少女は笑った

武市真広

少女は笑った


 昼食後すぐに襲った腹痛がようやく治まって、僕はいつもの散歩に出かけた。

 大通りに出るとよく訪れる書店に入った。目ぼしい本もなく、何も買わないですぐに出て来た。それから商店街を抜けて川に沿って土手を歩いた。

 何も考えないように。そう意識してもついつい余計なことを考えてしまう。学校のこと、家族のこと、友人のこと、恋人のこと、自分の未来のこと。自分に纏わるあらゆる不安が去来して、それがさらに僕を憂鬱にするのである。陽気な知人は、「余計なことは考えない方がいい。考えそうになればすぐに忘れることだ」と言う。それができれば苦労はしないのに。

 この憂鬱症のために僕は幸せになれないのだ。時折何もかも捨て去って一人でひっそり山の中で暮らしたいと思う。でも、それをしないのは勇気がないというより、今の生活から逃げたとしても、また新たな不安が僕を蝕むに違いないと考えてしまうからだ。

 歩き疲れてベンチに座った。寒くない冬。空気は澄み渡っている。足元をうろついている鳩たちを眺める。散歩する胴長の小型犬に吠えられて一斉に飛び立った。僕はそれを見てまた憂鬱になったので、下宿を目指してまた歩き出した。

 

 下宿裏の山に小さな神社がある。この神社も僕の散歩コースだった。散歩の度に神社へと続く石段のはじめに一人の女の子が座っているのを見かける。まだ六歳か七歳くらいの子で白いワンピースを着ていた。奇妙なことに、少女は年がら年中この格好で石段に座っているのだ。

 虐待でもされているのだろうか。近隣の住民たちは行政に相談しないのだろうか。学校にはちゃんと通っているのだろうか。そんなことを考えるが、何かしてやろうという勇気もない。声をかけてやることもできない。そんな臆病な自分に自己嫌悪する。やがて、僕は彼女の存在を忘却の彼方に追いやってしまうようになった。


 * * *


 恋人から別れを切り出されたのは、十二月に入ってすぐのことだった。大学の近くのカフェに呼び出された僕は、早くも嫌な予感がしていた。どうでもいい世間話に始まった恋人との会話が既にぎこちない。やがて話題が尽きて沈黙が流れた。平日の午後でカフェに人は少ない。小粋な店内音楽が余計に僕らを気まずくした。そしてようやく彼女は重い口を開いた。

 別れを切り出された時、僕はそれほど驚かなかった。判然としない理由をポツリポツリと話す恋人に、僕は苛立った。はっきりと理由を言わないところから見て、別の男ができたことは明らかだった。

 一通り話を終えて勘定を済ませると僕らは店の前で別れた。

 別れて一人になってから、ようやく僕は傷つくことができた。恋人を失ったことで傷つくという世間にとって月並みな不幸の方が、日常生活に溢れかえる些末な不安よりは新鮮だった。

「成程、これが失恋と傷心か」

 僕は心の中でそう繰り返した。思わず笑い出しそうになって、果たして僕は本当に傷ついているのか怪しくなってしまった。


 それから数日後、大学の図書館から下宿に帰ろうとした時、元恋人が男と一緒に歩いているのを見かけた。その男は僕の友人だった。

「これもまた不幸に数えていいのだろうか」

 内心首を傾げた。彼女の新しい恋人は僕の友人なのだろうか。もしそうなら、それは僕にとって不幸なことであるはずだ。不思議にも僕はそうあって欲しいと願っていた。失恋に次ぐ新鮮な不幸が日常生活の些末な不安をかき消してくれるならその方が良いから。


 * * *


 どうやらアイツは彼女と別れたらしい。そうした噂が広まり始めて、僕に同情の眼差しを向ける学生が現れ出した頃。新鮮だった失恋という不幸にも飽いて、押し寄せる日常の不安がまた心を侵し出した。僕の神経症的症状に気づいた者の中には、失恋のショックからそうなったのだと同情して声をかけてくる者もいた。こういう偽善者に激しい怒りを覚えて僕はまた頭が痛くなった。


 彼らは世間に転がる月並みな不幸に同情しても、日常生活に溢れかえる不安には決して同情しない。相談しても、「そんなことを気にしているのはお前だけだ」とあしらわれたことが何度もある。やがて他人に期待することを止めた。


 クリスマスの夜、僕はまた散歩に出かけた。街は幸せな人々のために輝いていた。イブの日から大学構内の巨大な杉の木がクリスマスツリーとしてイルミネーションで飾られていた。

 下宿を出てすぐ雨に降られたので、引き返して傘を差してから散歩に出た。

 街の光が鬱陶しくて大通りは通らなかった。散歩コースを変えて人通りの少ない夜道を歩く。街灯も疎らで注意して歩いていなかったせいで水たまりに足を突っ込んでしまった。不愉快な感触に苛立つ。それでも帰ろうとは思わなかった。

 ふとあの神社の石段に座る一人の少女のことが頭に浮かんだ。足は自然と神社の方に向かっていた。

 神社へと続く石段のはじめに、やはりあの少女はいた。石段近くの街灯の暖色に照らされて白いワンピースも赤みがかって見える。少女は傘も差さないで膝を抱えて石段に座っている。暗いので表情ははっきりとしないが、愉快な顔をしていないことだけは確かだ。雨に濡れるのもお構いなしのその姿が痛ましかった。

 僕は勇気を出してとうとう少女に話しかけた。

「どうして君はこんな所にいるの?」

 しかし、少女は答えない。

「親御さんとかはどうしてるの?」

 やはり無言。

 これ以上は無駄だと思ったので、少女に傘を差し出した。受け取ろうとしないので強引に手に握らせた。その時、少女が微かに笑ったように見えた。僕はばつが悪くなって逃げるように走り去った。

 これでいい。走りながら何度もそう呟いた。居心地の悪い気持ちが込み上げてきた。僕は首を何度も振ってその気持ちを振り払った。

 下宿に着くとそのままベッドに体を埋めて眠ってしまった。


 翌朝、風邪でも引いたのか喉が痛かった。起きてすぐ部屋の壁に二匹の蜘蛛を見つけた。僕はそれを吹き飛ばした。

 そして、不思議なことに昨日あの少女に渡した傘が玄関の靴箱に引っ掛けてあるのを見つけたのだった。


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少女は笑った 武市真広 @MiyazawaMahiro

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