわたし達は戸惑った。終わりから逆算すると、出来ることは僅かで。

 旅行にでも行く?それとも田舎暮らしでもはじめるか?

 呆然と迷っている私達に構わず、健一の体力は砂時計が落ちるみたいに、あっという間に目減りしていく。

 林檎を再び齧って、夫は自分の掌を眺めた。生命線でも見ているの?と半年前のわたしなら冷やかしたかもしれないが、もはや揶揄う段階にはない。


「治験に応募したいんだ」

「そっか」

「でも、僕だけじゃなくて家族も一緒に冷凍されるのが条件なんだってさ」

「家族も?どうして?」

「目覚めた時に、孤独を感じないように。という配慮らしい」


 わたしは曖昧に頷いた。


「里美、どうする?」

「冷凍かあ。寒くないならいいけど」

「それは、寒いだろ、普通に」

「そうだよね。寒いのかあ。冷え性だしなあ。どうしよっかな……」


 そろそろ22世紀の足音が聞こえるという昨今でも、冷凍保存治療はどこか不確かな治療だった。

 三十年ほど前、有名国立大学は一年間冷凍されていたマウスの解凍に成功して、彼はその後半年生き延びたことを発表した。(計算するとその鼠は、鼠生を半年損した勘定にならないだろうか?)


 五十年間冷凍されて新しい治療法を待つんだ、と夫は大した熱もなく言った。

 それはいいねぇ、わたしも同じだけのぼんやりを込めて頷き、わたし達はふわふわと微笑みあった。

 雲をつかむみたいな不確かな希望は、語っている時が、一番楽しい。

 だから、「治験の条件に適合しました」とコーディネーターから連絡された時は、わたしも夫も大いに戸惑ったのだった。




「お二人が適合したのはですね」


 と眼鏡の医師は言った。

 よれた白衣をマントみたいにまとった、声の高い初老の男だった。


「身体的な検査を二人してクリアしていた事も大きいけど、その他の条件が理想的だったんですよね!お二人ともまだ三十代で、親しいご家族もおられない。子供は男性不妊で出来なかったんだっけ?今となってはよかったねぇ。小さな子供がいる家族は治験の対象から外れるからさあ!それと奥様のお兄様は遠くにお住まいで、とくに反対はなさらない?」

「青森です。兄とは年が離れていて疎遠なので、好きにしろと……」


 私の家族は遠く離れた所に住む無口な兄とその家族だけで、健一は天涯孤独の身の上だった。


「じゃーあ!よかったづくめだああ!じゃあ、満を持してっ!冷凍される方法とか危険性とかについて説明しますね!失敗すると、カプセルの中で死んじゃうからねぇ!棺桶いらず!ふふ!天涯孤独なんて理想的!君達が万が一亡くなっても、だーれも訴えなーい!」


 医師は、せかせかと身振り手振りを動かしてはしゃぎ、あまりな言葉の羅列に怒るよりも心配になった。大丈夫かな、この人。

 患者の胡乱な視線に気付いたのか、医師はヤダ!と顔を両掌で包んで悪気なく笑った。


「ごめんごめん、僕、性格は最悪って言われちゃうけど腕は確かだから安心してね。それから、さっきのはジョークだからねー、今の!全部!笑うとこだよ!訴えないでね!」

「はぁ……アハハ?」


 サンハイっと下手な指揮者みたいな動作で促され、わたし達はカタカナの笑い声を口にした。声を揃えた患者二人に、よし、と医師は満足する。


「さー!ちゃっちゃか説明しちゃおう」


 毎日このテンションで疲れないのかなこの人と思いつつ我々夫婦は神妙に頷いた。

 冷凍保存治療は五十年。眠っている期間に夫の持病の治療法が確立されていなくても、費用は返還されないし、解凍後の衣食住の保証もない。

 夫婦で冷凍保存されることが参加の条件。事故で生命維持が出来なくなっても、その責を医療会社は負わない。

 もし片方が目覚めても、もう片方を起こす事は出来ない。冷凍されている最中に無理やり装置を動かすのは危険だから。また、途中で目が覚めてしまった場合は二度と冷凍保存治療を受けることは出来ない。


 夫がペンと電子印を取り出してちらりとわたしを見たので、わたしはいいよ、と頷いた。署名しようとして、それから、夫はふと手を止める。


「最後のこの項目はなんですか?」


 トントン、と指で机を叩くのは考え事をするときの、健一の癖だ。彼の指先にある『特約』と記載された項目を、わたしも凝視した。

 医師は、「あーそれねぇ」と朗らかに笑う。


「もしもね、どちらかが先に目覚めちゃったり、死んじゃったりしたら、スペアを作ってあげますよ!って特約。新しい時代に一人で目覚めると仮定するじゃない?人間って弱いからさあ、寂しくて精神に異常を来す恐れがあるんだよね!ラットも二匹一緒に冷凍と解凍したペアのほうが長生きしたしね。……あっ、でもこれは有料オプションだから無視していいよ。百万以上かかるし」

「スペア……」

「クローンだね、いま流行の」


 妙に厳かな声で告げた医師に、健一は、ふ、と表情を緩めた。


「つけます、特約」

「そんな特約、必要?」

「いいじゃないか、里美。死ななきゃ使わないんだし。もしもどっちか一人が取り残されたら、寂しいじゃないか」

「寂しいかな?」

「少なくとも僕は、里美がいなきゃ生きられない。寂しいと死んでしまう」


 うさぎかよ、とわたしは呆れたけれど、まあいいか、と折れた。

 健一のセリフを繰り返す。


「死ななきゃいいんだし」


 お守りみたいなものだ。何より、健一が久々に楽しそうだから、それでいい。

 上機嫌で医師は契約書をスキャンし、治験を開始する日は、早々に決まった。



 治験の前日、わたし達は五十年後に目覚めたらする事リストを書いた。

 小学校の卒業式のタイムカプセルみたいだねといいながら、真剣にペンを走らせる。書き終えてると、健一はよし、とこの上なく満足げに封をした。


「いざ、死を前にして」

「うん」

「意外と後悔ってないんだなあって……。それがショックでしたね、僕は」

「なんで解説口調なんですか、健一さん」

「余命を宣告されたから、死ぬ心がまえの専門家になったんだよ」


 夫は嘯く。


「だけど、考えを改めて、この手紙には里美と一緒にやりたい事を書いた」

「何を書いたの?見せてよ」

「嫌だよ。五十年後に見てくれよ」


 わたしはいいよと笑って、最後の晩餐がわりにと笑って林檎を剥いた。

 指先をちょっと切ってしまったので健一が慌てる。ナイフで切ったわたしの親指の傷は案外、深かった。


「どうしてそんなに不器用なんだよ。五十年後、里美は指の痛みで目が覚める、断言してやる」

「いやだよ、そんなの」


 私は自分の指と健一の指を見比べて、爪が伸びたことに気付き、彼の爪を切ってあげることにした。

 途中、少し深爪になって痛いと健一が悲鳴をあげ、わたしは、慌てて消毒をした。

 里美は不器用だなあと健一は笑みを深くした。


「健一も、五十年後指の痛みで目が覚めるよ、断言してあげる」

「おそろいだな」

「うん、おそろいだね」


 寝るぞ、と告げた健一に病院のベッドに引きずり込まれる。

 検査も準備も全て終わって、今日はただ、眠るだけ。わたし達はまるで、遭難船に取り残された老夫婦のように並んで、手を繋いで天井の板を見つめた。

 あの映画の老夫婦のシーンはよかった。

 沈みゆく船に敢えて残ると決めた白髪の夫婦が、お互いの隙間を埋めるように互いを抱きしめながら、迫り来る海水を待ち構えている。


 凄惨なシーンなのに、不思議と彼らは静かで幸福そうだった。


 あんなふうに、健一と一緒に年をとりたい。

 離れたく、ないなあ。

 涙が出そうになるのを堪えていると健一がわたしに聞いた。


「名前、なんにしようか」

「なんの?」

「もしもの時の、クローンの名前。僕が治験に失敗して、死ぬとするじゃん?」


 不吉なことをわざと口にするのは、不安と恐怖の裏返しだ。


「目が覚めて、僕はいない。だけど、僕のクローンが待っている。君のそばで、君が目を覚ますのを今か今かと待ち構えてる」

「健気だね?」

「僕のクローンだからね、健気だよ、きっと。奴の名前を里美は呼ぶ」

「ケンイチーって?」

「それは嫌だな。里美が呼ぶ健一は僕だけでありたい」

「嫉妬ですか」

「嫉妬ですよ。ヤキモチやきなんだよ」

「それは知ってる。わたしもそうだよ」

「それも、知ってる」


 わたしが笑うと、健一の指先も笑いの余波で揺れる。


「ケンジにしよう。二人目のケンイチだから、健二」

「ありきたり過ぎない?それ」

「ケンジは僕と同じで、また里美に一目惚れする。それで、今度は僕がやりたかった事をやる、行きたかった場所へ行って、二度目の人生を生きる……」


 健一は身体をくっつけてきて、そっとキスを落としてくれた。


「でも、ケンジって名前はださいんじゃないかな。ご再考をどうぞ?」

「いいじゃないか。どうせ、絶対に呼ばない名前だよ」

「そうだね」

「里美は何にする?クローンの名前」


 わたしは少しだけ、考えて、首を振る。


「里美でいいや。あなたの傍にいるのは里美で、それでいいじゃない」

「……うん」


 健一は軽くキスをした。

 わたしにのしかかる健一はまだ、随分と重みがある。

 そんなささやかな事に安堵しながらわたしは彼を引き寄せて、眠りにつく。




 治験の次の朝は。

 昨日寝て起きた、あたりまえの次の日の朝です、みたいな顔をしてわたしには訪れた。だけど。

 無慈悲にも、夫にはそうでなかった。







 ◆◆◆

 僅か数日の観察入院を終えた「私」に、退院前にこれからの事を説明をしましょう、と現れたのは白いマントを羽織った声の高い医師だった。

 私は不吉な感覚に身震いした。

 この医師は生きていたのか。五十年はたったはずなのに!

 蒼白な私を見て「ケンジ」は落ち着いてね、と冷静に彼を紹介してくれた。


「里美、大丈夫だよ。これはあのお医者さんじゃないから」

「ご夫妻には祖父がお世話になったとか?」


 ケンジの言葉を引き継ぐように、紳士的な口調で医師は言い、私は目をこすった。これがあのテンションの高い藪医師の孫!私はできる限りの敵意を向けて唸ったが、ケンジがどうどう、と私をいなした。健一がよくそうしたみたいに。


 冷凍治療を受ける患者のスペアは、基本的に相方が目覚めるまで、同じだけの長い時間眠らせられる決まりだが、ケンジは私より十日ほど早く『目覚めた』のだという。

 だからケンジは私よりも少しばかり、現状を把握していた。


 医師はため息をひとつ落としてから、私達に淡々と説明する。


 オリジナルの健一は私より先に目覚めて、それから間もなくして病状が悪化し、死んだのだと。

 私は契約の文言を思い出した。



 ・もし片方が目覚めても、もう片方を起こす事は出来ない。

 冷凍されている途中で、無理やり装置を動かすのは危険だから。

 ・冷凍保存が中断した場合、再び冷凍保存治療を受けることは出来ない。

 冷凍から細胞が立ち直れるのは一度きりだから



「お悲しみの事だとは思います。しかし、ご夫妻は何があっても受け止めると署名をされています。この署名がある限り、私共は賠償金をお支払いする事が、出来ません」


 私は怒りを込めて机を叩いた。


「お金の事を言っているのでは、ありません!」

「では、なんですか?」

「夫を亡くしたんですよ。貴方のせいで!もう少し配慮がないんですか!何か、言うことがあるんじゃないですか!?」


 医師は看護婦と顔を見合わせて困惑した。

 話が通じないと言うように二人で視線をかわす。


「申し訳ありませんが奥さん、どうか冷静になってください。それから、色々、思い出してくださいませんか?確かに、最初のオリジナルの体はお亡くなりになりましたが、今、再び健康な体を手にしたじゃないですか。身長も顔も、知能も同じだし、記憶もオリジナルの脳から抽出して、転送済みです。なんの齟齬もないと思いますよ?よく考えてみてください。ね?」


 子供を諭すような口調に私は怒りの拳を再び机に振り下ろそうとして、はた、と気づいた。

 不思議そうな、それから面倒そうな表情で彼らは私を見つめている。

 医師も看護婦も、決してその場しのぎの言い逃れをしようとしているのではない事を理解してしまって、愕然とした。

 二人はオリジナルとスペアが同じ人間なのだと、疑いもしていない。

 だから、私の憤りが、真実理解できないのだ。

 健一とケンジは遺伝子上は全く同じだ。当たり前だ。クローンだもの。だから、私の「ケンジは健一じゃない」という嘆きはこの時代を生きる医者と看護師には理解されない古い価値観だ。


「あなたがたご夫婦は、五十年の眠りから覚めたちょうど10組目の人類です。どうかこれからもお幸せに。次回の診察は里美さんおひとりで来てくださいね。あらためて、色々とお話ししないといけないこともありますし……」


 あまりに義務的に言われて私は振り上げた拳をどう処理したらいいか混乱した。

 その手を、ケンジがよいしょっと言いながら、掴む。私はずるずると引きずられながら診察室を後にした。


「とりあえず、帰ろうか。里美」

「気安く呼ばないで」

「はいはい、里美さん」

「さん付すればいいってものでもない」


 ですよね、と笑ってケンジはポケットから小さな円形のボタンを出した。


「何それ?」

「僕の車の鍵。近未来感あるっしょ。ようこそ、二十二世紀へ!」


 お茶目に笑う夫に脱力し、私はハンドルのない自家用車に乗り込んでシートに身を沈める。音もなく車体は進み、私達の家に辿り着く。

 ケンジは勝手知ったる調子でキッチンを使いながら透明な珈琲をグラスにいれてくれた。


「倫理観が僕たちの時代とは違うんだ。里美と健一さんが眠りについた頃から、段々と僕みたいなクローンは珍しくなくなってさ」


 若くして不慮の事故や、望まない病気でオリジナルが亡くなると、スペアが作られる。子供の頃から胚を確保して、何かあったら培養して本体と、とりかえる。

 オリジナルの記憶を受け継ぐから、それは「本人」として扱われ、同じ権利を有する。

 ケンジは、苦く笑った。


「僕が目が覚めた時、さ。病気なはずだったのに妙に体が軽くて気分がいい、とか思っていたら、貴方はクローンです、とか言われてさ。いきなりお前は『健一』じゃなくてケンジだぞって医師に宣言されて、なんの冗談かと……混乱した。でも確かに全く病気の痕跡はないし。健康だし。本当に変な気分なんだ。健一の記憶は全部あるのにな」

「貴方に、……貴方がクローンだって告げたのは医師だけ?」

「うん?健一さんからの手紙が残されていたんだ」


 ケンジが笑うと、壁に映像が映し出された。

 私の記憶にある、少し痩せた健一が壁を背景に動いていて、笑っている。

 動作はどこか緩慢で、不健康だ。目の前で健康的に笑っているケンジとは明らかに違っていた。


「健一からの、手紙?」


 私が呟くと、表紙に『説明書』と印字された紙の束をケンジは机の抽斗から引っ張り出した。

 十枚ほどのそれには、ケンジに対する「健一」からのメッセージが記載されている。


 生い立ち、幼少期や、家族の思い出、パソコンのパスワード、クラウドデータの場所、資産の事。

 ――それから、夫妻の思い出。


 まるでトリセツだとでも言うかのように、順序だてて、詳細に記してある。

 そして、最後の一ページには、冷凍保存治療の顛末が記載されていた。


 自分は冷凍保存治療の薬の効きが悪くて、わずか数日で目が覚めてしまったこと。同じ治療は再び受けられないから、五十年後にはおそらく生きていないだろう。だから、もう会えない。これで、お別れであること。

 悲しいけれど、不思議と穏やかな気持ちであること……。

 どうか、目覚めた先で人生を憂うのではなく、人生を謳歌してほしい、と応援

が綴られている。


「にわかには自分が健一じゃないって信じがたかったんだけどさ、これを読んだら納得せざるをえなくて。健一の記憶は全部あるけど、この手紙を書いた覚えはない。だから本当に、健一はいなくなって……僕はケンジなんだなって……」


 ケンジの指が、手紙の最後の部分をなぞる。

 それは、手紙の主が、伴侶へと向けて書いた恋文に他ならなかった。




 最愛の、あなたへ。

 あなたの傍にはきっと「私」がいるでしょう。だから寂しく思わないで。

 わたしは幸せでした。だからどうか、二度目の人生を、どうか幸せに生きてください。


 あなたの、伴侶より。




 私は震える指で、その文言をなぞった。

 ケンジは手紙を書いた覚えがないと言った。

 けれど、私にはこの手紙を書く人物の後姿が容易に脳裏に浮かぶ。


 手書きではなく印字された手紙だったけれど、何度も何度も推敲した痕跡が感じられて、たまらなく愛おしいものに思える。

 私は何度も何度も読み返して、いつの間にか泣いていた、あふれる記憶と悲しみが、どっと胸に去来する。ケンジは……心配そうにこちらを見ていた。


「ごめんな、里美」

「なにを、謝るの?」


 私は静かにしゃくりあげた。


「うん、僕が健一じゃなくて」

「違うよ、そんなこと、ないよ」


 私は首をふった。ケンジはうん、と一言言って、首の後ろをかいた。きまり悪い時の、彼の癖だった。

 私は、健一の癖も……すなわち、ケンジの癖も全部知っている。

 その事に気づいて、なんだかとてもおかしかった。


「私に泣き止んでほしいなら」


 と私は鼻水をすすりながら言った。


「珈琲の後片付けをしてちょうだい。洗い物、苦手なの」

「君が不器用なことは、よーく、知っているよ」

「そうでしょうとも」


 ケンジは洗い物をしてくれ、お湯に指を浸して痛ッと小さく悲鳴をあげた。

 私は、あらかじめ答えを正確に予測しつつも、優しく問いかけた。


「どうかした?」

「いや、なんだろうな。爪がいたくて。どこかにぶつけたかな……」


 私は彼の傍によって、小さく微笑んだ。


「きっと、深爪しちゃってるんだよ」

「なんだそれ?あ、ほんとだ!」


 馬鹿なあなた。忘れっぽい貴方。「わたし」が眠りにつく前に、爪を切り揃えてあげたでしょう?

 ちょっぴり深爪しちゃったけれど。

 私は、微笑む。それからそっと、自分の親指を見た。

 記憶の中では、ナイフで切ったはずだが



 ――傷は跡形もなかった。







 ◆◆◆

 検診は一か月後だった。

 一人で来るようにと言われたので、私はそれに従った。

 紳士的な医師は私の身体と脳波もくまなく検査してから穏やかに聞いた。


「新しい暮らしはどうですか」

「問題ないです」

「目覚めた当初は記憶の混乱が見られたけれど……、今は『貴女は自分が誰だかわかる?』」


 そろそろと尋ねる医師に、私は頷いた。

 つるりとした親指の先を見る。そこには傷一つ、なかった。


「わかります。私は……私が、クローンですね。夫ではなくて」




「嘘をついたのは、貴女のオリジナルの、里美さんの希望だったんですよ」


 医師は言った。


 健一と里美が治験を開始したわずか数日に里美は目が覚めた。医療事故だ。

 けれど規約に従って、里美は二度と同じ治療を受けることはできなかった。だから彼女(わたし)は『特約』に従い新しい私(クローン)を作った。

 目覚めた健一(ケンジ)が寂しくないように。混乱しないように。

 

 医療の技術発展は目覚ましいもので、健一の病は彼が眠りから覚める前から薬剤と放射線で治療できた。健一は本当は一年も前に解凍されて、眠ったまま治療を施されていたのだ。


「里美さんからの手紙を、貴女さんにお預かりしています」


 はい、と私は手紙を受け取った。

 封を切らなくても私には内容が分かった。だって、オリジナルの自分が書いたのだ。その記憶も私に全部上書きされている。


 ……ごめんね、と。手紙には書かれていた。





 私へ。

 ごめんね。変な嘘をつかせて。

 健一は、わたしの治験が失敗したことを知ると、きっと自分を責めると思います。

 だから、しばらくこの事は……私がクローンになってしまった事は、生活が落ち着くまでは、秘密にしてほしい。

 医療センター側には、この主張を認めさせています。(だって、医療ミスだもんね?これ位は協力してもらわなくちゃという事に契約で決まりました)。

 健一は……、ケンジは自発的に気づくでしょうか?

 私が、「わたし」でないことに?彼がケンジでないことに?

 気づいてほしい気もするけれど、気づかない気がするなあ、馬鹿だから。

 それなら一生、秘密のままでいいとも思います。判断は貴女に任せます。

 こうなると、貴女に名前をつけなくて良かったと思う。


 あの人の傍にいるのは里美。これからも、ずっと。


 目が覚めたあの人と、二度とは一緒にいられない

 オリジナルのわたしの、

 クローンの私への、最初で最後のワガママです。


 ごめんね、とわたしはその手紙を締めくくっていた。





「ご主人には本当のことを話しますか?」


 気づかわし気な医師の問に私は首を振る。

 黙っていたら、ケンジは気付くだろうか?いいや、どうだろう。

 馬鹿だからなと私は笑った。


「しばらく、秘密にしておきます。私達の生活が落ち着くまで。それが、オリジナルの願いでしたから」


 そうですか、と医師は微笑み、今度は三か月後に、と私を送り出した。






 お疲れ、と病院のロビーで私を待っていたケンジは私に手をあげた。

 私も笑顔で手を振る。


「診察、どうだった?」

「何事もなく、つつがなく」

「よかった」


 彼は笑顔で私と彼の旅行鞄二つを両手に抱えた。

 健一のやりたかった事リストに書かれていた事、その一。


「日本をゆっくり旅してみたい」


 を実現するためだ。

 私達はしばらくはやりたい事リストに従って過ごすことにした。まずは北海道へ飛んで、そこから沖縄までゆっくりと南下する予定だ。


「車の燃料は五十年後も高いまんまだな!夢がない!」


 車に乗り込みながらケンジは嘆き、私は本当だよ!と同意する。

 ケンジは自動運転の車をわざわざ自分で運転できるようにカスタマイズした。時間はあるし、ゆっくり行こうとケンジは言い、音楽を車内に流し始めた。

 百年近く前の日本の歌が私達の気分を後押しする。


 アクセルを踏んで車体はゆっくりと動き出す。


「青森にはリンゴを買いに寄っていい?。兄さんのお孫さんが、リンゴ園やってるらしくれ」

「孫か!すごいな」

「私達なんて呼ばれるんだろうねえ。おばあちゃん?」

「そりゃいいや!……リンゴ、うさぎの形に剥いてくれよ、へたくそでいいからさ」


 いいよ、と私は笑った。


「今度は器用に皮むきできるようになるかもしれないし」


 うん?と聞き返したケンジに何でもないよと首を振る。

 私は小さな声で、「二度目だからね」と付け加えた。


 出来なかったことが、出来るようになるかもしれない。

 ケンジも、私も。

 今は未来への期待を抱えて、二度目の旅に出よう。私達はあの夜そうしたように手をつなぎ、同じように前を向いた。

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