第4話 清算日

 直樹がアウル家の屋敷に戻ったのは夜遅くになってからであった。

 サイリスとの細かい打ち合わせに時間がかかってしまったからである。

 屋敷の玄関ドアを開けると、そこにはヘレナが待っていた。


「どうした?寝ないで待っていたのか」

「……うん」


 おや?と直樹は思った。

 ヘレナに元気がない。

 こんなことは屋敷に来てから初めてである。

 いや、襲撃されていたときですらこうではなかった。


「お母様のこと誤解していて、どうしても謝りたくって。この前は酷いことを言っちゃってごめんなさい」

「別に謝るほどじゃないぞ」

「怒ってないの?」


 ヘレナが不安そうに直樹の顔を見る。


「怒ってほしいのか?」

「ううん。そうじゃないけど」


 直樹の予想外の反応に、ヘレナは慌てて首を横に振った。


「俺が怒ったところで1リルの得にもならないからな」

「冷静なのね」

「まあな。相場を張るようになってから、極力感情は持たないようにしている」

「よくできるわね。私なんてずっとお父様の仇を討とうとしているのに、あなたはもし大切な人が殺されたとしても怒ることはしないのかしら?」

「どうだろうな。そういった経験がないから。ただ、その感情が相場の邪魔になるなら捨てるな」

「相場のことだけなのね」

「そういう生き方しか知らないからな」

「ねえ、私にも相場のことを教えてくれるかしら?」

「じゃあ、明日一緒に取引所に行こうか。そこで相場の神髄がみれるはずだ。そして、父親の仇も討てるはずだぞ」

「……うん」


 直樹に言われてヘレナは小さく頷いた。

 ニーナが上手くやってくれたのかと直樹は思ったが、ヘレナの感情の変化を直樹はこの時読み間違えていたのである。

 だが、そのことに気が付かず、ヘレナと別れて自分の部屋へと戻った。


「お帰りなさいませ」


 部屋にはニーナが待っていた。


「さっきはヘレナだったし、今度はニーナか」

「どうしてもお礼を言っておきたくて。ただ、お嬢様と顔を合わせるのはどうかと思い、失礼ながらこの部屋で待たせていただきました」

「どうした?」

「先ほどヘレナ様との会話が聞こえてしましました。そこで旦那様の仇を明日討てると聞きまして」

「そうだな。ニーナも明日都合がつくなら一緒に取引所に行くか?」

「是非ご一緒させてください。それと……」


 と、そこでニーナが言い淀む。


「それと?」


 直樹は聞き返した。


「ナオキ様は相場が終わった後どうされるおつもりですか?」

「勝っても負けてもこの街にはいられなくなりそうだからなあ。他の街に行ってみようと思う」

「お嬢様のお気持ちにはどう応えるおつもりですか?」

「ヘレナの気持ち?」


 直樹はニーナが言っていることが理解できなかった。


「お嬢様はナオキ様に好意をよせております。一緒に旅をされるのか、それとも……」

「え、そんなことになっているの?」


 直樹はそこで初めてヘレナが自分の事を好きなんだと認識した。

 暫く考え込んだ結果。


「とりあえず保留で。今は目の前の相場をなんとかすることを優先します」

「そうですか」


 ニーナはそれ以上は何も言わず、直樹に一礼すると部屋を出て行った。

 直樹は突然突き付けられた情報に一瞬驚きはしたが、ニーナに言ったように明日の相場の事を考え始めた。

 その夜は結局眠ることができず、徹夜のまま翌日の朝を迎えた。


「店長、栄養ドリンクの一番高い奴頼む」

「承知いたしました」


 直樹は店長からマムシエキス入りの栄養ドリンクを受け取ると、一気にそれを飲み干した。


「徹夜なんてFOMCの日くらいなもんだぞ」


 ひとりごちる直樹。

 FOMCの日とはアメリカの連邦公開市場委員会の会合が行われる日のことである。

 金利政策が発表されることで、為替の値動きが日本時間の夜中に激しくなるので、為替トレーダーはその日は徹夜をするのであった。

 栄養ドリンクが効いたのか、頭がすっきりした直樹は朝食後、ヘレナとニーナを伴ってサイリスの店に来た。


「よう、ちゃんと眠れたかい?」


 直樹はサイリスに声をかけた。


「いや、駄目だったよ。興奮して朝まで起きてた」

「同じじゃねーか」


 そういって二人で笑う。


「あら、ナオキ様は昨日極力感情を持たないようにするっておっしゃってましたよね」


 いたずらっぽくヘレナが笑う。


「こんだけの大勝負だ。興奮するさ。まあ、だからこそまだ未熟ってことなんだろうけどね」


 直樹は苦笑いした。


「じゃあ行きましょうか」


 サイリスが全員に促す。


「ヘレナ、何があっても今日の事は目をつぶらずに全部見ておくんだぞ」

「はい」


 ヘレナは直樹に言われて、コクリと頷いた。

 取引所につくと、そこは異様な興奮に包まれていた。

 他の商品も取引されているのだが、ほぼ全員が塩の価格の書かれたボードに注目している。

 見れば直樹達の反対側にはガムランが来ていた。

 ボードは黒板のようなもので、チョークで現在の価格が書かれる仕組みだ。


 カンカンカンカンカン


 オープニングベルが鳴り、取引が開始される。


「塩の先物買いポジクローズだ。今の価格で100枚」


 サイリスがそう告げる。

 それを聞いたガムランがそれを受ける。

 先物は相対取引なので、受ける相手がいないと成立しない。

 サイリスの売りをガムランが受けた格好だ。


「ここで両建て解消か。フッフッフ。地獄を見せてやるわ」


 ガムランは勝利を確信していた。

 100枚の建玉は今の価格で100億リル相当である。

 買いポジを解消して売りポジだけにしたとしたら、間違いなく破産するであろうと思っていた。


「いやー、まさかこんな高値まで持ってくるとはね」

「なんだよ、ナオキは上がるって思っていたんだろ」


 直樹の感想に、サイリスがつっこむ。


「狙った価格まで思うままに持っていけたらこんなに楽なことはないよ。さて、買いポジを多めにしておいたので、かなりの利益が入ったな。先物をショートするぞ」

「はいよ」


 直樹の指示にサイリスが応える。

 ショートとは先物の売りの事である。

 逆に買いはロングという。

 サイリスのショートの注文に、まだ値上がりすると信じている投機の買いが殺到した。

 証拠金取引のため、現物の1/100で取引できるため、かなり無理した注文も入っている事を、直樹もサイリスも知っていた。

 だからといって、手を緩めるようなことはしないが。


「売り注文全部約定したぞ」

「頃合いだな」


 サイリスからの報告を受けて、今度は現物の売り注文を出す。

 その量


「現物50トン売りだ。成り行き注文で」


 成り行きとは、注文の一種である。

 普通は指値注文といって、いくらで売るまたは買うという注文をだすのだが、成り行きは指値注文を行わず反対売買の相手に一気にぶつける注文方法である。

 値上がりを期待して買い注文を出していた投資家に、50トンの注文がぶつかっていく。

 注文が約定する順番は、注文を出した順番である。

 50トンの成り行き注文がでて、慌てて売り注文を出したとしても、先に直樹達の注文が処理し終わらないと、次の注文が成立しない。

 東京証券取引所であれば、値幅制限があるからその日の上下限は決まっているが、ラタの取引所に値幅制限という考えはなかった。


「なっ!!」


 事態の異常さにガムランも気が付いた。

 このままでは値崩れしてしまう。

 折角今日売り抜けをしようと思っていたのに、直樹達に先を越された格好になった。

 しかも、こんな注文が出てしまっては、自分たちが買い占めた金額以下に暴落してしまう。

 ガムランが固まっているあいだにも、買いの提灯をつけていた連中が慌てて売り注文を入れてきた。

 ここで雪崩を打って値崩れが始まる。

 現物はそれでもまだ需要があるので、1キログラム5000リル付近でやっと値が付いた。

 実に一日で1/20の大暴落である。

 それでも50トンの塩は全て約定したわけではなく、注文が翌日へと持ち越されることになった。

 もっとひどいのは先物である。

 この状態では新規の買いなど入らなかった。

 先物は相対取引であると説明したが、売りは直樹達の建玉しかなく、買い戻しも期待できない状態だ。

 塩の現物が5000リルなのに先物は100,000リルと、大幅に乖離している状態になっている。

 このまま受渡日を迎えたとしたら、20倍の価格で現引きしなければならないのだ。

 その日、多くの買い方の失望の声と、庶民の歓喜の声がラタの街を包んだ。


「こうなったら最終手段だな」


 ガムランは苦々しい顔をしていた。

 今は自分の屋敷で、この街の裏社会のボスを呼んである。


「あんたも金がねえって聞いているぜ。そんな奴のいうことを聞けっていわれてもねえ」


 ボスはガムランを馬鹿にした口調だ。


「いままで散々稼がせてやったのに、その言い草はないだろう」

「こっちだって命を張ってんだから、正当な対価だよ」

「最後にもうひと働きできないか?」

「だからあんたはもう明後日には破産するんだろう。どうやって支払いができるっていうんだ」

「それは相手が現渡し出来たらの話だ。先物の取引量は200トン。そんなの準備できるはずねえとは思っているが、今日の50トンを見たら可能性はゼロじゃねえ。だから、奴が仕入れる前に消してほしいんだよ。そうすりゃあ取引は未成立だ」


 これがガムランの考えた最後の手段だった。

 相場用語でいうところの巾着くくりという技である。

 相手の本尊を拉致して、相場をできなくする反則技だが、実際の仕手戦では結構使われていた。

 負けが見えた相手は、なりふり構っていられないのだ。


「残念だが、それは乗れねえ。危ない橋を渡っても、見返りが期待できねえからな」

「どういうことだ」

「これは今までの付き合いからのサービスとして教えておいてやるよ。今日、領主の屋敷に塩200トンが持ち込まれたんだ。受渡日までに盗賊に襲われたら、折角の塩の値段が下がる機会がなくなっちまうって言ってな。もう奴を殺したところで手遅れってわけだ」


 その言葉を聞いて、ガムランは自分の両膝を床についた。

 ボスはその姿を見て部屋から出ていく。



 屋敷に帰ってきた直樹達は、夕食前にお茶を飲んでいた。


「それにしても、よく250トンも塩を用意できたわね。ラタで消費する4年分よ」


 ヘレナが興奮して直樹に訊ねる。


「母国は塩が豊富だからな」


 まさかギフトによるものだとは言えない直樹。


「これでわかっただろう。相場っていうのは相手よりも金があればいいだけだ。相手の資金がわからないのに戦っちゃだめなんだぞ」

「そうね、お父様もそれを知っていれ……ば……」


 ヘレナは肩を震わせて下を向く。

 ニーナが慌てて駆け寄る。


「父親の仇が討てたんだ。もう泣いていいんだぞ」

「うん……。本当に……ありが……」


 最後は言葉にならない。

 が、直樹もヘレナが心から感謝してくれているのはわかった。

 それ以上かける言葉も見つからないので、直樹は部屋に帰って寝た。

 夕食の時間にも疲れていたため起きられなかったのである。

 翌日起きて朝食を摂りに行くと、ヘレナ、ニーナ、ヘレンが目の下にクマを作っていた。


「みんなで一晩中泣いていたのよ」


 ヘレナが教えてくれた。


「相場なんてやれば不幸になるだけだな」


 と直樹はその三人に言うわけでもなく呟いた。

 自分自身の人生を振り返っての感想、本心であった。


 相場の方はというと。

 その日も現物は5,000リルに売り注文を出して蓋をして、先物には買い戻し注文をいれずにいた。

 既に現渡しの塩は準備できているので、買い戻す必要がないのである。

 ガムランをはじめ、買い方は金策に走っており、相場を見ているどころではなかったので、結局取引は成立せずに終わった。

 バブルがはじけてしまえば、誰も塩など買わないのである。

 実需分だけは買われるのだが、それは昨日の売り注文で消化されていたのだ。

 結局買い方は100,000リルで塩を現引きする羽目になり、金策できなかったものは破産することとなった。

 この結果、サイリス以外の仲買人は全員廃業となってしまった。

 街ではガムランをはじめとして、多くの商人が破産してしまい、さらにはその商人たちに貸し付けを行っていた金融業者も回収不能で破産してしまったのである。

 多数の破産者、自殺者が出たことで事態を重く見た領主は、商品取引所の閉鎖に踏み切ることになった。


「行ってしまうのですね」


 ヘレンが寂しそうに直樹に話しかける。


「ええ、この街ではもう相場ができませんので」

「何もお返しできずに申し訳ございません」

「自分が好きでやったことですから」


 と直樹はヘレンに答えた。


「ありがとうございました」


 ニーナはそれだけ言って、直樹に深々とお辞儀をした。


「ナオキ様、どうか私を連れて行ってください。きっと相場の張り方を覚えます」


 ヘレナは目に涙を浮かべて訴える。


「駄目だ。相場は不幸しか生まないってわかったろう」


 直樹はそれを拒否した。

 だが、ヘレナは諦めない。


「いいえ、私ナオキ様のことがす――」


 とそこまで言ったときに、急に直樹の体が消えた。


「え?」


 呆気にとられる三人。


 一方直樹は――


「あれ?」


 目の前にいたはずのヘレナが消えて、真っ白な空間になったことに驚く。


「あちらの世界では取引所がなくなってしまい、直樹様のご希望にそえないため、別の世界に再び転生していただきます」


 店長が直樹に告げる。


「そういうことかよ。事前に説明が在ってもいいんじゃないか」

「では、次回からはそういたします」


 悪びれることもなく店長は約束した。


「ところで、塩の相場で儲かった金なんだが……」


 直樹は破産者からの未回収の代金受け取りができていないので、その事を心配していた。


「その事ならご心配なく。女神様のお力で清算金相当を口座に補充しておきました。端数を除いて250億円の利益です」

「まあまあの利益になったな」


 直樹は数字を聞いて感想を漏らした。

 最初の説明にあったように、地金相場で換算したのであれば、ラタで流通している金貨の金の含有量が多いのだろう。


「じゃあ、次は株式市場ありますんで」


 店長がそういうと、目の前が真っ暗になる。


「え、心の準備ができていないんだけど……」


 そういう直樹であったが、それは無視されて転生する。

 目が覚めると、そこは農村のようなところであった。


「今度はどこだよ。まあ証取がなければそれでいいんだが」


 それが一番大事――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

証券取引等監視委員会から逃げていたら異世界で相場を張る事になりました 犬野純 @kazamihatuho

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ