怪獣大図鑑p32・目玉怪獣グリオン

ギヨラリョーコ

第1話

「シマダソウイチロウさんが亡くなられた。香坂、彼のために泣いてくれるか」

 

 ノックに応えるように半開きになったドアから覗く曳地博士の目元はぼんやりと赤くなっていた。香坂はその姿にいやに動揺する自分に気づいて、自分よりも背の高い男が泣いているのを見るのは初めてなのだと思い当たった。

 今年28の自分と同年代の大の男の涙の気配に何とも言えないまま、言われた言葉を整理する。


「シマダさん、とはどなたでしょうか」


 香坂が恐る恐る尋ねると曳地博士は手招きのように曖昧に指先を動かすと何も言わずに部屋へと引っ込んでいった。香坂は買い物袋を両手いっぱいにぶら下げてその後へと続く。

 曳地博士の、整えるのも面倒だからとかなり短くしている髪が、それでも少し跳ねているのを香坂は認めた。床屋の真似事をする時期が近くなっているとこの間来た時に思ったものだったが、今日はどうやらそんな余裕はないようだった。

 まともな生活の儘ならない彼の面倒を見てもう長いが、香坂は一度も件のシマダ氏の話を聞いたことがなかった。しかし彼が悼めというのだから、ひとかどのものなのであろうとは察しが付く。曳地博士は情の薄い人ではないが、それを表に出せない類の人間であると香坂は気づいていた。



 曳地博士に与えられた居住スペースにはいくつか部屋があるが、入ってすぐの部屋はおよそ人間の居住環境とは思えない場所である。散らかっているのではなく、あまりに整っているのだ。

 壁沿いにずらりと並べられた天井に迫るほどの本棚にびっしりと、しかしけして無理矢理にではなく計算されつくしたやり方で隙間なく本が詰められている。内容は雑多でミステリ小説から料理本まで特に法則性もなく並べられている。ひとつ共通性があるとすればそれらの本はすべて、彼の研究分野についてぼんやりとしか知らない香坂の眼にも明らかなほどに、曳地博士の職務に何ら関係がないということだろうか。日本文学なら国語便覧に載るような有名どころは大体おさえてあるし、ロシア文学にもまあまあの興味があるらしい。小説以外の本はほとんど見当たらない。ここは純然たる趣味の書斎なのだ。

 すっぽりと一部分だけ本のない場所を目に留め、香坂は首をかしげる。ちょうど2、3日前に本を借りたときはここにもぎっしりと詰まっていたはずなのだが。


「ここの本、どうされたんですか」

「オガワマリエ嬢たちはイヅミに貸してやろうと思ったんだが中止だ、あとで片づける」


 この、曳地博士の前提も説明もなにもない喋り方には時々辟易とさせられる。ワンフレーズに知らない名前が2つによくわからない経過と決断がひとつずつ。よくもまあここまで理解を拒んだ喋り方ができるものだと思うが、彼は悪意を持ってやっているのではなく、このやり方で理解が成り立つと思ってやっているのだから余計に度し難い。

 閉架書庫さながらの書斎に対して隣のキッチンは生活感に溢れているが、ものを増やしているのは曳地博士ではなく香坂だ。曳地博士は料理をしない。できないかどうかは知らないが、どうせやりもしないのだからどうでもいい話ではある。


 メニューを考えるのが面倒くささに今日の夕飯は今週二度目のカレーにしよう、明日の昼はカレーうどんだと買い込んできたふたり二食分の根菜の袋をキッチンに放って曳地博士の研究用の部屋へと向かう。

 彼がここにやってきて香坂が上から世話役を任じられてから5か月間、香坂は半分ここで暮らしているようなものだった。ここで食事を作り、ついでに食べ、曳地博士から雑用を仰せつかればそれをこなすのに追われて香坂自身のアパルトマンはもはやシャワーを浴びて着替えて寝るだけの空間と化している。その中で、彼の些か奇妙な世界の捉え方についてもそれとなく順応してきたつもりだった。

 しかし、香坂が彼の研究室に招かれるのは初めてだった。時折、曳地博士宛ての大きな配達物の箱を部屋の前まで持っていくことはあれど、入ったことは一度もない。彼の研究内容は第一機密にあたり、たかが世話役程度にはその仔細を知る権利はないのだとわきまえて香坂も深くは尋ねないよう心掛けていたし、曳地博士も自身の研究内容について何かを述べることはなかった。もともと博士は口数の少ない方であり、普段は香坂が書斎の本についての当たり障りのない話題を振れば多少の答えを返す、という程度の会話しかしない。博士のプライベートも、感情の揺さぶられるような経験も、研究も、何一つ知らない。


 覆い隠されているのではなく、互いに、非協力的に、丁寧に注意深く、そこに転がっているものを無視し続けている。


 普段であれば鍵のかかっている、音も通さない重い扉は曳地博士がノブに手をかけるその前から細く開いていた。それだけで曳地博士の動転具合がうかがい知れる。死人の棺桶の前に立つように、曳地博士が頭を下げて、そして扉を開く。

 想像していたよりも、普通の部屋だった。部屋の三面に沿うような長いデスクの中央にはコンピュータが鎮座し、その脇には研究書と思しき本が何冊か、やはり几帳面に角をそろえて積まれている。右手側のデスクには回線や工具の類と思しきものが並び、左手側には本の山が築かれて、冷蔵庫や追加の空調設備らしきものがデスクの下に格納されていた。香坂はふと左手側に積まれた本の一冊、川端康成の『片腕』の、古い箱入のものを手に取って尋ねる。


「これがオガワ嬢ですか」

「それはタケウチヨウスケ氏だ、オガワ嬢はそこの第48刷の『真夏の死』だ。失礼のないように」


 曳地博士は香坂の隣に立ち、本の山を丁寧に丁寧に除けていく。それらがまるで何かをかばうように積まれていたのだと、香坂が感づくのにはそう時間もかからなかった。


「『真夏の死』なら書斎にもありましたね、この間お借りしましたが」

「ミサキ女史だ、彼女は第39刷」

「……左様ですか」


 香坂は『片腕』、もといタケウチ氏を山へと戻す。香坂にしてみればもう慣れっこのことだ。無理矢理に順応したともいえる。

 本一冊一冊をまるで一人の人格ある人間のように扱い、名づける。正気の沙汰とは思えないが、しち面倒なだけで害はない。彼自身も別に本と人を混同しているわけではなく、本を本として読んだ上でご丁寧にひとつひとつ、版違いや出版社違いの同じ本まで別に分けて名付けているのだ。

 ちなみにどういう基準で名づけや性別の設定を行っているのかは香坂には見当もつかないが、原語版の『フランケンシュタイン』をハセガワコウジ氏と呼んでいたのでそのあたりの言語的な事情はあまり考慮に入っていないらしい。


「シマダさんだ」


 どこか、その名前を呼ぶ声が優しいと香坂は思う、本の山の陰から掲げ持つように出された本、いや本の残骸を見下ろす目が薄らと潤んでいた。中央のデスクに安置された本の表紙は半分ほど失われているが、「怪」の字と「大図」の文字が読み取れるのでおそらくは「怪獣大図鑑」とでもいう名前だったのだろうか。元からして古い本なのだろう、アナログ画の赤い、ティラノサウルスとステゴサウルスのあいのこのようなものが描かれた表紙は端が少し剥げている。中の頁もびりびりになって今にも背表紙からちぎれ落ちそうだったが、その紙も薄らと黄ばみ、日焼けのせいか中のムカデやスライムじみた怪物たちの絵も退色していた。


「共に泣いてくれるか、香坂」


 彼の声は湿っていた。ボロボロになった本の表紙を、よく慣れた老犬にするように撫でで、曳地博士は膝をつく。それはまるきり、故人の顔を最後にのぞき込む仕草だと香坂は思う。

 香坂はただ彼の後ろに立ち尽くしていた。彼の言わんとすることは理解できるが、微塵も共感は出来ない。そこにあるのは香坂にしてみればただの本だ。いかなる思い入れのあるものであろうとも、本だ。それのために泣く感性を香坂は持っていない。まして他人の本である。他人の親の死だってそうそう泣かないものを、どうして本が破れた程度で泣けようか。

 だから香坂はおし黙って、曳地博士の後ろに立っていることしかできない。彼の思考は理解が及ばない。過程も前提もすっ飛ばして共感だけを求めてくる様は言葉の足らない子供にも似ている。他者と自分が同じ世界に住んでいると無条件に信じている、傲慢なまでの純粋さだ。

 博士の眼から、溶け出すように一筋の涙が流れる。それでも、香坂の心は乾いたままだ。


「ごめんなさい」


 それは一瞬、香坂の耳にはただの音の連続に聞こえた。老いも若さも、女性らしさも男性らしさも感じられない、単調な声。むろん香坂が発したものではなく、曳地博士のものでもない。背後からしたその不気味な声に導かれるように振り向く。

 ドアの陰に丁度隠れる位置、間に合わせに押し込められたかのように円筒型の水槽が置かれている。下部には台座のように機械が取り付けられ、そこから生えた複数のコードが壁と水槽の間に押しつぶされるようにのたくっている。水槽の上部にも機械部分が取り付けられ、取っ手のような部分がだらりと垂れ下がっている。水槽の中には水よりも粘性のありそうな液体が張られ、そこにくすんだ白の球体が浮かんでいた。香坂が怪訝な顔でそれを見ていると、まるで呼吸をするように球体が収縮し、上部の機械から音声が流れだした。


「ごめんなさい博士わたしの不注意、だ」

「喋っ……!」

「私の管理責任だ」


 曳地博士の声は、驚く香坂を素通りして水槽へとかけられている。球体は収縮と拡大を繰り返しながらぐるぐると回り始めた。単調な声が部屋中に響く。


「博士わたしはほんとうに申し訳ないとおもって、いるだがもう大丈夫だ学習した」

「駄目だ」

「だめ?なぜだめなんだわたしは学習したほんとうにごめんなさいつぎはもう大丈夫、だわたしは知っているはかせはおなじ本をもっているこんどこそ大丈夫だ」

「駄目だ」

「なぜ? なぜ? 博士なぜなんだ見せたいといったのは博士なのになぜ」

「同じであるということは、敬意を払わなくていいということではない」

「博士それはどういう意味だわかったあとで検討、しようそして博士これはなんだこれもにんげんだ人間だな」

「香坂だ。香坂、これがイヅミだ」


 唖然としていた香坂の頭上を飛び交っていた会話の矛先が唐突に香坂自身に向き、思わず背筋を伸ばして水槽を凝視する。白い球体は停止し、それがまるでこちらを凝視する目玉のように錯覚された。抑揚のない、もはや涙の気配もない声で博士が繰り返す。


「イヅミだ」

「よろしくこうさかわたしはいづみだよろしく人間にあえてわたしはうれしいそうかこれもうれしいだな博士わたしはうれしいだとても、うれしいだ言葉は合っているかよろしくこうさか香坂はなにもの、だ」

「あの、えっと」


 香坂が咄嗟の言葉に詰まっているうちに、話し相手が移ったと判断したのか曳地博士は散らかった本を抱え上げると速やかに部屋を出ていった。


「ちょっと、博士」

「香坂も博士なのか香坂はここにいていい、のか? わたしはいいとはおもわないが香坂とは話したい香坂、はなにものだ?」


 イヅミは香坂に興味を示しているらしい。香坂としても、この不思議な物体に対する好奇心は確かにあった。


「俺は、そうだな、博士の世話役みたいなもんだよ。ここには本当は入ってはいけないはずなんだけどな」

「でも入ってきたんだなどうしてだ」

「博士が来いと、一緒に泣いてくれと言ったんだ」


 香坂は椅子に腰かけ、ちらりとデスクの上の破れた怪獣大図鑑を見やる。


「あれ、君がやったのか」

「そうだ」


 香坂の問いかけに球体――イヅミはすう、と深く液体の中に沈んでいく。反省か、あるいは後悔の表現なのか、単調な合成音声がどこかばつの悪そうな響きを帯びているかのように感じられた。


「博士はわたしにいいものを見せるといったあれは、良いものだとわたしもおもったわたしはあれを見ていままでにない、精神のうごきをかんじたあれは興奮とよばれるものだわたしはマニピュレータを制御できなくなるのをかんじたわたしがわたしの制御からはなれるなんて! はじめてだ! わたしはあれをこわしてしまったあれは博士にとってたいせつなものだったのに」


 イヅミが言い切ると、それまで香坂が取っ手だと思い込んでいた部位がガチャリと音を立ててひとりでに持ち上がった。先端は六本に枝分かれし、細かく関節部が造られている。これがイヅミの言うマニピュレータなのだろう。


「でも博士、同じものを持っているんだろう」

「そうだなおなじ本をあと2さつもっているもっと新しいものだ、なぜあれではだめなのだろうな」


 ひとりとひとつはふむ、と考え込む。香坂はこの生物とも機械ともつかないものに対して早くも気を許し始めていた。見かけこそ奇異だが話してみるとまるで賢しらな子どものようだ。怪獣図鑑に興奮するなんてまさにそうだろう。それに、香坂に会えて嬉しいと、これは言ったのだ。


「少し関係のないことを聞いてもいいか」

「どうぞどうぞだわたしは香坂と話したいぞ」

「君は何なんだ? 何のために創られた?」

「わたしはなにか? わたしは人工生命だわたしはなんのために創られた?『ほむんくるすけいかく』のためだ」

「人工生命――ホムンクルス計画?」

「わたしは生きている、でも生きていることにはいみがないんだなぜならわたしよりかしこい機械はやまほどあるから、わたしが生きているのはひとつにこれは博士たちのいじだ機械より生物のほうがゆうしゅうだとしょうめいしたいんだ機械はあくまでわたしの補助だ考えるのはわたしの生物の脳だそれから、わたしは全知をこえなくてはいけないわたしはたんなる知識のしゅうごうたいをこえなくてはいけないその先へ、だれもしらない新たな解をていじするのがわたしの最終目標だ」


 生きていることには意味がない。生物の方が機械より優秀だと証明すること。知識の集合体を超える。誰も知らない、新たな解。


「解というのは、何に対する解なんだ」

「すべてだ」


 今度ばかりはイヅミの答えは簡潔だった。その響きの単純さの裏にある途方もなさ、曖昧さについて香坂が指摘するよりも早くイヅミの興味は別の場所へ移っていく。


「わたしのことはどうでもいいもっとべつの問題を考えよう問題を考えるのが、わたしの仕事だいまはまだインプットだんかいだけれども考えることはむだで、ないどうして博士はおなじ本なのにだめだというんだまってくれわたしはなにか保留にしていたなおなじということは敬意をはらわなくていいということではない?」

「同じものにもそれぞれ個別に敬意を払うべきということか」

「敬意とはおなじにしないということか」

「彼にとってはそうなんだろう」

「敬意とは差異のことか、わかった香坂泣いてやれ」

「は?」

「泣いてやれ」


 ぐるぐるとイヅミが水槽の中ででんぐり返しのような回転を始める。「学習した」や「嬉しい」のときとと同じなあたり、あれは感情の高ぶりを示す動きなのだろうか。しかし泣いてやれと言われても困る。


「泣けないよ。いくらなんでも他人の本が破れた程度じゃ」

「泣いてやれ香坂は泣いてくれといわれたんだろうそれは香坂にしかできないんだ」

「俺にしか出来ない? 何でだ」

「博士にとって敬意のいらない他者は香坂だけだ差異のいらない他者は香坂だけだ博士にとってはあらゆるものが他者だ博士は敬意をもってすべてのものを他者に認定してしまうこんなにも他者だらけの部屋で差異が要らないのは香坂だけだ香坂は差異もなにも関係ないだって香坂は最初から博士なんて関係なく他者だだから香坂を呼ぶんだだれよりも他者だから香坂だけは差異がいらないんだ」


 分かるようで理解らないことをまくし立てながらマニピュレータがガキリと伸びて香坂の肩を六本指で痛いほどに叩く。それを手で払って、香坂は顔をしかめる。


「イヅミ、お前じゃダメなのか」

「わたしじゃだめだ理由は2つだひとつわたしは一緒に泣いてやるのに致命的に向いて、いないそれは共感だわたしに共感はできないなぜならわたしの仕事は新しい解の提示だわたしはだれかのかんがえに共感しているばあいじゃないんだふたつ、わたしは涙腺をもっていない泣くのは物理的に無理だそれに泣いているひまがあったらわたしは考えねば」

「仮に俺だけが適任だとして、それを俺がやってやる義理はない。俺はあの人の生活の世話はするが、それだけだ。感情の面倒まで見てやるつもりはない」

「それもそうだ」


 イヅミは意外なほどにあっさりと引き下がった。回転をゆっくりにし、それでは、と言う。


「何にせよわたしは解をていじしたわたしにとってははじめてのことだ香坂おまえはわたしのはじめてだ」

「そりゃ嬉しいよ」

「わたしもうれしいぞ香坂またきてくれまたはなそうまた問題をもってきてくれ一緒にかんがえてやろう」

「ああ、そうだな」


 おそらくもう香坂はこの部屋に来ることはないだろう。今回のことはこの一度限りのアクシデントだ。またイヅミが曳地博士の本を破かない限りは。腕時計を見るともう5時だった。夕食を作り始めてもいい時間である。立ち上がった香坂を、イヅミはその白い球体状の姿を左右に揺らして見送った。

 ドアを閉めると、書斎からちょうど戻ってきたらしい曳地博士と目が合った。涙の跡などもう残っていない顔をとっくりと眺めてから、香坂は何でもない風を装って喋りかける。


「夕飯、カレーでいいですか」

「構わない」


 対応もいつも通りそっけない。なんだ一時の混乱だったのだ、自分もイヅミも考えすぎだったのかもしれないと香坂が思い始めた矢先、そのまま研究室の鍵を取り出して錠をかけだした曳地博士の背中がかすかに震えた。


「香坂、泣いてくれるか」


 香坂にはわからない。なぜ彼が泣くのか、あれが一体彼にとって何を示しているのか、どうして香坂に共感を求めるのか。香坂に泣いてやる義理なんてない。


「泣けませんよ」

「……そうか」

「泣けませんよ、だって何も知らないですから。だって博士は何も説明してくれない」


 香坂は少し高い位置にある曳地博士の肩を掴んで振り向かせる。うっすらと赤く染まった目元にばつが悪いような気持ちになりながら、言葉を探した。


「何で泣くんです? それなりの理由があるんでしょう。理由もなしに泣けませんよ。だから説明してください」


 もしかしたら、博士と一緒に泣いてあげられるかもしれませんから。

 最後に小さい声でそう付け足すと、曳地博士はほんの少し、ほんの少しだけその眼を明るくした。なんとなく距離感が気恥ずかしくなり、手を離して一歩下がった香坂を追うようにその距離を詰める。滑稽なようだが本人は真剣だ。真剣な、けれど今までに見たこともない子供のような無邪気な光を灯した目で、曳地博士は話し始めた。


「香坂は初めて読んだ本を覚えているか。私にとってはシマダさんがそうだ。文字もまだ半端にしか理解できていなかったころから何度も何度もページをめくった。最初は絵だけを見ていたんだ、少年は誰しも恐竜や虫や、異形の生物に魅了されるが、私の場合は架空の怪獣だった。最初のうちは実在を信じてはいたがね。そして文字が読めるようになり、怪獣のことが理解できるようになったときは感動したよ。今にして思えばあれが私に生物と読書に興味を抱かせたきっかけだ」


 そんな話し方ができる人だったのかと、香坂は面食らった。しかし同時に既視感のある喋り方でもあった。


「少し、イヅミに似てますね」

「イヅミがどうかしたか」

「いえ、続けてください」

「シマダさんは人生の師だ。だからイヅミにも見せた。あれが何かを感じ取ることを期待していた。失敗だったが」

「失敗なんかじゃ、それに、同じ本をお持ちでしょう」

「同じということは敬意を払わなくていいということではない。シマダさんだからこそイヅミに見せたかった」


 彼の論理は、香坂には理解できない。香坂は彼のためには泣いてやれない。だから香坂にはもう何もできない。

 もう一度、せめて謝罪の代わりに今度は優しく肩をさするような気持ちで手を掛けると、曳地博士の頭がこつりと香坂の肩に持たれてきた。子供にするようにその頭を撫でてやりながら、やっぱりイヅミなら泣いてやれたんじゃないかと香坂は考えて、しかし口には出さなかった。

 肩口に冷たく濡れる感触がある。こんなことをしてやる義理はないのだけれど、せめてとごめんなさいとつぶやいたが、それはすすり泣きによって無視をされた。蔑ろにされているのに、なぜか無碍には出来なかった。きっとこの場に二人きりだからだろう。

 むしょうに泣きたい気持ちになったけれども、きっと彼には理解できないだろうと香坂は思う。

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