同居のスープ

かるま

in the soup

「へるぷ」

 の三文字で、アサヒから、カエデの万能携帯スマートフォンにメッセージが入ったのは、彼女が大学の附属図書館でゼミのレポートの調べ物をしている最中だった。

 借りる本もとりあえず、燦々さんさんと太陽が輝くサッポロの広い街並みの中を、カエデは自転車を飛ばして、自分とアサヒの部屋へ急いだ。大学通りから一本入ったところにある築二十五年の2LDKアパートで、二人はルームシェアして暮らしていた。

 息を切らしながら、玄関ドアを開けて、部屋の中へ入る。入ってすぐのリビングからバスルームの方へ向かってぬれ跡があって、途中、びしょぬれの肌着や靴下が散乱していた。

 カエデはそれを見て、スニーカーを脱ぎ放ったまま、バスルームに駆けこんだ。ぬれ跡はバスタブまで続き、その中には、浅く、がたまっていて、中に、アサヒの万能携帯が沈んでいた。

 彼女は、あんのため息を一つつくと、黄色い液体に手を突っ込んで、万能携帯を引きあげた。かすかなとろみのある液体が、指の間から垂れていくのを感じながら、バスタブに向かって声をかける。

「……すぐ、移しかえるから」

 そして、リビングに戻ると、壁際に置かれた、円柱型の透明な容器が載る電動車椅子を、慣れた足取りでバスルームへ持ってきた。

 容器は、高さ五十~六十センチ位の大型で、分厚い蓋の外側には装置や配線が取り付けられ、内側にはチューブや電極が垂れ下がっていた。何度かリビングとバスルームを行き来し、小型の電動ポンプをバスタブの中に入れ、ホースを容器までつないで、電源を入れる。

 低いモーターの駆動音と共に、およそ十分ほどかけて、バスタブの中の液体がくみ上げられ、とぼとぼと蓋のチューブをとおって容器の中へ注がれていった。容器のほとんどが黄色い液体で満たされたところで、

「もう良いよ」

 と、、子どものような、女性のような声がした。「ありがとう」

「待って」

 カエデはその声を制して、バスタブの底のこびりつくようなわずかな液だまりをできるだけポンプに吸わせた。

「良いって、そこまでしなくても」

 容器の蓋からの声が言う。「もう大して変わんないんだから」

「気にしないで」

 ポンプを動かしながら、彼女は言った。「好きでやってるから」


 アサヒが「スープ病」を発病したのは、中学二年の頃になる。丁度、カエデと初めて同じクラスになり、二人が親しくなったときと重なる。

 スープ病は、正式には全身性体液化症候群ぜんしんせいたいえきかしょうこうぐんといい、文字通り、からだが突然失われ、均一の液体になる病気である。

 古来、発病すなわち「死」を意味するものだったが、二十世紀後半になって、液体状態の患者を発作が治まるまで適切に保管すれば、からだが復元されることが解明された。それ以来、多くの研究や技術開発により、依然として難病ではあるものの、液体のまま日常生活を送れるほどにまで、生活の質が劇的に改善してきているのだった。


 カエデがバスルームから電動車椅子ごと容器を出してやると、車椅子は勝手にリビングへ向かって動きだした。容器の電極から配線を介して、スープになったアサヒが、「脳波」で操作しているのだ。

 テレビが見える位置に電動車椅子がおさまると、カエデは、テレビを点け、車椅子の横どなりのソファに腰かけた。そして、お昼のワイドショーを観ながらく。

「それで、どうしたの、今回は」


 スープ病は、そのメカニズムも根本的な治療方法もまだ分かっていない。一見、余りにも現実離れした病だ。ただ、発作の引き金として、社会的な孤立や、心理的な要素、具体的には、「ほどの強い精神的なショック」が絡んでいるとの見方が定説となっている。


 容器の蓋のスピーカーから、しばらく何も返事がないので、カエデは続けた。

「――ミツギ先輩に告っちゃったんでしょ、どうせ」

 容器の蓋のマイクから、アサヒにも聞こえているはずだが、返事はなし。

「なんで言っちゃうかなぁ」ちらりと容器を見たあと、カエデは立ち上がって、物干しに干してあった雑巾で床のぬれ跡を拭きはじめた。「いっつも、だよ、って話してんのに」

「だって、」ようやくアサヒが、だだをこねるような声を発した。「お酒が入って、一対一だよ? なんか良い雰囲気だったんだよ? 『お前かわいいな』とかイジってくれてさ。なんか、言ったら、受け入れてくれるんじゃないかってさ、賭けてみても良いんじゃないかってさ、思っちゃったんだもん。ここで言わなきゃ、一生後悔するって……」

「で、言って、結局、後悔してんじゃん。スープになるくらい」

「……」アサヒは、しばらく黙ったあと、ぼそりと、「スマホのメッセージ、見てみてよ」

「どれ」

 防水ケースに入ったアサヒの万能携帯を手慣れた感じで操作して、メッセージ機能アプリを開き、「ミツギヒトシ」とのやりとりを表示させる。やりとりの最後は今朝の日付で、ミツギ先輩側からのメッセージだった。

『昨日は正直な気持ちを話してくれてありがとな。だから俺も正直な気持ちを話すわ。一晩考えたけど、やっぱりアサヒをそういう目では見れない。本当に正直言って、少しヒいちゃってる自分がいる。また泣かせちゃったらホントにごめん。でもこれが俺の正直な気持ちだから、分かって欲しいと思う……』

「正直アピールがすげえのう」カエデは言って、鼻で笑った。「ファンケルかよ」

「『一日考えさせて』って言われたの、初めてだった」アサヒが涙声で言った。「だから、勝手に舞いあがっちゃってたんだよ。『もしかして? もしかしたら?』ってさ。……けど、これだもん。馬鹿だよね。そんな奇跡みたいなこと、あるわけがないんだよね」

「いいとこまで行ったんじゃないの? ちょっと真面目に考えてくれたんでしょ」

「違うよ。先輩の中でもう結論は出てて、その場じゃ言いにくかっただけだって」

「その辺は正直じゃないって?」

「そうだよ、……ああ、もう!」

 容器の蓋から、カエデにぶつけるような嘆声のあと、「馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ。もう先輩に合わせる顔がない。死にたい。死にたい。――って、朝からずっと、布団の中で泣きながらぐるぐるぐるぐる考えてたら、……溶けてきちゃった」

「そうですか、っと」

 カエデは拾い上げたアサヒの衣類をつまんで電動車椅子まで持ってくると、容器の蓋をひねり開けて少しだけずらし、そこに向けて、衣類をぎゅっと固く絞った。含まれていた黄色い液体がにじみ出て、ぼたぼたと容器の中へ落ちていく。

「だから、そこまでしなくて良いって」アサヒがいらだって言った。

「いいの。好きでやってるんだから」

 カエデは元通り容器の蓋を閉めると、ソファに座り直して、そこから、容器を優しくでた。

「よしよーし。辛かったね」

「子どもじゃないんだから」

「でも、分かったでしょ? あんたの気持ちは、やっぱり、言ったら終わりなんだよ。言ったら、もう元に戻れない。そのひととの間に積み上げてきたつながりを、全部壊しちゃうんだって。だから……、自分のこころの中にしまっておいて、生きてくの。そのほうが良いって」

「それは……、そうするのは、簡単だよ」アサヒの声が、落ち着いてきた。「けど、そうしたって、心のどこかが、ずっと痛いんだよ。カエデには、きっと分かんないでしょ、それ」

「分かるよ?」

 容器を撫でながら、カエデはふっと目を細めた。「分かる分かる。分かってて言ってる」

「うそだあ」容器の蓋から、軽い笑い声が漏れた。

「うそじゃないって」カエデも笑い返して、言った。「――あんたにはね、わたしがいるんだからさ。早く元気出しな」


       *


 スープ病の発作は、多くの場合数時間で収まるが、長いもので一週間~一ヶ月に及ぶこともあり、根本的な治療方法がない以上、患者は発作が続く間、容器に入ったままの生活を強いられることになる。

 現状、容器を使って患者自身でできるのは、車椅子での移動や意思表示程度にとどまっており、栄養液の摂取や尿のはいせつ、手を使うような作業の支援など、介助者がいなければ生活が成り立たない。

 アサヒがスープになったのは、サッポロの大学に入ってからの一年間で、四回目になる。互いに本州の実家に住んでいた頃からアサヒを手助けしてきたカエデにとっては、アサヒとのルームシェアも、介助も望むところだった。当然、容器に入ったアサヒと大学へ行くのにも、何のちゅうちょもない。

「暑くない?」

 強い日差しがじりじりと照らすキャンパスの大通りを、容器が載った電動車椅子と並んで歩きながら、容器に向かってカエデが訊いた。「氷水入れたげよっか?」

「やめてください」アサヒはすぐさま拒んだ。「常温にしてください。気絶しちゃう」

「分かってるって」

「けど、水欲しいのは確か」

「ほいよ」

 二人は立ち止まる。カエデが容器の蓋を開けてずらすと、肩提げかばんから天然水のペットボトルを出してきて、中身をどぼどぼと容器の中へ注いだ。透明な容器越しに、水がスープの中でもやのような揺らぎをつくりながら混ざっていくのが見えた。

 歩きや自転車で行き交う学生たちが、見慣れない光景に好奇の目を向けながら通り過ぎる。

「早く、早く閉めて」

 とアサヒに急かされても、カエデはぼんやりとスープの様子を見つめていた。


 カエデとアサヒは共に文学部である。教養課程だった一年生の頃はともかく、専攻課程に進んだ二年生になっても、全てと言って良いほど同じ講義や演習を受けている。カエデがアサヒに合わせているのだ。

 これには、二年生のはじめに、アサヒが反対した。

「全部が全部こっちに合わせるって、やっぱり変だよ。そりゃあ、スープになっちゃったとき、ノートとりとか助けてくれるのはうれしいよ。けど、カエデにも将来のことがあるでしょ? カエデはカエデの興味ある講義を受けないと、大学に来た意味ないじゃん。こっちは、ほら、他のひとに支援してもらえばいいんだからさ。なんてったって、スープだよ。親切してくれるひとがいないことなんて、ないもん」

「いいんだって」カエデはしがにもかけなかった。「とりあえず、仕事に就けるように大学入ったんだから、勉強の中身なんか、別に大して興味ないし。あんたの面倒見る方が、よほど重要度高いよ」

「なんか、……普通じゃないよ、カエデは」

「え。ウザい? わたし」彼女が笑いながら訊いた。

「ウザくはないけど、何て言うか、……」言いよどみながら、アサヒは口にした。「重い」

「『重い』ね。そりゃそうかもね」彼女はまた笑って、後ろからアサヒに抱きついた。「愛が、重いってことだね……?」

「重い重い。ホントに重いから」それを振りほどこうと、アサヒがもがいた。「やめてやめて」

 結局、カエデにはぐらかされただけで、この話はうやむやのまま終わってしまった。


 次の時限は「哲学概論Ⅰ」の講義だった。キャンパスの大通りから文系共同講義棟に入り、一階の広くにぎやかな講義室で、後ろ側の席を物色。椅子を一つ退かせたところに電動車椅子が収まり、カエデがその隣に座った。

 何となく、近辺の学生たちがちらちら視線をくれてはそらすので、決まりが悪いのか、口数の少ないアサヒとは対照的に、カエデはノートやプリントを出しながら、平然とした顔で容器に話しかけた。

「これ、先週までのレジュメと、あんたが取ってたノート」机の上に広げて、「でしょ?」

「うん」

「音は? 前の方の音、ちゃんと聞こえる?」

「うん」


 液体化したスープ病の患者は、「特異な感覚」を経験すると言われている。それは、五感の全てが、感じられるというものだ。

 容器に入っているアサヒは、容器全体に触れながら、上下左右三百六十度全てが一度に見え、聞こえている状態なのだ。

 ただし、視覚は容器の蓋と、車椅子の背もたれや座面で実際は前方に制限されており、聴覚も、容器が密閉されている都合上、外の音が聞き取りづらくなる不便があるので、スープの電極から繋がれたマイクによって補われている。これらはどちらも、結果的に、アサヒが一度に大量の五感の刺激にさらされて起こる、特有の「酔い」を防ぐのに一役買っていた。


「しかし、たるいよね。聴いてるだけの講義だからな……。起きてられそう?」

「うん」

「スピーカーのスイッチ、切らなくても良い?」

「うん」

「さっきの講義みたいに、夢見て変な声出したらやばいからね。寝そうになったらこっそり言ってよ?」

「スイッチ切って」

「え。もうはや?」

 急転、アサヒがささやくので、カエデは噴き出しながら、容器の蓋のトグルスイッチに手を伸ばした。が、そこで、ぴたりと動きを止めた。

 講義室の何列か前方から、体格の良い短髪の青年が、ぜんとした顔でこちらへ歩いてくるのが見えたのだ。ミツギ先輩だった。

 目が合ったのでカエデが会釈すると、彼は、足を速めて二人の前へやって来た。

 彼女はすぐ、蓋のスイッチを反対に倒して、アサヒのスピーカーの電源を切った。

「うす」

「どうも」

「いやあ、二人とも昨日、メッセージに反応なかったし、スパゲッティ・モンスター研究会スパモンけんにも来なかったから、心配してたんだ」

「すみませんでした、心配かけて」つとめて穏やかにカエデが言った。「アサヒがなんで、ばたばたしちゃって」

「……」ミツギ先輩の表情が、一層険しくなった。「やっぱり、俺のせいか?」

「そうですね」カエデは即答して、容器を見た。「そうだと思います」

「どんな話か、知ってんの?」

「ひととおり聞きました」彼女は表情を変えずに、淡々と続けた。「ただ、まあ、先輩が悪いわけではなくて、アサヒがもろいだけなんで、あんまり気にしないでください」

「俺のせいか……」

 つぶやくと、ミツギ先輩は電動車椅子の脇へ来て、容器の高さにしゃがみ込んだ。

「これ、俺のこと、見えてんだろ?」車椅子を挟んで反対側のカエデに訊く。

「はい」

「聞こえてるよね?」

「ええ」

 そして、彼は容器に両手で触れると、真剣そうに中のスープを見つめ、

「本当に、ごめんな」と小さな声で呼びかけた。「どうしたら良いか、分かんねえけど、俺が傷つけたことには違いねえよな。でも、勇気出して俺に言ってくれたんだからさ、俺も真面目に考えてから答えなきゃ、って思ったんだ。――万能携帯のメッセージに送って済ましたのは、正直、すまんかった。俺、苦手なんだ。こういうの、断るの……」

 カエデはその光景を、微笑みを浮かべて見届けていた。

「――そういうことで、この話はこれきりにして、きれいさっぱり忘れよう。お互い。な? 俺、別に誰にもこの話しないから、安心して。これで、関係元通りにしようや」

 スピーカーのスイッチが切られた容器は、中身のスープが少し揺すられた程度で、当然ながら、沈黙していた。

 カエデが容器に向かって、「何か話す?」と振った。アサヒはまだ、電動車椅子を動かせば意思表示できるからだ。

 しかし、車椅子はぴくりとも動かなかった。

 その様子に、カエデはにこりと二回うなずくと、げんな顔で立ち上がったミツギ先輩を見上げて、言った。

「すみません、今は、話したくないみたいです」


      *


 ミツギ先輩から直接びられても、アサヒの発作は収まらず、一週間経っても、からだはスープ、姿は容器に電動車椅子のままだった。

「自分の中では決着付いたんでしょ? その恋愛話は」

 大学病院の診察室で、主治医の先生が、電子カルテを入力しながらアサヒに尋ねた。「まだ、なんか、気持ちすっきりしないの?」

「はい」容器の蓋から返事。

「傷心だねぇ。ハート・ブレイク」

 先生は、六十歳前後と思しき男性医師である。眼鏡を直すと、体ごと首を傾げて、仏頂面で言った。「ときめきが足りないな」

「ときめき」付き添いで一緒に来ていたカエデが噴き出した。

「いや、真面目な話だよ」

 先生は椅子の背もたれにもたれて、腕を組んだ。「精神がマイナスの方に落ち込んで、戻ってこないから、からだも元に戻らないんだろうね。だから、必要なのはときめき。癒やしと、ときめき。うーん、そうだねぇ……、傷心旅行でもしたら?」

「はい?」容器の蓋から聞き返す。

「どっか温泉に行って、とうしてきなさい。湯治って分かる?」

「いえ」

「温泉にゆっくり浸かっては休み、浸かっては休みして養生するのを湯治って言うの。今なら、車椅子で入れる温泉も結構あるから、観光がてら、行ってきたら良いよ。二人で」

「この姿で温泉に入って、効果あるんですか?」横からカエデが口を挟む。

「湯治用の薄い容器ってのがちゃんとあるの。それなら熱を通す。泊まるところによっては貸し出してくれるから、探すと良いよ。あとは少し垂らして、飲ませてあげるとかね」先生は再びパソコン入力に戻った。「温泉で癒やされて、観光でときめいて、心機一転。どうだい?」

「はあ」

 アサヒは気乗りしない声を出したが、カエデは意気込んだ顔で容器の方を向いて、

「じゃあ、行くか」と言い出した。

「はい?」容器の蓋からまた聞き返す。


 カエデのコンビニのアルバイトの都合をつけて、二人は早速、次の週末の三連休に電車でコオリベツ温泉に向かった。

 コオリベツ温泉と言えば、言わずもがな、名の知れた観光地だ。昼に月並みな観光スポットを回って、朝晩に温泉へ入るという二泊三日を過ごす計画だった。

 最終夜となる二日目の夜、宿泊先であるバリアフリー旅館「ぱらいぞ」の貸切露天風呂の予約が取れたので、夕食前に二人はそこへ向かった。

 露天風呂は、石造りの小さな四角い湯船の脇に、その半分の大きさはあるコンクリート製のスロープが組み込まれたものだった。頭にタオルを巻いたカエデが、軽くかけ湯したあとで、スープ病患者入浴用の容器に移しかえ、座面が低い車椅子に載せかえたアサヒを押して、スロープから湯船へ降ろした。

 容器の七分目くらい、乳白色の湯に入る格好になったアサヒの隣に陣取ると、彼女も湯船の底へ腰を下ろして、肩まで湯に浸かる。二人とも、自然と長いため息が漏れた。

 囲いが高いので、向こう側には、雲まで染めあげる鮮やかな夕焼け空しか見えない。なにかの虫の、さわさわという森のざわめき、かすかな温泉街のけんそうが、控えめに漂っていた。

「まさに、極楽じゃあ……」その空を見上げながら、カエデが満足げに言った。

「うん……」

 アサヒはどこか、浮かない声だった。「あのさ――」

「今日の一番は、やっぱり地獄谷のハンググライダーだね」それを遮るように、車椅子の手すりをつかんでカエデが話を振ってくる。

「どこがさ」急にむきになるアサヒ。「普通、スープまで滑空させる? 死ぬかと思った」

「でも、空飛ぶの、すごいいい景色で、超気持ち良くなかった?」

「まあ……」渋々、といった感じでの同意。「ヒグマランドよりは良かったかな」

「あれね」カエデは頷いて笑った。「『ヒグマトリカル・パレード』はないよね。電飾の服着てさ、あれだけ芸達者に立って歩いてるヒグマたちを見てると、悲しくなってきたよね」

「アイヌじゃ山の神なのに。見る影もない」

「そうそう……」

 あいづちを打つと、カエデはおもむろに、ビニールをかぶせてゴムで留められた容器の蓋を開けて、ずらした。

「ん。なになに?」

「蓋がない方がもっと、夕焼けが見えるでしょ。きれいだよ」

「ああ……、まあ……、きれいだね」

 アサヒは、また生返事に戻って、「あのさ、カエデ、やっぱりお風呂は――」

 すると、カエデが膝立ちして、容器の側面を引き寄せるように持つと、中のスープを上からじっと見つめた。

 立ちこめる夕日の光を受けて、濃い黄金色に染まる、アサヒのスープ。

「カエデ?」

 そして、彼女は、

 アサヒの液面に口づけた。

 ひとつ、かすかに、波紋が広がる。

「ちょ、カエデ、」

 制するアサヒの声を無視して、彼女はそのまま、舌でゆっくり、液面を撫でるようにめた。

 あとを追うように、さざ波が立つ。

「は、あっ、」アサヒが小さくあえいだ。「カエデ、やめっ、」

 彼女は最後、舐め取るようにして舌先をスープから離した。口の中にわずかにまったざんの、鉄と塩でできた味を舌で転がすと、自分の唾液と一緒に飲みこんだ。

 そして、上気した顔で、なにかを諦めたように天を仰いだ。

「ごめん。我慢するの……、無理だったわ」

「……こうなると、思ったんだ」

 恨めしそうな声が、容器の蓋からこぼれた。「こうなりたくないから、お風呂は別々にしようって言ったのに」

「ごめんて。もうしない、しないから」容器を持ったまましゃがみ込んで、許しを請うカエデ。

「いつもそうやって言うけど、結局、しちゃうじゃん。それはやだ、って言ってんのに」

 アサヒは不満をあらわにすると、冷ややかに投げかけた。「――とか、思ってるんでしょ。今も」

「……」カエデは長い沈黙のあと、小さく頷いた。「うん。そう」

「これだもん」

 ずれた容器の蓋から、アサヒがたたみかける。「カエデは結局そうなんだよ。こっちが普通のからだに戻るより、ずっとスープでいて欲しいと思ってるんでしょ? そうすれば、自分がしくお世話できる、一番近くにずっといられるから。それくらい、自分は好きなんだって言いたいんでしょ? こっちがスープでも興奮しちゃうくらいにさ」

「や、そういうわけじゃ、」

「じゃあどういうわけなのさ。この旅行だってそうだよ。ノリノリでバイト休んで、こっちが動けないのをいいことに引っ張ってきてさ。どうせ、そっちは内心、友達としてじゃなくて、勝手に恋人気分でうきうきしてたんでしょ? 違うの?」

「違う」

 カエデも語気を強めて、真剣な表情で言った。「ずっとスープでいて欲しいなんて思ってない。恋人になるのも無理だって、分かってる。……でも、わたしは、それでも、あんたのことが、好きなの。からだがあっても、スープになっても。……だから、その、興奮する話は、その通りだけど……」

「ほら。それが、……自分勝手、っていうか、……ひとりよがり……、なんだ……って……」

 明らかにアサヒの声が遅く、途切れ途切れになり、ついには何も言わなくなったので、カエデは心配そうに声をかけて、容器を何度もノックした。

「アサヒ? アサヒってば」

 返事はない。彼女ははっとして、

「のぼせたんだ」

 呟くと、湯船に立ち上がり、急いで容器の蓋を閉め、スロープから車椅子を引き上げようとした。しかし、いくら彼女が顔を真っ赤にして背後から引いても、車椅子は少しずつしか動かない。

 スープ当人に意識があるときには――原理は未解明だが――スープの体感重量が実際の半分近くになるといわれている。逆に、意識のない状態だと、本来の重さがそのままのしかかるわけだ。アサヒの体重は六十キロ強はあったので、カエデひとりの力では、上り坂を動かすのが難儀だった。

 カエデは、れたからだのまま脱衣所へ戻ると、すぐに、出入口の脇にあるインターホンの受話器を取って、フロントに連絡した。

「すみません、スープ病の連れがのぼせちゃったみたいで、はい、お風呂から動かせないんです。――はい、ええ、男手があると助かります」

 彼女がバスタオルをからだに巻いて露天風呂に引き返したところで、法被はっぴを着た男性従業員が二人、駆けつけてきた。湯船に入り、手際よく車椅子の前後に位置取ると、せーの、と一気に車椅子をスロープの入り口にまで出した。

 それを素早く脱衣所へ運び、従業員のひとりが容器の蓋を開けると、用意していた二リットルのペットボトルのミネラルウォーターを、勢いよくどぼどぼと中へ注いだ。

「スープのお客さんは、水飲めばだいたい良くなりますよ」と、もうひとりの従業員がカエデへ言った。「入れたの常温のやつなんで、ヒートショックとかも大丈夫でしょう」

「ありがとうございます」

 容器の中のスープに、おびただしい揺らぎをつくりながら、水が降りて、混ざっていく。

 ややあって、

「うーん……」

 と、容器の横に立てかけられた蓋からうめき声がした。

「アサヒ」カエデが安堵の表情を浮かべ、呼びかける。「気がついた?」

「んん?」アサヒがだるそうに返事する。「うん」

「ああ、良かったでした」ミネラルウォーターを入れた方の従業員が、容器の前にしゃがみ、アサヒへ笑いかけた。「露天風呂でのぼせてらしたんですよ」

「……そう、みたいですね……」アサヒは沈んだ声色で、「ご迷惑、おかけしました」

「いえいえ。とんでもありません」

 その体格が良く、せいかんな顔立ちの若い従業員は、快活な調子で言った。「よくあることなんで、気にしないで。このままお部屋までお連れしますから、ゆっくり涼んでくださいね」

「……」

 アサヒは何故か、一呼吸ふた呼吸、遅れて応答した。「はい」

 直後、スープに突然、どこからともなく、大きな泡がひとつ沸いた。

 泡は、またたく間に、次々と沸き起こりはじめ、ぼこぼこ大きな音を立てながら、とうとう沸騰したかのように、スープの液面を、液中を、全てを、下から上へかき乱して、見えなくしていった。

「え。いま?」

 カエデが目を丸くして、思わず声を張り上げた。「――あの、元に戻るみたいです!」

「いま?」従業員たちも驚いて、彼女の方を向く。

「いま!」彼女はあわてて容器に駆け寄った。「すみません、容器を車椅子から降ろすんで、周りのもの退かしてもらえますか。出てきたら倒れちゃうかもしれないんで」

 容器の前にいた若い従業員が、そのままカエデを手伝って容器を持ち上げ、もう一人の従業員が、車椅子や脱衣かご、椅子などを脱衣所の隅へ押しやり、出来上がったスペースの真ん中に、容器が置かれた。

 すると、泡の中から、

 明るい茶色の髪が、

 端正で小さな顔が、

 紅に染まった肌が、

 細く薄いからだが、

 浮かび上がるように、少しずつかたちを現していった。

 と同時に、スープのは、ゆっくりと下がっていき、やがて、アサヒの濡れた立ち姿の足元で、うごめいていた泡とともにはじけて、ほとんどが消えた。

 アサヒは、長いまつげのまぶたをぼんやりと開くと、裸体をふらつかせながら、容器から出ようとして片足を上げた。

「危ない!」

 とっさに、その左右の腕をカエデと若い従業員が抱え込み、もう片方の足を滑らせて後ろへ転倒するアサヒを支えた。

 二人がかりで容器から出してもらい、その場に座り込むと、アサヒはカエデの方を見上げ、力なく笑んた。そして、、言った。

「ちょろいね、おれって……」

「なにが?」

 カエデは聞き返してから、彼が視線を向けた先、少し首を傾げて自分を指さす若い従業員のことを見つめ、合点がいった顔をすると、あきれたように笑って、彼のことを小突いた。

「だいたい分かったから、早くパンツかなんか履いてや」


      *


 二人は従業員たちに改めて礼を言うと、自分たちの客室へ戻った。段差がない以外は、畳十畳ほどにひろえんの付いた、何の変哲もない和室である。

「ああ、くたびれた」浴衣姿のアサヒが、畳の上で大の字になる。

「くたびれたのは、こっちだよ」

 カエデは客室のトイレ兼洗面所の引き戸を開けて、中に入った。洗面台の鏡に映った、浴衣姿でショートヘアの、中性的な顔つきをした女性をひととおり眺め、鏡越しに触れて、ため息をついた。

「タデマルさんだって、あのお兄さん。変わった名前」寝転がったままで、アサヒが言う。「――ねえ、あとで写真転送してね」

「はいはい」カエデが投げやりに応じる。

 従業員たちと別れる前、アサヒのたっての希望で、彼女が万能携帯で三人の並んだ写真を撮ったのだ。アサヒのは、二人のうち、若い方の従業員だった。

「見るだけにするんだよ。変にアプローチしないで」

「それくらいは分別あるよ」口をとがらせるアサヒ。「どっかの誰かさんとは、違うもん」

「……」

 カエデは無言のまま和室に入ると、アサヒの横に正座した。そして、

「わたしが悪かった」深く頭を下げて、絞り出すような声で言った。「……わたし、やっぱりアサヒのことが好きだから、異性として、好きだから、独り占めしたいし、わたしの全部をあげたいって思ってる。……さっきみたいに、暴走しちゃうことがあるから、許してもらえないかもしれないけど、でも、それでも、……そばにいたい」

「……カエデが泣くなんて、珍しいね。らしくもない」

 言うと、アサヒは仰向けのまま、もそもそと横着に体を動かして、涙をこぼすカエデの頭を下から持ち上げると、自分の頭を、彼女の太ももの上に乗せた。ウェーブがかったミディアムヘアが無造作に垂れて、その下の、まだ火照りのとれない顔が、微笑んでいる。

「おれもカエデのこと、好きだよ。」彼は彼女に、優しく声をかけた。「中二の時さ、初めて男子に告って、駄目で、ひとりで教室で泣いてたときに、なぐさめてくれたこと、今でも忘れないよ。おれがカエデと付き合うの断っても、こっちが、その、欲情できないって分かってても、じゃあ友達ならいいでしょ、って、ずっと一緒にいてくれたよね。そりゃあ、下心なんか、すぐ分かるもんさ。けど、……いつだって本気だったのも、ほんとに感じてた。それは、いつも、うれしかったよ」

 アサヒはカエデの頭を少し引き寄せると、彼女の鼻に、自分の鼻で触れ、こすり合わせた。

「だから、おれたちは、たぶん、ここまでならいい。……カエデの言う通りだよ。ほんとの気持ちを言っちゃったら、おしまいなんだ、おれたちの関係も。けど、おれたちは、ほんとの気持ちを分かってて、あえて、言わないでいられる。おしまいにならないで、なら続けられる。そんな特別な関係に、いつの間にかなったんだよ。だよね?」

 それは、彼から彼女への、やんわりとした拒絶であり、許しのようだった。

 カエデは涙を拭い、鼻をすすりながら、何度も頷いた。

「そうだね、……、そうだね」

「そんで、今日の話はお互い、ノーカン。それでいこう?」

「うん。うん……」


 カエデが落ち着いたところで、アサヒはからだを転がして彼女から離れると、起き上がり、あぐらをかいて座った。

「――そろそろ、夕ご飯食べに行こうよ。もうお腹ペコペコ」

「だよね。あんたは十日、栄養液だけだったからね」カエデも顔を上げる。「ちょっと待ってて。顔洗ってくる」

「ん」

 彼女が洗面所から戻ってくると、二人はどちらからともなく、手を繋いで、客室を出た。

「食事処は三階だって」カエデが言った。

「お酒飲みたい、お酒」とアサヒ。

「予算があるので、ほどほどにしてください」

「そんなの、うちの実家マネーがあるじゃん」

「さすが、仕送り成金で暮らすひとは違うね」

「特別な関係じゃないと、マネー出さないし」

 二人が背を向けて、旅館の廊下を遠ざかっていく。客室の広縁には、電動車椅子と空の容器が残されて、宵の口の薄暗がりの中で、静かにたたずんでいた。



 純情と欲望が媒介しても混ざらぬふたりスープのなか


(終)

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