亡国の王女と竜人の王の鬩ぎ合い 下
「それは、面白いこと。あのイェラキが、殻付きのよう」
ぐるぐるぐる、と長く喉を鳴らしながらペラルゴスが宣う。これは確実に笑っているのだろう、とツィスカは悄然としつつ溜息を吐く。殻付き、は恐らく卵から生まれたばかりのこと――つまり未熟だ、とからかっているのだろう。
「本気であろう、ことは伝わるのですが……私に、受け止めるだけの気概が無いのです」
先日以来、ペラルゴスは神人の娘と話すことを気に入ったらしく、二日とおかず彼女の部屋に呼び出されることになった。ツィスカも、ただでさえやることが何もない中、彼女と話すことも楽しいので否はない。
何より、これだけ気安く話が出来る同性というものが、今までツィスカの人生で存在しなかったのだ。否が応にも周りには男が多く、下働きの女達からは仕えるべき相手と線を引かれた。竜人の国に来て初めて、彼女は何の気負いもなく話せる相手というものを手に入れたのだ。
だからこそ――声自体には活力があるが、目に見えて少しずつ衰えていっているペラルゴスの姿を見るのは辛くもあった。日を追うごとに、彼女の中から命が滲み零れだしているように、その姿は縮んでいって見えた。悲痛な顔をしても、彼女の鼻息ひとつで蹴散らされてしまったが。
「本来ならば、卵を産んだならばすぐに事切れるのが常なのだ。吾は二十年は耐えた。イェラキの為、一の妻にククヴァヤを託された為にとな。この子も居る、まだこの魂を火に還すわけにはゆかぬ」
そう言って愛おし気に撫でる大きな卵に、ツィスカも触れることを許された。一見冷たく見える灰色がかった卵は触るとほのかに温かく、中で何かが蠢くのが感じ取れた。元気な命がこの中にあるのだという事実が、自然とツィスカの顔を綻ばせる。
「御前、少し鱗が増えたか?」
「そ、うでしょうか。自分ではよく、解りませんが」
一度イェラキの血で命を繋いで以来、皮膚の半分を覆うようになった銀鱗。火竜の力が強いこの地で過ごしてきた故なのだろうか、体が少しずつ竜人に近づいているのかもしれない。
「いずれ吾等と等しき体となり、子を成すことも出来るやもしれん――吾としては、御前が望むのでなければ末永く侍って欲しいが」
「お戯れを……」
露骨なことを言われて、あまりその手の会話に慣れないツィスカは頬が熱くなる。とても想像できるものでは無かった。
それに、神人によい感情を持っていない竜人は大勢いる。ツィスカの移動を手伝ってくれる竜人すら、ペラルゴスの命により渋々なのだろう、あからさまに触れるのを嫌そうにしている者も多い。神人を妻に迎えるなどもっての外だろう――幸い、言語が異なる故にツィスカの耳に届かないだけで。
此度のフェルニゲシュとの条約締結にも不満の声は上がっているらしく、イェラキはそれが原因で起こった別の島の諍いに、一の戦士を連れて出向いていった。勿論、竜人の理として、否ならば力で示せ、とイェラキは構えているのだろうが。
もし己の体が完全に変じれば、彼にそんな煩わしさを与えることは無くなるかもしれない、とそこまで考えて、ツィスカの頬が別の理由で熱くなった。これでは、まるで――。
「――む」
「……今のは?」
ふと、甲高い悲鳴のようなものが聞こえた気がして、ツィスカは思考を止めて問う。彼女よりも早く気づいていたペラルゴスは、しっかりと卵を抱いて体を起こした。よろめく身をツィスカが駆け寄って支える。
「これより下で、何かがあった。今日は、罪人の処刑が行われる予定だったが」
「私が、見てきます。……こちらを一本、お借りしても?」
「構わぬ。好きにせよ」
部屋の隅に積まれた武器から、手頃な槍を一本掴む。竜人にとっての住居である洞は、ツィスカが槍を振るえる充分な広さがあった。久しぶりに持つ武器はしっくりと手に収まり、自然と身が引き締まる。
「ペラルゴス殿はそちらでお待ちを」
それだけ言って、短い洞を通り大空洞の縁まで進む。心臓のように蠢く溶岩を覗く崖まで辿り着いたが、常に聞こえる地響きに交じり、やはり悲鳴のような鋭い竜人の声が響いている。武器を構えたまま、赤黒い海を見下ろそうとした時――がっ、とその崖に人間の手が掛けられた。
「っ!? 何奴!?」
飛び退り槍を向けると、それはぐいと右腕だけで体を持ち上げ、崖を登り切った。その体は伸び放題の髪と髭を血に塗れさせており、酷く饐えた臭いを放つ大柄の男。体のあちこちに火傷を負い、何より左腕は肩から下が無かった。髪の隙間から見える目だけが酷く飢えたようにぎらぎらと輝いていて――
「、お前は」
「どけぇ!」
罵声と共に、襲い掛かってきたその人影に、見覚えがあったツィスカは一瞬反応が遅れてしまった。こん棒のようなもので槍を弾かれ、危うく崖下に落ちかけて踏鞴を踏む。その隙をついてその男はツィスカの後ろ、ペラルゴスの部屋に続く洞に駆け込んでしまった。
「待て!!」
急いでその背を追う。信じられないし、何故ここにいるのか全く解らなかったが、間違いなく正体に気付いた。何せ自分は、この男と書類上の結婚すらしていたのだから!
「ギャアアァア!!」
「ペラルゴス殿!?」
洞の奥から悲鳴が聞こえ、焦りで足が縺れる。走り込んだ瞬間、血臭が鼻に届いた。
ペラルゴスは己の寝床の上に蹲り、その背から血を流していた。男の持っている武器は、まるで拷問用のように棘だらけの棒だ。背を叩かれ、すっかり弱った彼女の鱗では防ぎきれなかったのだろう。本来ならば立ち上がって戦う誇り高き竜人がそうなってしまったのは、咄嗟に卵を守った為に相違あるまい。しかし気を失ってしまったのか彼女はもう動かず、男はその手指から卵を蹴り出し、まるで毬のように踏みつけた。無論丈夫な卵はその程度では割れなかったが、男は更に舌打ちすらして、動かぬ竜人の体に追撃を加えようと武器を振り上げる。
「離れろ! 下郎ッ!」
その男に、ツィスカは躊躇いなく槍を振るった。しかし男はかなり腕の立つ者らしく、焦った攻撃を軽く武器でさばき、ごろりと卵を転がしてまた踏み、距離を取る。ツィスカはその隙に、男とペラルゴスの間に割り込んだ。
「やはり――貴様、タラカーン……!」
嘗てフェルニゲシュで豪腕を振るい、民を虐げ続けた大将軍。リントヴルムの王と密かに通じ、竜人の子を奪い続けた張本人。すっかり身形は変わってしまったが、その脊力と腕に衰えは見えなかった。
「あぁ……? 人間がなんでここにいる? 貴様も捕虜か」
対するタラカーンは、嘗ての妻の事などもう覚えてはいないらしい。訝し気に眉を顰めただけで、苛立ちと共に血まみれの武器を振った。
「何故蜥蜴共を庇う? 俺達の敵だろうに」
「――違う! 少なくとも私にとっては!」
「ハッ。よく見りゃ鱗塗れだな、あいのこか? 俺についてくれば、こんな蜥蜴共の島から逃がしてやるぞ?」
嘲るような声で提案してくる男に、ツィスカはこみ上げる吐き気を堪えた。恐らく戦で負けた彼は、竜人の子供達を略取した罪に問われてここに囚われていたのだろう。その顔には、自分が当然のことをしていると言いたげな笑みが浮かんで見えて――彼が竜人達を、只の獣同然にしか扱っていないことが分かった。
「どのように逃げるというのです。この島はフェルニゲシュから遠く離れた海の上、翼が無ければ越えられません」
「竜人共を従えればいい。そら、丁度いい人質を手に入れた」
ぐりぐりと大きな卵を踵で踏みながら、いっそ上機嫌に男は言った。
「叩き割ると言えば竜人共は逆らわん。高く売れるだろうしな、拾い物だ」
「なんという、ことを……!」
「生憎この腕だ、運び人が必要でな。そら、悪くない取引だろう?」
肩を竦めてあくまで傲慢に注げる男に、怒りのあまり、ツィスカは限界まで槍を握り締めた。こんな外道に僅かな時間、政略といえど嫁いでしまった自分が許せない。
自分はあまりにも多くの過ちを犯してしまった――だからこそ、これ以上違えるわけにはいかない!
無言のまま、槍をしっかりと構え直し、タラカーンに向ける。訝し気な男に、凛とした声で告げた。
「卵を置いて立ち去りなさい。この方々に手出しは許しません」
「……何を言っている?」
心底、理解が出来ないという声でタラカーンが呟く、こちらこそ、理解する気もされる気もない。
「どのような、道理があろうと。母と子を引き離し、命を金で売る男に、従うことなど有り得ません!」
「ふん――既に物狂いか。なら、貴様も死ね」
ツィスカの言葉は、男の耳には妄言としてしか届かなかったのだろう。鋭い棍棒の一撃が繰り出され、咄嗟に槍を引いて受けるが、強い衝撃に押し込まれる。
「っく……!」
長年鍛えてきた身だったが、一度戦場を離れてからは碌に訓練をする機会が無かった。尚且つ相手は、フェルニゲシュという武断の国で、己の武技ひとつで大将軍にまで上り詰めた男だ。片腕ということを差し引いても、その腕前は衰えておらず、容赦も無かった。そして彼の狙いはツィスカではなく――
「おら、離せ!」
「ッギィア!」
「!」
卵を取り返そうとしたのだろう、足にしがみついたペラルゴスの肩に容赦なく武器が振り下ろされる。
「こ、の……ッ!」
最早一刻の猶予も無く、ツィスカは槍で真っ直ぐにタラカーンの首を狙った。残念ながら返す刀で弾かれたが、片腕の動きに慣れていないその体は僅かに傾いだ。その隙を逃がすツィスカではない。ぐるんと弾かれた勢いのまま槍を回し、石突でタラカーンの米神をしたたかに叩いた。ぐらりと傾ぎ、大きく倒れる男の足の下から漸く卵が開放され、ころりと転がる。洞の中は軽い坂になっているので、下手をすれば大空洞まで転げてしまうかもしれない。慌てて武器を捨て、両腕でしっかりと抱えた。表面に細かい傷は入っていたが、中身が漏れたりはしていないようだ。安堵の息を堪え、ペラルゴスに駆け寄る。
「ペラルゴス殿、お気を確かに!」
「……ウ……」
身を震わせながらも、ペラルゴスはよろよろと卵に手を伸ばし、立ち上がろうとする。彼女の巨体をどうにか支えると、思ったよりも軽くて泣きそうになった。
「大丈夫です、この子は無事ですから――」
「逃げ、よ……!」
「えっ――あぐっ!?」
背中に衝撃が走り、かっと熱くなる。咄嗟に卵を両腕で抱きしめ、先刻のペラルゴスと同じように蹲るが、己の油断に吐き気がした。
――何てこと! ここまで鈍ったか!
戦場に立って、敵に止めを刺さないなど愚の骨頂。痛みを堪えて首を捻ると、ふらつきながらも血塗れの武器を構えた男が、憤怒の顔でこちらを睨み下ろしていた。
「女ァ……舐めやがって! 俺はこんな所では終わらん! 全て奪い尽くしてやる――!」
「っぐぅ……!」
裸足で背の傷口をぐりりと踏み躙られて、悲鳴を堪える。肩を掴まれ、奪われようとする卵を必死に抱きしめて抵抗すると、再び武器が振り上げられた。今度は頭を潰される覚悟をし、せめて、とその顔を睨み上げた瞬間――更に大きな体が、タラカーンに覆い被さった。
「グルゥアアアアア!!」
「がふ、き、様……!!」
魂を削るような咆哮をあげて、ペラルゴスが両足で立ち上がり、タラカーンの首筋に食らいついた。タラカーンも必死に抵抗し、棍棒を何度も彼女の脇腹に叩きつけるが、その牙は緩まない。怒りに燃える水色の瞳は、しかし何かを訴えるようにツィスカを確りと見据えていた。
「っ……御免!」
タラカーンの足が弛んだ瞬間、ツィスカは無理やり体を起こして卵を抱え、走り出した。彼女の望みを、ちゃんと受け止めたからだ。この子だけは、奪われるわけにはいかない!
傷の痛みを堪え、大空洞まで走る。崖縁から空を仰ぐと、恐らく二の戦士であろう竜人達が上から羽ばたいて降りてくるのが見えた。何とかこの卵だけでも彼らに託さなければと思った時――背に地獄から響くような声が届いた。
「寄、越、せぇええええ!!!」
咄嗟に振り向くと、まさに鬼の形相をした男が、傷だらけの竜人に噛みつかれたまま叫んでいた。誰もが身を竦ませてしまうほどの執念で、手に持った棘だらけの棍棒を、躊躇いなくツィスカに向かって振り被り、投げる。
「ぁ――」
躱そうとして、がくりと膝が傾いだ。背から垂れた血がいつの間にか裸足の足を濡らしていて、踏ん張れなかったのだ。
それでも、如何にか堪えようとした腕の中から、重い卵がころりと転がり出て、崖の下へ――
「っ駄目……!」
何も考えられず、ツィスカは飛び出した。ペラルゴスが――初めて得た友というべきひとが、大切にしていた命を、失うわけにいかなかった。卵を両手で掴み、胸元に抱き締めた時には――ツィスカの体は、宙に浮いていた。
落ちる。ペラルゴスの悲鳴のような咆哮と、タラカーンの罵声があっという間に遠くなる。上空から降りてくる竜人達の翼も、間に合わない。それより先に、自分の体は火の海へと落ちる。
自分だけ、ならよかった。自分の命について、未だツィスカは確りとした意味を得ていない。これからどうすればいいのかも、誰かに提示してもらわねば先に進めない程、彼女自身の魂はすっかり萎えてしまっていた。何もかもを、簡単に諦めることが出来た。それしか出来ていなかった。
でも今は――
「駄目……!」
もう一度、ツィスカは叫んだ。腕の中には、竜人の卵。何も抵抗できない弱い命。失うわけには、いかない。そして今この子を助けられるのは自分しかいないのだ!
しかし何が出来る? この体はあっという間に、溶岩に飲み込まれて死ぬだろう。いかな竜人の卵と言えど、原初の火の竜の力に耐えられるわけもない。だから自分が、ほんの僅か、一瞬だけでもいい、耐えなければ――誰かの手が届くまで!
熱の泡が弾け、舌のように伸びてきた炎の鞭が体を炙った瞬間、せめてもの抵抗としてツィスカは卵を全身でしっかりと、守るように抱き締めた。
「――目を開けろ、ツィスカ」
名を呼ばれて、ふと瞼を開く。気づけば周りは酷く熱いのに、体は全く焼かれていない。驚いて体を持ち上げ――ようとして、何の支えも無い状態でぐらりと傾いだ。慌てて体に力をいれると、ぴたりと止まる。……炎の海よりも上の、中空で。
先刻聞こえた声に、またあの男に助けられたのか、と安堵と悔恨が半々の思いで辺りを見回すが、いない。不思議に思って顔をあげると――思ったよりも遠い位置に、銀の竜人王は大きな翼を広げて留まっていた。指の一本も、ツィスカの身に触れていない。
「――えっ」
そこで漸くツィスカは、体が自分の意志で宙に浮いていることに気が付いた。
両手はしっかりと卵を抱えたまま、背を振り仰ぐと――銀というにはやや赤黒く錆びたような鱗を持つ、翼が生えていた。自分の、背中に。
「こ、れは、いったい」
呆然と言葉を紡ぐと、するりとイェラキが側に舞い降りてきた。竜人の翼は風を孕み、どのような場所でも地から離れて浮くことが出来る。その翼が、ツィスカの背にも生えていたのだ。火の海に落ちなかったのは、彼女自身の翼が、その役目を果たしているからだ。
「火の竜ギナの気紛れか、はたまた吾が血の顕現か。――虜囚を軽んじたが故の不覚だ、間に合わなんだか」
そう言われてはっとする。自分でもよくわからない内に翼を動かそうとして出来ず、またぐらりと落ちかけた体を今度はイェラキの腕が支えた。安堵の息を吐く間もなく、必死に訴える。
「ペラルゴス殿は!」
「虜囚に報いを受けさせた、だがあれの命は最早止められぬ」
「そんな……!」
嘆くツィスカを抱きかかえたまま、竜人の王は火から空に向かって飛ぶ。
「その命を今一度、抱かせてやってくれ」
初めての王の懇願に、彼のどうしようもない悲しみが混じっている事に自然と気づき、ツィスカは涙を堪えて頷いた。
ペラルゴスの洞の前に沢山の竜人が集い、彼女の傷の治療をしていた。しかしその場にべたりと伏したペラルゴスの体は血塗れて、ぴくりとも動かない。側に捨て置かれたタラカーンは、喉笛を食いちぎられて絶命している。彼女が、己の命を懸けてやり遂げたのだろう。
「ペラルゴス殿! 子は無事です!」
ツィスカが降り立って駆け寄ると、竜人達は一様に神人を睨みつけたが、その背に負った不格好な翼に驚き、その後ろから王が歩いてくるのを見て皆平伏した。故にツィスカは止められることなく、ペラルゴスの枕元にしゃがみこみ、そっと卵を降ろす。
「……オ……」
ほんの僅か、ペラルゴスの口が動く、既に光を失っている瞳がそれでも僅かに動き、目の前の卵に向かって細められる。そして舌でそっと卵を押し――ツィスカの方へ転がした。
「おまえに、たくす。……どうか」
ざわざわと竜人達がさざめく。命を失う時、卵を他の女に預けるのは、竜人の常だ。そして王の妃ならば、他の妃に託すのも当然。つまり、二の妻であるペラルゴスが、神人の女を――もはや竜人が半ば混じってはいるが――三の妻として認めたということにも繋がる。己にとても重いものが託されたことを、ツィスカは相違なく理解し――ぐっと口を引き結んで、それを受け止めた。
「お約束、します。私はこの子を、守ります。必ずや」
「オォ……」
はっきりと響いたツィスカの声が届いたのか、僅かに上がったペラルゴスの顎がゆるゆると落ち――そっと、銀鱗の腕で掬い取られた。
いつの間にか、ツィスカの隣にイェラキがいた。すっかり小さくなってしまった妻を慈しむように、顎を撫で、指で口元の血を擦り落してやる。ペラルゴスの瞼はすっかり落ちてしまって、もう開かない。
<……吾が身の炎に焼かれし吾が妻よ。貴様の肉と骨と魂は、このイェラキが受け取った。眠り、還れ。火の竜ギナの御許で会おう>
竜人の言葉は、ツィスカにはやはり理解できなかったが、彼が己の妻に別れと追悼の言葉をかけたのが解った。
ペラルゴスが最後の息を鼻からゆっくりと吐き出して――動かなくなる。そっと温かく脈打つ卵を抱えて、ツィスカは声を上げずに涙を零した。
×××
「本当に持ってきて下さったのですか」
次にイェラキがツィスカの元を訪れた時、手渡されたものを見てツィスカは目を瞬かせた。その顔にどこか満足げに、竜人の王は顎を反らす。
「貴様が望んだものだ。ククヴァヤに手に入れさせた」
「有難うございます……高価だったでしょうに」
彼女がイェラキに望んだのは、羊紙皮とインク、それからペンだった。しかもかなり質が良い。
竜人に文字の文化というものは殆ど無い。鳴き声を遠くまで届けることで伝達は用が足りるからだ。描くとしても壁画までになるこの国では当然、筆記具は造られていない。ククヴァヤが執心の、現在皇国へ留学しているフェルニゲシュの妹姫から快く譲られたものであることは、ふたりとも知らない。
「何を描く」
「ヴァシーリー殿に、文を。近況をお伝えすれば、ご安心なされるでしょうから」
膝の上に抱き込まれたまま、手元を覗かれるのは面映ゆいが、どうやら神人の使う文字の意味は、流石の竜人王といえど理解が及ばないらしい。少し安堵して、思いつくままに、自分は今心穏やかであると綴る。どうか心配はしないで欲しい、と優しい友人へ向けて文を結ぶと、イェラキに手渡した。
「届けて頂けますか?」
「良かろう」
丁寧に畳まれた手紙を、伝令である一の戦士を呼んで託したイェラキは、ツィスカが羽毛の中に置いていた卵を抱き上げるのを待って、それごと再び膝の上に抱き上げる。殻の中の心音は日を追うごとに強くなっており、こつこつと内側から叩くような音もする。あと数日もせずに孵るだろうというのが、イェラキの見立てだった。
「責任重大、ですね」
卵の表面をそっと慈しむように撫でながら、ツィスカが呟く。ペラルゴスから託された命。竜人の子育てなど、どのように行うべきか全く解らないけれど、やるしかない。もう、託された役目から逃げるつもりは無かった。
思い詰めたように眉を顰めるツィスカの眉間を、ぺろりと冷たい舌が舐めた。驚いて身を捩ると、ぐるぐるとイェラキの喉が鳴る。これは間違いなく、笑っているだろう。
「……お戯れが、過ぎるかと」
僅かに頬を赤くして俯くツィスカに、普段通りの傲慢且つ冷徹な声音で竜人の王は宣った。
「竜人には強ささえあれば良い。貴様の戦う姿を見せて鍛えよ」
「私が、ですか」
「地べたから吾に槍を向け、挑んできた気概は何処に行った?」
僅かな躊躇いは、揶揄のような言葉に蹴散らされる。あの頃はただ必死で、出鱈目な蹂躙を行うこの王に如何にか食らいつくことしか出来なかったけれど。
「……ではいずれ、王位を奪う程に鍛えましょう」
ぐっと腹に力を入れて、血色の瞳を睨み返すと、一層嬉しそうに竜人の王の喉が鳴った。
「然り、然り。それで良い。――貴様は、それが、良い」
縦の瞳孔が、ツィスカを射抜く。そして、右の翼を大きく広げ、ツィスカを包み込むように晒した。
「――あ」
そしてツィスカは思い出した。翼についた無数の、牙や爪で付けられた傷の中に、一点だけ刺し貫かれたような傷跡を、見つけて。
初めて戦場でこの竜人に相見えた時、地上で馬を駆っていたツィスカの部隊は蹂躙されるだけだったけれど。
どうせ勝てぬのならせめて一矢、と凄まじい速度で舞い降りてきたこの王に、ツィスカは槍を向けた。――翼を狙い、地面に叩き落とす為に。
結果、その穂先は届き、硬い皮膜を僅かに破ったが、すぐに暴風に吹き飛ばされて落馬したツィスカは、竜人の王を落とすには至らなかった。そんな、敗北の証であるものを見て、一瞬悔しそうに眉を顰めると。
不意に翼が動き、まるでツィスカを絡め取るように囲む。ぐいと抱き寄せられて、慌てて卵を潰さないようにしっかりと抱え直した。
ぐわ、とイェラキが顎を開き、鋭い牙が並ぶ口が降りて来て――自然にぎゅっとツィスカが目を閉じた内に、とても軽く頭を噛まれ、すぐに離れた。
「神人が初めて、吾に刻んだ傷だ。強き者よ、漸く手に入れたぞ」
耳元で、どこか熱の籠ったような声で、そんな風に囁かれて。己がずっと前からこの傲慢な王に見初められていたことに気付いてしまい――ツィスカは、観念して、彼に応えをそっと囁く。
その声はあまりにも小さくて、イェラキと、卵の中の子供にしか、聞こえなかった。
END.
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