第12話

「よし、こいつをFAXして終わりか」

「ええ、ありがとうございます。助かりましたよ、先輩」

 沙也加は腕時計をチラッと見た。

「どうせ、まだ始まったばかりだろう。せっかく誘われたんだ。お前も合コンに行ってきたらどうだ?」

「そうですね……。いや、やっぱりやめておきますよ」

「そうか……。な、なら、私と食事にでも行かないか?」

 ――なんだ? ただ後輩をメシに誘うだけだぞ? なんでこんなに緊張するんだ?

「この間の、お前が用意してくれたのには及ばないが、私もそこそこの店を知ってるんだ。ここから割と近いし、ちょうど腹も減ってるだろう? ちょっと奥まったところにあって、穴場的なお店なんだが、落ち着いた雰囲気で中々いい店だ。知る人ぞ知るという感じで、昔、テレビで紹介されたこともある。ただ、席数が少ないから、他の連中には教えていない。あー、それに、誰かさんのおかげで、今の私は懐が暖かいからな。奢るぞ。どうだ?」

 一気呵成にまくし立てて、沙也加は固まってしまった。

 誰を誘うにしても、誘われるにしても、これまで常に余裕を持っていた沙也加であるが、今はなぜか必死になってしまっている。断られないかと不安になってしまっている。

 誰かを相手にして余裕のない精神状態は、沙也加にとって初めての事であった。

 ――くそっ! 遠山が余計なことを言うから……、気になってしまうじゃないか……。

 そんな沙也加を前にして、琢磨は心情の読み取れない表情で考え込んでいた。さすがに迷惑そうな顔をしているわけでは無いが、食事の誘いを迷っているにしては随分と考え込んでいる。

「それって……」

 そこで、沙也加はこれが、琢磨をベッドにも誘っていることに気が付いた。

 何しろ、今の沙也加は琢磨の愛人なのだ。

「ああ、いやっ! そうじゃないっ! 純粋に! お前をメシに誘ってるだけだっ!」

 ここでようやく、沙也加は他の部署からの視線に気が付いた。

 冷静沈着で有能な、社内の名物OL。高嶺の花。何人もの男性社員を袖にしている。

 そんな彼女が、後輩の社員を前に慌てふためいているのだ。奇異の目で見られても仕方がないであろう。

 瞬間的に表情と口調を切り替えた沙也加は、業務連絡みたいな顔をして琢磨に向き直った。

「んんっ……。……で、どうだ?」

「……クスッ。いいですよ。行きましょうか」

「ああ♪ それじゃ、すぐに片付ける。お前も早く支度しろ」

 ニヤケそうな顔を抑えつつ、琢磨の気が変わらないうちにと、沙也加は慌てて自分の机に戻り、パソコン上で開いたままのファイルやブラウザを閉じていく。パソコンが終了処理を行っているのを横目に見ながら、ペンや資料を手早くまとめ、机の上を一瞥して席を立った。

「待たせたな」

「こっちも今終わりました。行きましょうか」

 顔は平静を装って仕事モードの態度でいるが、沙也加の内心はいっぱいいっぱいであった。緩みそうな表情を見られないように、会社を出るまでの間、沙也加は琢磨の前を歩き続けた。


「ええと、先輩?」

「なんだ?」

「誰かに見られると、マズいんじゃ……」

「大丈夫だろう。会社は駅と反対方向だし、こんな裏通りをわざわざ歩いてるんだし」

「裏通りって言っても、一応商店街みたいですけどね」

 鄙びた、というと失礼なのだろうが、営業している店舗はあるもののシャッターの目立つ商店街である。どうやら、国道向こうにある大型ショッピングセンターに客が流れてしまっているようだ。そのせいか、開いているお店は小売店よりも甘味処や小料理店、飲み屋などの飲食店が多い。

 そんな、真昼と夜だけの商店街といった通りを、沙也加は琢磨と腕を組んで歩いていた。より正確には、沙也加が琢磨の腕に絡みついている状態である。表通りでは、女王様然として琢磨を後ろに従えていたのと対照的な態度だ。

 先日のデートでのエスコートと違って、琢磨は遠慮がちに腕を差し出している。理由はさっき琢磨が言った通り、会社の誰かに見られたらマズいと考えているからのようだ。

 だが、沙也加は琢磨の遠慮など気にもせずに腕を絡めていた。

「それからな、二人の時は名前で呼べ」

「え、でもそれって……」

「今の私は、お前の愛人だからな。そうだろう、琢磨?」

「えと……、じゃあ、沙也加さん」

「うん」

 語尾にハートマークが付きそうな声で沙也加は応えた。我ながら似合わない事をと思ったが、自分にこんな真似が出来ることに驚いてもいた。男の腕に絡みつき、甘えた声で嬉しそうな顔をする。

 まるで、仲睦まじい恋人同士のように。

 ――こんなところ、遠山に見られるわけにはいかないな……。

 そう考えて、沙也加はぶるっと身体を震わせた。さっきは大丈夫だと言ったものの、思わず周囲を見回してしまう。

「沙也加さん?」

「……琢磨」

「はい?」

「念のため、もう一度言っておくが、私とお前が愛人関係にあるのは遠山には内緒だ。もちろん、他の奴らにもだ」

「え? ええ、分かりました。でも、なんでです? 他の人はともかく、遠山さんはこの間のデートの事は知ってますけど?」

「デートは知ってても、今の関係は知らないだろう。あいつに知られたら、面倒くさいことになるに決まってるんだ」

「クスッ。確かに、いろいろと面倒くさいことになりそうですね」

「そうとも」

 面倒見は良いし、おせっかいなところはあるものの悪い奴ではない。遠山千佳という同僚は、普通に付き合うには、むしろ面白い人間だ。だが同時に、傍迷惑な人間でもある。彼女が面白いと思ったら、周囲の思惑など完全に無視して、さらに状況を面白くしてしまうのだ。

「それで、先輩のお勧めのお店ってのはまだ先ですか? ……あだだっ!」

「『先輩』?」

 ニッコリと笑って、沙也加は絡みついている琢磨の手の甲をつねり上げた。

「さ、沙也加さん……」

「そこの路地を入ったところだ」

 沙也加の指し示した路地を曲がると、突き当りに明るく看板が見えた。『小料理屋 芽地江戸』と書かれている。

「めじ、えど……、メジェド……? もしかして、エジプト出身の料理人ですか?」

「何で、そんなことを知ってるんだ……?」

 沙也加は少し呆れ気味に、琢磨の持つ雑学に感心した。

「別にエジプト出身って訳じゃない。女将がちょっと変わったヤツでな。神話とか、オリエンタリズムとか、そういうのが好きなやつなんだ。店自体は普通の、魚料理の美味い店だ」

「魚……。なるほど。それでメジェドですか」

 錘形のローブを被ったような、目と足しかない謎のエジプト神メジェド。そのインパクトのある姿はネットで一時期有名になったが、やはり普通の人間は知らない類の雑学だ。そして『メジェド』は、エジプトに生息する魚の名前でもある。

 引き戸を開けると、中はこじんまりとしたカウンター席が並んでいた。七、八人で満員になってしまうだろう。他の客はおらず、沙也加と琢磨が今夜最初の客のようだ。

 カウンターの奥から、髪をアップにまとめた和服美人が嫣然と微笑んだ。

「いらっしゃーい。あらサヤちゃん、久しぶり」

「女将さん、久しぶり。奥の座敷は空いてる?」

「空いてる、けど……、きゃーっ! とうとうオトコを連れて来たのね!」

「オトコじゃない。いや、男だがそういうのじゃない」

「どーでもいいわよぉ。サヤちゃんが男の人を連れてきたってのが大事件なんだからぁ」

「事件なんですか?」

 店の戸口で女将と沙也加のやり取りと聞いていた琢磨が、背後からとぼけた声で聞いてきた。

「事件じゃない! 奥の座敷を借りる!」

「はいはーい」

「生中二つと、あと料理をテキトーに頼む」

「お任せあれ。サヤちゃんの男の為に、腕を振るっちゃう」

「だから……っ!」

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