神に愛された王妹の異国暮らし 上
ミーリツァが二回目に目を覚ました時、目の前には綺麗な青があった。
「……お前は、何だ?」
美しい青の髪を綺麗に切り揃えた女性に問われ、たどたどしくだが確りと、教わった淑女の礼を取る。
「ミーリツァ、ともうします」
「お前の母の名は、ニヴェラか?」
「はい、そのとおりでございます」
「――そうか。そうか。それならば――お前は、私達の妹だ、ミーリツァ」
「いもうと……」
ぱちぱちと目を瞬く。つまり、自分に姉と兄がいるということなのか。濃い色の唇を引き上げて微笑む、姉であろう女性は、とても美しく堂々としていた。そして、その後ろで信じられないと目を見開いていた、やはり青い髪の、随分背の高い男性が恐る恐るミーリツァに向かって手を伸ばし。
「あ、」
ぎゅう、と凄く強い力で抱き締められた。苦しかったけれど、そこはとても暖かくて、心地よかったので抵抗しなかった。
「ミーリツァ。ミーリツァ、」
「はい。はい」
名を何度も呼ばれたので答えると、男の人は泣いていた。綺麗に澄んだ青の瞳から涙を零しながら、何度も頭を撫でてくれた。
「今まで、気づかずに、本当に済まない。……生きていてくれて、良かった……!」
絞り出すようにそう言われて、ミーリツァは初めて、自分が生きているということを認識出来た。
×××
薄明るい始源神の礼拝堂にて、両膝をつき祈りを捧げる少女がひとり。神の教えを第一とし、従うを良しとするカラドリウス神聖皇国に於いて、彼女の姿勢は大変尊ぶべき有り様ではあったが、周りの神官達は皆、どこか怯えたような、或いは蔑んだような瞳で彼女を見ていた。
それは彼女が、この国では忌み色とされる黒い神官服を身に纏い、黒水晶の刃を握りしめて祈りを捧げていたからだ。どちらも邪神と呼ばれる、崩壊神とその従属神の象徴と呼ばれる姿で、この場所にいることを認めたくないのだろう。
「……ラヴィラ様、今日もひとたび、永遠の眠りより目覚められたことに感謝を捧げます。わたくしの血と肉と魂を捧げ、わたくしの大切な方々を見守り頂けますよう、確とお願い申し上げます……」
しかし少女は、周りの視線などまるで意に介さず祈りに没頭している。奉ずる神は、死女神ラヴィラ。崩壊神の娘とされ、死を齎す悍ましき女とこの国では恐れられているが、少女にとっては己の人生を捧げることを決めた神だ。……始源神は全ての神を作り出したはじまりのものであり、他の神に祈りを捧げる時に礼拝堂を使ってよいと定められてはいるが、流石にここで死女神に祈りを捧げたのは建国以来、彼女が初めてだろう。
敬虔な始源神の使徒ならば力づくで彼女を排除することもあり得るだろうが、少なくともまだ彼女の周りでそのようなことは起こっていない。
彼女が他国から留学した賓客であると同時に、この国の絶対者のお気に入りであるからだ。
『――お前本当図太いな、僕としてはもっとやれって感じだけど』
まるで夢のように、一瞬の揺らぎと共にその場に現れる、髪も肌も真っ白なもう一人の少女。瞳だけが血のように紅く、酷く不機嫌な顔で、跪いていた少女の側に立つ。その声は聞こえたのか、ぱっと顔をあげた。
「まあ、クレアチオネ様! お邪魔させて頂いておりますわ、祈りの為に扉を開いて下さって、本当にありがとうございます」
年の頃から考えれば随分と丁寧な口調と、無邪気な笑顔がアンバランスな少女の名はミーリツァ。未だ家名を名乗ることは許されぬ、隣国フェルニゲシュの王妹だ。かの国の王族は皆髪と目に青の色を持つが、ミーリツァにはどちらも無い。故に王族として身を立てることは許されず、現王が立つまではその存在すら認められていなかった。
そんな生い立ちによる陰を全く見せず、ただ友人に会えたことが嬉しいと言いたげに微笑むミーリツァに、いつもクレアチオネは苦虫を噛み潰したような顔をする。ここまで能天気な人間は今まで彼女の側にいなかったので、扱いかねるのだろう。
「クレアチオネ様、今日もお忙しいのではありませんの? お役目中に夢見を使っても良いのですか?」
『ふん、非生産的な祈りをする気はないよ。僕の体さえそこにあれば、第二や第三は大喜びで好きなようにやってるさ』
夢見の奇跡によって、その魂を世界全てに飛ばせる、カラドリウス神聖皇国の象徴にして始源神の憑代、クレアチオネ。その彼女が、祈りを終えて立ち上がったミーリツァと並んで歩く姿は、まるで年頃の少女が二人、連れ立って遊びに行くようにしか見えず。クレアチオネが現れた瞬間最敬礼を取って頭を下げていた神官達が、皆驚きと怯えを堪えている。状況が信じられないが、こんな光景はミーリツァがこの国を訪れてから何度も見られており、認めざるを得ないし、迂闊に声を上げれば絶対者に睨まれかねない。結果、皆遠巻きになるしかないのだが――
礼拝堂を出た瞬間、日が陰る。雲がある訳でない晴れた空を、見上げたミーリツァは顔を輝かせ、クレアチオネは露骨に舌打ちをした。
日を遮った影は見る見るうちに近づき、風を纏って少女達の前に着地する。巨大な皮膜の翼を持ち、全身を鱗で覆った空の支配者、神に仕える者とは相容れぬ者達。日に当たると銀に煌めく灰色の鱗を持った巨大な竜人が、ミーリツァの姿を認めて降りてきたのだ。
「ククヴァヤ様!」
「祈りは終わったか、ミーリツア」
未だ癖の抜けない発音で名を呼ばれたミーリツァは、いよいよ恐慌して逃げていく神官達に気づかないまま、躊躇いなく大柄の竜人へ駆け寄った。
「はい、終わりました。お待たせして申し訳ございません」
「謝罪は必要ない。神は気に食わん、しかし、貴様が望むものを遮ることは無い」
縦長の瞳孔を持った巨大な瞳でぎろりとクレアチオネを睨みつつ、傍らのミーリツァには労うように鼻先を寄せる。竜人は神を奉じず、その力が満ちた建物に入ることも嫌がるので、ミーリツァが祈る時には近づかず、しかし建物の外で守るようにいつも待っている。彼女の兄であるフェルニゲシュ現王に、妹の護衛を頼まれたこともあるが、何より彼自身がミーリツァを守ることを良しとしている。そこにどんな感情が混じり含まれているのかは、恐らく彼自身もまだよく理解していないだろうが。
『あーあ、煩いのが来た。面倒なことせずにいっそ改宗しちまえば?』
「黙れ、神の爪先が。吾等は竜より生まれ竜に還るもの。そこに神の介在は必要ない」
火花を散らしてやり合う、皇国の最高権力者と竜人の国の王子。様々な理由で相容れない者達ではあるが、これでも彼らなりに言葉を選んでいるのだ。何故なら、
「もう、おふたりとも、喧嘩は止めてくださいまし。信仰を変えることはとても難しいことですわ、他者に押し付けてはいけませんわよ」
細い腰に両手を当てて、めっ、と言わんばかりに唇を尖らせるミーリツァ。迫力など欠片も無い正論だったが、それだけでふたりは口を禁んだ。
『……喧嘩じゃないよ、ただの言い合い。もうやめるし』
「然り、喧嘩ではない。決着はいずれつけるが、今ではない」
お互い反省はしていないが、ここで争わないという言質が取れたことで、良かったですと言いたげにミーリツァがまた笑う。
「わたくし、これから資料館でお勉強の時間ですの。おふたりはどうなさいます?」
「また神の内に潜るのか……終わるまで天で待っていよう」
『じゃあ僕は――チッ、ビスティアが起こしにきやがった。帰るよ』
「かしこまりました、またお時間のある時に是非」
にっこり笑って淑女の礼をするミーリツァに、最高位の神官と強き竜人は揃って不満げだが顎を引いて是と返した。
夢見を解いたクレアチオネはその場からすいと姿を消し、ククヴァヤは再び空へと舞い上がる。故国から出て数ヶ月、ミーリツァの一日はいつもこうして始まっていた。
×××
カラドリウス神聖皇国は宗教国家である。最高権威者は神の憑代である神官であり、神殿は全ての民を受け止める場所である。
それ故に、皇都にある八柱神の神殿は、政治経済の中心にも成る為、様々な設備が併設されている。様々な神話伝承と、建国史が収められている資料館もそのひとつだ。
「ふわぁ……」
智慧女神の神殿、その礼拝堂である筈の場所が、天井まで本で埋まっているのを見上げる度、ミーリツァは思わず間抜けた声をあげてしまう。何回見ても圧倒的だ。一生を使ってもここにある本を全て読むことは出来ないだろう。
「ミーリツァ様、お早いですね」
「あ、サジェッサ様!」
出迎えたのは、清楚な雰囲気の女性。智慧女神の色である黄色のトスカを肩にかけ、白の神官衣を纏っている。この国を治める八柱神の憑代のひとり、サジェッサだった。周りには彼女の護衛であろう神官たちが控えていたが、軽く彼女が手を上げるだけで楚々と下がり、資料の整理に戻っていく。
「毎日ご面倒をおかけして、申し訳ありませんわ」
「いいえ、これが私のお役目ですから、お気になさらず。ミーリツァ様はとても覚えが良くていらっしゃいますので、こちらとしても不遜ながら楽しんでおります」
彼女はこの国では珍しい、ミーリツァに友好的な神官だった。フェルニゲシュとカラドリウスの宗教的な教えの差異が興味深いらしい。あまり政治にかかわらず、この資料館の運営に携わっているが故かもしれないが、ミーリツァにとっては楽に息が出来る場所がひとつあるだけで充分有難い。彼女に教わる様々な知識は、今まで知らなかったことばかりだったミーリツァの中にどんどん染み込み、今ではもっと欲しいと切望していた。
最初は皇国語を読むことも難しかったが、幸い神殿の書物に使われている神紋語はミーリツァも慣れ親しんだものなので、覚えは早かった。
「本日は、この前の続きから行います。こちらの資料をご覧ください」
「ええ、お願い致しますわ」
ここで学ぶ神学は、ミーリツァにとって全く知らないものばかりだった。勿論、フェルニゲシュに伝わる神話と大筋は一緒なのだが、やはり主神の差から様々な部分に差異がある。悪しざまに罵られた行為が、逆側から見れば誇らしげに語られているのは当たり前。
「まぁ、アルード様がイヴヌス様から、黒き紐を賜ったとされておりますのね……わたくしは奪ったと習いましたわ」
「当時の信仰者にとっては、下賜される方が許しがたかったのかもしれませんね。神話も口伝により少しずつ形が変わるものです。この国でも、四地神を躊躇わずに邪神と呼ぶ者が多いですから」
「サジェッサ様は、そう思いませんの?」
彼女は済まなそうだったが、ミーリツァから見ればそれも当然と思えたので自然と疑問を言った。同じ憑代達の中でも、あからさまにミーリツァを邪神の手先と蔑む目で見る者が多いのだ。
「……そも、フェルニゲシュ王国とリンドブルム王国が建国されたのは、こちらが八柱神の信仰を強いて、奪おうとした結果です。イヴヌス様とアルード様は表裏一体、互いがいらっしゃるからこそ存在するこの世界の機構そのものです。……残念ながら、私のような考えに賛同する者は、今のこの国では決して多くありません。しかし智慧女神の憑代として、誤った知をひけらかし、ばらまく訳にはいかないのです」
真摯な答えに、ミーリツァは彼女への信頼を深くする。憎しみや偏見に囚われず相手を見ることがとても難しいことは、よく知っている。つい先日まで戦争をしていた間柄なら、尚更だ。
「とても素晴らしいと思います! わたくしも、覚えた知識を兄様と、祖国に役立てるように頑張らなくてはいけませんわね!」
「ええ、それはとても宜しいことかと。……少し休憩に致しましょうか、お茶を入れて参ります」
「まあ、お構いなく。ありがとうございます」
微笑んで立ち上がり奥に入っていくスヴィナの背を見送って、はあと溜息を吐く。あんな風に冷静で思慮深く、淑やかな女性になりたいとミーリツァは本気で思った。きっとそうなれば、兄の役に立てる。未だ家名も名乗れぬ、何物でもない自分が、祖国の役に立てる。それはミーリツァにとっての悲願だった。
ふと、神殿の入り口が開いて、小さな子供たちがぱらぱらと入ってくる。一応神殿内故に静かにはしているようだが、好奇心に耐え切れず走り出す子もいるようだ。微笑ましく見守っていたが、小さな子供がひとり、滑らかな床で転んでしまった。
「まぁ大変! ……大丈夫ですか? 怪我は?」
慌ててミーリツァは席を立ち、子供に駆け寄る。泣きそうになっていた子供は顔をあげて――ひっ、と息を飲んだ。その反応に、自分が失敗したことに気づく一瞬前。
「貴様、何をしている!」
鋭い声で怒鳴られ、ぐいと肩を引っぱられた。痛みと怯えを堪えてそちらを見ると、眦を吊り上げた神官がミーリツァを睨みつけていた。
「その子供に何をしようとした!」
「な、何もしておりませんわ! 転んだので、大丈夫かと」
「余計な世話だ、触れるな!」
どん、と突き飛ばされて、細いミーリツァの体はぺたんと尻餅をついてしまう。突然のことに固まってしまっている彼女の側に、早足で誰かが近づいてきた。
「オルディネ、何の真似ですか。この方は我が国の国賓ですよ。ミーリツァ様、大丈夫ですか?」
「え……ええ。申し訳ございません、大丈夫ですわ」
手を貸して貰って漸く立ち上がると、サジェッサに睨まれても全く臆さぬ青年は、更に息巻いて大声を上げた。
「邪神の眷族が、この子供に更なる傷を与えようとしたからだ!」
「わ、わたくしはそのようなこと、断じて行いませんわ!」
きっぱりとミーリツァが言い切ると、ほんの僅かオルディネと呼ばれた青年は鼻白むが、勢いを殺そうとはしない。
「この子供は、死女神の使徒に両親を奪われた! 借金の形に、理不尽な生贄としてな!」
「え――」
オルディネは子供をしっかりと抱き寄せて両手で耳を塞いでやりながら、尚も言い募る。
「故にこの子は秩序神の神殿と私、オルディネ・オッターヴォ・カラドリウスが守らねばならん! 邪神の眷族が近づくことは断じて許さんぞ!」
「オルディネ、無礼です! それ以上は智慧女神スヴィナの名において、世迷言を続けることは許しません!」
「……いずれ必ず、貴様の化けの皮を剥いでやる」
ミーリツァを庇うように立ち、きっぱりと言い放つサジェッサにオルディネは不機嫌そうに舌を打つ。不安そうな子供達を率い、奥へ連れていきながら、捨て台詞のように呟いて去って行った。
「ミーリツァ様、同朋の不出来をお詫びいたします。大変申し訳ございませんでした」
「……いいえ、サジェッサ様。それよりも、教えてくださいまし。……あの方が仰っていたことは、誠なのですか?」
血の気の引いた顔で、それでもミーリツァは聞いた。彼の理不尽な罵声は兎も角、聞き流せないことを言っていたからだ。
「……はい。数巡り前、死女神の信徒と思われる者達が、街で大規模な儀式を行ったのです。生贄と称し、十数名の命が、奪われました。……声明として、これは神殿内のみで確認された内容ですが……フェルニゲシュ王の命であると言ったものがいたのです」
「まさか!」
悲鳴が上がった。そんなことは天地がひっくり返っても有り得ない。恐怖と憤りを押さえられずに叫ぶミーリツァを宥めるように、サジェッサはあくまで冷静に続けた。
「ええ、仰る通りです。猊下は苦し紛れの放言としか認識されておりません。ですが、恥ずかしながら――それを口実としたいものは、神殿内にもおります。フェルニゲシュとの戦争をもっと続けるべきだったという声も」
「なんてこと……」
ふらりと倒れそうになり、慌ててサジェッサが支えてくれる。椅子に座らせられながらも、ミーリツァの混乱は収まらない。宥めるように肩に手を置いたサジェッサが、静かに続けた。
「申し訳ありません。オルディネはまだ若輩故、馬鹿正直にその言葉を信じているのです。私の諫めも聞かず、大変無礼なことを申し上げました。重ねて、お詫び致します」
「いいえ、いいえ。……あの方がそう思っていらっしゃるなら、お怒りも最もですわ。それに……あの子供が、わたくしを怖がったのも」
纏っているのは黒い神官衣。首に下げているのは黒水晶の祈刃。どちらも邪神――四地神の信奉者として言われている姿だ。怯えられても、仕方がない。
「ですが、今は無理でも、どうか知って頂きたいです。死女神様は確かに、奉じる者の血肉を受け止めて下さいます。でも、信徒が望まぬ限りは決して行いません。他の神様に信仰を持つ方の命を奪うなど、死女神の信徒として最もしてはならない禁忌です」
「ええ、存じております。だからこそ猊下は、神の名を借りた只のテロルであると結論づけております。必ず、オルディネにも謝罪をさせましょう」
力強いサジェッサの言葉が却って申し訳なく、ミーリツァは頭を下げるしかなかった。
×××
「誰から聞いた? ……チッ、オルディネか。あの真面目野郎」
「では、本当の事なのですね……」
夜、用意された自室に現れたクレアチオネ――ククヴァヤは父から呼ばれて皇都を離れたのでそれを狙ったのだろう――に、ミーリツァは真っ先に疑問をぶつけた。いつも通りの渋い顔で、それでもほんのちょっと気まずげに彼女は語る。
「原則、うちの国はもうアルード以下の神の信仰を禁止してはいない。だが、長年弾圧対象だったこともあるし、そういう信仰に紐付けて、好き勝手に振る舞う馬鹿が多いんだ。当然出てくりゃ潰すが、下手に祈りが神に届かない分、僕の目だと感知できない」
「なんてこと。死女神様の教えを曲解する方が、そんなにも?」
ぷりぷりと憤る少女に、クレアチオネは訝しげに眉を顰める。
「……前から不思議だったんだけどさ、お前、なんでそこまでラヴィラに傾倒するわけ。人間だったら誰だって、一番忌避したいことだろう、死っていうのは」
「勿論そうですわ。わたくしも、死ぬのは怖いです。ですが、ラヴィラ様が慈悲深くお優しい方だというのはよくわかっております」
「なんで」
無造作な疑問に、ぱち、と平凡な茶色の瞳が瞬く。
「……なんで、でしょう?」
「おい」
「ですがわたくしに、そこに疑問を差し挟む余地がないのです」
自分でも解らず首を傾げるまま、しかし真っ直ぐにミーリツァは言った。
「わたくしにとっては、ラヴィラ様は最期に寄り添い侍る方です。わたくしが生きて死ぬまでの、唯一の標です。他の方がどう思われるかわかりませんが、これがわたくしの信仰なのです」
「……ハ。うちの憑代どもに聞かせてやりたいね、何もかも捨てる根性は無いくせに阿るだけは一丁前の」
「まぁ、そのようなことはありませんわ。オルディネ様も、信仰故にわたくしが……いいえ、死女神様の教えを捻じ曲げる行いが許せないのでしょう。できれば、わたくしは違うと解って頂きたいですが……その為だけにあの方の時間を取らせるのは申し訳ありませんわね」
ちょっとしょんぼりして、ベッドの上で両膝を抱えてそれでも微笑むミーリツァを見て。クレアチオネは寝転がったまま、限界まで眉間に皺を寄せて――葛藤を如何に吐き出すかと言いたげに何度も口を開閉し――結局、ぽろりと。
「……悪い」
この国の者達ならば誰もが慄くであろう、詫びの言葉を口にした。傲岸不遜、始源神の憑代である、彼女が。
「えっ?」
「ッだから。……一応、謝っとく。僕の監督不行き届きって奴なんだろ、関係ないし、腹立つけど」
「――ありがとうございます。わたくしは幸せ者ですわ」
「また出たよ、なんでそう――」
羞恥と苛立ちから更に声を荒げようとしたクレアチオネだったが、ミーリツァの表情を見て口を閉じた。
「本当に。誰かが気をかけてくださるということは、本当に得難い幸福なのですわ」
その笑顔が何故だかとても、いつもの笑みとは違って儚げに見えて――とても、腹が立った。
×××
次の日、ミーリツァはクローゼットの前で悩んでいた。己の信仰を曲げるつもりはない。彼女にとってそこは譲れないところだ。しかし自分の格好で、何の罪もない子供達に恐怖心を与えるのは不本意だ。
自国から持ってきた着替えは部屋着の他には法衣しか無かったので、どうしようかと思ったが。クレアチオネが事前に用意してくれていたクローゼットの中には、様々な色のドレスやワンピースが詰め込まれていた。
「なんて素敵なのかしら……でも」
その内の一着の意匠がとても気に入ったのだが、色は淡い青色だった。それが、ほんの少し彼女を臆させてしまう。
……故国にいる時は、青の無い自分の姿を晒すことを恐れていたし、青を纏うことも許されなかった。自分が王家における不義の子であると囁かれることにより、姉や兄に迷惑がかかるのが怖かったからだ。両親に、ではない。
父と顔を合わせたことはない。母の顔も覚えていない。姉と兄に会うまで、ミーリツァの世界は酷く静かで、何も無かった。物心ついたころには、最低限の世話すら与えられていなかった、と思う。その辺りの記憶が酷く曖昧なのだ。八歳の時、父が死んだことを告げにきた姉が笑っていたことと、兄が泣きながら自分を抱き締めてくれたことが、ミーリツァの確固たる最初の記憶だ。
それより前は――どうだっただろう。よく思い出せないけれど、間違いなく信仰はその頃から有った。何故なら、わたくしは――
「ミーリツア、如何した」
特徴のある発音で名前を呼ばれはっと我に返る。部屋の窓の桟に器用に足の爪をかけて、ククヴァヤが中を覗き込んでいる。ミーリツァはまだ寝巻のままだったが、彼女にそこまでの恥じらいはないし、ククヴァヤも神人のその辺りの機微には疎い。特に揉めることも無く、ミーリツァは客人を部屋に招き入れた。
「服をどうしようか悩んでおりましたの。黒が一番落ち着くのですが、周りにご迷惑をかけてしまう可能性がありますので」
そう言ってさり気なく青いワンピースを仕舞うミーリツァに、ククヴァヤは縦長の瞳孔をぐるりと回し。
「吾は、神人の装束などよく解らん。だが、どの布もお前の美しさを高めるのは間違いあるまい」
何の気負いも無くそう言われて、ミーリツァの頬に朱が乗った。
「まあ、まあ、なんてこと。ククヴァヤ様、お上手ですわね!」
両手を頬に当てて恥ずかしそうに俯く理由は解らないようだったが、彼女が笑顔になっていたのでククヴァヤは安堵したように鼻息を吐いた。表情は読めないが彼なりに、ミーリツァの元気がないことを案じたのだろう。
自分は本当に恵まれている、とミーリツァは改めて思う。自分を大切にしてくれる方たちに応えないなど、そんな失礼なことは出来ないと決意を固めた。
「ありがとうございます、ククヴァヤ様。では今日は、こちらのお洋服にしましょうか」
薄い橙色の、二番目に気に入ったスカートを引っ張り出すミーリツァに一つ顎を引いて頷き、ククヴァヤは鋭い歯の並んだ口を開いた。
「そうだ、貴様はそれでいい。――時に、ミーリツア」
「はい、なんでしょう?」
「手紙を書く、もの、という何某は、どうすれば手に入る?」
父から与えられた無理難題を相談するククヴァヤは、いつになく自信なさげに声を潜めていて、ミーリツァはぱちぱちと目を瞬かせた。
×××
オルディネは苛立たし気に回廊を歩いていた。彼が不機嫌なのはいつものことで、護衛神官達も距離を取りつつ後に続いている。やがて謁見用の部屋――の側にある、詰所の扉を乱暴に開けた。
「……おや、オルディネ。ノックはちゃんとした方が良いですよ、猊下がいらっしゃることもあるのですから」
慇懃に返す、戦神の憑代であるヴァラを苛立ちのままに睨みつける。同じ憑代でありながら、戦神の荒々しさを全く見せない不健康な男も、オルディネにとって腹立たしかった。神の名のもとにこの国を統べる者として不真面目すぎる、と。
「猊下は何故、あの女を庇護しているのですか!」
「……主語がありませんよオルディネ。まぁ、言いたいことは大体わかりますが」
呆れたように覆面の下で笑うグァラにオルディネが青筋を立てていると、もうひとりこの部屋にいた憑代が静かに声を上げた。
「猊下の采配に異があるというのならば、正式な提言書を出しなさい。秩序神様の憑代ならば、それが当然のことでしょう」
ビスティアに図星を突かれてオルディネは更に鼻白む。それでもどうにか口を閉じたのは、彼女が恐らくクレアチオネに一番近しい憑代であり、重ねた年数は現在の憑代達の中でも最も多いからだ。余程のことがなければ憑代たちの前に姿を晒さないクレアチオネが、彼女にだけは身の回りの世話を許している。それがまた、オルディネの癇に障るのだが。
50年以上の年数を重ねてなお、妖艶な美貌を持つビスティアは、僅かに眉間に皺を寄せてオルディネに向けて苦言を呈してきた。
「何より、貴方に対してサジェッサから正式な抗議文が届いています。資料殿に於いて、国賓に対し無礼な言動および行動をしたと。相違ありませんか?」
「……ッ、事実です。しかしそれには理由が」
「本来ならば秩序神の憑代である貴方が裁かねばならぬことです。弱者に対する補助や補填は結構ですが、己の責務をおろそかにしてはいけません」
「まぁまぁ。オルディネとて神殿に上がってまだ三年、手が届かぬ場所も多いでしょう。それは我々が手助けせねば」
冷静に彼の弱みを突いてくるビスティアと、庇うように見せかけて面白そうに目を細めているグァラに、いよいよオルディネの顔と頭に血が上る。怒りに任せてだん、と床を踏みしめると、やれやれと言いたげにグァラが肩を竦めた。
「サジェッサと貴方は姉弟でしょう?少しは仲良くすれば宜しいのに」
「……神殿に憑代として召し上げられた時点で、血の繋がりなど消えました」
そう、サジェッサとオルディネは、その名を与えられるより前は、皇国における名家に生まれた姉と弟だった。その家は長年憑代を輩出しており、ふたりもそれに従って勉学と信仰を深めるに励んだ。結果、同年代で同じ家、ふたり共に召し上げられるという記録を成し遂げた。……家にいる頃からずっと、姉は父に、弟は母に、争うように仕向けて鍛えられ、そしてたった一年だけとはいえ姉が先んじて第七位となった結果、ふたりの溝は、埋まることは無くなったが。
「それを言うならサジェッサとて、役目を果たしていると言えるのですか! 死女神の眷族を庇うなどと!」
「智慧女神の憑代としては、その知識を他者に教えるのは正しい姿です。オルディネ、秩序から零れた者達を掬い取る貴方の行為もまた正しい姿です。ですが、四地神の信徒をただそれだけの理由で忌避することは、秩序の憑代として正しい行為だと思っていますか?」
「当然です。邪神を奉じるものを許すわけにはいきませんし、彼らを排するのが我々の使命でしょう」
言い切るオルディネに、はぁ、と溜息の二重奏が重なる。
「確かに、秩序神タムリィはそれを絶対の使命として掲げています。しかし、今のカラドリウス皇国に必要な秩序ではありません」
「解りません!我らは神の憑代、神の有様を体現するのが使命ではありませんか!」
平行線の議論に、ビスティアが眉を顰め、息を吸い込んだ時、宥めるようにグァラがその背をそっと撫でた。
「お互い、落ち着きましょう。猊下が聞いているやもしれませんよ」
彼女の神出鬼没さをよく知っている面々は、或いは息を飲み、或いはまた溜息を吐いて矛を収めた。
「……猊下は何故、死女神の眷族を……」
僅かに萎びた怒りと共に、オルディネが尚も吐き出すのは困惑だ。彼には本当に解らないのだ――ミーリツァを、邪神を奉じる愚か者としか認識していない為に。八柱神の憑代であるという自負を持つが故に。
やれやれとグァラは肩を竦め、宥めるように続けた。
「一度、ミーリツァ様とお話をした方がいいかもしれませんね。あの方は優しいお方ですし、強いお方ですよ、とても。兄上殿――フェルニゲシュ王に負けないほどに」
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