目は口ほどに

tab草

目は口ほどに

「世界の声が聞こえるときって、どんなときだと思う?」


 八月から九月になったといっても急に季節は変わらない。昨日と同様にセミの声は聞こえるし、開けた窓から湿度の高い熱気が流れ込む。


 長期休みの明けた始業式の午後、屋上へと続く階段の踊場に呼び出された僕は先輩である小高早織の問いに小首を傾げる。無難にテキトウなドラマのセリフを引用してみるが、満足な回答ではなかったらしく小高は卓に肘をかけて、小さい鼻を左に曲げる。


「蓼丸君、そういう凡な答えは求めてないの」

「はあ、僕は結構気に入ってるセリフなんですけど」

「そんな程度で満足してるの?」

「シナリオ的にはじめの山場で盛り上がる箇所なんですよ」

「そんな程度で満足してるの」

「二度言われるとちょっとつらいです・・・」


 すねたように見返してくる小高を背に溜息を堪えながら身体を伸ばす。窓から外を眺めると校庭には運動部員の喚声がたわみ、気温に負けない活気を見せている。


「映画もあるんですけど面白かったですよ」

「映画の感想なんてそれこそ求めてないわ。思い出なんて口から出た瞬間に戯言だって言うし。それにあの作品は、自分で息をしている実感が湧かない人物ばかりでつまらない」


 そう言って小高はマンゴーラッシーをすする。つまる、つまらないは感性の問題だろうが、それでも「となりのあの子はヴァンパイア」なるタイトルの小説を愛読している小高に言われたくはない。


「回りくどいのが悪かったわ」


 小高は大きく呼吸をしてから、ほっと頬をふくらませ目で僕に空いている椅子をすすめる。ここにある机と椅子は夏休みの間にあった学校見学の際に設置されたものだろう。片付けられずそのままになっていた。


「あなたに言っておきたいことがあって」


 席に着くや否や小高が切り出した。小高の目は思っていたより冷静で、僕は短く息を呑み口の端を引き締める。深い色をした目は切り絵のようで、顎のあたりで切り揃えられた髪が、涼しげに揺れている。


「実はね、わたしリベラル・シンドロームというのにかかったらしいの」

「はあ?」

「なによ、その顔」

「あ、イヤ・・・」


 思わず間抜けな声が洩れた。言葉を接ごうと思ったが、僕の頭には何も浮かばなかった。リベラル・シンドロームという言葉が僕を戸惑わせる。そういう症状があるという話は聞いたことはあるが実際に患っている人を見るのははじめてだった。しかもそれが小高なのだ。


「聞いたことないかな」

「ええと、ちょっとくらいは」

「人によっては二人に分裂したり、他人から姿が見えなくなるようにだってなるらしいの。バニーガールの衣装を着ていても、誰に気付かれることもなく街を練り歩けるわ」

「もしそんな格好をするなら、巨大生物の上をアクロバットな動きで駆け上がって目立つくらいのことはしたいですね」

「確かに・・・十秒数えれば魔法くらい使えてバチは当たらないとは思うけど、あまり目立ちたくないわ」

「魔法よりは、こう、ビルの壁でもどーんと」

「蒻丸君、発想が破壊工作員・・・」

「意味わかんないですよソレ」


 冷静な目に、やわらかな光が揺れながら浮き上がり、僕の心をなごませる。

 リベラル・シンドロームとは都市伝説の類いだったか、多くは思春期の子どもが患う〈病気〉ということだ。ホルモンの急激な変化、身体の成長、それらに対応するため指令を出している脳。当然、脳は通常の何倍も働いている。病気の正体はそんな疲れからくる錯覚だろうと思っていた。


「わたしの、噂は聞いたことあるよね」

「ええ、まあ」

「あなたにも迷惑をかけたわ」

「そんなことは」

「これでも1年のときは、真面目だったんだけどなあ」

「でも、少し悪ぶっているだけでしょう」

「期待に応えなかったわたしがダメなんだけどね」


 小高がいじけたように肩をすくめ、マンゴーラッシーのストローをずるっと鳴らす。

 知り合った頃に耳にした小高に関する噂はいいものではなかった。その大半が誤解だということは今ではわかっている。しかし、レッテルというものは一度貼られれば剥がすのは容易ではない。冷房もないこんな踊場に二人でいるのも、単純に他に居場所がないからだ。


「それで先輩の場合、どういう症状が出てるんです?」

「噂が独り歩きするの」

「噂の独り歩き、ですか。怪談話みたいな」

「ちょっと違ってて、うーん、もう一人の自分がふっと湧いて出るようなのじゃないの。他人が思う、こうであるべきという考えが形になってわたしに投げ掛けられる感じ」

「ああ、その噂というか考えを知ることができるのは先輩だけなんですね」

「そう、周囲の考えが一方的に入ってくるわけ。人それぞれに形にならない声を発しているの。そんなものが不意に現れて、しばらくわたしの意識と遊んでは、やがて輪郭をぼかして消えていくの」

「それが世界の声、ですか」

「様子のおかしい人、とか思ってない?」

「まさか」


 詰まった息を吐き出したのがバレたのか、それとも無自覚に深刻な顔でもしてしまっていたのか。口調のわりに、小高の唇にはからかうような笑みが浮かんでいる。

 僕は肺の浅い部分で、そっとため息をついて話を続ける。


「症状が出たのは、いつ頃からですか」

「実は、もう去年のうちにね」

「えっ」

「それで疲れてしまったのね。色々と投げ出した」

「でも、はじめて会ったときにそんな様子は感じられませんでしたよ」

「うーん、その時はなんか気分が楽になっていたの。花粉症はひどかったけれど。声が見えなくなったのは、今年の春からね」

「声が向けられるものが他にあったということでしょうか」

「きっと、今年の1年生は少し変わった人が多いから」

「確かに」

「あなたも相当変わってると思うわ」

「さいですか」


 小高は僕の反応を楽しむように、うんうんと二度うなづく。頬に垂れた髪が、可愛げに揺れる。


「そして六月、決定打があった」

「アレですか」


六月八日。あの日、1人の生徒が放った〈解決〉という言葉が僕らの世界の見方を変えてしまった。今思えばあれもリベラル・シンドローム、ということなんだろうか。


「あの日からわたしに注がれる視線はさらに減った」

「それで症状も軽くなった、と」

「でもダメね、夏休みでリセットがかかったみたい。教室にいるとちょっと頭が痛い」

「大丈夫ですか?」

「丈夫の語源を考えると、そこは無理しないでね、とか言ってほしいかな女の子は」

「問題なさそうですね」


 よくよく考えると国民的とも言えるアイドルや将来を約束された高校球児が同学年にいるのだから、小高の言う世界の声というものはずいぶん無責任に興味の対象を変えるようだ。


 ふと、階下で女生徒と男性教諭の話し声がした。小高の呼吸の音が少しだけ変わる。


「外、出ましょうか」

「そうね、学校にいるよりは気は紛れるわ」


 そう言って、小高が反動だけで立ち上がる。その後ろ姿は華奢で繊細で不器用だった。


 学校から駅までの距離は短く、道すがら会話を交わすこともなかった。騒がしい飲食店で話の続きをする気にはならず、コンビニで軽めの食事を購入し公園のベンチに腰掛ける。

 昼を過ぎてから日射しは膨張してさらに明るくなり、密度の濃い葉陰はそれだけで涼しげだった。シャツの第一ボタンを外して、襟元を寛げる。レジ袋から取り出した炭酸飲料は一気に水滴を浮かべ、渇ききった僕の喉にしみていく。


「話を聞いて思ったんですが、世界というより世間の声ではないですか」

「世界というワードの捉え方の問題ね。未知と既知、想像と知覚の差といったところかしら」


 小高の方は買ったサンドウィッチには手をつけず、きれいに膝を揃えてハンカチでそっと首元を押さえ込んでいる。鼻の頭には清潔そうな汗が銀色に浮き上がり、白かった首にかすかな陽焼けの赤みが見えていた。短いスカートがちょっとだけ挑発的で、僕は咳払いのように鼻を鳴らす。


「先輩の言う世界とは、あくまで目に見える範囲と」

「いえ、どちらとも言えないわね。不可知の闇に挑む心理はどれほど暗いか、考えたことはあるかな。わからない、というものほど名前を付けて理解した気になりたがる。たぶん生まれついての気質だろうけど」

「日本人的な考えな気もします」

「まあ、日本人は闇を畏れないために、理解できない事象に妖怪という名を付けたくらいだし」

「認識の問題ですか」

「そうとも言えるわ」

「認識の問題なら、仮面を着けるというのはどうでしょう」


 スマートフォンを手に取り、飲みかけの炭酸飲料に貼り付けあったQRコードを読み取り動画サイトを開くと、紫色の髪の女の子がパッと現れ笑顔を向けてくる。飲料のロゴがデザインされたTシャツを着ているが、そんなことはお構い無しとばかりになんの関係もない何かの画集のレビューをしはじめる。

 画面を覗き込む小高の眉が一瞬持ち上がったのは、女の子の声が想定していたものより低かったからだろう。


「蒻丸君、この子・・・」

「流行りのバーチャルアイドルですよ」

「そうじゃなくて声が」

「外見が女の子でも、声が男性というのは珍しくないですよ」

「ふうん。こんなのがあるんだ」

「ネット上だとアイコンがあったほうが楽ですし。こういうキャラクターも世間と関わる上での一つの仮面です」


 小高の頭が少しだけ動いたが、このキャラクターに肯定か否定か、動作だけではわからない。世の中には、SNSの場でさえある意味で委員長的な振る舞いをする物好きだっている。どんな存在でも肯定される場はあるのだから、小高だってもう少し気楽に振る舞っていればいい。


「あなたも仮面をしているの?」

「イヤたぶん、してないんじゃないかな」

「そうね、そんな器用じゃなさそうだし」


 小高が髪をふって、生真面目な表情に物静かな笑みを浮かべる。靴の底が地面を撫でて、乾燥した土の臭気が僕の鼻を通り過ぎた。


「そういえば、先輩には僕の声は見えているんですか」

「ええ、深く考えなくても出てくるのね。とてもわかりやすくて助かるわ」

「考えるのも苦手ですからね。そもそも顔に出やすんでしょう」

「蒻丸君のそういうところ好きよ」


 すこし風が吹いてざわりと木が枝を揺らし、木漏れ日が一瞬、小高の膝頭を横切った。


「みんな、蒻丸君みたいならいいのに」

「世界の声って厄介ですね」

「でも、世界の声が聞こえなくても、わたしの声は聞こえるでしょ?」

「ええ」


 頷いてから、一つの疑問が浮かぶ。小高が言ったように、自分の目で見てわかるものと、わからないものが綯い交ぜになっているのが世界の声というものなのだろうが、僕自身の声はどういうものなのだろうか。自分の中の感情に耳を澄ましてみたが、ざわざわとした動揺が通り過ぎるだけで説明できる感情が見当たらない。僕には自分の声が聞こえているのだろうか。


 昼食を終えて、小高を駅の改札口まで見送る。途中、小高が肩越しに振り返る。


「今度、映画でも観に行かない?」

「いいですね。何か気になってるのありますか」

「これがいい」


 小高が構内に貼られた宣伝ポスターを指差す。ある作家の半生と兄弟愛を描いた作品らしく、ポスターは主人公が書斎のデスク越しにサムズアップしている構図となっている。主人公が参加したプロアマ交流会に、嫉妬で逆上した兄が乗り込んで会場がメチャクチャになる予告編がSNSで話題になっていた。


「落ち着いたら行こうね」


 小高の澄んだ目が僕の顔を見つめ、はにかんだコーラルピンクの唇がにっこり微笑みかける。


 小高と別れてから足早に駅前を歩き、少し入り組んだ路地へと入る。

 他人の問題に首を突っ込んで勝手手前に解決するなんて度胸は僕にはない。そんなものはどこぞの主人公にでも任せるしかない。小高は深く考えない自分が良いと言ったのだから、今は、きっとそれでいい。

 しかし、小高はあの映画で出てくるセリフをたまに引用していなかったか。それほど心待ちにしていたのではないか。世界の声が聞こえる状態で映画館に行ったらどうなるのか。止めどなく沸いてくる思案と一緒に、苦いため息を吐き捨てる。


 路地から表通りに出ると突然、舞台が変わったように人波がクルマの排ガスと地面の輻射熱と、クーラーの室外機の熱を無責任に撹拌していた。

 雑多な靴が無個性に行き過ぎる。振り返った路地からのぞく空には質量の感じられない白い雲がやわらかく浮かんでいた。

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