神に愛された王妹の異国暮らし 下

 夕暮れの空を、竜人の翼が割いて進む。ぐるりと旋回し、沢山の神殿の真ん中に据えられた庭園にふわりと降り立ったその腕の中から、ミーリツァはぴょんと飛び降りた。

「いいものが手に入って良かったですわ! どうぞこれを、ツィスカ様にお持ちくださいまし」

「――感謝を。対価を払わねばならん。ミーリツア、何を望む?」

「うふふ、お気になさらず。こう見えてもわたくし、兄様から申し訳なくなるぐらいのお小遣いを戴いておりますの。寧ろ使い道に困ってしまっていたので、有意義な使い方が出来ましたわ」

「了承、した。重ねて済まんが――急ぎ吾等の国へ戻らねばならん」

「ええ、ご心配なく」

 ククヴァヤが本来国交が無い筈のこの国へ入ることを許されているのは、フェルニゲシュよりミーリツァの護衛を依頼しているからだ。しかし同時にククヴァヤは竜人の国の者であり、且つ王の息子という立ち位置である。スチュムパリデスは神人と一定の距離を結び互いの国政に干渉しないと定めている。故に最優先されるのは竜人王イェラキからの命令だ。

 真新しい羊皮紙とペン、インク壺を包んだ布を抱え、ククヴァヤは自らの翼で飛び去った。それを手を振って見送ってから、ミーリツァも神殿に戻る帰路につく。彼の翼を使って街に出た時、周りは大層驚いていたが、竜人を連れたフェルニゲシュの王妹という存在がそこそこ有名であったこと、何より巨体を誇る竜人に近づける勇気のある者がほぼいなかったことも含め、特に問題なく買い物は終了した。菓子作りに使う材料や、故国で見たことも無い種類のベリーも買えたのでミーリツァはご機嫌だ。

「これで何を作りましょうか、サジェッサ様に教えていただいたタルトを……ああでも、ククヴァヤ様にも食べていただきたいから、日持ちがするものの方がいいかしら?」

 楽しく迷いながら足取り軽く、淡色のワンピースを翻していたが、目の端に子供の姿が映ってはたと脚を留める。

「――あの子は……」

 あの時、資料館で転んだ子供が、まるで周りを気にするように何度も振り向きながら、庭園の奥に入っていく。この先は鬱蒼とした自然森が広がっており、あまり入るなとクレアチオネにも言われていたが――それならば尚更、子供一人で入ったら危険が過ぎる。

 数瞬迷い、ミーリツァは決意の瞳で声を上げる。

「申し訳ありません、森の奥へ向かいますわ!お手数おかけしますが、クレアチオネ様にご報告くださいまし!」

 その声は、控えているだろう自分の護衛を兼ねた監視に向けてだ。きちんと説明されたことはないが、そういうものは確実に控えているだろうという確信がミーリツァにはある。事実、気配を消していた彼らは突然の言葉に驚愕していたのだが――当然ミーリツァはそれには気づかず、ずんずんと下生えを掻き分けて森の奥へ進む。

 子供が踏み分けた後をどうにか追っていくと、やがて森の中に打ち捨てられたような廃墟を見つけた。石造りだが非常に小さな建物で、ほぼ朽ち果てていたが――ミーリツァは大きく目を見開き、一点を見つめた。既に扉も無い入り口らしきアーチに刻まれた文様を。

「……死女神様の神紋……!? どうして?」

 見間違える筈も無い、自分が奉じる神の証が刻まれている様を呆然と見遣る。そして入り口から覗ける中に、ぺたんとしゃがみ込んでいる子供が見えて、恐る恐る近づく。

「あの……大丈夫ですか?」

「っ!?」

 子供ががばりと立ち上がり、ミーリツァの姿を認めて恐怖に目を見開く。慌ててミーリツァは両手を大きく広げ、必死に訴えた。

「お、お待ちになって! わたくしは貴方を決して傷つけませんわ!」

「……、……」

 子供は固まっているが、逃げることもなく、そのまままた、ぺたんと地面が剥き出しの床に座る。恐る恐る近づきながらも、ミーリツァは辺りを見渡す。かなり朽ち果てて調度品など碌に残っていないが、黒く塗られた石壁は僅かに残っている。間違いなく、死女神の神殿の跡地だった。

(この子はここで……? いいえ、こんなに嘗て神殿だったところが古びているのだもの。きっとここが捨て置かれたのは、もっともっと昔だわ。でも、どうして?)

 子供はまた背中を丸くしてしゃがみこんでいる。お腹でも痛いのかと心配したが、地面に額ずいてしきりに小さく言葉を紡いでいる。その神紋語には聴き覚えがあって、

「……死女神様への祝詞……?」

 思わずほそりと呟くと、またはっと子供は顔をあげ、やがて小さく、こくん、と頷き、囁く。

「しんかん、さま」

「……ええ、ええ。わたくしは死女神ラヴィラ様に、お仕えしております」

 万感の思いを込めて告げる。まさか、この国で、信徒に会えるとは。資料館で会った時の反応は、恐怖ではなく驚きだったのだろう。

「でも、どうして……オルディネ様は、あなたのことを救ってくださったのでは?」

「……」

 子供はまた困ったように俯く。上手く説明できないと言いたげに、何度も口を開閉させる。多分彼は――喋ることを、あまり教わってこなかったのだ。ミーリツァも、姉と兄に出会い、アブンテの神殿に入るまで、喋ることが得手ではなかった。誰も教えてくれなかったし、言葉とは祝詞を発する為だけのものだと思っていた。

 ――そう、自分は神殿に入る前から、祝詞を得ていた――一体何故?

 揺れた思考が、目の前で心細そうに体を縮める子供に止まる。今は、彼のことが先決だ。兄にされたことを思い出しながら、そっと彼の手を取ってやる。驚かれたが、抵抗はされなかったので、小さな手をゆっくりと撫でて握った。

「……あなたの信仰は、ラヴィラ様にあるのですね」

 小さく頷かれた。

「それを、他の方には、喋っていないのですね?」

 また小さく、頷く。

「……もしかして、あなたの父様と母様も、同じく?」

 大きく頷かれる。やはり、この国で細々と信仰を続けていた者達の末裔なのだ、彼は。例えその信仰が、迫害の元に歪んでしまっていたとしても。

「では……ごめんなさい、辛いことを聞きますわ。貴方の父様と、母様は何故、お亡くなりに……?」

 宥めるように背を撫でてやりながら、出来る限りそっと聞くと、子供はほんの僅か泣きそうな顔をして――ミーリツァの胸に縋りついた。

「……わらってた」

「え……」

「これで、かみさまのみもとに、いけるから、って」

 ――なんてこと。きゅっと小さな背を抱き締めながら、ミーリツァは声をあげることを堪えた。

 死女神ラヴィラは全ての命を受け止める神。生と死の狭間にて、彷徨うものを慰めるもの。誰もが辿り着く終焉であるからこそ、与えられた命を徒に捨てること、奪うことは罪である。ミーリツァはそう教わった。だがこの国では、信仰を否定され地下に潜った故に、死を賜り神の御許に行くことが、正しきこととされていたのだろう。彼の両親はそれに従い――結果、殺戮されたとしてこの国の法に定められたのだ。

 否定するのは簡単だ。だが、信仰というものはそれで捨て去れるほど簡単なものではないことを、ミーリツァは良く知っている。だから、子供の背を何度も撫でて、慰めるようにそっと囁く。

「それは、とても……とても悲しかったですわね」

「……しんかんさまも、かなしいの?」

「ええ、ええ。家族を失って、泣かないものがいるでしょうか。死に嘆き悲しむことを、ラヴィラ様は決して否定いたしませんわ」

「しんかんさまも……しぬのは、こわい?」

「ええ、怖いですわ。恐ろしいですわ。大切な方達と離れ離れになってしまうのは、何よりも。……怖がることは、何も貴方の信仰を陰らせるものではありませんわ」

 どこか安心したように子供が力を抜き、ひっく、と小さく泣き声が聞こえたので、ミーリツァは何度も何度も背を撫でてやる。どうか少しでも、彼の悲しみが癒えるように。

「――どういうことだ!何故こんなものが、神殿の中に!」

 鋭い声に、はっと背筋が伸びる。振り向けば、恐らく神殿の跡地を見て、これが何なのか正確に理解したのであろうオルディネが、目を零れんばかりに見開いて立ち尽くしていた。

「オルディネ様!」

「貴様、何を――リュシー! 貴様がリュシーをここに連れてきたのか!」

 怒りに震えるオルディネが大股で近づいてくる。全くの見当違いに慌てて首を横に振るが、この状態で聞いてもらえるとは思えない。せめてこの子が怒られないように説明しなければ、と慌てるミーリツァがおろおろしているうちに、抱き着いたままの子供がはっと目を見開き――

「しんかんさま、あぶない!!」

「え――」

 ぐいっと体を押されて倒れ込んだ、思ったら、腕の中の子供が覆い被さってきて。その肩に、矢が突き刺さっているのが見えて、息を飲んだ。

「――っ!」

 考える間もなく、ミーリツァは子供を抱き締めて蹲るように庇った。何が起こったか解らないが、まず彼を守らねばならないと思ったからだ。僅かな風切音がまた聞こえて――

「――ッ、『飛ぶを禁ずる!!』」

 オルディネの声に、急に力を失ったように矢が地面に落ちた。はっと顔をあげると、青い顔をしたオルディネがミーリツァと子供の前に立ちふさがり、建物の奥に隠れる者達を睨みつけている。

「貴様ら――死女神の眷族の残党か! おのれ、『姿を隠すことを禁ずる!』」

「ぬう……!」

 矢継ぎ早に発せられた、言葉による奇跡に、陰に紛れていた者達が飛び出してきた。秩序神の奇跡は、世界に対する命令だ。イヴヌスほど融通が利くわけではないが、世界を断じる為の法を確立させる。

 黒い服を着て、黒水晶の剣を構えた者達が、じりじりと包囲を狭めてくる。恐らく長であろう男が、苛立ちのままに声をあげた。

「邪魔をするな、愚者共! その子供を急ぎ、父母の元へ送らねばならん! それこそがラヴィラ様のお望みだ!」

「愚か者は貴様らの方だ! 邪神を奉ずる殺戮者どもめ!」

 男達とオルディネが言い合う声の中、子供がぴくりとミーリツァの腕の中で動く。矢傷が痛み、傷口の色が変わって膿んでいる。恐らく毒だ。ミーリツァは我慢できなくなって――叫んだ。

「――いい加減になさいまし!! 死女神様が本気で、そのようなことを望むと思ってらっしゃいますの!?」

「な――」

 甲高い少女の声に、全員一瞬戸惑ったように声を上げるが、ミーリツァは構っていられない。今やるべきことは、糾弾や説法ではない、――この子供を助けることだ。

 胸元から、自分の祈刃を取り出す。黒服たちが驚きの声をあげ、オルディネが制止の声を上げるよりも先に、ミーリツァは思い切り息を吸って、叫ぶように祝詞を奉じる。

「死女神ラヴィラ様! わたくしの血肉、魂、全て捧げても惜しくはありません! どうかこの子の死を、今ひとたび、退けることをお許しください!」

 刃を振り上げ、子供が受けた傷と同じ、自分の肩口に力いっぱい突き刺した。当然、血が噴き出して地面を濡らす――前に、その雫は全て黒水晶の欠片に変わった。

「何、を――」

 オルディネが驚愕のままに固まり、男達が武器を構え直す間もなく。

 まるで世界が繰り戻るかのように、子供の傷が癒えていき――ぽろりと鏃が落ちた。毒が滲んでいた筈の傷口も綺麗なものだ。

 それと同時――ミーリツァの体が、ぐらりと傾く。腕の中の子供を支えることが出来ないまま、細い体がぱさりと、地面に倒れた。

「……あ、しんかん、さま!」

「神官だと? 確かに、祝詞を」

「ではあれが、フェルニゲシュの――」

 気づいた子供が叫び、男達がいよいよ慄いた時。

「――全員拘束せよ」

 突然周りから湧いて出た白い鎧の神官騎士達が、男達を手早く抑える。オルディネが呆然としているうちに、グァラと――白い髪の少女が、駆け込んできた。

「げ、猊――」

「話はあとだ――この馬鹿!」

 クレアチオネは夢見ではなく、ちゃんと自分の脚で走ってきた。普段の厭世的な姿を全く見せず、ミーリツァに駆け寄る。倒れたまま青い顔で動かない少女の傷口から祈刃を乱暴に抜き取って、

「まだこいつは渡さないぞ、ラヴィラ――始源神イヴヌスの名に於いて!」

 蒼褪めたミーリツァの傷口に、自分の唇を押し当てて、奇跡を流し込んだ。




 ×××




 ――気づいた時、ミーリツァは大きな神殿の前に立っていた。

 始めてくる場所、の筈なのに、何故か酷く懐かしい。不思議に思いながら、門をくぐって中に入る。建物は黒。空は白。木の葉は黒で、幹は白。空を飛ぶ鳥も白い、何故なら骨だけで出来ていたから。不思議で不気味な世界なのに、ミーリツァは躊躇わずどんどん進む。――思い出してきたからだ、多分、この向こう側には――

 黒い木々を抜けた向こう、建物の前庭。綺麗に設えられたテーブルには、お茶の用意が既に出来ている。ああ、間違いない、自分はここに来たことがある。多分、三度目だ。

 白いカップに黒いお茶を注いでいるのは、使用人の黒いお仕着せと白い前掛けを身に着けた美しい女性。レースのヘッドドレスは白、真っ直ぐ地面まで届きそうな長い髪は黒。肌も抜けるように白くて、人形のよう。唇も塗られたように黒く、たったひとつ、その瞳だけが――金色に輝いていた。

「……あら、まぁ。いらっしゃいませ、ミーリツァ様」

 その瞳がゆるりと微笑んで、自分の名を呼んでくれたので、ミーリツァもぱっと顔を輝かせて彼女を呼んだ。

「――ラヴィラ様!」

 嬉しさが弾けて、はしたなさも忘れて、ポットを置いた彼女に駆け寄って、幼子のように腰にしがみつく。

「まあ、まあ、背が伸びましたのね。前はもう少し、小さかったでしょう?」

 優しく抱き上げてくれる腕は細いのに、しっかりとミーリツァを支えてくれる。膝の上に抱きかかえられたまま、茶の席に座った。

「良く頑張りましたわね、ミーリツァ様。今回は、誰かに傷つけられたわけではありませんのね?」

「ええ、ええ。わたくしが、自分の意志で参りました。どうしても、あの子をお助けしたかったのです」

 冷たい膝の上に座ったまま、ミーリツァは子供のように訴える。彼女にならば、どんな恥ずかしい姿も見せることができた。だって、自分は彼女に育てられたのも同じなのだから。

 一回目は、まだ生まれてもいない赤子の頃。母が飲んだ毒で、命の火が消えかけた時、この慈悲深き死女神は、ミーリツァを忘却の河から掬い上げてくれた。

「貴女はまだ生まれてもいませんわ。今なら間に合うでしょう、お戻りなさい。辛かったら、いつでも戻っていらっしゃいませ」

 二回目は、――思い出した、実の母に首を絞められた時だ。お前さえいなければと泣き叫びながら、絞められて、苦しくて――気づいたらこの神殿の中にいた。

「可哀想に、親といえど子の命を好きにする権利はありませんわ。好きなだけここでゆっくりしておいでなさいまし、きっと迎えが来てくれますわ」

 それからすぐに――実際にはどれだけ時間が経ったかよくわからないのだけれど――姉と兄が迎えに来てくれた筈だ。そのおかげで、自分はまた命を長らえさせた。

 そう、一度ならず二度までも、死女神ラヴィラの慈悲によりミーリツァは命を救われた。誰からも顧みられず、王都の神殿に閉じ込められていた時の記憶がほぼ無いのは、ずっとこちら側にいたからだ。死女神ラヴィラの館、真なる神殿に居る限り、生きてはいないが死ぬことも無い。それだけでなく、人として生きる為の言葉や作法すら彼女から教わった。そしてミーリツァは信仰を得たのだ。優しく慈悲深き神に仕える為に。

「……ごめんなさい、ラヴィラ様」

「あら? 何故、謝りますの?」

「わたくし、ずっとラヴィラ様が守ってくださいましたのに、こんなにも早く、自ら命を捧げてしまいましたわ」

 死女神の信徒としてあるまじきこと、と詫びるミーリツァに、黒髪の女神は鷹揚に笑った。

「まぁ、良いんですのよ。わたくしとしては、大切な子が側に来てくれるのを、拒むわけがありませんもの。ひとの一生などほんの瞬き、わたくしは幾らでも待てますし、早ければそれはそれで嬉しいものですわ」

 ひんやりと冷たいが、優しい母のような腕に抱かれ、安心したようにミーリツァが瞼を閉じた時――

『――ミーリツァ! 戻ってこい!』

 名を呼ばれ、はっと目を見開く。ラヴィラの顔を見ると、困ったように眉を下げて微笑んでいた。

「残念ながら、今回も迎えが来たようですわね。イヴヌスの眷族まで虜にしてしまうなんて、わたくしの子はなんて素晴らしいのでしょう」

「ラヴィラ様……」

「気を遣う必要はありませんわ、戻りたいのでしょう? ……言ったでしょう、わたくしにとっては瞬きの間。あなたが天寿を全うするまで、幾らでも待てますわ」

「ごめんなさい、ラヴィラ様。本当に、ありがとうございます。ミーリャは、世界一の幸せ者ですわ」

 子供の頃のように訴えてもう一度抱き着くと、笑ってしっかりと抱き締め返してくれる。その心地よさにミーリツァはまた瞼を閉じて――近づいてくるクレアチオネの声をはっきりと聞取り――また、この場所での全てを忘れ去った。




 ×××




 フェルニゲシュ王国の離宮、現王の私室にするりと入り込む影がひとつ。

「シューラ様ぁ、何かやなことでもありました?」

 唐突に喋った影の声に、部屋の主であるヴァシーリーは一欠けらの驚きも無く答える。

「いいや。……カラドリウスからの親書を読んでいた。お前にも確認したい、聞いてくれ」

「はいはぁい」

 音もなく滑り込んできた影、先の戦の傷がほぼ癒えて前線に復帰した密偵コーシカは、僅かな明かりの元まっすぐに主へと向かい、彼が座っている椅子の肘置きにひょいと腰かけた。ヴァシーリーも慣れたもので、体を逆の肘置きに傾け、猫が寄り掛かってくるに任せる。普段から皺が刻まれている眉間は、いつもよりも深くなっていた。

「皇都、神殿内にて死女神の信徒の反乱があり、ミーリャがそれに巻き込まれ、瀕死の重傷を負ったと詫び状が届いた。幸い、クレアチオネ猊下の奇跡により一命は取り留めたと。――お前が集めた情報に相違は無いか?」

 冷たく厳つい容貌は、知らぬ者が見たら怒りを堪えているとみるだろう。だがコーシカにとっては、ただ妹への心配が前面に出ているようにしか見えない。安心させるように微笑んで、猫は主の肩に軽く体重をかけた。

「大体は。死女神の信徒、っていうと俺達が想像するのは、ミーリツァ様はじめとする大人しい方々、て印象が強いですけど。向こうの国では市政に混ざって国家転覆を企む犯罪者、としか見られてません。事実そういう側面もありますよ、信徒を増やして怪しげな儀式を行う連中ばっかりだそうで」

「長年、かの国では迫害されていたと聞くからな。信仰がそう歪んでしまったという事か」

「んで、そういう連中が、うちとの戦争のせいで活性化したっていう見方が向こうの上層部にあるみたいです。猊下とかグァラ様は火消ししてくれてるみたいですけど、人の口に戸は立てられません」

「そうだろうな……」

 ヴァシーリーの眉間が深くなる。自分達が起こした戦争により、他国の無辜の民にまで影響が出てしまったことを憂えているのだろう。コーシカはやれやれと大げさに溜息を吐き、いつも引き締まっている主の頬を軽く摘まんだ。驚いたように視線が向けられたので、呆れて宥める。

「そこまでシューラ様が責任感じる必要ないですよぅ? 戦争を起こしたのはアグラーヤ様だし、それではしゃいでるのは向こうの勝手。寧ろ向こうの国に殆ど被害を出さなかったことを感謝して欲しいくらいなんですけどぅ」

「そうもいくまい。……だが、向こうも今回の件に関して、責任は全てこちらにあるという申し出だ。向こう一年、援助金を貸付ではなく譲渡すると申し出てきた」

「おお、大盤振る舞いじゃないですかぁ」

 現在フェルニゲシュは飢饉と戦争による低下した国力の立て直しが急務だ。本来ならば賠償金を支払わねばならないところ、逆に経済的に援助を受けられているだけでもありがたいのに、更に返還不要という連絡が来た。再び二国間の緊張を高めない為と、これで今回の件は水に流せという訴えだろう。色々と不満はあるが、助かることは間違いない。そのせいで妹を犠牲にするようなことはヴァシーリーも避けたかったが――

「他ならぬ、ミーリャからも直筆の手紙が同封されていてな。自分については、無理に神の慈悲を得ようとした結果であり、クレアチオネ猊下に助けていただいた、と」

「わぁー。多分ミーリツァ様、本気でしょうねぇ」

「ああ、だからこそ、これで流さねばならん」

 色々な感情を堪えて息を吐く。多分妹が手紙で告げてきたこと――犠牲者の命を助ける為に治癒の奇跡を起こし、結果自分が死にかけたというのが、事実なのだろう。正直肝が冷えるどころの騒ぎではない。何故そんなことを、というよりもやりかねない、と思ってしまったが故に。

 横を見ると、少し心配そうに自分の方を見てくる金色の瞳があって、自然と背の力が抜ける。黒髪の頭に手を伸ばしてやると素直に頭を下げられたので、癖のあるその髪を撫でながら呟く。

「……お前に話したことがあったか? 姉上が王位を継いですぐ、ミーリャを迎えにいったときのことだ」

「いえ、その頃はごたごたしてましたからねえ。ミーリツァ様の話を聞いたのは、あの方がアブンテに移ってからでしたよう」

 そうか、とひとつ頷き、ヴァシーリーは記憶を呼び覚ます。妹と初めて顔を合わせた時の――本来ならば有り得ない、奇跡のような出来事を。

「……母上が、王都の死女神の神殿にて自ら命を絶ったことは聞いていた。だが、私も姉上も、その少し前に生まれた妹は、すぐに亡くなったと言われていた。……母上の私室とされていた、屋根裏の隠し部屋に入るまでは」

 あれは部屋ではなく、殆ど牢獄のようなものだった。気が触れた母は、どうやったのか唯一の高窓を自分で割り、そこから飛び降りたのだという。姉は、私の手で殺せなかったのが残念だと嘯きながら嗤っていたのを、何とも居心地の悪い思いで聞きながら――部屋の中に入ると、そこには。

「母上が亡くなってから、傍付達も解雇され、扉も封じられていた筈の部屋に、たったひとりでミーリャはいた。まだ、4歳か5歳ぐらいの子供がだ。意識は茫洋としていたが、衰弱は全く無かった」

「……誰かがこっそり、面倒を見ていたわけでなく?」

 信じられない、と言いたげにコーシカが目を見開くが、首を横に振るしかない。

「悲劇があった部屋だからと、入り口が漆喰で塗り固められていた。姉上は意趣返しのつもりだとその扉を破り――流石に、驚いていらっしゃった。少なくとも半年以上、ミーリャはそこにいた筈だ。食料も水も無く子供が生き残れる筈がない」

 信じられなかった、故に妹自身に問うた。どうやって生きてきたのかと。すると幼い彼女は、困ったように首を傾げて、こう言った。

 『かあさまがいなくなってからは、ずっとラヴィラさまとともにいました』と。

「そして文字のひとつも教わっていない筈の幼子が、死女神ラヴィラの祝詞を全て諳んじた。信じがたい話ではあるが――生まれて初めて、私も神の存在とやらを信じる気になった」

 神嫌いの猫を宥めるように撫でてやりながら、ヴァシーリーは思う。

「誰もが、あの子の存在をいないものとして扱っていた。母上から生まれ、しかしその身に青を纏わなかった故に。それは、私も姉上も皆同じだ。あの部屋に入る時まで、私はあの子の存在にすら気づかなかったのだから」

 己を責める文言が口をついて出ると、猫が慰めるように顔を肩口に摺り寄せてきてくれた。温もりを受け止めつつ、ヴァシーリーは尚も言い募る。

「あの子を救ったのはまさしく、死女神に相違ない。だが、だからこそ――いつか必ず、あの子が死女神の御許に躊躇いなく召されてしまうような気がして、恐ろしい。それを止める権利は、私にはもう無いのだろうから」

「……あの方の浮世離れしたとこ、てっきりずっと神殿暮らしだったからだと思ってたんですが。そんなことがあったんですねぇ」

 どこか納得したように、猫が囁く。主の不安を宥めるように、自分の頭を撫でるヴァシーリーの手にそっと自分の掌を添えて。

「ミーリツァ様って、本当、シューラ様と良く似てますねぇ」

「……そうか? どの辺りを、そう思う?」

 心当たりが無くて驚くと、くふくふと可笑しそうに猫が笑う。

「似てますよう。優しくて、真面目で、頑固なとこ、ぜぇんぶ」

 からかい混じりかもしれないが、コーシカのその言葉は、ヴァシーリーにとって、雫が乾いた地に染みこむように心地良かった。

「あと、思い切りよく突っ走っちゃうところは、アグラーヤ様の方に似てるかもしれませんねぇ」

「そうか……そう、かもな。私はどうにも、臆病に過ぎる」

 この国ではもはや禁忌とされている姉の名前をさらりと出してくれたことに感謝をしつつ、ヴァシーリーは漸く不器用にだが笑うことが出来た。例え永遠の死による別離をしてからでも、きょうだいとしての繋がりがあるのかもしれないということが、嬉しかったから。

 そしてヴァシーリーは、前々から考えていた贈物を、妹へ渡すことを決意した。




 ×××




 ミーリツァは目を覚ました後、クレアチオネに怒鳴られ、自室の寝台から離れることを七日間禁じられた。他ならぬクレアチオネの奇跡により、体はもう健康な筈なのにとは思ったが、周りの人々に心配をかけてしまった自覚はあるので、大人しくしていた。

 国から戻ってきたククヴァヤに事情を説明すると、誇り高き竜人としてはあるまじき姿、両膝を床について傍にいられなかったことを詫びられたし、サジェッサからも丁寧に謝罪が入った。オルディネが彼女の実の弟だと聞いて二度驚いた。

 そして、リシューと呼ばれていた子供もミーリツァの事を案じてくれて、何度も見舞いに来てくれた。逆に彼がオルディネに怒られないかと心配だったのだが、サジェッサ曰く、彼は今回の件について猛省しており、先日の事件で保護した子供達に改めて確認を取り、皆死女神の信仰を持っていることを認めた上で、保護を続けるという。

 それを聞いて、ミーリツァは心底良かったと胸を撫でおろした。信仰とは、誰かに言われて捨てられるものでも隠せるものでもない。この国で生きていくには難しいかもしれないけれど、何か力になれればいいと思ったので、

「神殿を建てるのは無理でも、あの子供達に死女神様の教えをお話させて頂けないでしょうか? 勿論神官としても未熟な身で、恐れ多いですが……」

『……あの件の後真っ先に出てくる話がそれなところ、いっそ尊敬するわ。凄いよお前』

 ベッドの上に身を起こし、隣で寝転んでいるクレアチオネの夢見の姿に訴えると、しみじみとそう返された。彼女の形の良い細い眉が限界まで顰められている。

「あと神殿内に入ってくんなよそこの鱗、でかい図体で鬱陶しい」

「……吾はもう二度と、ミーリツアの傍から離れぬと誓った。神の視座など全て跳ね返してくれる」

 寝台の傍の床には、堂々と腕を組んでククヴァヤが鎮座している。肝心な時にミーリツァを守れなかった自責から、例え神の力が満ちた場所だろうと離れる気は無いらしい。嬉しいけれどククヴァヤ様の体調は悪くなったりしないのかしら、と心配していると。

「して、隠れている鼠は如何する。覚えのある匂い故放っていたが」

『あー、面倒だから今出て来いよ、別に咎めねぇから』

「えっ?」

 ふたりの話す意味が解らず目を瞬かせている内、部屋内の空気が動き――いつの間にかそこには、黒髪の斥候が一人立っていた。

「うわぁ、猊下はまだしもククヴァヤ様まで気づいてました? 自信失うなぁ」

「コーシカ!」

 気まずげに頭を掻く兄の猫に、ミーリツァはぱっと顔を輝かせた。ベッドから飛び出し、抱き着かんばかりに駆け寄る。

「久しぶりですわね! もう体は大丈夫ですの?」

「全然問題ないですよぅ、とうの昔に現場復帰してます。ていうか、ミーリツァ様の方が大変だったそうじゃないですか? シューラ様も滅茶苦茶心配してましたよぅ」

 優しい兄が悲し気に眉根を寄せている顔を思い出し、ミーリツァは申し訳なくなって素直に詫びた。

「それは……大変申し訳ありませんでした。兄様にご迷惑をおかけしてしまいましたわ」

「そう思うんなら、今度元気な姿を見せてあげてください。出来れば、これを着て」

 そう言いながら無造作にコーシカから箱を手渡され、ぽかんとする。周りを見渡すも、その場にいる全員が開けることを待っているようで、居住まいを正してそっと蓋を開く。

「――あ、これ、は」

 入っていたのは――目の覚めるような青色だった。ミーリツァの背丈に合わせて作られた、法衣ではない、年頃の淑女が身に着けるドレスだ。布地は全て、美しい様々な濃さの青で染められていた。……フェルニゲシュでは、王族しか身に纏うことを許されない色だ。

「コーシカ、わたくし……」

「シューラ様からのご伝言です。お前には、この色を纏う権利がある、と」

 兄の忠実な部下から告げられた、間違いなく兄本人と寸分違わぬであろう言葉に、ミーリツァはきゅっと両手を胸元で握り締める。

「ですが、もし少しでもこの色を重荷に思うのであれば、纏う必要は無い、とも仰いました。ミーリツァ様のなさりたいようにと、厳命を受けましたので」

「……まったく、もう。兄様は、わたくしに甘すぎますわ……」

 兄らしい朴訥な、確かな優しさに、ミーリツァは熱くなった眦をそっと袖で抑えた。クレアチオネとククヴァヤが同時に膝を乗り出してから、互いに視線で牽制していることに気づかぬまま、そっと触り心地の良い布を手に取り、胸元に抱き締める。

「コーシカ、兄様に伝えて下さい」

「何なりと」

「感謝を。わたくしは、兄様の妹として、この色を纏います。死女神様の眷族として、またフェルニゲシュの王妹として、出来うる限りの働きをし、二国間の架け橋となることを望みますわ。どうぞ、見守っていてくださいまし、と」

「――承りましたっ」

 おどけたようにコーシカは礼をしたが、金色の瞳には確かな誠意と感謝があった。兄の傍にいることを決めてくれたから、と思っているのだろう。この猫がいてくれれば、兄はきっと大丈夫だけれど――自分にも、出来ることは山ほど有る筈だから。

 自分が今生きているのは、沢山のものに生かされたから。だから――その恩を全て返すまでは、死女神様の元へ行くわけにはいかないと、決意を新たにした。




 ×××




 八柱神の憑代が儀式を行う内神殿を囲う回廊には、全国の神殿の代表者達が詰め掛けていた。彼等の身に纏う絹は神官の証である、白一色。他の色を中心に纏っているのは、他国からの招待客だ。奥に繋がる扉が据えられた祭壇を囲むように皆規則正しく並んでいる。

 厳正な雰囲気で、談笑も潜めて行われる中、ミーリツァは向かってくる視線からの緊張に耐えていた。理由としては決して彼女自身でなく、その場にもうひとりの国賓として扱われている竜人がいるからなのだが。

「震えているな。何が恐ろしい?」

「……いいえ、いいえ。恐ろしくはありません。緊張、ですわ」

 ミーリツァの纏うドレスの色は青。かのフェルニゲシュでは王族のみに許される色。その服を着てこの場に立つ事実が、ミーリツァの背筋を限界まで伸ばしている。国の代表としてここに招待されていることと同じなのだから。

「案ずるな。何が来ようと吾は貴様を守る」

「ふふ、ありがとうございます。…それより、ククヴァヤ様こそ大丈夫ですの?気分が悪くなったりは?」

 少しずれたククヴァヤの励ましに思わず笑ってしまったが、この室内も八柱神の祝福によって模られた場所だ。竜人にとっては噴飯ものだろうに、若き竜人王の子はふんと鼻を鳴らして答えた。

「不快ではあるが耐えられぬわけではない。何より――もう二度と貴様から離れるものか」

 ミーリツァがあわや命を落としかけたことに、彼としても責任を感じているのだろう。勿論彼にも、ミーリツァから自分が悪いのだと説明はしたが、それで納得するような男ではない。守るべき相手を危うく神に取られかけたことも合わせて、傍らを離れるわけにはいかぬと気炎を吐いている。それが却って他の者達の怯えを呼び、遠巻きにされているが。

「――憑代様方、御降臨!」

 扉が大きく開き、祭壇の上で神官が声をあげ、周りの人々が一斉に膝をつく。慌ててミーリツァも準じるが、ククヴァヤは従う気はないらしく、神官に鋭い目で見られても睨み返していた。

 祭壇の上に据えられた椅子に、奥から出てきた憑代達が議席順に座る。御簾に覆われたひときわ奥の椅子、その様子を見ることは出来ないが、僅かな気配が中に宿った。

「一同、表を上げよ。始原神イヴヌス様の御許に侍ることを許す!」

 オルディネが声を上げ、全員が立ち上がる。普段ならばここで第二位のソーレが口を開くところだったのだが、それよりも早く、その場にいる全員の頭の中に声が響いた。

『――此度はこの大陸に、つかの間の平和が訪れたことを祝う式典である』

「!!」

「なんと、これは」

「おお、猊下のお声だ――」

 ミーリツァの耳にもはっきりと届いた。あの御簾の下にいるであろうクレアチオネが、グァラが使ったものと同じような――否、それの原型である奇跡を使っているのだろう。

『嘗て我らは、四地神を奉ずるものを誤りとして、地の果てへと追いやった。結果、神の教えを曲解し、徒に人心を乱すものを産み、他者を虐げる戦乱を続けてしまった。これは我等の責である』

「なんと!」

「猊下がそのようなこと――っぐ」

 反論をしたかったのか、声を荒げようとした一人の神官が喉を自分の手で押さえて黙った。クレアチオネの言葉を止めることは、何人たりとも許されない。

『だからこそ今日、全ての責に向かい合い、手を取り合う場をここに据えた。……フェルニゲシュ国王、参られよ』

 声を押さえたざわめきが限界まで膨れ上がった時、外へ続く回廊の扉が開き――ミーリツァは礼儀も忘れ、ぱっと振り向いた。

 ゆっくりと大股で中に進み出てくる姿に、皆一様に道を開ける。何よりもまず先に目に入るのは、その隆々とした体躯だ。この国の軍属達を探しても、ここまでの者は中々いない。

 その筋骨を覆うのは、青く輝く石で磨かれた儀礼用の鎧。空の青よりも深い色で染め上げられた外套。後ろに一つで括って流された髪すら青い。これは染めているわけではなく、地毛だ。そして――まるで世界を憂えるかのように顰められた顔の眉間は深く、鋭い瞳は宝玉のように青く透き通っている。

 嘗てカラドリウスと戦い、貧しい大地に追い立てられても、そこを国として栄えさせた巨人族の末裔。前々王、前王をその手で殺し、血塗られた玉座に座る王。ヴァシーリー・ドゥヴァ・フェルニゲシュ。ミーリツァの、たったひとりの兄。

 彼は真っ直ぐ、表情を動かさずに進み――それでも視線の端に妹の姿を認めたその一瞬だけ、僅かに目元を和らがせた。それにちゃんと気づいたミーリツァは、万感の思いを込めてドレスの裾を抓み、礼をする。

 ――わたくしは此処におります。兄様の、妹として、此処におります。

 きっとこの場の儀礼がなければ、走り出して抱き着いていただろう。兄も躊躇わず、抱き上げてくれただろう。だが今は出来ない、この国に招待された他国の王族であるが故に。

 そしてヴァシーリーは祭壇の下に立つ。神の憑代ではないが故、上に登ることは出来ない。だが、膝を折ることもしない。この場において、一国の主という点で自分とクレアチオネは同格であると、周りに示すために。

 その姿に神官達だけでなく一部の憑代達も眉を顰める一瞬前、再びクレアチオネの声が響く。

『大儀である。――巨人の国、フェルニゲシュの王よ。我等は八柱神と四地神の名のもとに、集うことが出来るか、否か』

 カラドリウスの皇帝が、公の場で、アルードを始めとする神々を邪神ではなく四地神と呼んだ。つまり、立場は違えど同じ神として存在を認めるということ。ざわめきが最高潮になる室内を、鋭く重いヴァシーリーの声が切り裂く。

「是と答えよう、神の祝福を受けしカラドリウス皇国の長にして、始原神イヴヌスの憑代よ。血を流し合った相手であろうと、その命に報い、二国の発展の為に、手を取り合うべきと私は愚考する」

『――ならば此処に、争いの終焉を誓おう。始原神イヴヌスの名に於いて!』

 沈黙。のち、憑代達が一斉に拍手を上げ、神官達がそれに続く。建国から続く二つの国の争いが初めて、明確な和平を結んだ瞬間だった。

 ……勿論、大部分の者は気づいている。これは単なる外様に対する手管であり、既に大まかな和平の約定は二国間で決められている。そこに、戦後の補償や先日のミーリツァが巻き込まれた事件等を鑑みて、対外的な反論を封じただけに過ぎない。

 当然、ミーリツァもそれに気づいたので、心苦しくなってしまう。挨拶を終えて踵を返し、真っ直ぐ自分の方に向かってくる兄の顔の眉間の皺が、どんどん深くなっていっていたから。

 きっと、他国との和平に妹の命を材料にしてしまったことを、悔いているに違いない。もっといい方法があったのではないかと。本当に優しい兄らしくて、ミーリツァはどうにか彼の重荷を減らしてあげたくて。

「兄様、よくぞおいで下さいました、お会いできて嬉しいですわ。この衣装も、本当にありがとうございます」

 だから、笑って兄を迎える。自分の意志で此処にいるし、この色を纏う決意をしたのだから。ヴァシーリーはほんの僅か、眩しそうに眉を顰めて――大股で一歩前に出て、妹をしっかりとその長い腕で抱き締めた。

「きゃっ」

 ククヴァヤが目を剥き、祭壇の上で何やら音が数回したことも構わず、強い腕はぎゅうっとミーリツァを締め付けるが、ちっとも苦しくない。寧ろずっと張っていた気が緩むような安堵があり、兄の肩口に顔を埋めると懐かしい匂いがして、泣きたくなった。

「……生きていてくれて、良かった」

「兄様。……申し訳ありません、ご心配をおかけしました」

 小さく囁かれた声で、昔を思い出した。そうだ、あの時も――自分はこの兄の声で、こちらに帰ってこられた筈。こちらというのが何を意味するのかは、やっぱり解らなかったけれど。

 腕の力が僅かに緩み、容姿は全く似ていない兄妹は向かい合う。ヴァシーリーは低く静かな声で、それでも耐え切れない苦しさを滲ませて囁く。

「二度とするな、とは言わん。きっと同じようなことが起きれば、お前は躊躇わず神に祈るのだろう」

「はい。……はい。多分、そうなると思います」

「それならば、せめて。私が呼んだら、戻ってきてくれ。……頼む」

 戦になれば敵を屠り、名実ともに大陸の東半分を統べることになったヴァシーリー。しかし、同時に沢山のものも自ら手放して――残っている家族は、もうミーリツァしかいない。

「お前まで、私の傍から……いなくならないでくれ」

「……ッ、ごめんなさい、ごめんなさい兄様……!」

 もう無理だった。貴人としての礼儀や矜持など全て忘れて、兄の背に腕を回して力いっぱい抱き付いた。自分のせいで、兄をこんなにも悲しませてしまった。それが信じられない程の罪だと解っているのに、もし誰かの命を助ける為に祈りが必要ならば、自分は躊躇いなく祈ってしまうから。

「お約束しますわ。もしわたくしが神の御許に召されても、兄様が呼んで下さるのなら、わたくしは必ず戻って参ります。ラヴィラ様はお優しいですもの、きっとお許しいただけますわ」

「ああ……」

 もう一度しっかり抱き締め合って、漸く離れた。僅かに濡れた眦をそっと指で拭ってもらっていると、ふと灯が陰る。

「巨人の国の王よ。此度の失態、吾と吾が父からも謝罪をする。貴様が許せぬのならば、報いとしてこの翼を切り落として構わぬ」

「そんな!」

 突然ククヴァヤが言い出したことの恐ろしさにミーリツァは慄くが、ヴァシーリーは冷静な顔のまま首を軽く横に振って応えた。

「そのような報いは必要ない。此度の件は、我が妹が望んだゆえに起きたことであり、貴殿の守りが破られたからではない。もし気に病むことがあるのならば、今後ともミーリツァを守って欲しい。それだけで私の心は楽になる」

「……忝い。その信を二度と裏切らぬと、吾が父と火の竜ギナに誓おう」



 ×××



 深々と、本来神人に礼を取るなど有り得ない竜人が頭を垂れ、床に手をついている。フェルニゲシュが竜人の国と同盟を結んでいるのは誠であったのか、と神官達がざわめき合う。

 未開の地の蛮族、邪神を奉じる愚者共としか思っていなかった者達を猊下自らこの皇都、しかも神殿内まで招いたことが、青天の霹靂だ。今までは只の形骸的なものでしかなかった、四地神の信仰についても、今後認められるのかもしれない――とざわめきは尽きない。

「……今後地方の神殿がどう動くか、監視を広げないといけませんね」

 御簾の傍に立ちひそりと囁くグァラに、面倒そうな欠伸がひとつ。

『正式な発令はもう済んでる。四地神の信仰について自体、とうの昔に禁じていなかった癖、叩くものがある方が便利だからと嘯てた奴らには冷や水だろうさ。ああ、面倒くさい』

 常識を塗り替えるというのは、とても難しいことだ。たとえ神の力を振るえる憑代だとしても、個人の気持ちを変えることは難しい。……もっと言うなら、変えること自体は可能だがただの洗脳であるし、国民全員にやろうとしたらクレアチオネはただの神に成り果ててしまう。どちらに転んでも面倒臭がりの彼女が、率先的に行わなかったことであるのだが。

「本当に、ミーリツァ様を気に入っておられるのですね、猊下」

『はぁ? そんなわけないだろ馬鹿』

 割と早口な反論が返ってきて、グァラは口の端で笑いをかみ殺す。神の憑代となってから、世界の全てに飽きつつも、怠惰であるゆえに動かなかったこの女が、あの外つ国の少女相手になら色々と慣れぬ心を砕いているのが面白くて仕方ない。笑ったらいよいよ怒って覆面をはぎ取られるので我慢するが。

「しかし、やはりあの方にとっての一番は、兄上なのでしょうねぇ」

 眼下では、やっと身を起こしたククヴァヤと共に、ミーリツァがご機嫌で料理の配膳台へ向かっている――細い腕を、兄の腕に絡ませながら。見た目は厳つく近寄りがたい雰囲気のフェルニゲシュ王が、妹姫に対してはほんの僅か頬を緩ませている様は、周りの者達に充分印象を残すだろう。……血が繋がっていようがいなかろうが、王が慈しみ守る存在であると。

 御簾の中で寝っ転がってるだろうクレアチオネが、不機嫌そうに寝返りを打つ音がした。今まで自分の周りに居なかった相手に対する独占欲が堪えられないのだろうが、全く変わるものだとグァラは嬉しくなる――彼女のそんな姿は、悪くない。

 しかし、祭壇の上の椅子に座ったままだが、どうにも気になるようにミーリツァ一行の様子をちらちらと見ているオルディネが目に入り、また一波乱起こりますかね、とちょっと眉を顰める。未だ先日の件についての謝罪をしていないというし、そこが秩序を重んじる彼にとって葛藤になっているのかもしれないが――本当は今日の儀式前に謝罪に出向き、美しい青のドレスを着たミーリツァと鉢合わせて、真っ赤になって動けなくなった内に、先に彼女に謝られた――と、サジェッサが困った顔をしながら教えてくれた。

「……ヴァシーリー様とは別口ですが、ミーリツァ様の振る舞いもカリスマという奴なんでしょうかね」

 人間関係が跳ねるのは、傍目で見る分には楽しいが巻き込まれるのは困るな、と。普段クレアチオネやオルディネに振り回されている身として、グァラはこっそり留飲を下げた。

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短編まとめ @amemaru237

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