第10話 最終話

 最後


 立花豪はスペインに居た。

 芹澤馨と藤田鼎と共に林檎を描いた時から二年が過ぎていた。

 巴里へと向かう芹澤を見送った姿が、彼を見た最後の姿になった。

 彼は巴里へ行った後、欧州を旅して回り、スペインの教会で病気を得た体に無理を重ねて絵を描きながら絶命した。

 立花はその手紙を受け取った後、彼が亡くなったという教会へと向かった。その教会に芹澤馨の絶筆とも言うべき最後の作品が在った。

 それを見るために彼はバスク地方の小さな教会に向かった。

 教会の場所が分から無い彼は村を歩くオリーブの籠を持った子供に声をかけた。

 少年はその教会と絵のことを聞くと頷いて立花をその教会へ連れて行き、マリア像の横にある絵を指さした。

 教会の中には沢山の巡礼者が居て、その絵を見ては胸元で十字をきった。

 その絵を見た立花は唯一言、素晴らしい祈りの言葉だ、と言って静かに頭を下ると、片膝をついて手を組んで頭を垂れた。

 立花は立ち上がると少年にお金を渡した。少年は笑顔でお金をもらえないと言った。

 立花は少年に言った。

「君、名前は?」

 少年は東洋人を見つめながら短く言った。

「チコ」

「そう、チコと言うのだね。ここまで案内してくれてありがとう」

「あなたはカオルの友人ですか?」少年は言った。

「チコ、君は彼を知っているのだね。そう僕は彼の友人だよ。とても大事な友人だった。ありがとう、チコ。彼のスペインの友人にここで出会えたことは神のお導きかもしれない」

 そう言うと立花はひとり静かに教会を出て行った。

 そして彼はウィーンへと向かった。


 ここを訪れるまで十年が必要だった。

 立花は白い窓のある部屋の下の通りに居た。時折立ち止まっていると人の流れにぶつかりそうになったが、立花は少し歩き出すと、ある場所に立った。

 そこで彼女の記憶が蘇ってきた。

 立花は通りを行く人の顔を見た。その中に彼女の顔を見つけることはできなかった。

 立花はポケットから手紙を取り出すと、それを読んだ。

 宛先人は芹澤馨と書かれていた。



「 拝啓 立花豪 様

 立花さん、その後、いかがでしょうか。僕は日々沢山の絵画を見る為、欧州を歩き回っています。今はオーストリアのウィーンのホテルで手紙を書いています。手紙を書きながら立花さんに以前言った言葉が思い出されます。『愛も切り裂けますか?』立花さん、どうでしょう。僕もある言葉が響きます。『愛とは何でしょう?』愛は僕にとって静かな、祈り以外にありません。そしていつかそれを絵画にして見せられるようにできるようになりたいと思っています。立花さん・・・、僕は思うのです。間違っていたら申し訳ありません。立花さんは、ある出来事から本当は逃れたくて、切り裂くような画風を身につけたのではないかと思うのです。それは、愛ではないかと思うのです。それは反面、その愛があった事実を守りたいと思っているのではないかと思います。

 立花さん、アンナさんは今もお元気です。事故以来、彼女は車椅子の生活になっていましたが、最近は杖をついて歩けるほどになっており今はこの街では知らない人はいないと言える程の有名な画家として活躍されています。立花さんが僕に話してくれた美しい青い瞳も、その美貌も変わらないままです。僕は彼女に会って立花さんのことを話しました。彼女は僕の手を握ると、深く頭を垂れて、ゴウに会いたいと言っていました。彼女の住所を手紙の最後に書いて置きます。それではもう夜も遅いので、眠ります。また再び日本で会えることを信じて。

 1974年12月 クリスマス」



(芹澤君、君の愛は祈りなのだ。それは幸せに皆がなって欲しいという祈りなのだ。僕は君から聞いた藤咲純という女性に会った。彼女は君に出会えたことを感謝していると僕に言ってくれた。そして僕に君の最後の作品を見てきてほしいと言った。そして僕は君の最高傑作をスペインのバスクの教会で見た。素晴らしい作品だった。君はそれだけでなく、僕の為にこのウィーンに来て彼女に僕の祈りの言葉を伝えてくれた。僕は切り裂くように絵を描く。彼女の悲しい事故以後、僕は優しい線で絵を描くことはできなくなった。悲しみが背中を覆って常に自分を苦しめたからだ。そして自分はそんな悲しみが画布の中に浮かび上がるのを恐れるように描くようになり、そして今の切り裂くような線で描くという自分の画風を手に入れた。何枚も何枚も切り裂くように絵を描くのは、それは彼女を愛していたという事実から逃れたいという気持ちからかも知れない。そして逃れたいと思うことで、新しい自分の再生を心の奥で願っているのかもしれない)


 立花は手紙をポケットに入れると、歩き出そうとした。するとなだらかな石畳の路を転がってくる林檎を見つけた。

 立花はそれを拾い上げると、ひとりの少年が急いでその林檎を追いかけて立花の側にやってきた。

 立花は林檎を取り出したハンカチで拭くと少年に林檎を渡した。

「ありがとう」

 少年が立花に言った。

「これは君の林檎かい?」

 立花は腰を屈めて林檎を少年に渡した。少年は首を横に振ると後ろを振り返り、なだらかな坂の先を指さした。

「あの女性の林檎だよ」

 立花は少年の指差す先を見た。

 そこに杖を付いて長い膝下までのスカートを履いた女性が居た。

 立花はゆっくりと背を伸ばすと、静かに少年に言った。

「この林檎を僕に頂けるかな、この林檎は僕が彼女に届けに行くよ。だって彼女は僕の大事な・・」

 それ以上立花の言葉は涙で続かなかった。

 少年はそっと立花に林檎を渡すと、杖をついてこちらに歩きだした女性の顔を見て微笑んだ。

 彼女も少年の顔を見て微笑んだ。

 二人の距離が縮まるまでの間、立花は思った。

(芹澤君、僕の君への質問の答だ。愛は切り裂けないものだ。何故なら愛とは切り裂いてはいけないものなのだから)

 やがて近くまで来た二人の影が優しく交わると、少年はそれを見届けてその場所を静かに去って行った。

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バーミリオン色の林檎 日南田 ウヲ @hinatauwo

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