海月の掌

きづき

第1話 なんでもない日のお祝いに

 廊下に出た途端、ふわりと花の香りが漂った。

 あ、知ってる。

 私は、この感覚を、知っている。

 遅れて、玄関に芳香剤を置いたことを思い出す。今朝、昭紀の実家から届いた荷物の中に入っていたのだ。お煎餅から手作りのエプロンまで、緩衝材代わりに詰められたものの一つ。機を逸せば義母の心遣いを戸棚で眠らせるだけだと、早々に開封した。

 シュッシュッと浴槽に洗剤を吹き掛けながら、琴美は鼻の奥に先程の甘さを探す。

 覚えのある感覚、あれはいったい何だったろう。よみがえるのは、もっと蕩けるような花の匂い。デジャヴではなく、実体験だ。扉を開けて、濃密な空気に包まれる。驚きと、歓びと、――ああ。

 記憶を引き当て、琴美は思わず顔を覆った。

 狭い玄関で差し出された花束。爛漫と咲き誇るそれとは対照的に、昭紀は控えめな笑顔を浮かべていた。下がった眉から照れと不安を読み取れるくらいには、一緒に時を重ねてきた。だけど、と琴美の頭は騒めく。記念日ではしゃぐほど、二人とも若くないじゃない。花束をプレゼントって、本当にやる人いるんだ。まさか、自分の身に起こるなんて。こんなことするようなタイプじゃないでしょう?

 次々と浮かぶ冷めた意見も、焼け石に水だった。むしろ、そうしないとバランスが取れないくらい舞い上がっているのだと思い知らされるばかりで、押し寄せる感情に景色が滲む。

 意外とロマンチストなんだね。一年も付き合ってたのに、初めて知ったよ。

 悪あがきのように付け足した言葉も、最後まで声にならなかった。


 

「そうだ、これに入れたんだっけ」

 腰を伸ばしながら、愛用の洗面器に目を落とす。

 花瓶なんておしゃれなものが琴美の家にあるはずもなく、とりあえず一晩は洗面器に浸けておいたのだ。翌日、二人で買ったガラス瓶へ移し、シューズボックスの上に飾った。陽の光を宿したようなビタミンカラーの花束は、出勤時にも帰宅時にも明るく照らしてくれた。

 それだけであれば、こうして思い出すこともなかったかもしれない。何より印象的だったのは、匂いだ。辺りに満ちる、鮮烈な馨しさ。玄関へ続く扉を開ける度に全身を包み込む蜜は、ひたひたとあの日の幸福感を呼び覚ます。喉の奥から爪先まで染み渡る甘さに、琴美は幾度も酔いしれた。

 追想と共に廊下の空気を思いきり吸い込み、リビングへ戻る。

「お風呂、洗ってくれた? ありが……何、にやにやしてんの」

 ソファーに横たえた上半身を持ち上げ、昭紀が怪訝そうな顔をした。

 その頭上には、百円ショップの麻紐で束ねられたドライフラワーが下がっている。

「思い出に浸ってたの。私たち、やっぱり似たもの夫婦なのかな~って」

 昭紀と肘置きの狭い隙間に体を割り込ませれば、冷えた手を労わるように握られた。

 独り暮らしのときより家事を覚えた今なら、もう少し器用に作れるだろうか。

「なんで? どこが?」

「えー、そこは考えて欲しいなぁ。ほらほら、びしっと当ててみて」

 花の命は短い。分かってはいても、捨ててしまうのは忍びなかった。自分にもロマンチックなところがあるのだと、琴美に教えてくれたのはこの人だ。

「はい、わかりました」

「はい、昭紀さん」

「二人とも、焼肉が好物!」

「……正解!」

 目映い彩りも、心を満たす馨香も、かつての華は見る影もない。けれど、褪せて乾いた不格好な花束は、二人の部屋によく馴染んでいる。

 ねぇ、と琴美はいたずらめかして囁く。

「今からさ、焼肉、食べに行っちゃおうか」

「えっ、いいの? なんで、何記念だ、ちょっと待ってて。支度する!」

 慌ただしく部屋を飛び出した背中に、元気だなぁと笑ってしまう。ばたんと閉められた勢いに乗って、甘い香りが鼻をかすめた。これから二人で持ち帰る煙と油は、きっとこの芳香を台無しにしてしまうのだろう。お世辞にもロマンチックとは言い難いそれが、昭紀と紡ぐ暮らしの匂いだ。だから、もしいつか。どこかでふいに、花と焼肉の混じり合った匂いを感じたときは。

 今日のことを思い出せますようにと、琴美は小さく願った。

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海月の掌 きづき @kiduki

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