3.幻蝶草原
早めに眠ったまではよかったが、意図せず目が覚めてしまった。
寝台から体を起こして窓へと視線を向ければ、暗い部屋に月明かりが入り込こんでいた。
外から聞こえてくる生徒達の声から判断すると、眠りについてからそれほど時間がたっていいないのだとわかる。
再び眠ろうと寝台に寝そべるが、望んだようにはいかない。寝付きが悪いのはいつもの事だが、ついでに寝起きも悪いのだからどうにも困る。
眠ろうと思う都度、それと反するように頭が覚醒してくる。
しばらく瞼を閉じていたが、一向に襲ってくるとこもない眠気に対してジンは早々に見切りをつけた。
「……」
チラリと窓から射す月明かりを見遣ってため息をつくと、寝台から降りたジンは出歩くための服に着替え、上着と短剣を持って部屋を出た。
行く道に等間隔な灯りがあるため、月が陰ることがあっても足元が見えないということにはならない。
たった今ジンが向かっている先は西の塔の近傍の草原だ。
——薬草原の碧色幻蝶が今が見頃らしい。と、寮室を出てすぐ耳にした生徒同志の会話に「散歩がてらちょうど良い」とジンはその噂の目的地に行ってみることにしたのだ。
西の塔近傍の草原は、多種多様な薬草が採取できることから通称「薬草原」と呼ばれている。
この草原は多くの生徒が薬草を採取し尽くしてしまうような状態にあっても、一日も経てばもとどおりに生茂る事でも有名であった。
何故、それほどまでに採取場の回復が早いのかは、アルトベルトの二つの塔が関係している。
アルトベルト学院の東西にあるそれぞれの塔は、喩えるならば蓋であり、膨大な魔素の溢れでるこの地に、塔を楔として蓋にすることで通常では御しえない魔素を封じている。
封じているとはいえそこから漏れ出る魔素もあり、西の塔の近傍では先のそういった恩寵とも喩えるべき影響があるのである。
そして、その漏れ出る魔素の影響地であってか、もしくは春の薬草原に美しく咲く花々の蜜を求めてなのか、幻蝶と呼ばれる類が集まってくる。
もちろん昼間でも目にすることができる蝶だが、陽が沈み宵が訪れると違った変化を目にできる。
「……これが……」
目的地へと着くと同時に、ジンはただ呆然と息を呑み、情景に見惚れてしまった。
「……幻蝶草原」
呟くように絞り出した言の葉を聞いたものはいないが、周囲では多くの生徒たちが各々に同じ情景を眺めていた。
宵の闇色を照らす満ちた月の他に、草原を漂う灯の碧。それは夢幻のような情景。
薬草原に見られる幻蝶が、春のみにこの地の花々から吸い上げた蜜と、それと混じった魔素を取り込むことで身を碧く輝かせる。
ひとたび四つ羽を広げ動かせば、碧色の光が強弱つけて一帯を照らしだす。
薬草原に映える幻想にいつからか、春の宵のみが幻蝶草原と呼称されている。
ジンは静かな場所でゆっくりと眺めようと、草原内へと踏み入り奥へと歩みを向ける。
幻蝶草原を鑑賞する生徒らの気配が遠ざかる場所まで来ると、ジンは腰を落ち着ける場所を求めて周囲を見回した。
ふわりと舞う碧の光が照らし出した草原に、大きめの岩を見つけてそこへ歩み寄る。
「——うッ!?」
そうして腰を下ろそうと思った矢先、傍から感じた予想外の人の気配にジンは跳び上らざなるおえない。いや、実際に飛び退った。
「み、ミストラル……!?」
ゆっくりと碧い灯に照らしだされた端麗な容姿の少年は、ジンに視線を向けた程度でそれ以上の反応はない。が、その視線の向く先はジンの手元に注がれていた。
ジンは彼の瑠璃色の瞳が何を見ているのかを言わずも察した。それは意図せずとも無意識に少年の体に染み込んだ行為。右手に握る抜き身の短剣。
「……あ。いや、これは違うんだ。つい——」
「——貴様ッ! シオン様に何してるッ!」
これはまずい、と釈明しようとしたジン。しかし、それと同時に後方から浴びせられた女の怒号に振り向く間際、視界の端に何かが飛んでくるのが見え、ジンはそれを薙ぎはらった。
二つに裂けて地面に落ちた硝子の容器と、地面に吸い込まれる液体からほのかに湯気がたつが、それを見ている暇はない。すぐに短剣を掲げ、続く一閃を受けて弾いた。
「ちょ、ちょっと待っ……!」
「黙りなさい! シオン様に剣を向けておいてッ!」
聞く耳を持たない相手の斬撃をどうにか横っ跳びで躱す。躱すとすぐに追撃がくる。それを短剣で弾く。その繰り返しの防戦の中でジンは、さすがに辟易して短剣の持ち手に力がこもりはじめる。
「さきほどから逃げるばかりでッ! 貴様はそれでも男か!」
烈火の如く怒り罵る声が草原に響く。声の主は顔にかかる長い髪を払うと剣を構え直す。
空中を漂う碧色の光がその少女の顔を照らしだす。眉間に皺を寄せ、怒りに燃えた瞳が、主に仇なす敵を討たんと物語っている。
ジンは顔を顰めた。自らに非があることは承知してはいるが、ここまで言われて何も感じないほど温厚ではない。
「……そこまで言うなら受けて立つさ」
言うが同時にジンは地を蹴った。一足で相手の懐に潜り込むと渾身の力を持って短剣を振るう。
「——なッ!?」
驚きに目を見開いた少女が剣で受けようとするも、刹那、甲高い音を鳴らしてその剣が折れた。中ほどから失われた剣の片割れが空中で弧を描き地面に突き刺さる。
「そん……、け……剣が」
呆然と折れた剣を見下ろした後、少女はすぐに我にかえり飛び退って間合いをとった。
「……っく……も、……よくもッ!」
ぎりっと奥歯を噛み締める音が聞こえ、ジンは眉を寄せた。
武器を破壊して早々に終わらせたつもりだったが、これは逆効果だったようである。女はよりいっそう怒りのこもった眼をジンに向けている。
「……武器は折れたんだし、もう終わりでいいだろ?」
ジンは言葉を告げ、短剣を下げた。
そもそも、こっちには争うつもりなど微塵もなかったのだ。こんな夜に好き好んで斬り合いをしたいなどと思うはずもない。そればかりか、ジンが意図せず短剣を抜いたために口火を切ったわけだが、事そのものが誤解でしかない。
「……勝手に終わらせるな! 私はまだッ……!」
少女は折れた剣を丁寧に鞘に戻すと、僅かな間をおいてから小手を掲げる。胸の前に掲げられた指輪が皓々と輝き周囲を照らしだす。
「……おい。
目の眩む光に双眸を細め、ジンは再び短剣を構えなおした。魔力を使って攻撃されるとなると、流石に怪我の一つや二つでは終われない。
右手に持った短剣を前に体を半身にするように構え、ジンは相手の出方を窺う。何らかの魔法でも撃ってくるつもりなのだろうから、それを避けて懐に飛びこむか、もしくは……。何にしてもそれを正面から崩して終わらせる。
あれこれと算段をたてるジンを睨みつけ、相対する少女の方は準備が整ったのだろう、掲げた手をまっすぐに突き出した。
——くるッ! それが判ったジンも地面を踏み締め、しかし思わぬ事に動きを止めた。
「——なッ!? シオン様——!?」
驚愕して動きを止めたのは、魔法を放とうとした少女も同様。いつの間に少女の傍に近づいていたのか、主であるシオン=ミストラルは従者の手首を掴んでいた。
彼女は慌てて突き出していた手を下ろした。皓々と輝いていた指輪の石が光を失い、魔力が霧散していく。
「……クイン。……もう帰るよ」
「し、しかし……奴は——っ」
主の言葉に従者の少女は驚き、そして主に訴えようとするが、しかし、それはシオンの小さなため息と共にかき消された。
「……君らのせいで……蝶がいなくなった」
言われて見渡せば、あれだけ漂っていた碧色の光源は無く、三人の周囲一帯だけが闇夜にほんのりと月明かりのみに照らされていた。
月光で薄暗い中でも認識できるほど、狼狽した少女の顔から一気に血の気が引いてゆく。
「……もっ、申し訳……ありません」
「……もういいよ。……そろそろ眠いし、ボクはもう寝るけど……クインは続けたいなら自由にすればいいよ」
まるで興味がなかったように素っ気なく、小さな欠伸をしてシオンは歩き出す。
従者の少女は主の後を追おうとするも立ち止まり、くるりと顔だけを向けて激情の瞳でジンを睨みつけた。
「————うっ!」
ただ睨まれるだけならば……慣れたものだった。だが、ジンはそれに怯んで二歩下がった。
少女は僅かな時間だけそうしていたが、すぐに踵を返すと主の背中を負って走り去っていった。
そんな少女の背でなびく長い髪を視線が追うままに、ジンは呆然と佇んだ。
「……なにも……泣くことないだろ……」
*****
うっすらと開いたままの瞼から覗く銀灰色の瞳は、先ほどまで夢を見ていた。
息苦しいほどの焦燥と悲痛に喘ぐ。憎悪や慈愛などがぐちゃぐちゃに混ざり合って何度もこの胸の内に刻まれる。
「——……っ」
目覚めの悪い朝であったのは言うまでもない。それは昨夜の寝付きが悪かったせいか、それとも疲れていたからなのか。
僅かに開いていた窓から風が入り込んで顔を撫でる。寝苦しさに汗をかいていたからか、それがやけに心地いい。
ジンは寝台から身を起こすと、額の汗を拭き取って支度を始めた。
「あ! ジンだ! こっちおいでー!」
既に朝食を終えた生徒達が次々と出て行くのと入れ替わるように、ジンが食堂に現れると声をかける少女がいる。
ジンが手を上げて応えると、淡い金髪の少女はニパっと笑って激しく手を振りかえした。
「……お前は朝から元気だよな。——おはようジン」
ジンが手招かれたテーブルまで近づくと、少女の隣に座っていたエーヌが呆れ顔で苦笑していた。次いで小手を掲げてジンと挨拶を交わす。
「ジン、おはよう! 寝坊したの? 早く食べなきゃ授業に遅れちゃうよ!」
「おはよう。——あ、朝食を装ってくれてたんだな。助かる!」
カテラリーを手に早々と食事に手をつけるジン。次々とソーセージを口に放り込む動作の最中、向かいに座る少女がやけに上機嫌に視線を向けてくるが気になり顔を上げた。
「……どうした? 気になって食べづらいんだが?」
「え? あー、えっとね。……ジンは知ってる? 幻蝶草原って呼ばれてる場所があるんだけど」
「ああ、綺麗だったぞ」
「え?」
緑玉のような目を丸くし、まじまじと顔を覗き込んでくる少女に対しジンは小首を傾げた。
「だから、散歩がてら行ってきたんだって、昨日の夜に……て、おい?」
ジンが説明を口にすると、少女は黙ってテーブルに突っ伏した。徐に顔だけを上げると、先ほどとは一変して不機嫌そうに唇を尖らる。
ジンは意味がわからず困惑顔をするが、ジンの隣で紅茶を啜っていたエーヌはクックと堪え笑いをして口を開いた。
「あーぁ、ジンのせいでへそ曲げてしまったな」
「んな!? 俺のせいなのか?」
ジンは目を丸くして少女を見下ろした。リアンは緑玉色の瞳を半眼にして、ジトっとジンを睨んだ。
「……三人で見たかったのになぁ。楽しみだったのになぁ……」
「…………す、すまない」
「リアン、別にジンは悪くねーだろ? まぁ、機嫌なおせって」
さすがにジンより付き合いは長いからだろう。困惑するジンと違い、エーヌはすました顔で少女を宥める。
少女は
「そうだよね。エーヌの言う通り。……ごめんなさい、ジン」
「いや……まぁ、うん。今後は俺も声かけるようにするよ」
しょんぼりと頭を下げるリアンは、まるで幼い子供のようだ。ジンは苦笑すると少女の頭を軽く撫でた。淡い金色の髪がふわりと揺れ動き、窓から射しいる日の光を受けて輝く。
どこか慈しむような気持ちを持って目を細めていると、エーヌがジンを呼んだ。
「ところでジン、聞きたいことがあるんだけどさ……」
「うん?」
ジンが隣に体を向ければ、栗毛の少年は何か面白いものでも見つけたのかのように目を光らせていた。
ジンは何なのかと小首を傾げる。
「さっきから、すげーこっちを……て言うか、ジンを睨んでるみたいなんだけど、何かあったの?」
「?」
言いながらエーヌが後方を親指で指し示めすので、それを確認しようとジンは顔だけ振り返って見た。
所々に設置されている食事用のテーブルへと目を走らせると、二つほど後方に離れたテーブルで、見知った姿が目に留まる。
美少年という言葉がちょうど嵌るような容姿に、少し華奢な体躯の少年。食後のお茶を飲む姿ひとつで育ちの良さを感じさせる。昨夜の薬草原で会ったばかり。シオン=ミストラルだ。
しかし、彼は睨む以前に、そもそもこちらを見てすらいない。静かにお茶に口をつけているだけだ。
——いったい誰がこちらを睨んでいるというのだろうか? と、さらに視線を横に動かすと女子生徒と視線がぶつかった。
「……あっ」
ジンは慌てて視線を逸らして前を向く。頭を抱えたくなる衝動を抑え、ジンはグラスの水を一気に飲み干した。
ジンの隣と向かい側に座る友人らは、ジンと、睨んでいる少女を交互に見やる。二人は興味深そうな目をしてにんまりと笑っていた。
「……あー、まだ睨まれてる……か?」
昨夜のことを思い出すと気が引ける。ジンは途方に暮れる気持ちで両友人へ問うた。
こっそりと覗き見るつもりは毛頭ないのだろう。友人二人は離れたテーブルにいる少女を堂々と確認していた。
「ん〜。すっごい睨んでるね」
「なぁ、ジン。いったい何したんだ? 番犬にアレだけ睨まれているわけだし何かしたんだろ?」
友人の報告とともに、ジンはとうとう頭を抱えた。そして、小さくため息をつこうとして顔をあげた。
「……番犬?」
「ああ、アルラルドのことだよ。——クイン=アルラルド。ミストラル家の従者でシオン=ミストラルの
「うん。ほら、入学式の時も一緒にいたでしょ? 星屑橋でジンと初めて会った時、ミストラル君と一緒にいた……」
入学式のあった日に東の塔の前にかかる星屑橋で、キールら貴族の子供と対立した時に通りがかったミストラルと、その時に彼の傍にいた少女の迷惑そうに顰められた顔を、ジンは思い出した。
「あの時の女子生徒だったのか。それにしても番犬とは……よく喩えたもんだな」
「だろ? ああやって主人の周囲に牙を向けてるから、ミストラルとお近づきになろうとする奴らは二の足を踏んでるよ」
言うとエーヌが視線を周囲に向いたので、ジンも追って周りを見渡した。
エーヌが言った通り、この食堂内ではミストラル家のご子息に隙あらば近づこうと機を伺っているものが多いようだ。
ただ、周囲の生徒らの視線を集める当の本人は、そんな生徒達のことなど気にも留めていないらしいが、その従者に関してはシオンに近づく素振りを見せた者に対して容赦なく睨んでは牽制していた。
「それで? その番犬に睨まれてるジンは何したんだよ?」
再び興味を口にしたエーヌがニヤリと笑う。
ジンは背後を振り返り番犬なる少女を見た。亜麻色の長い髪を一束に結んだ少女が青筋を立てて彼を睨んでいる。
——よほど剣を折られた事を根に持っているのか? いや、主であるシオン=ミストラルに剣を向けた事が原因なのは明白だろう。……もしくは両方か。
ジンは友人達の方へと視線を戻すと、げんなりとして溜息をつく。
「……そりゃあ、番犬が睨む理由は限られているだろう?」
二人の友人は「なるほど」と苦笑して頷いた。
The Guardian 神之億錄 @gamino0969
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