胡蝶の夢は闇に散る

22世紀の精神異常者

第一夜《殺人鬼と私、そしてスカイツリー》

 視界が歪む。

 歪む。

 歪んで、歪んで。

 ようやく収まったと思えば、そこにはこちらに体を向ける一人の男がいた。

 先程まで私は、東京スカイツリーで買い物をしていた。だから、周りには沢山の人がいるはずなのに。

 私を除いて、周りにいるのはその男だけだった。

 場所は確かにスカイツリーの下にある、ソラマチの中。目の前の男の背後には、私が気に入っている牛乳ソフトの店がある。

 先程まで、そこには沢山の人が並んでいた。大学生らしき青年、幼子を連れた母親、旅行に来たと思われる外国人、老夫婦。

 その光景は、はっきりとではないにせよ、確かに目に入っていた。

 その周りを、老若男女様々な人が、楽しそうに笑いながら歩いているのも、確実に知覚している。

 それなのに。

 今私の目の前には、たった一人の男しかいなかった。

 その男は、奇妙な恰好をしていた。

 夏だというのに何枚も上着を着こみ、下半身も厚手の黒いズボンをはいている。スニーカーとズボンのすその間から覗く靴下も、毛糸で編んであるようでかなり厚かった。

 手には黒い手袋。指にぴったりフィットするタイプの毛糸の手袋だ。首には、厚手の紺色のマフラー。頭には、これまた厚いスキー帽と、ふかふかした耳当て。

 顔はマスクとサングラスで隠れていて、よくわからない。

 そんな、どこまでも奇妙な男だった。


「……えっと、その、そんなに厚着して、どうしたんですか?」


 私は、その男に声を掛けた。何故そんな事をしたのかは、今でもわからない。ただ、私は無意識の内に声を出していたのだ。

 私の声に反応したのか、男はピクリと体を動かした。

 そして、私に返事をするでもなく、男はおもむろにポケットへ手を突っ込んだ。

 そこから取り出されたのは、一つの包丁。刃渡りが三十センチメートル近くありそうな、そこそこ大きな包丁だ。

 私は、窓から注ぎ込む陽光を受けて眩しく光るそれを見て、ようやく目の前の存在が『殺人鬼』あるいはそれに類似する存在だと、認識した。

 それを理解した瞬間。

 その男は駆けだした。私に向かって、力強く一歩を踏み込んできた。

 その速度は尋常ではなく、私がそれを認識した時には、既に視界には男の顔しか映っていなかった。

 包丁が、振り下ろされる。シュッ、と空を切る音がして、次の瞬間、私の左肩が熱くなった。

 まるで熱した鉄を押し付けられたように熱い。その熱さが、左肩から徐々に左腕に流れていくのも感じる。

 ――切られた。そう気づいた時、私は痛みと恐怖で絶叫し、目の前の殺人鬼に思い切り体当たりした。

 これも何故うまくいったのかは分からない。だが確かに、私の体当たりは功を奏し、男は包丁を取り落として目の前に尻もちをついた。

 逃げるなら今しかない。包丁が辿る軌跡をなぞる自身の血液を眺めながら、私は出入口へと走り出した。

 左肩が痛い。痛すぎて最早左肩以外の感覚が抜け落ちてしまっている。

 だが、ここで痛みに囚われて立ち止まっていれば、死ぬのは目に見えているのだ。私は、死から逃れたいという一心で、ひたすら駆けた。

 男はすぐに立ち直り、床に転がった包丁を握って私を追いかけて来た。どす、どす、と重い足音が背後で響く。

 足止めにならないかと、出入り口付近の店にある商品を、手が届く範囲でひたすら床にばらまいた。カラーコーンや植木も、合わせて倒した。

 耳がいたくなるような騒音を無視して、何故か開いたままの自動ドアを潜る。私が外へ出た瞬間、自動ドアは機械音を鳴らして閉まりだし、カラーコーンに躓いた殺人鬼を、外界から隔離した。

 先程まで冷房の風で冷やされていた身体が、情け容赦のない陽光にじりじりと焼かれ、あっという間に湿りだす。左肩の痛覚と共に、全身を細い針でつつかれているような、奇妙な痛みがあった。

 何とかなった。そんな安心感を抱き、詰まっていた息を吐きだす。だが、次の瞬間にはガラスの割れる嫌な音が耳に響き、私は再び緊張の糸を張る事となった。

 男が、窓ガラスを割って外へ出ようとしていた。まだ人っ子一人通れないような小さな穴しかできていないが、その内大人一人が楽に通れる大きさになってしまうだろう。

 そうなればおしまいだ。そうなる前に逃げなければ。

 そう思って、私はスカイツリーの中へ逃げ込んだ。

 スカイツリーの中は、ソラマチと同様に冷房が効いていて、とても涼しかった。汗が乾かされて、寒いぐらいだ。

 相変わらず左肩は痛い。良く見れば骨まで達しているのだから、当然だろう。今も赤黒い血がどくどくと流れ出し、服を染め上げ、床にヘンゼルとグレーテルの小石の道しるべ宜しく、等間隔に赤い斑点をつけていた。

 私は左腕を抑え、痛みをこらえながら、展望回廊へと上がるエレベータまで駆けた。

 やはり、何故そうしたのかは自分でもわからない。だが、それが正しい事だと、その時は思い込んでいた。

 たどり着いた先、エレベータは一つだけその大口を開けていた。まるで、私がやってくるのを待っていたかのように。

 私はその中に、ためらいもせず飛び込んだ。その瞬間、扉がゆっくりと閉まる。

 エレベータの内装はかなり豪勢で、黒い壁面に金色の装飾がきらきらと輝いていた。天井は全面が白い照明で、エレベータ内を淡く照らし出している。

 エレベータに乗り、ボタンを押すと、ゆっくりと上昇する感覚に襲われる。暫くすると、気圧の影響で耳が痛くなってきた。

 数分間乗っていると、ようやくたどり着いたのかエレベータが止まり、ちぃん、とチャイム音を鳴らして扉が開く。その先には、以前数度見たことのある、展望回廊の風景が広がっていた。

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