第8話
辛勝を勝ち取ったリゼの一部始終をウツヨは過剰な使用で痛み始めた目を辛うじて開けて見届けていた。空間が元の色に戻っていく。床の穴や壁の穴も規模が段々と縮まるように小さく、物を落として凹んだようになる。
「よしゃ…」
そう呟いた声が空間に溶ける。誰も言葉を受け取る人間はいない。引き分けみたいな形だが勝ちは勝ちだ。ほとんどリゼに戦ってもらったお陰でウツヨの体には最初の転がり込んだダメージだけだ。ウツヨは死闘を繰り広げていたリゼの介抱に向かう。そしてリゼの様子を見るためゆっくりと歩き始めた。
しかし転がり込んだダメージでもうすでにボロボロで、眼球からは水分が全て蒸発しているかのようにカサカサでギリギリと痛みを発していた。少し休憩が必要だ。リゼの様子は気になるのだが、こちらが倒れてしまったら元も子もない。
一度目を閉じる。崩れたあぐらでその場に座り込み、可能な限り手で視界を塞いだ。呼吸をするたびにズキズキと目が痛み、表情が歪む。パチパチと目の奥がスパークしているような感覚すらある。モニターや画面を一日中眺めていたときの疲れをたちが悪い感じにしたものが一番近いだろう。
「ちょっと酷使しすぎたか」
もう少しだけ休憩したらリゼのもとに向かおう。そう考えると目で沸騰しているような血が冷めたような気がして少し痛みが緩んだ。
しかしそう思ったのもつかの間、痛みがぶり返す。おかしなことにまぶたを透過して外の視界が見えてくるというおまけ付きだ。まるでまぶたや手なんて無いものであるかのように外が見えている。はっきりと鮮明にだ。そして痛みがまたぶり返してくる。
「動けって?」
まるで早くリゼを助けに行けと言わんとするような体の反応にうんざりする。自分の目なんだから大人しくしておいてほしい。
外の世界に触れたばかりのウツヨがこの症状に出会うのは初めてだったがこの魔眼は何でも知っている。ウツヨはこれがまぶたや手を通る僅かな光を目が拾い上げている結果であると直感する。目の使いすぎで目玉が自分の制御から外れた超高感度のレンズのような目が変になっている。
はぁと息を吐いて。気合を入れる。立ち上がって手を離す。ほとんど光のない場所で慣れた目が光にさらされてさながらフラッシュのように燦然と見えなくなったが、幸い光の程度を自動調整する機能はまともに動くどころか調子が良いようで視界がすぐに戻る。
しかし今度は透過するのではなく逆に異常にかすんだり、目の前に焦点が合わずに体育館外の建物がズームじみてよく見えたりもするきかん坊になってしまった。
「目薬はこんな疲れ目にも効くのかね?」
嘲笑気味に軽口を叩いたはいいものの、魔眼はもうすでに疲弊しきっていることを感じていた。今にも目を閉じてしまいそうになる。これは困った。
古今東西、病気以外で目が痛くなる要因などしれている。重篤な病気かもしくはアホな無茶だ。徹夜でゲームをしてしまっただとか、自然を慈しんで一日中散策したとか、日焼けを恐れず日光浴をしていたとか。文化病とも言うべきか。現代文化人にとっては切っても切り離せない眼精疲労というやつだ。
もっともこの魔眼はそんなものとは無縁の強度を誇る。徹夜でゲームもパソコンとにらめっこなんのその。もはや太陽を直視しても壊れないだろう。オーバースペックも極まれり。
だから普通の目のように使っていればなんの問題も起こっていなかっただろう。
しかし初めて有意義な使い方、本来の性能を十二分に発揮すべく負荷をかけた。あまつさえ使ったこともない使い方で慣らし運転もなし。いきなりフルスロットルで全力疾走である。無理をしすぎだ。
「はぁ~」
まだ頑張らないといけない現実に困った溜息が出る。
無理をしすぎたからと言って何も目が壊れてしまうような重大さはない。短距離走の選手が全力で走って世界記録を叩き出して倒れたとしても休息を取ればケロッとしているだろう。同じようにこの魔眼も鍛えた力ではなく潜在能力が高い。つまり普通の人に出来ないような無茶をしたところで休息を取れば治る。
しかし頭を悩ませるのはリゼの存在だ。彼女がいる以上、寝るといった長期間行動不能になる行動をしてしまえばリゼを介抱することはできなくなる。
明らかに多量の血が影の槍攻撃によって飛び散ったのが見えた。落ちた後の姿はまだ見てないが立ち上がったりしない以上無事ではないのだろう。訳があって動けない状態とも考えられる。
もしかすると意識すらないかもしれない。そういう状態ならあの血の飛び散りようだ、手当をしなければ命に関わるだろう。
だからそれを解決しなければ二進も三進も休むも寝るわけにも行かない。
考えを巡らせて眠気を訴える頭を鈍らせ、リゼのいる場所まであと数メートルまで来た。ところが焦点が合わない。未だにきちんと確認はできずぼんやりと見えるだけだ。
戦闘が終わったときよりも目の熱は増している。まぶたが焦げつく感じもする。
とぼとぼ、よろよろとゆっくりと歩いてリゼの元へたどり着いた。一瞬リゼの姿が見えたと思ったらぼやける。相変わらず焦点が合わない。とりあえずリゼの横に座り込む。
「あーもう」
自分のこめかみを目掛けて叩いてみる。一見すると馬鹿みたいに見えるのだが、ブラウン管神拳というそれはそれは高尚な技が使われているのだ。
そうしたことを数度続けていると幸いなことに目の焦点があってきた。叩いて治ったのか、叩いて頭が馬鹿になったからなのか、元々の馬鹿が治ったのか、はたまた偶然か。定かではないがリゼのことが鮮明に見えるようになる。
リゼは肩を血で染めながら床に伏し、険しい表情でまぶたを閉じて、肩で息をしている。こちらが近づいたことにも気が付かない。やはり意識がないようだ。
「おーい」
ウツヨは意識がないリゼに話しかける。反応はない。
うつよの知識を探る。出血が続く状態はまずい。まずは止血をしなければ。リゼの意識がない以上は魔術などの非常識な治療方法も期待できないため、上半身の服を脱いで止血帯を作る。その場しのぎだが使えるだろう。消毒はできないが、速やかな止血が生命維持には必要だ。リゼの胴体を持ち上げてこちらの足をリゼと床の間に差し込む。これで肩が浮いた状態になって処置ができるだろう。リゼを浮かせながらなるだけ力の入りそうな向きに体を動かして止血帯で肩口をこれでもかと強く縛り付ける。
「ん゛んっ」
意識がないはずのリゼが呻く。傷ついた部位を無理やり圧迫したのだからかなり痛いのだろう。腕が斬れたときもかなり痛そうとうつせは思ったようだが、はたしてどちらが痛いのだろうか。腕が切れたときのほうがやはり痛いのだろうか?そんなことを考えているといつの間にか処置が終わり、リゼの肩口から流れる血は止まった。
「おー終わった終わった」
やってやった感を出しているが、ウツヨに応急処置の知識はない。それどころか自らの服をどのように割けば止血帯に変えられるのかということすら知らない。
だから今、ウツヨが片手間に行えたと感じる応急処置自体にウツヨの介在はない。ウツヨは応急処置をしたいと思っているだけだった。
なんなら処置を始めた段階ですらウツヨには手順を想像することや道具を用意する考え自体がなかった。なんとなくで進めつつ、それっぽく処置しようとしていたぐらいだ。
「あぁーちかれた」
大丈夫だと判断したウツヨは、背中から倒れるように上向きに寝転んだ。また目を閉じる。治療のために勝手に、意思とは関係なく働いていた手を動かしてみる。今は自分の思うように動く手だが、何かに突き動かさせられるように治療していた。
疑問には思うがボロボロの体と、目が痛みを訴え続けている頭では答えは出なかった。ウツヨにはどちらでも良かったという部分もある。
少し休憩しようと思考を打ち切る。
この後のことは何も考えていない。治療を受けたいし、リゼに治療を受けさせてやりたいのは山々だが、あいにく行くだけの元気がない。そもそも病院に行こうにも、場所がわからない。学校から出るのですら少し時間がかかるだろう。
うつよから思い出すように少しだけ知識は得たが、あいにくもっと多くの情報を得るにはしばらく時間がかかるだろう。うつよはいつ起きるだろうか?起きれば傷を治療できる場所を知っているだろうが…。
ドッガン!!!
突然、落雷の爆音と地震のような衝撃が体を襲う。いつのまにか寝てしまっていたようでびっくりして飛び起きた。飛び起きたときにはすでに衝撃は収まっていたので、目を開けるとゴォっと音を立てて外からの風が吹き込んで目の乾きを促してくる。
手で風を避けながら周りを確認すると体育館の屋根と壁がごっそりとなくなっていた。壁と天井を切り取るように大穴が開き、その穴からはすっかり夜になってしまった空が見える。
そして風通しの良くなった建屋とは対象的に建屋だったものは床に散らばっている。
その瓦礫の上。人が立っていた。
「なぁ」
タバコを持ち、気だるそうに。眼の前の人物が声をかけてくる。
白いシャツと黒いパンツをラフに着こなし、肩あたりで後ろ髪を一つにまとめたを持つ美人な女性がそこにはいた。日本人らしからぬ顔立ちだが、髪は黒い。
「ここで…何があった?」
彼女は喋る途中でタバコを一吸いして、吐いた紫煙が立ち上るより早く、火種ごとタバコを握りつぶして落とすように捨てた。スッと彼女が一歩踏み出そうと足を出すと、瓦礫が彼女におそれをなしたように姿を変えて階段となる。そして当然かのように彼女はその階段を降りてくる。
彼女はただ喋っているだけだ。声も激昂しているとか、威圧的だとかではない。むしろ声色は社交的ですらある。しかし目からの情報を受け取った頭は危険を訴えていた。
それはかろうじて回復した魔眼からの警鐘。彼女の体を覆う魔力が尋常ならざるという情報。その魔力は一般人のものでも、影のようなものでもない。
強いて言えばリゼの纏っているものに似ているがそれも違う。リゼのものよりも超高密度で厚みを感じる。高密度すぎるためゆらぎも見えない。
例えて言うなら影やリゼが体に纏う気体だとすれば、彼女のものは体に纏う水だ。
仮にその感覚を武力の違いとして説明するならば、影やリゼを一緒くたに人間と括れるほど明らかに違う。まるでリゼなどを一般人とすれば彼女は戦車のようだと形容して差し支えなかった。少なくとも人間ではなくそういったものを彷彿とさせた。
「何ってのは?」
一歩ずつ近づいてくる来訪者はこちらの発言で歩みを止める。そして、その発言に目を細めてこちらを観察していく。けだるげな表情は相変わらずに呆れたように軽くフッと息を吐き、こう告げる。
「その女の子のことだよ」
声色は変わらず口調も穏やかだったが、少し声のトーンが落ちたように感じる。同時に彼女の魔力の分厚さが更に増していく。彼女の周囲が飽和するように張り詰めて、空気が共振するような感覚も覚える。
言葉の節々、彼女を覆う魔力から威圧感をヒシヒシと感じ、同時に静かな怒りが込められていることを理解させられる。
彼女はまた歩みを進め始めた。その力の強大さに臆したように距離を取るように座ったままで下がるとこつりと何かが腰に当たった。見るとリゼがすやすやと寝ている。あの爆音で起きない睡眠欲に脱帽だ。
尋ねている女の子はリゼのことか?そう考えてすぐに視線を戻す。
ウツヨは少ない知識で考えを巡らせる。この人はだれか?
可能性が高いのは影を操っていた人物だ。派手にやってきたところを見ると自らの使役する獣を殺されて、憤慨しているのかもしれない。しかしそう考えると襲いかかって来ないのが不思議だ。どうしてそのまま殺してこないのだろうか。影はこちらを殺そうとしていたし、その流れで行けば殺されそうなものだが…?なにか目論見があるのだろうか?どうやって倒したかを聞いて次に活かすとか?
ウツヨはそこで考えるのをやめた。こいつが誰かなんてのは関係のないことだと。とりあえず少しでも死なないためには会話をすればいいのでは…?と。
この眼の前の兵器じみた人物がリゼのことを聞きたいという気があるうちは殺されないだろう。ならば話し込んでやろうと。ウツヨは適当に話を引き伸ばすことにした。
「一朝一夕の出来事だが、涙なしでは語れない話で少し時間が掛かるがいいかな」
そんなことを言う。しかし彼女の動きは止まることがなかった。それどころか全く反応もなく、同じ速度で近づいてくる。しかし魔眼には彼女の魔力が溢れ出るようにバチッと電気のように跳ねたのが映る。
後ろに下がろうにもリゼよりも下がれないため距離がだんだんと詰まる。ウツヨは両手を胸辺りまで上げて、止まれか降参のジェスチャーのように手のひらを向ける。
「まあ待てって、この女の子の話を聞きたいならそう急ぐなよ」
ウツヨには先程写世と初めて話してから今までの記憶はあるものの、それ以前の記憶はない。それだけではリゼに何があったかを語るには足りないし、いくら劇的に話そうがものの数分で話は終わるだろう。だから話を引き伸ばすために急いで頭の中の知識をかき集めてそれっぽい話を作ろうと夢想する。
リゼと出会った写世がウツヨと対話するまで、ウツヨが外を知れるのは限られた知識だけだった。生活に必要なもの、生きるために必要なもの、魔眼のものだけ。まるで穴開きの辞書のように、経験を伴わないツギハギの知識としてウツヨはそれをたどることでのみ情報を得ていた。
だから夢想しようとしてウツヨは驚愕していた。何時ものように知識を得ようと考えると、たちまちに情報が洪水のように溢れ出したからである。穴開きだらけの本の穴開きが埋められ、ページ数すら膨大に増えた本。それがいくつも本棚に並ぶ、そんな壮観さを携えたように感じられるようになった記憶がそこにはあった。
色形もバラけているし、キレイな記憶ばかりでもない。一見すれば膨大なだけでゴミのようにも思える情報の詰め合わせだ。だがウツヨにはこの世の全ての知識がここにあるのではとすら思えた。
そして喜び勇んで写世の記憶を見る。もうウツヨの頭には話を引き伸ばそうという当初の目論見は頭からすっ飛んでいた。
写世の記憶をたぐるように思い出して体感する。今日の初めから全てだ。体感している記憶によって笑みがこぼれた。まぶたを閉じる。幸い視界がまぶたを透過することはなかった。
「まずはそうだな、朝起きて服を着替えた。朝ごはんは納豆と卵焼き。塩っ辛いが、悪くない。これがおいしいってことか」
「?」
ウツヨは今までの知識を補強するように、写世の記憶を噛みしめる。眼の前の人物は歩きながらではあるがそんな様子にほんの少し首をかしげて、それからグッと拳を握りしめた。
「通学、授業。なんだ写世はエラくつまらなかったらしいな?かわりに受けさせて欲しいぐらいだね」
「もう放課後か。あーあー、リゼに投げられてやんの」
ウツヨには見えないが、少し目の前の女の目元が反応を見せた。話にリゼが出てきたことと、ウツヨの後ろにいて傷だらけのまま眠りこけるリゼの姿を見たからである。
「よーし大体わかった。じゃあまずは自己紹介から俺の名前はみかがみうつせ…」
目を開けて自己紹介しようとしたところで頭を叩かれた。グーで。強い衝撃が頭から走り、舌を思いっきり噛み、それでも受け止めきれない衝撃が首にまで伝わって首が縮んだようにすら思える。
そして叩かれたのに呼応するように視界が回る。まるで顎に拳を受けたかのように視界がはっきりしない。耳鳴りもする。そしてヒリヒリとした舌の痛みと共に口の中に鉄っぽい風味が広がった。その突然の痛みで思い出したかのように記憶の中のリゼがフラッシュバックする。
「はぁ…バカ弟子が」
「えっとなんだっけな」
ため息と共に発せられる呆れ声にこちらの頭には疑問符が浮かぶ。続いて、心底めんどくさそうな間の抜けた声が聞こえて来たが耳には音としてそれが届くばかりで何を言っているかなど入って来ない。
リゼについて説明して欲しいと言われ、説明を試みた。反応を見るにおそらくそれは間違っていない。だから話す前に自己紹介をしようとしたら殴られた。
最初は適当に話を引き伸ばすつもりだったし。仮に適当に話を作っていたのだとしたらそれを糾弾されてもおかしくはない。それで叩かれたのなら納得はしないが理解はできる。
しかしコイツはいきなり叩いて来やがった。なんの話もしていないのにも関わらずに、だ。わけがわからない。
そう考えているとパンッと拍手の音が聞こえた。
惑するもの、戎するもの、存するもの
此を知ることは能わず
されどそこに居するものなり
その本質は律なり
今、律狂わせ給え!
彼女がそう言い放った瞬間、周囲の空気感が変わる。空間そのもの全てがざわざわと意志を持ったように動き出すような妙な感じ。周りから視線を浴びせられているような。悪寒がして皮膚が粟立つ。
「盟友シュエの名を借り、小妖精に請い願う。彼の者を縛り付け、その自由を剥奪せん」
「アブねっ」
彼女の発言とともに床が盛り上がり始める。音もなくグラグラと動く地面に倒れそうになり、体を支えようと手をつこうとする。しかし手を床につくことはできなかった。
正確に言えばつくことができたが両手、そして両足が物理法則を無視して床にめり込んだ。まるで底なし沼に落ちた人のように体が腰辺りまで埋まってしまう。
「何だっ、これ!」
答えはない。頑張って抜け出そうとするも先程までの泥のように柔らかかったのが嘘だったかのようにただの床に戻っている。床がめり込み、腕も足もこれっぽちも動かない。
「中々派手だね」
発言とは相反してつまらなそうに体育館の天井あたりを眺めながらそう呟く暴力女。
彼女の視線の先を追う。もう数少ない可動部である頭と幸いなことにもう普段通りまで回復した魔眼でキョロキョロと見回す。すると超高速で何かが飛び回っているのが見えた。あれは…先程の天井の瓦礫か。もっと言ってしまえば瓦礫の中でも小さく変形した鉄骨の部分やボルト、ナットなどの細々とした金属が宙を舞っている。
視線を戻すと手にはいつの間にかリゼがいた。足首を掴まれて、運ばれている。
「リゼをどうするつもりだ」
あまりにもな扱いに目が余ったのか、リゼを連れて行かれたくなかったのか。そんな声をかけていた。
「別に?連れ帰るだけさ」
特に悪びれるでもなくサラリとそう答えた。視線の先は変わらず飛んでいる金属群に向いている。
しかし今度はいささか不思議そうな顔をしていた。だが少し考える素振りを見せたかと思うとなにか得心いったのか少しうなずく。
「そうか、それじゃ運びやすい枷を頼もうか」
足の下の方からグッと押し出されるように床からはじき出された。まるで勢いよくはみ出たシュークリームのカスタードのような形だ。五メートル強だろうか。
多少爽快感がある空中だったがすぐに不快感に変わる。それは空中に飛び出した体が当然の反作用として自由落下を始めたからである。
「・・・っ!」
あまりにも急な変化にきちんとした声は出ず、言葉にならない声が喉から出る。急速に落ちていく体に走る落下の衝撃を考えて身震いするが、落下に対して体を動かせるわけでもなく自然に任せて落ちていく。ミンチにはならないだろうが、見てくれの悪いひき肉ぐらいにはなるかもしれないと思った。
ガキンッ!
そういった音とともに体が急制動で止まった。幸いにもひき肉にはならなかったらしい。体は宙ぶらりんで吊り下げられている。足先から地面までが30センチほどだろうか。
見れば、体には拘束衣じみた金属がまとわりついている。
ぐるりと体の周りを腕ごと縛り上げるようなもので、肩、肘、太ももと留められている。ついでに言えば手首も動かないのでどうやらそちらも縛り上げられているらしい。
「なるほど…まぁ、いいか」
眼の前の彼女は少し顔が歪んで不快感を見せる。なにか気に入らなかったのだろう。その発言が終わると同時に体が地面に落ち、周囲の雰囲気も元に戻る。静かになった体育館の中で何もできずに転がっていると、携帯電話の発信音が聞こえてきた。簀巻きで顔から転がっているし、枷が鉄製のために転がることもできず足元しか見えないが、どうやら電話をかけているらしい。繋がった。声だけだが随分と朗らかに話している。
「うん、そう。・・・・・頼むよ」
電話が終わるとどこから取り出したのかガムテープで口どころか口から後頭部までぐるぐる巻きにされる。
発信音が聞こえてから喚いて邪魔しようとして文字通り足蹴にされたり、終いには「ここにいるアホがうるさい」だのと散々な言われようだったのでそれが癇に障ったのかもしれない。電話先の相手にも相当な痴れ者か大馬鹿であるという印象がついたかもしれない。
足首を掴まれて体が削れていくようにゴリゴリと運ばれる。幸い仰向けになったおかげで顔面が削り取られることはない。
反対側の手にはリゼが再び捕まってこちらと同じように床を磨かされている。声をかけようとするが「ムー、ムー」としか発声できない。
彼女の目を目覚めさせられればと思ったが、相変わらずよく寝ている…。いやよく見れば彼女は軽く痙攣しながら気絶している。やれやれ通りで起きないわけだ。
そんなリゼを見ていると鼻からなにか垂れてくる。動けないので確認はできなかったが仰向けであるのでそのうちに口に達する。なんとも言えない金属臭さと塩っぱさを感じる。ウツヨには初めての体験であったが、知識を漁ればすぐに答えは出た。どうやら鼻血が出ているらしい。頭がくらくらしてきた。
「あっ」
そんな声が聞こえる。そしてその声と共に唐突に目が回り始めた。例えて言うならぐるぐるとその場で回転した後まっすぐ歩けなくなるあれを前後左右上下で同時に起こしたような。バーティゴを起こしたパイロットのようだとも言えるかもしれない。
飛んでいるような気がするが?という意識のまま、ただ目から見える景色どころか目に映る全てが流れ星の粒のようになって後方へ飛んでいく。
方向感覚が全ておかしくなる。胃どころか内臓すべてががひっくり返るようなその感覚に意識が遠のくのと同時に何かが胃か、脳みそあたりから迫り上がり口から出ようとしていた。
血の味と初めて体験する嘔吐感、それと貧血じみた頭の浮遊感が混ざり合い急激に限界を迎える。結果的に言えば、ウツヨは盛大にモドしたのだった。
魔法遣いの近似正《ニアイコール》 北米米 @hakuro3269
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