手、離して良いよ

七海けい

第1話


「手、離して良いよ」


 怖がる君に、宙ぶらりんの私は言った。

 断崖絶壁に、腕を伸ばした君と私の二人だけ。

 もし君が手を離したら、私は奈落の底に真っ逆さまだね。


 でもね、


「手、離して良いよ」


 怯える君に、私は言った。

 だって、君との思い出は、もう十分すぎるくらいにあるんだもん。


 私、覚えてるよ。

 君が初めて、私の手を取ってくれた日のこと。

 周りにたくさん可愛い子がいたのに、こんなに地味な私を選んでくれて、ありがとう。


 私、覚えてるよ。

 君は心配性な人だから、私が迷子にならないように、私の体に名前を書いてくれたよね。


 私、嬉しかったよ。

 君は几帳面な人だから、私の服がほつれないように、服の四隅を切り取ってくれたよね。


 私、嬉しかったよ。

 君は真面目な人だから、私の首をへし折ったり、私の体に穴を開けたりしなかったよね。


 御陰でね、私、今とっても幸せなんだよ。


 ……それからね、


 私、知ってるよ。

 君が学校で、隣の席の子に恋してるってこと。


 私、こんなことも知ってるよ。

 君が昨日の夜、その子にラブレターを書いたってこと。

 つたない字で、つたない文章で、一生懸命書いたことだけは伝わるだろうけど、それ以上のことは、あまり期待しない方が良いんじゃないかな。


 ……ぇ? そんなことは分かってる?

 ……ぁあ、そっか。結局、ラブレターは家に置いてきたんだよね。


 ……だから、私が落っこちないといけないんだよね。


「手、離して良いよ」


 臆病な君に、私は言った。


「手、離して良いよ」


 健気な君に、私は言った。


 やっと、彼の指先から力が抜けた。

 それで良いんだよ。


 私の手は、彼の指から滑り落ちた。



*****



「──〇〇君。君の消しゴムが転がってきたけど」

「ぁ、……うん。……その、拾ってくれるかな?」


「良いけど。はぃ」

「ありがとぅ……」




~終~

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手、離して良いよ 七海けい @kk-rabi

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