恋する乙女は人殺し

結城れう

第1話

『それでは、次のニュースです。近頃、世界中で急増していた暴力事件。逮捕された容疑者の数は、国内においては今月だけで一万人を超えており、未だ逃亡中の犯人も多くいるようです。逮捕された容疑者にはいずれも共通する特徴があり、普通の犯罪者に比べ凶暴性が増していると言われております。そして、この事件ですが、昨夜午後7時過ぎにWHO、世界保健機関が、新たな病気『猟奇的情動りょうきてきじょうどう殺人病』であると正式に発表しました。今夜はこの新たな病気について、国立医療センターの院長で精神科医である、吉田さんにお話を伺っていきたいと思います。吉田さん、新たに認定されたこの病気、一体どんな病気なんですか?』


『はい、まずは一般的な人と、この病気の発症者を比較して説明したいと思います』



「物騒だねぇ。近頃は」


 朝ごはんを食べながらテレビを見ていると、お母さんが洗濯物を運びながらそうぼやいた。


「琴音、茉殊まこと、2人とも女の子なんだから気をつけてよ」


「別に大丈夫だよ。もう高校生だし。ね? 琴音」


 茉殊は歯を磨きながら、こちらに振り返って視線を送ってくる。



「そうだね」


 私は返事をしながら朝ごはんのパンを口に挟んだ。


 目の前にいるお父さんはそんな私たちの会話に興味がないのか、一人でずっと新聞を読んでいる。



『それが、違うんですよ!』


 いきなり大声で話し始めたテレビからの声に私は思わず顔を向けた。



『普通の人というのは必ず理性というものが働いていますよね? いくら恨んだり、憎んだりして感情的になったとしても、普通の人は他人を殺したりはしません。これは理性が感情を抑えているからなんです。従来の犯罪者というのは、認識を間違えていて理性が歪んでいたり、激情して感情を抑えられなくなり攻撃的になる。こういったケースが殆どでした。しかし、《猟奇的情動殺人病》は、何らかの原因で自我を失い、自分の感情、欲望のままに行動をしてしまうという恐ろしい病気です。まるでその人の人格そのものが変わってしまったかのように……』


『それは恐ろしいですね。その何らかの原因というのは、まだ何も分かっていないのでしょうか?』


 アナウンサーが尋ねると、専門家の人は一呼吸置いて深刻な表情を浮かべた。



『少しだけ分かっていることはあります……。この病気が発症するのは、負の感情が理性で抑えられなくなった時であり、理性が崩壊した時である。その負の感情が具体的に何なのかは未だ分かっていませんが、恐怖や不安、焦燥しょうそう、怒りなど、小さな精神的ダメージやストレスを抱えると発症する恐れがあると言われております。それらが大幅に増幅し、絶望へと変わり、そこから憎悪、怨恨えんこん、殺意へと変わる。具体的な治療法も見つかっておらず、病気が発症する前に理性で抑えるのが唯一の解決方法であると』


『それはつまり……』



 僅かな静寂。女性アナウンサーの一人が息を呑んだように見えた。


『えぇ。誰もが今すぐに発症するリスクがあり、それを治療する手段もないということです』



 その場の空気が凍りついたのが私でも分かった。


 周りを見渡すと、お母さんは洗濯物を干しにベランダに出ていて、お父さんは着替えに自分の部屋に行ってしまっている。茉殊まことの姿も見えない。もう着替え始めているのだろうか。



『恐ろしい病気だということが分かりました。では、吉田さんその病気にかかってしまった人を見分ける手段というのはあるのでしょうか?』


『もちろんあります。ただでさえ社会性を失っている為、行動を見ていればすぐに気づくのですが、この病気にかかった人間は、体の表面に症状が現れます。まずこの病気が発症すると、右目の虹彩こうさいの色が薄く、黄色くなっていきます。逆に強膜きょうまくの部分は濃く黒く染まっていく。右目を中心として、黒く染められた血管が浮き出てきて、やがて体の右半分が黒く染まります。最終的には黒色の血管が全身に広がり、体中の皮膚が全て真っ黒になる』


『なるほど、それなら見分けやすそうですね。組織的な暴動の可能性もありますか?』


『いえ、その可能性はありません。社会性を失っている為、この病気が発症した人は、考え方が個人主義になってしまう傾向があるようです。昼間なら見分けやすいと思われますが、夜になると闇に紛れ、余計に判別しにくくなるでしょう。その為、夜の外出は控えてください』



 物騒な話。そんな病気が本当にあるのだろうか。世界中で流行している割にはうちの周りでは何も起こっていないと思う。


 頭の中で1人考え事をしていると、お母さんが慌ててリビングに戻ってきた。


「大変、雪が降って来ちゃった。急いで洗濯物を取り込まないと」


「雪……」


 雪という単語で思い出した。今日はクリスマス。そして、拓弥たくやくんの誕生日。



「支度してる時にプレゼント鞄に入れなきゃ」


 小声でボソッと呟く。誰も聞いていないことを確認しながら。


 ホワイトクリスマスか……。丁度プレゼントに白色のマフラーを用意していた。寒くなるだろうし、喜んでくれるかな……。



 食べ終えた食器を片付けながら、そわそわ考えていると、玄関からドアを開ける音がした。


「行ってきま〜す!」


 茉殊まことの声だ。まだ7時半だ。私が家を出るのが8時で、茉殊が家を出るのはいつも私よりも10分程遅い。


「あら、今日は随分と早いね。茉殊の遅刻癖も治ったのかしら」


 何かあるのかな。お母さんの呟きを軽く聞きつつ、少し疑問に感じていた。なんだかあまり良い事ではない気がする。



「行ってきます」



 誰に聞こえるわけでもなく、息を吐くように小さく呟き、玄関のドアを開ける。


 空を見上げると、雲で真っ白に染まっていて、試しに息を吐いてみると白くなって溢れた。


 茉殊のことが気になったせいか、いつもより少し早く家を出てしまった。


 髪の毛が少しふわついている気がするが、まぁ、気にしない。今日はそれよりもプレゼントを渡せるんだということに体がウキウキしてしまっている。平然をよそおわないと。


 膝下までの、少し長めな靴下を履いているとはいえ、冬にミニスカートはやっぱり寒い。そのため、少し小走りで学校に向かう。



「なるべく近道しよっと……」


 急ぎ足で高校近くの大通りまで来ると、ここからは歩くスピードをゆるめることにする。この通りはうちの高校の生徒が多く通るため、なるべく急いでいる姿を見られたくない。


 ふと、マフラーに隠していた口元を出し、前方に目を向けると、茉殊の姿を見つけた。男子と一緒に歩いている。隣にいる男子は身長が180センチくらいはありそうだ。



「て、あれっ……」


 思わず目を見開いて足が止まる。茉殊の隣を歩いていたのは拓弥くんだった。拓弥くんは茉殊を見ながらニコニコと笑顔を浮かべていた。


「たまたまだよね……」


 そう口にしながら、2人から隠れるようにして歩みを進める。前方を直視出来ないでいた。



 偶然……、なんかじゃない。本当はわかっているのに。今日の朝、早めに家を出てたのだって。


「違う。違うよね」


 小声で自分に言い聞かせた。本当はわかっているのに無理やり自分を誤魔化した。言い聞かせて気を逸らした。


 認めたくない。認められない……。



 私と茉殊は、中学を卒業するまですごく仲が良かった。双子だから気が合うし、遊ぶ時も勉強する時も大体一緒にいた。好きなものもよく似ていた。


 高校に入ってから、茉殊と一緒にいる時間が減っていった。


 瓜二つで似たようなロングヘアだった髪をバッサリ切ったり。お互いに違いを意識するようになっていった。


 そして同じ人を好きになってからも、あまり仲良く出来ていない。いや、私が勝手に距離を空けてしまったのかもしれない。



 校舎に着くと、今朝のことは忘れるようにと自分の中で消化した。


 今日はプレゼントを渡さなきゃいけない。渡すときに変な顔をしてたら向こうも嫌に感じるだろう。


 休み時間の合間を縫って、拓弥くんを呼び出す。同じクラスだから呼び出すのは比較的簡単だ。



「あの……これさ、誕生日プレゼント。クリスマスプレゼントも兼ねて。拓弥くん前に私にもくれたじゃん」


 マフラーを差し出すと、嬉しそうに喜んで首元に巻いてくれた。


「すごい嬉しい! 今日思ったより寒くて驚いてたんだ。ありがとう!」


 拓弥くんの家は、私の家より遠くにあるため、恐らく雪が降ってくる前に家を出たのだと思う。雪ナイス。


 心の中でガッツポーズを決めると、拓弥くんの予定のことが気になった。


「拓弥くんってさ、今日この後空いてる?」


 表情に出さないように軽く声をかける。


「あ、ごめん。今日予定入っちゃってて。何かあるならまた今度でいい?」


「う、ううん。いいよ、じゃ、また今度声かけるね」


 首を振りながら恐る恐る返事をした。


折角のクリスマスだから一緒に居たかった。しかし、予定が入ってるなら仕方ない。今度じゃなくて今が良かった。



 帰り道、女子グループのみんなと別れ一人で歩く。今日はみんな予定が埋まっているらしく、少しだけ残って会話してから別れた。


 恐らく日は暮れかかっているのに、朝から降っている雪は、止む気配がないように思える。



「コンビニでも寄ってなんか買おう」


 そう思ってコンビニの裏にある公園の横を通りかかると、屋根のあるベンチに拓弥くんが座っているのが見えた。


 息が詰まり、胸が熱くなる。急いで声かけなきゃと公園の入り口に向かおうとすると、園内の外側にあるツツジの木の陰から拓弥くんの隣に座る女の姿を見つけた。


 声を出そうとしても上手く出てくれない。喉から発せられたのは擦り切れたような掠れた声。


「……茉殊」


 寒さのせいか手に力が入らない。肩にかけていたスクールバッグの紐が、するりと片方だけ抜ける。


 拓弥くんの首元には昼間に私が渡した白色のマフラーはもう巻かれていなかった。そして、手には真新しい赤色の手袋を着けていた。



 ドアを開けて家に入ると、中は暗く、誰も帰っていないことが分かった。


 父は忘年会で朝まで家に帰ってこない。母も母でそんな父を他所に最近は夜になると外に出かけることが多い。きっと今日も何処かへ出かけているのだろう。


 荷物を部屋に置くと、そのまま夜ご飯を買いに家の近くのスーパーに向かうことにする。公園の隣にあるコンビニには行けなかった。



 ぼーっとしていると時間はすぐに過ぎていく。気づけばもう夜だ。


 夜ご飯の準備を済ませて、リビングのテーブルの上に、2人分のチキンとシャンメリーを並べる。


 しかし、茉殊は帰ってこない。


「こんなにいっぱい食べきれない……」


 なんだか今日は1人で呟くことが多い気がしてしまった。寂しく感じるからこそ、より、彼のことを考えてしまう。



 何故、自分には振り向いてくれないのだろう。どうして渡したマフラーを巻いてくれなかったのだろう。その理由はわかっている。あいつの所為だ。


 理由はわかっているのだ。わかっているからこそ、涙が溢れて止まらない。そして、他人の所為にしている自分も情けなく感じてしまうのだ。



 夜遅くになると、玄関が開く音が下の階から聴こえ、茉殊が帰ってくるのが分かった。


 私は寝ようとしていたので、部屋は暗くしている。ベッドの上の段に上り、そのまま壁に向かって横たわる。


 階段を上り、茉殊が同じ部屋に入って来た。


 茉殊は私に気を使ったのか、自分の勉強机のライトだけ付けて部屋着に着替え始めた。


 このままもう寝てしまいたい。そう思う心と裏腹に、茉殊が今日何をしていたのか、気になって仕方がない。



 寝ようと思っても、とても眠れなかった。


「茉殊、今日帰りが遅かったけど何してたの?」


ボソリと、背を向けながら着替えている途中の茉殊に訊ねる。


「何って、別に。友達と一緒に居たけど」


「友達って、拓弥くん?」


 震える声を抑えながら訊ねる。実の妹なのに目も合わせることが出来ないように感じる。


 茉殊は数秒の間を空けてから答えた。



「そう。てか、知ってたんだ」


「帰りに見かけたから」


「ふ〜ん、声掛けてくれれば良かったのに」


 私はベッドの中で強く拳を握りしめた。



 声なんて……掛けれるわけないじゃん。


 黙っていると、着替え終わったのか茉殊から声を掛けてきた。



「琴音、最近なんか私に冷たくない?」



 息を呑んだ。目を見開いた後、そのままギュッと閉じた。


 冷たく振る舞いたいわけじゃない。けど、冷たく振る舞わなきゃ平静を保っていられない。悪いのは茉殊じゃない。しかし、身体の何処からかプツプツと、怒りや嫉妬といった感情が浮かび上がってくる。そんな自分も嫌いなのだ。大切な妹に嫉妬している。嫌いになっている。そんな自分が。



「茉殊さ。……私が好きな人いるの知ってた」


 力が抜けたように私は言い放った。


 茉殊はこちらに返事をしてこない。返事を待たず、私は感情をぶつけていく。


「今日もその人にマフラーを渡したんだよ? 誕生日プレゼントだって言って。嬉しがってるように見えた。けど、帰りに見たら首元には何も付けてなかった。なのに、その人は新しく貰った手袋を着けてた!」


「ごめん、琴音。マフラーのことは気づかなかった。けど、私……」


 茉殊の言葉を遮るように私は叫ぼうとした。堪えきれなかった。気持ちをぶつけたかった。もう、終わらせたかった。



 振り向こうとした、その瞬間。部屋の窓ガラスが割れる音が後ろから部屋中に響き渡った。ほぼ同時に真後ろから茉殊の叫び声が上がる。


 起き上がり、振り向く。喉から発せられている擦り切れた声と、興奮し、抑えられず溢れ出る息切れのような音が聴こえる。


 目の前には、壁に貼り付けてある鏡に押し付けられ、首を絞めつけられて藻掻いている茉殊と、茉殊の首を絞めながら、長い黒髪を揺らしている男が立っていた。


 茉殊の背後にある鏡を覗くと、反射して男の黒く染められた腕が映っている。



「なんで……? 何をしてるの」


 驚愕を抑えきれず、声を震わせながら尋ねると、男は振り向き、ニヤリと口を大きく開けて笑った。


 暗くて見づらいが、その顔は真っ黒に染め上げられ、瞳は黄色に輝いている。



「なんだ? 君も殺されたいのか?」



 長髪の男は息を切らし、少しだけ舌を出しながら不気味に嘲笑あざわらっている。


 私は後退あとずさりしながら無言でゆっくりと首を振った。


「ならいいだろ? そのままじっくり見てろよ。妹が死んでいくその様を」


 長髪の男はより強く、茉殊の首を絞め上げた。茉殊は、もう声も出せない様子で必死に耐えている。藻掻いている。



「なんで、殺すの……」


 再度たずねると、今度はこちらを振り返らずに男は言った。



「殺したいんだ」と。



「殺したくて殺したくて堪んないんだよ。楽しくてさ……」


 長髪の男は少し間を空けると、鏡を覗き込んでこちらに向かって囁いた。勉強机のライトが男の顔を照らし、鏡で反射されて、よりハッキリと映し出された。



「君もそうだろ?」



 私は男の顔を見て竦み上がる。そして、男の首元には赤く血で染められた白色のマフラーが巻かれていた。


「なんで……、どうして、その、マフラーを……」


 男は首元のマフラーを空いている左手で握りしめ、生地から手に血を滲ませて答える。



「殺してきたんだ。君の彼氏」


 一瞬で血の気が引くのを感じた。



「見たよ。君が朝、好きな男と一緒にいる妹を、嫉妬の目で見ていたのを」


「見たよ。妹と公園で話している好きな男に、失望の目を向けていたのを」


 そして、男は今までよりも更に嬉しそうに笑顔を浮かべた。



「君が独りでクリスマスの夜をすごしているのを」



「憎いよね。妹が。殺したいよね。失望したよね、あの男に。殺してあげたよ。いいんだ。苦しまなくて、我慢すればするほど、その理性が君を殺すよ」


 私は震えて見ていた。恐怖した。そして、失望した。妹が苦しんでいるのに、動かない自分の体に。


 心の何処かで妹を殺したい自分がいるのかもしれない。心の何処かで、全て終わらせてしまいたい、そう望む自分がいるのかもしれない。



 茉殊まことに視線を向けると、最後の力を振り絞って口から声を発した。



「琴音……ごめん」



 その声は掠れていた。もう力も残っていないようだった。それなのに……、自分は悪くないのに。最後まで私のことを想ってくれていたように感じた。



「やめて……」


 俯きながら小さく呟くと、意外だったのか男は少し力を緩めた。


「なんで? 君も望んでいるよね? 妹の死を?」


「望んでない。そんなことは……」


「嘘だ。今だって震えて見ているだけじゃないか。ほらそろそろ気を失うよ」


 再度、茉殊を見据え、男は力を入れ直そうとする。


 私は、二段ベッドの上から男に向かって飛び降り、男の首に巻かれていたマフラーを掴んで後ろに向かって放り投げた。


 解放された茉殊は、気を失い、そのまま床に崩れ落ちそうになった。


 これ以上茉殊が苦しまないように、必死に支える。



 呼吸の止まっていた茉殊は、激しく咳をした。生きていた。自然と涙が溢れた。


 後ろにいる男は一段目のベッドにもたれ、態勢を整えると、こちらに向かって言ってきた。



「どうして止めるの? 殺すのは簡単なのに。殺せば簡単に終わるのに」


 男の方を振り向くと、そのまま静かに口を開いた。


「妹を殺したって何も変わらない……。妹を殺せば何もかも、全てが終わるのかもしれないけど……、そんなことをしても何も手に入るわけじゃないし……それに自分がより傷つくだけだってわかったから」


 私は口を閉じた後、またすぐに告げた。



「私たち双子は似てる。茉殊が拓弥くんのことを好きなのも、最初から気付いてた。でも気づかないフリをしてた。勝手に諦めて、勝手に身を引いて、勝手に恨んでた。……何もかも中途半端なままなのに全てを出し切らないで諦めるのは違うと思ったから」



 男はこちらを見てつまらなそうに黙って聞いていた。


「ふ〜ん。そうなんだ。けど、いくら頑張ってもあの男は君のものにならないかもしれないよ。もっと苦しむかもしれないよ。それでもいいの?」


 私は男の眼を見て少し微笑ほほえみながら答えた。



「最後まで頑張ってそれなら別に。自分が何が大切なのか分かったから」


 そう言って茉殊の顔を見た。



 男は長い髪を揺らしながら、不服そうに立ち上がり、こちらを見て言った。


「わかった。ならやめるよ。そして君の中に消える」


 何処かで気づいていたのだ。目の前にいた男からは何も感じられていないでいた。恐怖や不安も。それよりも感じていたのは自分に対する罪の意識。この男は自分の中の一部だった。自分自身だったのだ。


 男の身体は徐々に薄くなり、消えていく。



「ねぇ、名前はなんていうの」


 相手が自分だと分かっていながら、私は尋ねた。



「イム」


 忌む……己の中の心。自分自身の心。



 意識が戻り、目を開けて目の前の鏡を覗くと、体の右半分が真っ黒に染まった自分が立っていた。


 体の黒い影は少しずつではあるが減っていっているように見える。


 足元には意識を失い、目を閉じたままの茉殊が横たわっている。


 屈み込み、茉殊の顔を覗くと、かすかにだが目を開けた。


 ゆっくりと体を起こし優しく抱きしめた。



「お姉ちゃん……」


 茉殊は小さく呟いた。力のないその体で。



「ごめんね……本当に……ごめん。大切なのに、失いたくないのに。こんな事したくなかったのに」


 こんな自分が嫌だったのだ。大切な妹を恨む自分が。もう終わらせたかった。解放されたかった。そういった心が、私自身を突き動かしてしまったのかもしれなかった。


 茉殊は「いいよ……お姉ちゃん」そう呟いた。



 泣きながら抱きついていると、妹が右腕を動かしているのがわかった。


「何、どうしかしたの?」


 抱きついていた腕を離し、距離を取ると茉殊の顔を見た。


 茉殊は右を向いて何かを探しているようだ。


 妹の動かす手の先に目を向けるが、自分の溢れた涙が滲んで何も見えない。分かるのは、窓から差し込む月の光だけ。


 涙を拭こうと考え、意識を逸らしたその刹那せつな────



プシッ――。



 何かが月の光を反射した。キラキラときらびやかに輝く、赤い何かが。


 首筋に急激に痛みが走り、感覚が消える。


 下ろしていた左手を上げると、首から垂れた赤い液体が自分を染めていた。


 気が遠くなる寸前、妹の顔を恐る恐る見ると、にっこりと笑っていた。


 その顔の殆どが黒く染まり、右目の瞳は月のように黄色く光っているようだ。右手にはカッターナイフを握っていた。



「次は君の番だよ……お姉ちゃん」

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