夜には虹を、朝には流星を

すいま

第1話 朝の目覚め

朝起きて、パジャマのままリビングへ降り、食卓に座る。お母さんのおはように寝ぼけ声で応える。いつもの席につくと、冷めたトーストにジャムを塗り、むしゃむしゃと食べすすめる。

ニュースでは昨夜の玉突き事故や半年前から行方不明になっている一ノ瀬夏日いちのせなつひちゃんの話題で持ちきりだった。

アナウンサーの声を聞き流しながら、半熟の目玉焼きに箸を入れる。パサパサのトーストが口の中から水分を奪っていく。

高校生になってからコーヒーを飲み始めた。朝の目覚めを良くしたいから、とお母さんには言ったけど、ちょっと大人ぶりたいだけに吐いた嘘だった。今日も我慢しながらブラックを啜る。

コーヒーのおかげか、ただ時間が解決してくれたのか、重かった瞼は九割まで開いた。最後に目をこすって、大きな窓から外を眺める。

今日もお陽様満点の晴れた朝だ。


制服を着て二ヶ月も経てば体に馴染み、新しい通学路も足に馴染む。教室に入り、席につくまでの流れもぎこちなさはなくなり、周りの目も気にしなくなった。


「おはよう陽」

「おはよう、かなみちゃん」


隣の席でおしゃべりをしていた集団から顔を出して挨拶をしてくれるのは中学から一緒の田辺かなみちゃんだった。昔から可愛くて人当たりの良いかなみちゃんは、高校でもクラスの中心にいて、太陽のような存在だ。


「今日、放課後どうする?」

「あーごめん、ちょっと寄るとこあって」

「そっか」


それ以上詮索しないところも、彼女の良いところでもあった。距離感がうまいのだ。

朝の準備をして、先生が来るのを待つ。

朝のホームルームが始まると、生徒は全員席に着き、点呼が始まる。すべてがいつもどおりで、当たり前になっていく中で、陽にはいつも胸に引っかかるものがあった。

いるはずだったのに名前を呼ばれない生徒、席はあるのに誰も座っていない机。一ノ瀬夏日の存在だった。


一ノ瀬夏日はこの高校、このクラスで仲間として一緒に過ごすはずだった。中学は違うので、直接話をしたこともないが、ニュースで何度も顔を見ているせいか、昔から知っているような気がしている。

高校入学直前に行方不明になったその少女は、中学卒業後によく夜の街で遊ぶようになり、入学式の前夜を最後に姿を消したという。

誘拐、家出、事件に巻き込まれてもしくは、という常識的な話で終わると思ったこの事件は、この二ヶ月間、奇妙な話題とともに好奇の目に晒されてきた。

彼女は夜な夜な、この街で目撃されているのだ。

昨日はどこそこの交差点で。一昨日はどこそこの店で。彼女の姿は目撃されるのに、誰も接触できない。まるで陽炎のような存在となり街を徘徊する彼女の存在は、もはや都市伝説として語られるようになっていた。それは尾ひれ背びれを付けて広まり、彼女を見かけた者は死ぬだとか、話しかけられた者は夜の世界に引きずり込まれるとか、いかにも子どもたちが喜びそうな話となっていった。


とはいえ、陽の生活にはなんの影響もなく日々は過ぎていった。手を伸ばせば一ノ瀬夏日の席に触れられる距離にいてもなお、向こうの世界との境界には厚い膜があり、それを破って奇天烈な日常を送ることは陽にはなかった。それで、良いのだろうか。


水無月陽みなづきよう!」


先生からの突然の点呼に素っ頓狂な声を上げてしまう。隣でかなみが笑い転げていた。恥ずかしい。見ないでほしい。顔を伏せ、さっきまでのセンチメンタルを振り払っていた。


今日も一日、学生の本分を果たして、下校の時間となる。16時頃にもなると陽が少し傾き始め、その光は赤味を帯びていた。これから部活の子たちが帰る頃には陽も落ちきっているに違いない。

ちらほらと残るクラスメイトに手を振って、陽は教室を出た。教室を出るとき、いつも一ノ瀬夏日の席を見てしまうのは、どこかで自分が平穏な学校生活を送っていることに負い目を感じているからだろうか。


慣れた坂道を下り、路地を抜けて大通りに出る。駅に向かって進んで三本の中道に入ると人通りはまばらになる。街灯が灯り始めたタイミングで、朝夕堂ちょうせきどうに着いた。


「こんにちは、おじいちゃん」

「陽か?」

「調子はどう?」

「なあに、変わったことなんぞここ九〇年起こっとらんわ」


祖父が経営する朝夕堂は嘘か真か、百年以上前からあるらしい。たとえそれが嘘でも、その店の佇まいはさることながら、蔵書の年季も相まって、そういうことにしておいてもいいだろう。


「お、あの美術年鑑売れたんだぁ!よかったねぇ。これで一月は暮らせるよ。」

「あのエセ学者め。金だけ積んで愛がない。いつか痛い目見るわ」

「だめだよおじいちゃん。お客さんをそんな風に言ったら。買ってもらわないと潰れちゃうんだよ、このお店」


この店の本には値札がない。どれも今や二度とは手に入らない一品物のようで、価値は陽にはわからない。だからよくお客さんと熱い議論を交わしている祖父であったが、納得して買っていくお客さんはみな、目を輝かせて笑顔で帰っていく。その後には、陽には目がくらむほどのお金がレジに収められているのだ。


「今日はどこをやる?」

「そうだな」


祖父はカウンターの中に座り、白熱電球の赤い光が天井からその小さな体を照らす。祖父の丸メガネの奥の視線が、店の奥の奥を見つめた。


「じゃあ、一番奥の本棚を頼む」

「え、あそこの棚?良いの?」


祖父は、もう新しい本を入荷しない。ここにある本を売り切ったら店を畳むつもりだ。とはいえ、レアでニッチな品揃え故にその販売は遅々として進まず、店を畳むのが先か、自分が死ぬのが先かといつも冗談で言っている。

昔は無造作に積み上げられた本たちも、陽が地道に整理を続けてとうとう、あと数個の棚のみというところまで来ていた。

そして、今日祖父が許可した棚こそ、陽が子供の頃から触れることも禁止されていた書棚だった。


「そろそろ、誰かがあの棚を管理しないといけないからの。良いか?約束は守るんじゃぞ」

「うん、わかった」


祖父との約束。その書棚の本に、見入ってはいけない。

陽は少し緊張した面持ちで書棚へと向かった。日本語のものは少数で、殆どは英語か、見たことのない文字で書かれている。書棚を照らす光は遠い。それでも高級感ある装丁がキラキラと輝いていた。

中には宝石が埋め込まれているようなものもある。タイトルは読めないが、一体何が書いてるんだろうか。何せタイトルが読めないので、書棚に収める順番も自ずと陽の気分次第となる。それがちょっと楽しかったりもした。一冊、一冊と書棚の下から本を収めてはゆっくり背表紙を撫でる。棚の一番上の列は、背丈が同年代の子達よりも小さめの陽にとっては難関でもある。そして何より重い。手を伸ばして、背伸びをして、指先で押し込む。そんなとき、手に取った一冊の本にちょっとした驚きを持った。


「なにこれ、軽い」


まるでティッシュペーパーでも重ねたかのような、厚さに見合わない軽さに驚いた。軽すぎて風にでも飛ばされそうだ。タイトルは相変わらず読めないが、その装丁は青字の革に金の彫刻が施され、それだけで重いはずなのにと疑ってしまう。陽はその本を持ち上げると、背伸びをして書棚の一番上の列へ差し込もうとした。その時だった。その軽さゆえに本の重心も、指先から伝える力のベクトルも安定しない。本は傾き棚板に阻まれ陽の手からこぼれ落ちた。慌てて出した手の上で二度三度と弾んで床に落ちた。同時にバランスを崩して膝をついた陽は、落ちた本と対峙した。それはまるで陽を招き入れるように開かれ、徐々に文字が輝きを増し、陽の目を虜にする。

何が書いているかはわからない。日本語でも英語でもない。しかし、目がその文字を追うのをやめない。一行、二行と視線が動き、脳に取り込まれていく。気づけばページを捲っていた。瞬きするのも忘れていた。文字はやがてイメージとなり、自分が文字を読んでいるのか、映像を見ているのか分からなくなるほど鮮明になっていく。

晴れ渡った空。青い空に燦々と輝く太陽。はるか遠くに続く水平線に振り返れば緑が続く。大自然が支配する世界。動物のような鳴き声が響き、風の匂いが鼻腔を突く。気持ちのいい世界。悲しみのない世界。心地よい太陽の光。


「こらぁ!!」


雷のように響いた怒号は陽の体を飛び上がらせた。

気づけば尻餅をついて祖父の顔を見上げていた。手が痛い。祖父が陽の手を杖で叩き飛ばし、ページを捲る手を止めたらしい。

陽には何があったのか全くわからなかった。


「魅入るなと言っただろう!馬鹿者め!」

「ご、ごめんなさい、おじいちゃん」

「なんてことを。どれくらい読んだのだ。」

「わからない、二、三ページかな」

「留め金はどうした。自分で外したのか?」

「そんなことは」


していない。本が落ち、慌てて転んで、偶然開いたページに魅入られた。私に非があるのか?あるのかもしれない。混乱している。涙が出てきた。


「あぁ、陽。いいか、陽。忘れるんだ。あれは現実ではない。いいか?もう思い出すんじゃない」

「うん、わかった。」

「今日はもう帰りなさい。手は痛むか?」

「ううん、大丈夫。ごめんね、おじいちゃん」

「いや、こっちこそ悪かった」


また来るね、と言えるほどには気を取り戻し、店のドアを開けて外へ出た。

もうすでに陽は沈み、街の光が存在感を増していた。家に帰る途中の高台で足を止め、眼下のその光を眺めると、思い出そうとせずともあの光景がフラッシュバックしてくる。もう一度、あの世界に行きたい。

これが魅入られるということなのだろうか。


その日の夕食が何だったか覚えていない。気づけば風呂に入り、身支度をしてベッドに入り込んでいた。スマホで友達と少しのやり取りをして日常を確かめるも、どこかふわふわとした感覚が抜けない。まるで、あの本の軽さのようだ。もう一度、あの世界に行ってみたい。


「魅入られる、か」


寝れば忘れられるだろうか。忘れてしまうだろうか。どっちつかずの気持ちを抱いたまま、陽は目を閉じた。


突風が陽の髪を乱した。あまりの風にウッと呼吸が詰まり、顔を背ける。

ここはどこ?ベッドで寝ていたはずが体は身を起こし、反射的に足を踏ん張っている。首を回して状況を確認する。足元はコンクリートで空に太陽はない。背後には無骨な鉄パイプが組み上げられている。下から光が溢れている。これは、ビルの屋上だ。下に見えるのは街の灯りだ。遠くに見えるタワーはこの街の見慣れたランドマーク。ここは陽の知っている街で今は夜だ。いつの夜?陽は体を弄りスマホを探そうとした。その時、手が何かを手放し、それが床に打ち付けられるとカランと金属の高い音を響かせた。


「刀?」


武器のたぐいの知識はないがそれはわかる。西洋の剣というよりも、刀だ。柄があり、鍔があり、刀身は長く反り、峰と刃がある。

これを私が持っていた?と手のひらの感覚を確かめる。


「なんなの、これ……」


わけがわからない。さっきまで自室で寝ていたはずなのに。ふと、自分の格好を確かめる。寝間着のままこんなところに放り出されていてはかなわない。

慌てて視線を巡らせると、足元は紐靴のスニーカーのようだが、どうにも履いている感覚がないほどに軽い。一歩踏み出したときの弾力が強く、ただ歩くだけでも弾みそうだ。そこからソックスが伸び、太ももまである。ということはニーソックスでタイツではない。

自然と青色のチェックのプリーツスカートが目に入る。突風で煽られ慌ててスカートを押さえつけた。風の通りを感じるに、下着はつけているらしいがどうにも丈が短いように思える。私服ではこんなものそうそう選ばない。

肌寒さを感じて腕が出ていることに気づいた。半袖だ。ひらひらと胸元に揺れる黄色寄りのオレンジ色の布が見える。ネクタイだ。このデザイン、どこかで見覚えがあると思ったら、高校の制服ではないか。いや、完全に同じではない。だがそれを基調としているのは間違いなさそうだった。可愛い、と思った。自分では選ぶことは出来ない。けど、少し憧れていたその姿。隠れた願望を見透かされたようで、陽は気恥ずかしさを感じる。


「私、なんでこんな格好をしているの?いや、なんでここに?誰かいないの?誰か!」


あたりを見回すが、何者の影も見当たらなかった。腰元で何か重いものが振り回されるのを感じた。ベルト、それに結ばれた鞘だ。思い出し、再び刀に視線を落とす。

しゃがみこんでその柄を握り持ち上げてみた。思った以上に軽い。まるで鉛筆でも握っているようだ。妙に手に馴染む。刀なんて、生まれてこの方、玩具ですら握ったことはないのに、構え、一振りし、それが自分のものであると確信した。すると、突然、刀身が輝きを放ちだした。驚いて刀身を遠ざけるも、気づけばその刀身を見つめていた。金属の反射で街を写していたその刀身は少しずつ明るさを増し、青く染まっていった。この青は


「空だ。空が見える。」


今日、あの本の世界で見た青い空。白い雲が漂う、潔癖な青だ。

刀の中に空がある。陽は刀をくるくると回しながらその空を眺めていた。するとひときわ輝く角度があった。


「これは太陽?」


空の中に浮かぶ太陽が見える。その角度に振ったとき、刀から強い陽光が溢れ出した。


「本当に空なんだ……と、とにかく帰らないと」


その時、強烈な悪寒と甲高い音が頭に響いた。陽は咄嗟に振り向き、刀を体の前に横たわらせた。

カキン、と甲高く大きな音が鳴り響くと刀を握る腕に強い衝撃が走り、刀を持った腕は弾き飛ばされ、体は宙に浮いていた。腕に激痛が走り、空中体勢も取れない。しかし、陽の目は捉えていた。


夜闇の中、髪を乱して刀を振り下ろした少女の姿を。


全身を使って上空から落下するスピードに体重を乗せ切りかかってきた。暗闇の中に浮かぶ眼光はまるで猫の目のように鋭く、靡くスカートの可憐さとはかけ離れた殺意を感じた。その殺意に、私は殺されるのだろう。

なぜ?私がなにかしたのだろうか。十六年生きてきて、誰かに殺されるほどの大罪を犯してしまっていたのだろうか。心当たりがあるとすれば、あの本だ。祖父の店で偶然にも魅入ってしまったあの本。あの世界に足を踏み入れたことが、死に値する大罪だったのだ。


陽の体はビルの屋上を飛び出し、次第に落下していく。空中でどうあがいても、蹴り上げる壁もなければ自由落下に身を任せるしか無かった。

高層ビルからの落下に、どれくらい人生の猶予があるのだろうか。以外にも、人生を惜しむ時間はあるのだなと考えながら、横目に通り過ぎる夜の光が涙に滲むのを見つめていた。



「やったか?という感触は、やってないか。」

「月、陽の出まであと一時間、今は時間がない。朝の使者を殺すのはあとだ。」


少女が刀を鞘に収める。くるくると少女の周りを浮遊する本が言葉を発する。


「そうだな。ナイト、厄喰やくはみはどこだ?」

「汚れが多いな。離れすぎていて分からない。少し街を回って見る必要があるだろう。」


青葉月あおばつきは刀を鞘に収め、ビルの屋上の縁から遠くを眺めた。


「眠らない街というのも厄介なものだな」


月はナイトと呼んだ本を腰のブックベルトに収め、足に力を込め、ひと思いに飛び上がった。ビルからビルへの目測をしては次に飛び移る。こちらの生活が長くなり、現実の体の重さ、自分の非力さに辟易とする時間が長くなった。だからこそ、思いっきり飛び上がれるこの時間が好きだった。しかし、これから自分が為さねばならないことを考えると、迂闊に喜ぶわけにはいかない。


壁を蹴り、交差点を飛び抜ける。繁華街の路上はまだ人が多く、駆け抜けるのは難しい。車も人もこちらを避けてくれることはない。


「邪気が多いな」

「月、あっちだ」

「あぁ」


街灯の上に止まり、あたりを見回す。悪寒と胸騒ぎが強くなる。このあたりだ。このあたりで何かが起こる。慎重に街行く人を観察する。


「あいつ!」


交差点が青になる。車が流れ、人が歩きだし、喧騒が大きくなってもなお微動だにしない一人の少女がいた。目はうつろで天を仰いでいる。存在が危うい。存在感が脈を打つように消えては現れを繰り返している。もはや、もとの世界の人々に認知されない域に達している。その少女が、こちらを見て、ニヤリと笑った。

次の瞬間、一台の車が高速で交差点に突っ込んだ。横断歩道を渡っていた数人を叩き上げ、引きずり潰し、交差点に侵入していた車に衝突すると弾きあった車が辺りを破壊した。


月は刀を鞘から抜き出した。その刀身には無数の光点が散りばめられ、天の川を浮かび上がらせていた。刃を返し、刀身に浮かぶ満月を指でなぞると、目いっぱいの力を込めて交差点の少女に向けて飛び出した。



陽の体はビル風に煽られ落下しながらも流された。高層といえど数秒で落下する高さだ。地面が近づいてくる。もはや何も考えることなどない。願わくば、痛みを感じること無く逝かせてほしい。


ズドン、という鈍い音が響いた。体は数メートル跳ね上がり、二度三度と弾んで地面に横たわっていた。生きている、意識はある、地獄だ。これは地獄だ。体が動かせないほどの激痛に見舞われているのに、死ぬことが出来ない。なぜ生きているのだ。殺してほしい。殺してほしい。痛い痛い痛い。

陽は助けを求めるように視線を巡らせる。歩行者は誰ひとりとしてこちらを見てくれない。なぜ、助けてくれないのか。あぁ、なんて運が悪いのだろう。車が迫ってくる。いや、運がいいのかもしれない。そのまま私を轢いてくれ。ブレーキなど踏まずに一思いに。

車はまるで、陽の存在など無かったかのように加速し、陽の体を弾き飛ばした。陽の体はビルの壁に叩きつけられ、ぬるりと落ちる。

なぜ、殺してくれないのか。なぜ、死なせてくれないのか。


刀。あれで切れば、死ねるだろうか。

陽は痛みの残る腕を腰に回し、刀を引き抜いた。そこには、あの美しい青空と燦々と輝く太陽が浮かんでいた。なんて、憎たらしい。こっちは死にそうな痛みに死にきれずにいるというのに。


刀の刃を喉に添わせて気がついた。腕が動く。指が動く。試しに足も動かしてみた。痛くない。動かす痛みはない。ビルから落ちたとき、車に弾かれたとき、壁に打ち付けられたとき。想像していた通りの痛みだった。それでも、腕は折れていないし、肉も引きちぎられていない。内臓も破裂していないし、血も出ていない。ならば


「私は……死なない!」


ふんっと体を起こした。思ったとおりだ。体には傷がなかった。服も無事だ。なぜ、と思うことはもうやめた。ベッドから気づけばここにいた時点で、考えても無駄なんだ。


「生きてる……生きてる!」


絶え絶えの息の中、叫んだ。死んだほうがマシな痛みの中で生き残った。天を仰ぐ。夜風が気持ちよく感じる。思いっきり肺に空気を送り込む。夜の空は、こんなにも綺麗だったろうか。段々と気持ちが落ち着いてきた。これ以上、どんな事が起こっても驚いたりしない。きっと、この先、七十年生きたとしても。


「あれって」


仰ぎ見たビルに囲まれた狭い空を縫うように、跳躍する少女の姿を見た。この状況について、何かを知っているとすればあの少女だろう。陽を殺そうとした少女。でも、私はどうやら死なないらしいとわかると、怒りも湧いてきた。


「一発、食らわしてやるんだから!」


痛みは、嘘のように引いていく。一歩踏み出してみた。足が軽い。とんっとんっと跳ねてみる。跳び上がり、前へ進む。足を出す。次の足を出す。だんだんと、スピードを上げる。自分の体じゃないみたいだ。体が軽いことと力が強いことが重なり合って、どんどん加速する。あの子のように、ビルとビルの間でもジャンプできるだろうか。そんなときだった。曲がり角から現れた通行人に気づいたときにはもう遅かった。避けきれず、真正面からぶつかってしまうと、陽の体はスピード相応に弾き飛ばされた。これは通行人にも相当な怪我を負わせてしまったかもしれない。


「すいませ……」


上体を起こして謝ったところで気がついた。通行人はよろめくどころか、風が頬を叩くほどにも気にしていないように歩き続けている。

もしかして、と他の通行人にアピールしてみても、誰一人として反応を示さなかった。試しに頬を叩いてみても、それは人間と思えないほど固く、触れている感触もなかった。まるで、厚いフィルム越しに触っているようだった。

ここで確信した。ビルから落ちたときも地面に傷もつかなかった。車だって、何食わぬ顔で走り去っていった。打ち付けられた壁のガラスも割れやしなかった。


「私は、この世界に干渉できないんだ」


物分りが良すぎるかもしれない。でも、この体を通じて感じる確信がある。陽はできるだけ人を避けて走り続けた。陽が見えない通行人は避けること無く向かってくる。ふと、空を見上げた。少女の影はもう見えない。おそらくこっちだろうという感を頼りに走り続ける。その時だった。悪寒と胸騒ぎが強くなった。


「こっち!」


二丁分の交差点を駆け抜け目に入ったのは街灯の上で刀を構えるあの少女だった。その視線の先、足をかがめて跳躍のモーションに入っている。その先にいるのは。


「だめっ!」


気持ちが力になるとはこういうことだろうか。地面を蹴り上げる力がとてつもない瞬発力を生み、一歩で少女の跳躍線上へ交差した。

カキンという甲高い音が響いた。陽は自分でもいつ抜いたのか分からない刀を切りつけていた。月はそれをさも当然のように受け止める。

力と力が空中で拮抗し、静止したような錯覚に陥る。次第に体が落下し、地面に着地してもなお、陽と月は隙を見せなかった。鍔迫り合いが続く。


「お前はさっきの!」

「何をするつもり!?」

「その女を殺すんだ!邪魔をするな!」


月は刀を弾き飛ばすように力を込めて自身も後ろへ飛び退いて距離を空ける。


「なんで!?この子が何を……」


陽は振り向いて少女を直視した。

ギラギラとした眼差しと不気味に吊り上がった口角。笑っているような表情は精気がなく禍々しい。


「一ノ瀬夏日さん……」

「これを見ろ。」


陽はあたりを見回した。泣き叫ぶ人々。千切れ飛んだ四肢。散弾のように壁に穴を開けた車の破片たち。大惨事だ。遠くから緊急車両のサイレンが聞こえる。


「なんなの、これ」

「その女がしでかしたことだ。そいつを生かしておいたら、もっと酷い事が起こる。そいつは、災厄だ。」

「災厄って、こんな女の子一人にそんな事出来るはず」

「お前は何も知らないのか?本はどうした。」


月は飛び上がり、一気に陽を越えて一ノ瀬夏日へ向かおうとする。


「だめって言ってるでしょ!」


刀の振り方なんてわかるはずないのに、がむしゃらに飛びかかり、振り回した。カンカンと月の刀に受け流される。


「お前の相手をしている時間はない。邪魔をするならお前から切る」


振りかざされる刀を反射神経だけで受け止める。力で押され、踏ん張りも利かない。鍔迫り合いでどんどん押されていく。力量が違う。


「この子は、行方不明で、今でも探している家族がいるの。みんな待ってるの!私のクラスにだって、席があって、出席簿だって載ってるのに名前も呼ばれなくて!」

「何を言っている!」

「このまま警察に連れていけば全部済む話でしょ!」


何度も切り結んでは距離を取る。月は陽の技量を読み違えた自分が腹立たしかった。油断さえしなければ、朝の使者はこれほどまでに強いのか。やはり、あの時にやっておくべきだった。


「月、夜が明ける。時間がないぞ。」


一ノ瀬夏日はその間にもゆっくりと歩を進めていた。空が白んできている。もう時間がない。


「お前は、キレイ事ばかり言って!」


月は連撃を繰り出す受け止めきれない切っ先が陽の頬を切り、服を切り裂く。

これに陽は動揺した。血が出た。服が切り刻まれた。これは、死ぬということだ。ビルから落ちても、車に轢かれても死ななかったが、この刃に切られれば死ぬ。あぁ、なんて馬鹿なことをしているのだろう。あの時の殺意は、本物だったじゃないか。殺せない相手に殺意など向けるはずがないじゃないか。

途端、足が震えた。何でこんなことをしているのか。一ノ瀬夏日はそれほどまでに大切な相手だったであろうか。会ったことも、話したこともなく、ただ教室の空席を見続け、捜索願の顔写真を見せられただけで、何を肩入れしているのか。


「それでも、友だちになる未来があったかもしれない。まだ、なれるかもしれない。それが奪われるなんて、見てられないじゃない!」


足の震えが止まった。刀を振り降ろしたが簡単に受け止められる。その時、刀の接点が明るく光り始め、陽の刀がだんだんと濃い青に染まっていく。対して、月の刀が白んで次第に薄く青が広がっていく。二人の刀は段々と赤と青のグラデーションを帯びて夕焼け、そして朝焼けの色を濃くしていった。


「月!そいつに触れ過ぎだ!トワイライトが起こるぞ!」

「ちっ、限界か!どけ!」


月は陽の刀を体に受け、陽を蹴り飛ばした。左肩に食い込んだ陽の刀が引き抜かれ、血しぶきが上がった。それでも、月は高々と跳躍し、地べたに転がる陽を越え、一ノ瀬夏日へ飛びかかった。月は、振り返る一ノ瀬夏日の涙を見た。覚悟は揺るがない。月は、一ノ瀬夏日を切らねばならない。


振り下ろした刀は、空を切った。ビルの合間から、朝日が射す。

一ノ瀬夏日は陽炎のように消えた。切った感触は、無かった。

乱れた長い黒髪が、月の表情を隠す。


「お前は!これからあの女が殺す人々に、なんと言って償うつもりだ!」

「そんな、そんなの……させないもん!私が、させないもん!」


へたり込んで座り込む陽は、涙を隠そうともせずに泣きじゃくった。


「ほんと、殺さないとだめだな。お前」



ハッと目を開けた。心臓が激しく脈打つ。目元からこめかみにかけて冷たい線が流れていた。まだ、涙が溢れていた。


「夢……」


体がこわばっていて、状態を起こすのに時間がかかった。親に悟られないよう、涙を拭く。カーテンの隙間から射し込む陽光は今日も晴れを伝えていた。

少しふらつく足で階段を降り、一歩一歩を実感しながら、夢で良かったと心からホッとする。

最後の一段を降り、ダイニングのテーブルに着くと、今日はご飯に納豆に焼き魚に味噌汁という朝食だった。陽は席につくと、真っ先にコーヒーを啜った。苦い。砂糖とミルクをたっぷり入れる。もう、虚勢は張らない。

今日もニュースは一ノ瀬夏日の話題で持ちきりだった。なんでも、昨日は夜中の交差点で目撃され、その直後に死傷者十名にのぼる交通事故が


「交通事故?」


陽はニュースに見入っていた。開いた口もそのままに、席から立ち上がる勢いで画面に釘付けになる。事故現場の交差点、一ノ瀬夏日。


「夢じゃ、無かった。夢じゃなかった!!」


陽は絶望した。あれは全部現実だったのだ。いや、あの世界が現実なわけがない。しかし、思い出すごとにあの地獄の痛みも思い出されるようだ。現実じゃない現実が存在していた。そこに陽はいた。


『お前は!これからあの女が殺す人々に、なんと言って償うつもりだ!』


夢であれ、と願った。それでも、夢でないのなら。私はなんと言って償えばよいのだろう。

いっそうのこと、この生命で償わなければならないと、陽は思った。

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