後
粘性の強い半透明の黄色い液体と、それらが絡みついた野菜くずの様な固形物が、展望回廊の床にまき散らされる。それらは、未だ広がり続ける血だまりの中に、島の様に広がっていく。
口内に押し込まれていた目玉は、既に胃液にまみれて視界を確保をできなくなっていた。残った左目で見える視界に、黄色い半透明の膜がかかる。
不快極まりないものを強制的に見せつけられ、再び胃から何かがこみ上げてくるが、それがあふれ出すより前に、男が私の口へ手を突っ込んできた。
何か鋭いものが、口内で暴れまわっているのが分かる。頬の内側が、滑らかな切り傷で埋め尽くされ、舌は見事に細切れになって喉の奥の胃液と混ざっていく。
――前歯が、折れた。口腔内の刃が当たって、根元からいった。冷たい様な、熱い様な感覚が、鮮烈な痛覚と共に脳に伝わる。口内の鈍い痛みと異なる、まるで神経を直接刃物で切り付けたかのようなそれは、私の声帯を強制的に使わせるには十分すぎた。
水中で息を吐いた様な気泡の音が、喉から漏れる。その直後、男の手指の隙間を抜けて、再び胃液が噴き出した。
男が、マスクの下で不快そうな呻き声を漏らす。そして、私の口に突っ込んでいた手を、思い切り振り下ろした。
ゴギリ、と嫌な音がしたと思えば、私は自身の血液と吐しゃ物の池の中に、勢いよく顔面を叩きつけていた。強烈な酸の匂いと、錆びた鉄の匂いが尾行を蹂躙し、三度目の嘔吐感を催す。
最早内容物もなくなり、空気だけとなった胃の中身を吐き出した後、私が知覚したのは首と鼻の痛みだった。どうやら先程男に振り回されたときに折れたようだ。鼻は顔面を叩きつけた時か。
行き過ぎた痛覚と言うのは逆にそれを鈍らせるらしく、私は少しずつ痛みが引いていくのを感じていた。そして、それと同調するように薄れていく意識。
……恐らく、私はここで死ぬのだろう。そう悟った。
――だが、運命というのはどこまでも残酷らしい。私はこの後、更なる苦しみを味わうことになる。
*
あれからどれだけの時間が経っただろう。
私は、この展望回廊に来て、男に追いつかれてからずっと、休みなく全身を痛めつけられ続けた。
右目を口内に入れられ、その口腔内も徹底的に蹂躙した後は、仰向けにされて注射を打たれるところから始まった。
股間に打たれたそれは、どうやらアドレナリン注射だったらしく、遠のき始めていた意識は一瞬で、強制的に引き戻された。
意識の回復とともに鮮明になる激痛に悶える私を見て、男は一つ頷いた後、四肢の切断を始めた。
そこから、二十本の指を全て根元から切り落として、鼻や耳、
四肢は完全に根元から持っていかれたので、私はうつ伏せのまま、胃液にまみれた右目でそれを見ていた。途中、幾度も吐き気を催したが、口から漏れるのはかすれた息のみ。何も吐き出す事はないし、声帯を完全に破壊されたせいでまともに声も出ない。
結局、私はさしたる抵抗も出来ず、男の作ったスープを全て飲まされる事となった。舌がない故に味を感じられないのは僥倖だったが、しかし匂いだけでもかなりの破壊力。それの素が、自身の指だと一度考えてしまえば、もう無理だ。
私は一度は飲み干したそれを、一分と経たずにすべて吐き出した。何度も何度も胃液を通している所為で、口腔内の傷が染みて痛い。わずかながら溶け出している気配もある。
次は何を、と考えた所で、私の胸に金属板が生えた。それはたっぷり十秒間体内を蹂躙し、多量の血と肉、そして砕けた肋骨の破片と共に抜き取られる。
首が動かせず、傷口の状態を見る事は出来なかったが、恐らくは下手なスプラッタよりも悲惨なことになっているのだろう。先程から脳に訴えてくる、終わりなどなさそうな新鮮な痛みが、如実に物語っている。
男は大穴が空いた胸に、指がなくなった両手足の根元を差し込んだ。丁度私の胸から四肢が生えているような感じだ。
私はまたも嘔吐感を覚えたが、胃が潰されているのかこみ上げる感覚はなかった。吸った息も、肺に入った後胸の傷から漏れだしているようで、ヒュウヒュウと微かに音を立てている。いや、この音は私の喉からか。
そして、男が初めて「これで最後だ」と声を出した後、私は顔にこびりついた胃液や血液をふき取られ、綺麗になった頬に包丁をあてがわれた。
その包丁はゆっくりと動き出し、まるでリンゴの皮をむくように、私の顔の皮を剥いでいく。
生傷が冷風に曝される、冷たい痛みが頭部を覆い始める。男は顔面だけでなく、側頭部、頭頂部、後頭部も念入りに皮を剥ぎ、その際に切り落とされた髪の毛は全て、胸の傷口か口腔内に入れられた。
細い髪が、傷を刺激して痛い。少しは引き始めたかと感じていた口腔内の痛みも、髪の毛を入れられたとたん復活し、胸の痛みと共に私の精神を蝕んでいく。
――金属が落ちる音が、展望回廊に響く。顔の皮を剥ぎ終わったのだろうか。
それを考える間もなく、私は頭を掴まれ、仰向けのまま引きずられ始めた。
朦朧とする視界に広がる外界の景色が、少しずつその面積を広げていく。やがてその視界の左右が茜色に染め上げられると、男は途端に頭を離し、私は後頭部をしたたかに叩きつける事となった。
ミシリ、と、およそ人体が鳴らしてはいけない音が耳を打つ。痛みは感じない。最早私の神経は仕事をしていなかった。
茜色から、黒味がかった赤色になった視界の中、何も考えず呆けていると、突如ガラスが割れる音がした。続いて、風が勢いよく吹き荒れる轟音。
その直後、私は下腹部を掴まれ、持ち上げられる。そして、展望回廊のガラス窓、その割れている一角の前でつるし上げられた。
その時ガラスに映った私の姿は、まるで理科室脇の倉庫にある壊れた人体模型の様で、薄気味悪いことこの上なかった。
しかし、その姿を見る事が出来たのも一瞬だけで、私はすぐさま割れた窓の隙間から外に体を突き出された。
風が冷たい。全身の痛みを上書きするように、高所の風は執拗に私の体を痛めつける。
――手が離された。私の視界は急加速し、体を打つ風もその激しさを増す。
地面が急速に近づくのが、視界の端に見て取れた。私の右目は口内にあるので何も認識できないが、残った左目がやけに鮮明にとらえていた。
先程までアドレナリンで強制的に覚醒させられていた意識が、再び急速に遠のいていく。まるで白いもやがかかるように、ゆっくりと、ゆっくりと。
――知覚した、頭蓋骨が粉砕する音と共に、私の意識は完全に消し飛んだ。
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