そこは、階下と同様に昼間でありながら人は一人もいなかった。環状の広大な空間は、その広大さ故に圧倒的な空虚さを生み出していた。

 自分で選んでおきながら、私はここに来たことを少し後悔していた。何故かと言えば、ここには身を護る、もしくは身を隠すのに適した場所が圧倒的に少ないから。

 観光施設として開放されている以上、確かに店はある。店があるという事は、多少なりとも妨害に使えるものはあるのだ。だが、その絶対数が、ソラマチに比べて圧倒的に少ない。

 そもそも、ここは上空四百五十メートルの高さにある。万が一があってそんな高さから落ちれば、まず助かりはしないのだ。

 選択を誤ったな、と、私は全面ガラス張りの壁の先、鉄の樹が林立する人口の樹海を眺めながら、ぼんやりと考えていた。

 ……だが、あの男がここにたどり着くまでにはかなり時間があるだろう。それを考えれば、これは良い選択だったと言えるかもしれない。そう思考を捻じ曲げて、強制的に明るい方向へと舵を取る。そうでもしなければ、無用な自己嫌悪に囚われて、自ら命を差し出すことになりそうだったから。

 思考を切り替えた後、殺人鬼の狂気凶器から逃れるための身の隠し場所を探し始めた。幸か不幸か、今は人が一人もいない。その為、普段は入れないような場所――『関係者以外立入禁止』と表示されているような場所だ――も、無理をすれば入れる。

 私は兎に角、エレベータから遠く、障害物の多い場所を求めてさまよい始めた。


     *


 ――その後、私が絶望に浸るまでにはそう時間はかからなかった。

 私が身を隠そうとすると、その障害物はたちまち姿を消し、何の変哲もない空間へとその形を変え、エレベータから離れようと走っても、エレベータは私の背後、大体二十メートルほどの位置に移動している。外の景色は確実に流れているのだが、エレベータとの位置関係は全く変わる事はなかった。

 私がこの空間に来てからどれだけの時間が経っただろう。五分? 十分? 一時間? それとも――

 まだまだ高い位置にあると思っていた太陽は、既に西の地平線にその身を埋めようとしている。空は茜色に染まり、徐々にその輝度を落としていた。

 走り続けて、もう足が限界を迎えている。これ以上走れば、ぽっきりと折れてしまいそうだ。痛みすら感じない領域に至っている。

 私は完全に力尽き、鈍色の光沢を放つ床にへたり込んだ。

 ――そして、それを見計らっていたかのように、悪魔の鐘が鳴る。

 ちぃん、という、エレベータのチャイム音。その後に響くドアの駆動音。それが、私への死刑宣告。

 足音は静かで、しかし圧倒的な怒気を孕んでいるのが背中越しでも伝わってくる。きっと、夏に不釣り合いな恰好をした殺人鬼は、私の血に濡れた包丁を握りしめ、私を殺すことだけを考えているのだろう。

 全身から嫌な汗が噴き出すのが分かる。これから何をされるのかが、容易に想像できるから。……いや、私の想像を絶するような事をしてくるかもしれない。こういった輩は、往々にして常人の予想を超える事をするのだから。

 ――足音が止まる。丁度、私の後ろ、三十センチメートルほどの距離だ。

 私は恐怖に顔を引きつらせながら、ゆっくりと後ろを振り返った。

 ……瞬間。

 私の右頬に、包丁が突き刺さる。まるで豆腐を切っているかのように刺さった包丁は、私の血液で紅色に染め上げられていった。

 痛い。痛い。痛い。

 まるで右頬を鉄塊で叩き潰されているかのようだ。痛みのあまり絶叫を上げるが、それは虚しく響くばかりで、何の意味も為さなかった。

 ぐじゅり、と生々しい音が耳に響く。同時に、右頬が妬ききれる様な感覚。どうやら包丁を捻ったらしい。右頬に、手が入るほどの大穴が空いた。

 傷口から流れる真紅の液体が、私の服を染め上げる。一体何リットル流れているのか、その血は私の足元に大きな血だまりを作った。

 痛みで力が入らない。手で体を支えているのもやっとだ。視線は完全に下を向き、殺人鬼の足元しか見られない。

 ――不意に、殺人鬼がしゃがみこんだ。スキー帽とマフラー、サングラス、マスクで覆われた顔が、視界に入り込む。

 暫く私の顔を眺めていた男は、何やら納得したように一つ頷くと、包丁を自らの服で拭う。そして。

 ……最初は、何をされたのか理解できなかった。否、理解したくなかった。

 気が付いた時には、男の包丁は私の下の瞼に刺さっていた。そして、目玉の周囲をぐるりと一周し、最後に先でひっかけるように、私の目玉をほじくり出したのだ。

 これまで経験してきた痛みが擦り傷に思えてくるほど強烈な痛みが、右目を中心に全身を苛む。これによって完全に力は抜けきり、私は自らの血だまりの中に倒れ込んだ。

 錆びた鉄の匂いが、私の嗅覚を刺激する。……本来は、もう既に出血多量で死んでいるのだろうと容易に想像できるほど、おびただしい量の血が視界に広がっていた。

 ほじくり出された目玉は、私の肉体と完全に切り離されたにもかかわらず、何故かその機能を失っていなかった。残った左目で見る視界と、男の手の中から見る視界が混ざり、吐き気を催すような強烈な違和感を脳に与えてくる。

 男は、倒れ込んで血の海で呻く私を楽しそうに眺め、それをどこからともなく取り出したカメラに収めた後、おもむろに私の右の目玉を、私の口の中に押し込んできた。

 あまりの不快感に思わず嗚咽を漏らす。まさか、人間の目玉を食べる時が来るとは思っていなかった。しかも自分のものだと言うのだから尚更性質がわるい。

 ――腹の奥から、何か熱いものがこみ上げてくる。それに気が付いた時には、私の口内は酸性の粘液で満たされていた。

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