第二夜《呪い》

呪い

 殺そう、と思った。

 なぜそんなことを急に思ったのかは分からないが、それを見た時、確かに私はそれを殺そうと、殺さねばならぬという激情に駆り立てられた。


 手がじんわりと汗ばみ、体が震え、身動き一つ取れない状況であるにもかかわらず、私は奴を殺すことを望んだ。


 眼前、五メートル先。奴はニタリと笑みを浮かべてこちらを睥睨する。私のことを嘲笑うように、奴は体を揺らしてこちらを観察していた。

 月明かりなき暗闇の中、私は奴と対峙したまま、立ち尽くしていた。


 不意に、右手に何かが触れる感覚が走った。反射的に力を込める。柄のようなモノだ。

 私は視線を落とした。そこには小刀があった。


 手元の小刀を認識した瞬間、奴は信じられぬ速度で私の方へと迫ってきた。私は慌てて身を翻し、奴の首元あたりに小刀を振るった。手応えはなかった。

 奴が背後に回ったのに合わせて、私も後ろを向いた。奴は再び五メートルほど離れたところで止まり、こちらを眺めてくる。笑みは浮かべていなかった。


 1秒も立たず、奴は再び迫ってきた。今度は少し奴の動きについていけた。突進を避けながら、今度は奴の右肩に小刀を振るった。やはり手応えはなかった。


 また奴のいる方向に目を向けたとき、私の右手に靄がまとわりついていることに気がついた。一体なんだと思って触れてみるが、何も変化はない。振り払おうとしても左手は空を切るばかりだった。


 ぴしゃん、という音と共に小刀が光った。それは私の目を焼き、奴から注意を背けてしまう。光は一瞬で収まった。恐る恐る目を開けると、右手の靄はすっかり散っていた。

 それどころか、奴の姿もどこにもなかった。背後に回り込まれているのではないかと思ったが、そんなことはなかった。奴の影は、ぱったりと消え失せていた。


 私は安堵し、いつの間にか手にあった小刀を道端に捨てようとした。だが、その小刀は手に張り付いて取れる気配がなかった。


 私は悪寒がして、その小刀を左手でグイと引っ張った。それでも取れない。皮が剥げてしまいそうなほど強く引っ張っても、その小刀はびくともしなかった。


 小刀をどうにかしようと試行錯誤している最中、私はうっかり小指の先を軽く切ってしまった。ポタリ、と一滴血が垂れて、小刀にかかった。

 その直後、私は左手に激痛を感じた。ぎゃっ、と悲鳴を上げて倒れ込み、その拍子に右胸に小刀が刺さった。


 刺さった部分がひどく熱く感じた。それは左手と同等の苦痛で、私は何度も悲鳴を上げた。

 見ると、私の左手の小指がまるで紙のようにくしゃくしゃになって、ゆっくりと形が崩れていく。指、掌、前腕、ゆっくりと浸食していく。後に残っているのは鉄臭く赤黒い湿った砂だ。


 崩れたところの感覚はない。まるで初めから左腕などなかったような感触に、私は吐き気を催した。

 胸の辺りも似たようなことになっていた。小刀が刺さっているところを中心にくしゃくしゃとつぶれていき、ゆっくりと穴が開いていく。それは体内にも侵食していき、やがて内臓が剥き出しになり、それも同じように崩れていく。


 私は激しくえずいた。胸に穴が開き、ひび割れた骨や蠢く内臓が砂となって散りゆく様はあまりに醜悪で、崩れた部分の感覚がまるでなくなっていくのはそれ以上に恐ろしかった。


 胃液が腹部から漏れ出す。崩れていく体を覆うように流れるそれを見て、再び吐いた。


 左腕は既に潰れ、左肩もほとんど跡形もなくなっている。崩れゆく体の激痛は増すばかりだ。

 腰から下が分断された。胴は殆ど砂となり、赤黒く地面を染めている。なのに、足の感覚はより鮮烈に脳に伝わる。



 痛い。痛い。痛い。痛い、痛い、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい。



 思考が鈍る。耐えきれずに咆哮を上げ、地を這いずった。崩れた体の端が擦れてぐじゅりと音を立てる。想像を絶する激痛が脳髄を貫いた。

 私の体はもう胴の右半分と頭しか残っていない。他は全て崩れて消えた。


 そして、次第に残ったどうも崩れゆく。肺に穴が開いて呼吸ができなくなる。心臓が潰れて血が溢れ出る。かろうじて動いた右手で仰向けになり、その光景を見てまたえずいた。口から出るものは何もなかった。


 小刀が地面に当たる音がした。もう既に首から下の感覚はない。ゆっくりと、ゆっくりと侵食されていく。


 最初に、口が潰れた。全く無意味にぱくぱくと動かしていた口の感覚が、幻想のように消えてゆく。


 次に、鼻が潰れた。周囲に漂う錆びた鉄と酸の匂いがきれいさっぱり感じなくなった。


 そして、耳が潰れた。微かに吹く夜風の音がぱったりと止んだ。


 空は黒い。月どころか星一つも見えない。周囲の家はカーテンを閉め切って、電気をつけているところはどこもなかった。


 不意に、正面に満月が浮かんだ。綺麗な、大きな満月だった。私はそれに目が釘付けになった。


 だが、一瞬で消えた。

 目が、潰れた。


 体を失っても、顔を失っても、脳味噌だけになっても、まだ意識は鮮明に残っていた。最後に残ったそれが侵食される感覚は、ひどく苦痛で、不快で、恐ろしかった。

 何も考えられない。どうしてこうなった、と自問してもまともに頭がうごかない。なにもわからない。なにがおこって、なにが、なに、これ、





















 ──わたし、は、し、んだ、の、か?


 ──い、しきは、ま、だ、のこっ、て、いる


 ──から、だ、のかん、か、くは、ない




 ──ひ、と、を、こ、ろ、せ


 ──さ、す、れ、ば、な、ん、じ、い、き、か、え、ら、ん




 ──そう、か、ひ、とを、こ、ろせば











 ──ひと、ころす

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胡蝶の夢は闇に散る 22世紀の精神異常者 @seag01500319

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