私とトイレと、トイレと私。

@mukisitu

私とトイレと、トイレと私

私は今自分の心に陰のように忍び寄る恐怖心に飲み込まれそうである。手足は凍え背中からつたつたと汗が滴り落ちていく。


この恐怖心は謎と奇っ怪に満ちた得も言われぬような恐怖心だ。


ことを子細に説明するのは話を5分前までさかのぼる必要がある。


5分前、時計の針は4の数字を1ミリ違わず正確に差していた。切りの良い時間だった。私は作業の途中ではあったが一度休憩をとることにした。


眠くならないようにと大量にコーヒーを流し込んだのが一時間前、つまりは私は大変に尿意を催していたのだ。


私は部屋から出て廊下を歩いていく。冷たい床を踏むといびつな嫌な音がした、部屋の空気が刺すように鋭かった。


奇妙な勘が的中するのが分かるのにまで時間はかからなかった。


鼻の息を止めたくなる程のいまいましい臭い。


蓋が開かれたままのトイレを見つめると理由は分かった。便座の奥には流されていない大便がそのまま残っていたのだ。


これは誰の大便なのだろうか。私は考えた。私の家族はみな寝ている。私が最後にトイレを使ったのは二時間前。


その間に家族が起きた気配はない。


そうなのだ、私の目前にあり悪臭を放っているそれは、紛れもなく私が二時間前に出した大便である。


考えを巡らせるとすぐに分かった。私にはトイレにスマートフォンを持ち込みゲームに夢中になる癖がある。


その癖がこうじて大便を流すことをてっきり忘れてしまったのだろう。


自分の不甲斐なさや情けなさに呆れ多少落ち込むところもあったが、家族に大便を見られずにすんだと思えば幾分前向きな気持ちになれた。


しかし、問題はここからだった。私が自分の大便を流そうとしたその時であった。妙な違和感が心に走った。第六感が働いたとでもいうのか。


私はトイレのレバーからそろそろと手を離した。この違和感はなんだろう。私は大便を見つめながら考えた。


目前には私が出した大便がある。私の出した大便だ。流しても問題ないはずである。むしろ流すべきである。流さなければいけない。


しかし、流そうとレバーに手をかけた時、その瞬間明らかに違和感を感じた事実がある。今こうして目前にある大便を見つめても違和感を感じる。


この感覚はなんであろうか。よく分からない。よく分からぬが違和感は感じる。そこには解せない違和感がある。


こうして私の思索と自問自答が始まった。


私は20歳にして大便を流し忘れた。成人があろうことに大便を流し忘れるなどあってはならぬ。とても恥ずべきそして戒めるべき行為であることに疑う余地はない。


だとすると何だろうか。そうか。トイレに入ってすぐに大便を流そうとしていたのが間違いだったのではないだろうか。私は用を足しにトイレに入ったのだ。


最初に大便を流しては二度手間だ。私は小便を出し、再びトイレのレバーに手をかけた。しかし、拭えぬ違和感は残ったままであった。


ではこの違和感の原因は何なのか。


そもそも私は自分の大便を見るということ自体経験があまりない。それは自分の便を水にいつも流しているからだ。


しかし、今日は違った。トイレに入った時にまじまじと自分の大便を見つめた。すると、もしかすると、私は自分の大便に愛着が湧いたのか?


久々に対面する自分の大便を前に多少の親しみや愛が生まれ、その感情ゆえに流すことを良しとしない心理でも働いているのか。


いや、そんな訳がない。自分の大便に愛着がわく変態でもなければ、親しみを覚える奇人でもない。じゃあ一体何なのか。


拭えぬ違和感と頭を抱え、トイレの中で自我を失いつつあった。


季節は冬、時刻は早朝。私は白く凍えた息を吐きながら、自分の汚れたものをまじまじと見つめている。


いまだかつて自分の大便とここまで向き合ったことはない。おそらく今後の人生でもない。私が大便を見つめているというより


むしろ私が大便に見つめられているのではないか。私は何を言っているのだろう。考えすぎがこうじてついに頭が狂ってしまったのだろうか。


いや、そうではない。私の頭は冴えている。悩み事だって特にない。人生は充実している。しかし、なぜ私が自分の忌々しい大便と向き合わなければならぬ


のか。いっそのこと拭えぬ違和感ごとトイレに流してしまいたい。私はどうしてこうも細かいことが気になってしまう性格なのか。


これは神が私に与えた試練なのか。神は乗り越えられぬ試練は与えぬというが、意地悪な神様もいるのではないか。


そもそも大便について考えるのが何の試練なのか。もしかすると私は大便についてしか考えられない世界に閉じこもってしまって


今この世の中はみんな大便になってしまっているのではないか。いや、もう分からない。何が何だか分からない。


自我が崩壊しそうである。冴えていたはずの意識は混乱をまとってきたように思えてきた。私はこの違和感を拭えずに


一生を過ごすのだろうか。


私は前代未聞の難敵を前に自暴自棄に走りそうになっていた。しかし、かすかに残っていた理性が私に教えた。


人間万事塞翁が馬、幸運なことが不幸を呼び寄せることもあれば、不幸なことが幸福を呼び寄せることがある。


そうだ、こうした時こそ前を向き生きていかなければいけない。プラスに考えることこそ大事なのだ


この拭えぬ違和感をもし振り払えれば、なんと清々しい気分になるのだろうか。きっと未だかつてない程のドーパミンが放出されるのだろう。


そう考えると少しは気持ちが上向く。


そうだ、この大便に対する違和感を払拭したあかつきには、豪華な朝食をとろう。手間をかけフレンチトーストでも作ろう。


朝日を浴びながら紅茶を飲むのもいい。きっと小鳥のさえずりが私の心に癒やしを与えてくれるだろう。


朝食を食べ終われば風呂に入ろう。昨日買ってきたばかりの柔らかいタオルで体を拭こう。気持ちの良い感触がきっと私の体を包んでくれるはずだ。


なんて優雅な朝なんだ。


私は自分の大便と対峙しながら、優雅な朝について考えた。しかし、そう、その瞬間、私の脳裏に一閃が光った。


なるほど、分かってしまったぞ、とようやく合点がいった。私はこの違和感が何なのかついに分かってしまった。


ついにこの違和感の先にあるものにたどりついてしまったのだ。やはり神は乗り越えれる試練しか与えないのだ。


世の中に意地の悪い神様なんていなかった。いや、神は乗り越えられない試練を私に与えたのかもしれない。


しかし、私は不可能を可能にする男。残念だったな神よ。私に試練を与えた神、お前は何という神様だ。


試練の神様か、大便の神様か、それともトイレの神様か?


まあもはや何だって良い。私はこの違和感の謎を解いてしまったのだから。


私は先に、大便が残っていたと言った。それは間違いのない表現ではあるが、正確な表現ではない。


「大便が残っていた」というよりも、「大便しか残っていなかった」というのがより正確な表現である。


それはそうである。大便をしたのに大便しか残っていないのは怖いことである。当然だ。


大便をしたのに大便しか残っていない、そんな世の中はおぞましく、想像しただけで鬱な気分になる。


勘の働く賢明な人ならばもう私と同じように謎を解いてることだろう。きっと私が言わんとしていることをくすくすと笑いながら読んでいるに違いない。


何が起こったのかは読者の想像力と推理力に任せ、物語を終わらせるというのは粋な演出だと私は思う。


しかし、ここまで謎を引っ張っておきながら物語の幕を下ろすには優しさがない。


ヒントは"拭えぬ違和感"と"残っていたのは大便だけ"という2つの文章である。


答えを見る前に今一度立ち止まって考えてほしい。この先には答えが書いてある。私はあなた自身にこの謎を解いて欲しいのだ。


他者から教えられることなく、自力で謎を解いてこそ、気分は晴れ晴れとし心が輝く。


それでは答え合わせをしよう。


「大便しか残っていない」というのは、つまりあれがないのだ。そう紙がないのだ。


そうなのだ。私はあろうことか、便を流さないだけではなく自分の尻を拭くことさえせずトイレから出ていったのだ。


スマートフォンを見つめるあまりにもゲームに夢中になり、トイレを流すことも、尻を拭くことも忘れてしまっていたのだ。


考えて見て欲しい。自分の大便を見つめるという行為自体があまりなく、紙がないことに気づけないのはごく自然なことだ。


普段見ることがないものであれば、紙がないことにはやはり中々気づけないのだ。


ここで「いや、そんなことないぞ。私は大便をよく見る!」と声を上げる民もいることだろう。


君は私に反論すると同時に自分が変態であることを宣言している。変態と声高らかに主張するのはやめよう。


そう、つまり読者諸君よ、私はトイレの中で実に一時間拭えぬ違和感と戦っていた。しかし、拭えなかったのは違和感ではなく、私の尻だったのだ。そして

最後にここまでこのくだらない文章を読んでくれたことに感謝を記そう。


これにて物語は完穴

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