~夏休みと過去と友達と~ 3

 もう日はほとんど沈んでしまって、辺りはどんどん暗くなっていく。山に向かう私の視界に、ちらりと白い影が現れた。


「シンシムシ……」


 ひらひらと、空気の中の泳ぐようにして、不思議な生き物が飛んでいる。魚のような、虫のような、鳥のような、変な生き物。目の前を通り過ぎていったそいつを追いかける。


 山のふもとにたどり着く。思ったとおり、そこに老人ホームはなかった。草木の生い茂る、記憶の中のままの山だ。シンシムシはそこですうっといなくなった。


 懐かしい斜面をざくざくと登っていく。子どもの頃は雑草につかまりながらなんとか登っていたけれど、今となってはたいしたことのない坂道に思える。

 すぐに石段が見えてきた。といっても古くなって崩れているので、たった数段しか残っていない。そしてその先には鳥居があった。石でできた表面は、ところどころ苔むしている。


 私は立ち止まった。あんずちゃんは、この先にいる。そのことはわかったけれど、少しためらってしまった。だって、この鳥居の向こう側に行ったら、戻れる保証はないから。


 誰かが私を呼んでいる。手招きしている。そのことが、うれしくもあり、恐ろしくもある。うれしいのと怖いのとが入り混じった、不思議な気分だった。


 どっちにしろ、ここまできて後戻りはできないし、するつもりもない。私は意を決して、一歩を踏み出した。


 ――途端、景色が変わった、ような気がした。

 がらりと変わったわけではない。けれど、何かが確実に変わった。空気が変わったというべきか。何がどう変わったのかわからないのが、余計に恐ろしい。


 ゆるやかな上り坂を、速足で進む。足元ははっきり見えるけど、十歩先はもう暗闇だ。左右には木が立ち並んでいる。いくつか橙色の実がなっているのが見えた。みかんの実だった。季節外れだなあ、なんて場違いなことを思う。


 周りには何の気配もない。何も感じられない。耳には自分の足音しか聞こえなかった。いつもうるさい虫やカエルの声も、どこかへ行ってしまった。


 この道はこんなに長かっただろうか。何にも追われていないのに、何かが迫ってくるような気がして振り返れない。かといって前に進むのも不安に思える。八方ふさがりとはこのことだ。


 だから、歩いていった先に見えたあんずちゃんの姿が、光のように思えた。


「あんずちゃん!」


 思わず大きな声で呼ぶ。

 道の行き止まり、みかんの木に囲まれた場所に、あんずちゃんは立っていた。


「あかりおねえさん」


 あんずちゃんは少しびっくりしたような顔をした。


「どうしたの? 今ね、かえでちゃんとかくれんぼしてるんだよ」

「かくれんぼって……」


 近所ではちょっとした騒ぎになっているというのに、あんずちゃんはそんなのんきなことを言った。もうこんなに暗いのに、全然気にしていないようだ。


 でも、いつもと変わらないあんずちゃんの姿を見て、私は心底ほっとした。もしかすると、もうあんずちゃんとは会えないかもしれないと思っていたのだ。


 そのときだった。


「――あんずちゃん、みーつけた」


 声が響いた。

 私の歩いてきた方から、かえでちゃんがやってくる。


「わたしの勝ちだよ、あんずちゃん」

「やっぱりかえでちゃんはすごいね」


 あんずちゃんはにっこりと笑った。その危機感のなさに、私は焦る。


「あんずちゃん、もうお家に帰ろう。みんな心配して捜してるんだよ」


 そう言ったけど、口を開いたのはかえでちゃんだった。


「あかりちゃん、そんなこと言わないでよ」


 その表情は、笑っているのに、笑っていないように見えた。


「あかりちゃんも、あんずちゃんも、ずっとここにいればいいよ。それがいい。ここならずっと遊べるもの」

「あなたは私の――」


「幻なんて言わないで。わたしはあかりちゃんの妄想なんかじゃない。ずっと昔からここに一人で住んでいた、橘かえでだよ」


 かえでちゃんは怒っているようだった。笑顔なのに、怒っている。


「ここはわたしのお家。わたしの領域。わたしの空間。――ねえ、一緒に遊ぼうよ。学校にも幼稚園にももう行かなくていい。大人にだってならなくていい。今ここは暗いけど、あなたたちが望むなら明るくしてあげる。今は夏だけど、桜だって紅葉だって見せてあげられるよ。コンビニはないけど、欲しいものは何だって出してあげる」


 その剣幕に、私は怖くなってあんずちゃんの手をとった。


「帰ろう、あんずちゃん」


 あんずちゃんが答える前に、その手を引いて走り出す。辺りはもうほとんど暗闇だけど、来た方へ引き返せば道はあるはずだ。


 あんずちゃんは嫌がらず、手を引かれるままについてきてくれている。


 かえでちゃんは追いかけてはこなかった。背後からは足音は聞こえてこない。どんな顔をしているのか、振り返ることも恐ろしくて、私はただ走った。

 けれど、走ればなんとかなるものでもないことも直感でわかっていた。ここにたどり着いたのはついさっきのことなのに、どうやってここまで来たのかわからない。道はどこまでも同じように続いていて、いっこうにあの鳥居にたどり着けない。


 やがて走るのにも疲れて、息を切らしながら、私たちは立ち止まった。

 呼吸を整えたあんずちゃんが、ぽつりとつぶやく。


「あかりおねえさん」

「何?」

「ここはかえでちゃんのお家なんだね。かえでちゃんのお家は――なくなっちゃったんだね」


 私はうなずいた。かえでちゃんは人間じゃない。私の頭の中だけの存在でもない。土地開発で平らにされた、この小さな神社の――神様のようなもの、なのだろう。私の小さい頃、かえでちゃんは急にいなくなった。きっとあの日は、この神社が潰された日だったのだ。


 ここは、本当は存在してはならない場所。


 背筋を冷たいものがなぞった気がした。思わず、あんずちゃんに訊ねる。


「あんずちゃんは、怖くないの?」


 五歳児に何を訊いているんだ、と自分に呆れるけど、あんずちゃんがあまりに平然としているんだから仕方がない。


「なんで? あかりおねえさんは、何がこわいの?」

「それは……」


 私は言葉に詰まった。いろんなものが怖い。ここは全部が不気味だ。そう感じるのは、あんずちゃんが子どもで、私がもう子どもじゃないからだろう。


 でもきっと、かえでちゃんは大人をここには呼ばないだろうとも思った。あの子は大人の目には見えない。こんなに背は伸びてしまったけど、十三歳になってしまったけど、かえでちゃんにとって、私はまだ子どもなんだろう。


 ああそうか、と気がつく。私は、あの子のことが怖いわけじゃない。ここから帰れなくなることが怖いんだ。そしてここから帰るためには、かえでちゃんと話をするしかない。


 立ち止まって、深呼吸をする。まだ手をつないでくれているあんずちゃんに、ほほ笑んでみせる。


「そうだね。ほんとは、何も怖くないのかもしれない。――あんずちゃんは、かえでちゃんが何をしたいのかわかる?」


 わかるよ、とあんずちゃんは頼もしくうなずいた。


「かえでちゃんは、あかりおねえさんともう一度友達になりたいんだよ」


 きっとそのとおりなんだろう。やっぱり、五歳児のことは五歳児に聞くのが一番だ。かえでちゃんはずっと五歳のままで、私だけが大きくなったから、わかっていたこともわからなくなってしまったのだ。


 多分かえでちゃんにとって、私たちをかくすことなんて簡単なことなのだと思う。神様なんだから。でも、口にすることは決してない。かえでちゃんは一言だって、脅しの言葉を口にしていない。ただ、自分の願いを伝えているだけで。


 かえでちゃん、と呼びかける。


「ねえ、かえでちゃん。昔、公園で急に雨が降ってきたときのこと覚えてる?」


 みかんの木がざわざわと揺れて、声が聞こえた。


「覚えてるよ。わざと雨の中を走り回ったときのことでしょ?」


 そうだった。突然の大雨に、私たちは公園にあったトンネル型の遊具の中に避難した。でも、思ったより長く降り続く雨にうんざりして、外に飛び出したのだ。足元までずぶ濡れになってしまうと、もう楽しくなって、二人で大笑いした記憶がある。


「じゃあ、私が溝に落ちてけがをしたときのことは?」


 くすくす笑う声が聞こえてくる。


「あのときは大変だったよ。あかりちゃん、ずっと泣いてるんだもん」


 そう、道端で溝に落ちた私は、太ももから膝にかけて派手な擦り傷を作ってしまった。家からそう遠くないところだったけど、かえでちゃんは一歩ごとに座り込んで泣く私を懸命に引っ張っていってくれたのだ。


「さなぎから蝶が出てくるのを見たときのことも?」

「うん。出てきたちょうちょがうまく飛べるまで、すごく長かったよね。あかりちゃん、全然飽きないで見てるからびっくりしたよ」


 かえでちゃんが話すたびに、忘れていた記憶が頭に浮かんでくる。そう、私とかえでちゃんはとても仲良しだった。


 でも、今の私は雨が降れば傘を差すし、擦り傷程度じゃ泣かないし、蝶のさなぎを見かけても気にしない。今の私は、昔の私にはなれない。私はそれを、成長だと思っているからだ。


「かえでちゃん。逃げてごめん」


 飛び出してきた小さな女の子を、私は全身で受けとめた。ぎゅう、と抱きしめる。


 懐かしい匂いがした。そう、私はもう大人になりかけている。でもそれは、友達になることとは関係がない。


「ずっと友達だからね、かえでちゃん」


 たとえ人間じゃなくても。たとえもう会えないのだとしても。あの思い出がある限り、友達でなくなることはない。栓を閉めたビンの中身が、どこにも出ていかないのと同じように。


 かえでちゃんは小さな頭をこくんと振った。顔を見なくても、泣いているのがわかった。


 ――そして次の瞬間、私の腕の中から、かえでちゃんは消えた。するりと腕が宙をかく。まだ、温かい感触が残っている。


 かえでちゃんは満足したのだろう。もう忘れない。橘かえでは、私の心の中にずっと座り続けるから。


「よかったね、あかりおねえさん」


 あんずちゃんが言う。この子には申し訳ないことをした。結局かえでちゃんは私に用があるからあんずちゃんを連れてきたのだ。巻き込んでしまった。でも多分本人は気にしていないだろうから、何も言わないことにする。


「これであとは、お家に帰るだけだね……って、かえでちゃんいなくなっちゃったけど、どうやって帰るの?」

「あんず、わかるよ。行こう、あかりおねえさん」


 私はこの子に助けられてばかりだ、と思いながら、あんずちゃんと手をつなぐ。




 みかんの木の間を、二人で歩いていく。途中であんずちゃんのお腹が鳴った。そういえば、あんずちゃんはしばらくご飯を食べていない。


「おねえさん、このみかん食べていいかな……」

「飴持ってるけど、いる?」

「いる!」


 私はポケットから飴を取り出した。ぶどう味が二個。一つをあんずちゃんに渡して、もう一つを自分の口に入れる。

 甘ったるい味がする。実は飴はあまり好きじゃないけど、今はその甘さになんだか安心した。


 飴を舐めているせいで、二人とも無言になる。長い長い一本道を歩き続けていると、やがて周りが騒がしくなってきた。風の吹く音。葉のこすれる音。虫の鳴き声。道を囲む木はいつのまにかみかんじゃなくて、名前も知らないただの木に変わっていた。


 明かりが見えた。私たちは坂道を下っていく。電柱にくっついた蛍光灯が真っ白に光っている。


 電柱のそばまで来ると、そこはもう住宅街だった。いつもの風景だ。後ろを振り返ると、私たちが歩いてきたところにもう道はなく、老人ホームの門があるだけだった。


 戻ってきたんだ、と思う。ほっとすると同時に、少しさびしい気分になった。


 きっと私はもう、かえでちゃんには会えないんだろう。そんな気がした。私はあの頃には戻れないし、あの神社はもうない。橘かえでちゃんは、記憶の中だけの存在だ。今までと同じように。


 隣であんずちゃんが目をこすった。眠そうだ。よく考えたら、相当疲れているに違いない。


「お家に帰ろう、あんずちゃん」

「うん」

「そしたらまた明日、遊ぼうね」

「うん」


 約束をする。あんずちゃんは疲れた顔でにっこり笑う。


 涼しい風が吹いてくる。私とあんずちゃんはゆっくりと、夏の夜の中を歩いていった。

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星川さん家のあんずちゃん 春森灯色 @harumori9931

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