第11話
「はあっ」
仕事が手につかない。
あの男のことが、どうにも気になってしまう。
沙也加の席は課内に二つある島の課長寄りの机であり、同じ課内であるが隣の係である琢磨の島とは別になっている。しかし、沙也加の席は隣の係に向いており、当然ながら琢磨の席も視界に入る位置にあった。
これまでは、金城琢磨という男を特に意識したことは無かった。だから、視界に入ってはいても見えてはいなかった。
だが、琢磨との疑似デート以来、沙也加の視線は気付けば琢磨の背中に向いていた。
向かい合う席でなくて良かったと沙也加は思う。そうであったなら、頻繁に目が合ってしまっていただろうから。
「……はあっ」
「珍しいな、御堂クンが溜息とか」
「はっ、えっ? いえ、私でも溜息くらいつきますよ、課長」
「疲れているのかい? 色々仕事を任せてしまって済まないと思ってるよ」
「いえいえ、好きでやっていることですから」
――課長に任せてると、時間がいくらあっても足りませんから。
本音は口の中で噛み殺し、沙也加はいつも通りのにこやかな笑顔を形ばかりの上司に向けた。
仕事量は増えるが無駄に待つ時間は減らせるし、他の部署や同僚・部下との無駄なやり取りも減らせる。結果としてトータルの自分の仕事量はむしろ減るから、沙也加は最終的な決済のみを課長に振るような体制を作り上げていた。とある後輩社員は、そんな課長を見て『スタンプマシーン』と呼んでいる。
沙也加の溜息の原因はもちろん、無能な課長によって増える仕事に対してではない。
――それにしても……、意外と色んなヤツに声を掛けられているな、琢磨のヤツ……。
今は、午後の就業時間に入ったばかりである。午前中から何人かの同僚に声を掛けられてはいるが、午後に入ってからは、ほとんどが同じパターンな事に沙也加は気付いた。大抵は、何やら資料を持ってきては琢磨と話し、すまなそうに拝んでから資料を渡す。それは、男性社員でも女性社員でも同じであった。
――まあ、仕事の出来るヤツに頼むのは効率的ではあるか……。
それにしても多いなと思いつつ、沙也加は沙也加で多くの仕事を抱えていたので、頭を振って自分の作業に戻った。
――あいつは別に、私の彼氏というわけじゃないし、候補でもない……。ただの、愛人だ。求められ時に応えればいい。それだけの関係だ……。
無意識に向いていた琢磨への視線を無理やりディスプレイに戻し、沙也加は元の仕事に戻って無心にキーボードを叩き続けた。
「お疲れ様でーす」
「はい、お疲れー」
「お先に失礼しまーす」
「はいよー」
既定の就業時間、すなわち午後六時を過ぎて三十分ほどが経過したころである。残業などはあまり発生しない部署であるせいか、終業のチャイムが鳴ると、ほとんどの社員は仕事を切り上げて帰社していった。
沙也加自身も切り上げることは出来たのだが、今日やっておけば明日以降が楽になる仕事があったので、それを片付けてから帰ることにした。
窓の外には、夕日を照り返している隣のビルが見える。それも刻一刻と細く暗くなっている。今の一仕事を終える頃には、外は真っ暗になっているだろう。
ふと、沙也加は顔を上げた。先に帰社していく他の社員に何度か生返事で答えていたが、いつの間にかほとんどの社員は帰社してしまったようだ。
沙也加のいる部署で残っているのは自分と、そして琢磨のみ。
「……? ちょっと待てえっ!」
他の部署にも残っている者が何人かいるが、彼らは一斉に沙也加の方を見た。それほどの大声だったのだ。
だが、沙也加はそんな視線など気にも留めず、残業を淡々とこなしている後輩の席に向かう。
「先輩? どうしたんです、大声上げて?」
「お前! 何やってるんだ!」
「何って……、仕事ですよ。遊んでるように見えます?」
「そんなことは分かってる! 何の仕事をしているんだと聞いている!」
「ああ、田島さんと横山クンと新見さんに頼まれた仕事がまだ終わってないんですよ。それが終わったら帰りますよ」
沙也加は、自分のこめかみの血管が切れる音が聞こえたような気がした。
「周りを見ろ!」
言われて、琢磨は自分の机の周囲を見回す。
「……? 何も、無いですけど?」
「何も無いんじゃない! 誰もいないんだ! なんで仕事を頼んだ奴らが先に帰って、お前が残っているんだ!?」
「ああ、何でも今日は合コンというか飲み会があるらしくて、参加する人たちは先に帰ったみたいですね」
「そうじゃない……、そうじゃなくてだな……」
沙也加は、自分のこめかみに人差し指を当てて呻いた。
「しょうがないですよ。どれも今日中に終わらせないといけないみたいですけど、僕がやった方が早いですからね」
「だからって……、いや、それよりも昼過ぎにはもう頼んでるヤツもいただろう! お前、便利に使われてるだけじゃないのか?」
「かもしれませんね。でも、好きでやっていることですし」
「は……」
好きでやっている、というのはさっき自分でも言わなかっただろうか。沙也加の場合は好んで苦労を背負い込んでいる訳ではなく、あくまで最終的に自分が楽をするためのものである。だが、この男の場合はどうなのだろうか。即物的な話をすれば、残業代が出るということで得にはなる。だがそれは、三人分もの仕事をする苦労に見合ったものなのだろうか。
「お前自身の希望はどうなんだ。合コンには誘われなかったのか?」
「女の子たちには誘われましたけどね」
今の琢磨は、先日までの冴えない風貌ではない。沙也加のデートの時と同様に、さっぱりとした爽やかな印象だ。背の高さも相まって、有り体に言えば結構なイケメンになっている。
沙也加のデート以降、同じ格好をして出社してきている琢磨は、それまでと違い過ぎる風貌のおかげで女性社員から声をかけられることが多くなっていた。今日の昼間も、いつもにも増して声を掛けてくる女性社員が何人もいたのだ。
「だったら、今からでも行ったらどうだ? 今のお前なら、そこそこモテると思うぞ」
そこそこなどと控えめに言ったが、最近の女性社員の琢磨に対する態度や、今日の飲み会の誘い方を見るに、積極的に粉をかけるつもりの娘は多いだろう。
「ははっ。それは無いですよ。元々ああいうノリの飲みはあんまり好きじゃないですし。それに……」
「ん?」
「先輩のおかげで、童貞がどうとかバカにされることも無くなりましたから」
「ばっ……!」
沙也加は思わず周囲を見回した。だが幸い、離れた課の机で同じく残業をしている他の社員たちには聞かれなかったようだ。
「お前、まさかこの間のデートの事、他の連中には喋ってないだろうな……」
沙也加は琢磨に顔を近付け、小声で、だが強い口調で尋ねた。
「大丈夫ですよ。知ってるのは遠山さんだけです」
「……契約の事は?」
ひそめていた声をさらに低くして沙也加は聞き直した。
「大丈夫。それは、僕と先輩だけの秘密です。それに、そんなコトを話したとしても信じてもらえませんよ。僕と先輩がどうこうなるなんてね」
「それは……、まあ、そうかもしれんが……」
――つまりは、本当に二人の秘密という訳か……。
二人の、秘密。
そう考えた瞬間、沙也加の胸がキュウっと絞られるような気がした。
「……半分よこせ」
「はい?」
「半分は私がやってやる。お前と私ならすぐに終わるだろう」
「いいんですか? 先輩も仕事があるんでしょう?」
「私のは今日中という訳じゃないからな。大丈夫だ」
「それじゃあ、お願いします」
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