亡国の王女と竜人の王の鬩ぎ合い 上

 かたりと小さな音を立て、ツィスカはペンを置いた。同時に、小さく息を吐いてからはっきり告げる。

「……これにて、リントヴルムは国に非ず。フェルニゲシュ王国の領地となる事を、了承致しました」

「確かに、承った」

未だ焦げ跡が生々しく残るリントヴルムの王城、玉座の間にてその調印は行われた。竜人との戦争、そして病神の呪いにより立ち行かなくなった国はこの約定を持って国ではなくなり、全ての民はフェルニゲシュに従うこととなる。

 調印の場には、王位を継いで多忙であろうその合間を縫って訪れた現フェルニゲシュ王ヴァシーリーと、リントヴルム王家唯一の生き残りであるツィスカ、僅かながらに生き永らえたリントヴルム内の豪族達も集まっていた。その顔には一様に、悔しさや不満が残っており、その視線は征服者のヴァシーリーではなくツィスカに向けられていた。ヴァシーリーがほんの僅か、その冷徹な顔を不満げに歪めると、彼らは慌てて目を逸らしたが。もはやフェルニゲシュに逆らう力など、彼らにも残っていない。

 ツィスカは目礼だけでヴァシーリーに詫び、花押を書き込んだ書類を、この式の為に運び込まれた机の上に滑らせた。正式な国家間の調印の為、控えていたリェフがそれを受け取り、主に手渡す。

「――ツィスカ殿。貴女の今後についてだが、決心は変わらないか」

 文面をきちんと確認してから、ヴァシーリーの空よりもずっと濃い青の瞳が、真っ直ぐに亡国の王女を見る。その厳つさと低い声は他者を威圧してしまうが、付き合いの長いツィスカは彼の優しさを良く知っているので、僅かに微笑んで応えた。

「はい。本来ならば、国を守れなかった王族として、償いに血を捧げるべきでしょうが。……今の私は、スチュムパリデスの捕虜に相違ありません。此度の場に参上するのを許されたのも、竜人の王の恩情にございます。故に私はこのまま、スチュムパリデスに下ろうと思います」

「…ツィスカ殿! 本気ですか、竜人共なぞに!」

「其方が残ってくれれば、王家の血は続きましょう!」

 そこで我慢ならなくなったのか、豪族たちが声を荒げる。国同士の場で無作法この上なく、ツィスカはヴァシーリー達に申し訳なくなるが場は収まらない。……彼らにとって、ツィスカがこの国で婿を取り血を繋げれば、いずれ王家を復興出来ると考えているのだろう。当然の思いであると理解できるが故――ツィスカは立ち上がった。

「ツィスカ殿」

「いいえ、フェルニゲシュ国王陛下。きちんと、皆様にも理由をお見せしなければなりません」

 止めようとしてくれたのだろう、ツィスカの動きを理解して名を呼ぶヴァシーリーの声に緩く首を振り、襟元を止めていた釦を外す。普段から城にいる間は着こんでいた、男物の礼服だ。今更その辺りは女だてらに、と咎められなかったのが有難い。露出の少ないその上着を丁寧に脱ぎ、両肩を晒した。

「うッ――」

「そ、それは」

 戦傷が数多に付けられた白い肌は、半分近くが銀色に鈍く光る鱗に覆われていた。リントヴルムの不倶戴天の敵である、竜人の王と同じ色だった。

「これこの通り、私は最早リントヴルムの血を残すのに相応しい体ではありません。交わったとして、人の血を残せるかどうか。その術は、潰えたとご納得下さい、各々方」

 淡々と告げて、服を直す。竜人王の血を与えられて命を永らえた結果、傷口を塞ぐのは皮膚ではなくこの硬い鱗となった。己の体が変わっていく恐怖は勿論あるが、既にやむを得ぬという諦めも彼女は持っていた。……何せ生まれてこの方、そういうことはよくある事、だったので。

「なんと言う事だ、あんな、おぞましい……」

「やはり王家の女ならば外に出さなければ良かったのだ……」

 ざわざわと好き勝手に言い募る男達に、ヴァシーリーが我慢できなかったのか口を開こうとしたその時。

「――遅い。既に約定は成したのだろう」

 深く響く声と同時、重い扉が乱暴に開いた。ずいと差し出される顔は、つるりとした鱗に覆われた長い鼻先と、皮膜に包まれた巨大な赤瞳。その視線は真っ直ぐにツィスカに向けられていて――今まで肩にずっと乗っていた重石のようなものが、ふと軽くなったように彼女は錯覚した。そんな筈はない、と思い直して、小さく頷いた。

「はい。お待たせして申し訳ありません」

「ふん、許そう。この城は狭くて叶わん、疾く行くぞ」

 朗々と傲慢に告げたイェラキへ、ツィスカはもう一度頷いて歩き出す。豪族達は突然現れた銀色の竜人王に恐れおののき、壁際まで逃げてしまっている。動かずにいたのは、ヴァシーリーとその従者だけだ。

「ヴァシーリー殿、では――あっ」

 別れの挨拶をしようとして、ぐいと腰を引き寄せられた。戸惑っている内に軽々と抱えられ、イェラキはその大きな翼を広げる。恐らくここから入ってきたのだろう、廊下の一番大きい窓から躊躇いなくその身を躍らせた。

「――ッ!」

 浮遊感は一瞬、思わずぎゅっと鱗の肌にしがみついた内に、翼は自ら風を生み出し、孕み、大きく飛び上がった。空気が渦巻く耳元に、追いかけてきたのだろう、ヴァシーリーの声が僅かに届いた。

「――ツィスカ殿! どうか、貴女の思うが儘に、幸福になってくれ――!!」

 それは紛れもない祝福で、応えようとして――あっという間に遠くなり、聞こえなくなってしまった。



 ×××



 竜人の国、スチュムパリデスは、嘗て海の底で爆発した火山により出来上がった巨大な岩山だ。火を噴く山は原初の七竜が一、火の竜ギナの心臓とも呼ばれ、そこには竜人達が多く集い、国を作った。

 と言っても、王を始めとする民の数は、全部合わせても四百に満たないということを、ツィスカはこの国にきて初めて知った。僅か数十騎の竜人達に長年リントヴルムは煮え湯を飲まされてきたが、彼らは厳選されたわけではなく、海を越えて戦士として戦えるだけの力量を持つ者がそれだけ少ないからなのだ。

 イェラキや、その子であるククヴァヤを初めとした、大陸まで飛ぶことの出来るものは「一の戦士」と呼ばれ、全て集めても百に満たない。そこまで及ばないが、領地を守る兵士として国の内外での巡回を任されているのが「二の戦士」、数は二百人ほど。残りの百人足らずは戦士の地位を持たぬ、生まれたばかりの子や老人、怪我人などらしい。

 彼等は皆、岩山の奥底に広がる洞窟で共同生活を送っている。翼が広げられる通路を、鳥のような羽ばたきもなく自在に飛び周り、互いに戦い練磨を常に行う。更に罪人や他国――遥か海の向こうには別の竜人達の国もあるらしい――からの間者などが囚われる牢が更に地階にあると聞き、てっきり自分はそこに押し込まれるものかとツィスカは思っていたのだが。

「……イェラキ殿」

「なんだ」

 ツィスカに宛がわれたのは、岩山の中でもかなり高い位置にある、外の見える窓まで作られた一室だった。岩が剥き出しの武骨な壁ではあったが、鳥の羽で作られた絨毯や寝床がちゃんと敷かれており、水や食料は毎日下働きの者が運んでくる。全てのものが竜人に合わせた大きさの為の不便さはあったが、生活すること自体には何の支障も無かった。

 そしてこの国で一番強きものとしての役目を果たしている、多忙である筈のイェラキ王は、二日と開けずにこの部屋を訪れていた。そしてツィスカの僅かな抵抗などものともせずに、大きくかいた胡坐の上に彼女の体を抱き上げて、先刻のようなこの国の様々なことを、朴訥に、だが真摯にツィスカに話して聞かせ続けていた。

「恥を承知で、申し上げますが……貴方は、私のことを愛玩動物か何かとお思いですか?」

 ツィスカが纏っている服も、この国に来てから与えられたものだ。鳥の羽を編み上げた、色は派手だが簡素な貫頭衣。竜人、特に戦士はその鱗を持って敵の刃を弾くことが誇りの為、服自体がそこまで浸透していない筈なのに、わざわざ用意したのだろうか。

 捕虜のつもりでこの国に来たのだ、どんな扱いをされても受け止めるつもりでいたのだが、このように丁寧にされると、どうにも、困る。

「ふむ」

 イェラキはくいと鼻先を上げ、思案するような声をあげてから暫し沈黙を守る。ツィスカもそこまで言葉を紡ぐのが得意なわけではないし、沈黙は苦ではないので待つ。――嘗ての宿敵である彼と、こんな穏やかな時間を過ごす時がくるなど、嘗ては全く思い至らなかったけれど。

「愛玩動物、とは如何なるものを指すのだ?」

「あ」

 はっきりと告げられた言葉に、ツィスカは己の誤りに気付く。竜人の言語は大陸の人間――神人が使うものと全く異なる。恐らく喉の構造自体が違うからだろう、上手く発音できない音が互いに多い。

 イェラキの言葉が滑らかに聞こえるのは、彼が喉から出す音ではなく、直接魂に語り掛ける声を使っているからだ。ツィスカにも仕組みは解らないが、竜の血を引くものが鍛えて手に入れる力の一つらしい。しかし当然、ツィスカはそのように話せないので、自分の言葉が通じるかどうかはイェラキの語彙力と聞取りが頼りだ。彼が意味を理解できない言葉を使ってしまったのだ、と反省が先に立つ。

「失礼しました。その……何と申し上げましょうか、家畜などとは異なり、ただ愛でる為だけの動物、というものがいるのです。無論、生活に余裕のあるものしか飼えませんが」

「ほう。……少し違うな」

 そう言って、ひんやりとした太い腕がぐいとツィスカを抱き寄せる。互いの鼻先が触れるぐらいの位置まで近づかれて固まる彼女に対し、イェラキは全く声の大きさを変えず淡々と告げた。

「愛でる、だけではない。健やかに強く、軽やかに美しく。全てを備えて吾が元へ侍れ。貴様が全てを捧げるのならば吾も全てを返そう」

 真っ直ぐに見つめてくる細い瞳孔の瞳から目が逸らせない。声に熱は籠っていない筈なのに、紡がれる言葉はまるで、女を口説く男のようだ。自然と頬に熱が乗り、我慢できずにツィスカは身を捩って目を逸らす。

「……お戯れを」

「嘘は好かん」

 逃がさないように腕の力を強められて、俯くしか逃げ道がなくなったその時――

<父よ!こちらにおわしますか!>

 大きく響く鳴き声のような音に驚く間もなく、窓の外から飛び込んできたのは、イェラキの息子であるククヴァヤだった。英気の張る顔と声で、しかしどこか緊張しているのか、ぐうと喉を鳴らして更に続ける。

<願わくば、ただ独りにて国を離れる許可を!>

<離れ、何を成す>

<命と誇りを救われた借りを返すが故に!>

<なれば、吾と爪を交わし、証を成せ>

<ただちに!>

 イェラキも竜人の言葉で話した為、内容はさっぱり解らなかったが、どうやら何か稽古のようなものを始めるらしい。まるで小さな子供のようにツィスカの体は軽々と持ち上げられ、寝床の上に降ろされる。そのまま、窓からふたりの竜人は飛び出し、あっという間に見えなくなってしまった。

「……はぁ」

 小さく溜息を吐き、ツィスカは無作法だと解っていても寝床に転がる。何故かの王が、嘗ての宿敵であり負かした相手である自分を、あそこまで気に掛けるのか、さっぱり解らない。そして、何より。

「何と、浅ましい事でしょう。……兄上」

 未だ、この心の奥底には誰にも渡せぬ膿んだ思いが凝っているというのに、先刻の戯れで跳ねてしまった心臓が、心底腹立たしかった。



 ×××



 それから急に、イェラキはツィスカの元に来なくなった。当然何も説明はされなかったが、あの後すぐに一の戦士達を引き連れた銀の竜人が海を越えて飛んでいくのを見たので、恐らく何か戦が起こるのだろう。一瞬、また神人との争いが起こったのかとひやりとしたが、ツィスカがこの国に来ることと、リントヴルムという国が無くなることによってスチュムパリデスとの和解は成立している筈。余程の愚かなことをしなければ、再び戦端を開くようなことはあり得まい。

 僅かな不安を飲み込んで、ツィスカは羽毛の山の上に腰かける。竜人に鍵という習慣が無いのか、それぞれの洞の入り口には扉すらない。監禁どころか軟禁もされていないのだが、自由に動き回れるわけでもなかった。

 何せ、竜人は翼で移動をするのが当たり前であり、切り立った崖に開いた穴の間を自由に飛び回っている。歩いて行ける道、というものが確立されていないのだ。一度ツィスカも出来る限り洞を進んでみたが、ほぼ崖のような道しか無く諦めた。これならば逃げるどころか反旗を翻すことも叶うまい。

 つまり、やることが無い。故郷にいた頃はこれでも遠乗りや槍の訓練が出来たが、流石に捕虜に武器を渡すような愚は冒すまい。貴族の子女のように刺繍の一つでもやり方を覚えておけばよかった、と今更ながら思ってしまう。

 また寝転がりたくなった時、洞の入り口から気配がして慌てて起き上がる。いつも食事を運んでくる、下働きらしい年を取った竜人だ。干し魚や見たことも無い果物など、あまり食べ慣れないものばかりで最初は戸惑ったが、味は悪くない。差し出された大きな葉皿を笑顔で受け取る。

「いつも有難うございます」

 普段ならば僅かに顎を逸らすだけで帰っていく竜人が、不意に何度か口をはくはくとさせ、酷くたどたどしい共通語を紡いだ。

「シュ、……かみびと、おまえ、よばれてる」

「え? 呼ばれて……誰に、でしょうか」

「こい」

「――解りました、すぐに向かいます」

 どうやら覚えた音を発する事しか出来ないらしく、ツィスカの言葉に対する返事もない。危険かもしれないが、逆らう理由も無いので素直に頷いた。

 その竜人に腰を抱えられ、岩山の中を滑るように飛び降りていく。発光する苔が自生しているらしく、金陽の光が届かなくても十分に明るい。そして一番大きな空洞を奥へ奥へと降りていくにつれ、随分と気温が高くなっていった。

「――これは」

 そしてツィスカの目にも、遥か奥――恐らく、海底に値する程に――の辺りが、ほのかに赤く揺らめいていることに気づいた。苔の冷たい光とは違う、まるで心臓のように蠢き続ける熱。これが、竜人達の信仰の対象。火の竜ギナの血液と言われる、溶岩なのだろう。

 汗ばむほどの熱さの中、ツィスカを抱えた竜人はすいと岩肌の間を抜け、やがて一つの洞の前に辿り着くと荷物を降ろしてすぐ飛んで行ってしまう。これで帰る手段はなくなってしまった。仕方ない、と息を吐いて、覚悟を決めて洞の中へと向かう。

 洞は苔ばかりで、外の光は見えない。恐らく既にここは海の中なのだろう。僅かな上り坂を通るとすぐに着いた部屋は、ツィスカがいるところとは比べ物にならないほど広く、豪奢だった。

 羽毛が敷き詰められているのは変わらないが、壁面に作られた棚に、恐らく原石であろうこぶし大ほどの貴石がごろごろと並べられている。部屋の隅には神人との戦の戦利品であるのか、様々な形の武器が無造作に積み上げられていた。また壁にも、ツィスカに意味は解らないが様々な絵や文様が刻まれており、この部屋が何か特別な貴人のものであることが理解できた。

 そして――部屋の奥に据えられた柔らかな寝床に寝そべった、ひとりの竜人。砂色の鱗は随分と色褪せてしまっていて、剥げている所も多い。冠角の数も少なく、勇ましさよりも優し気な風貌に見えた。年を取っているというよりは、病で弱っているようにも見える。何よりツィスカの目を引いたのは、横向きに寝転がり顔だけ起こしたその竜人の懐に、大きな卵がひとつ鎮座していたことだ。噂には聞いていたが、これが竜人の卵なのだろうか。

「……招きの応え、感謝する。三の妻よ」

 竜人の口から、思ったよりも聞取りやすい共通語が出てきて驚く。ちゃんと喉を使って言葉で話しているようだ。内容よりも先にまず挨拶をするべきだったと、非礼を詫びる為に頭を下げた。礼儀作法はまるで違うだろうが、少しでも誠意が伝われば良いと。

「失礼いたしました、こちらこそお招きいただき、感謝致します。重ねて失礼を申し上げますが、貴方の名をお伺いしても?」

「固いこと。どうぞ、楽に」

 すいと伸ばされた爪の長い手が、竜人の目の前に積まれた羽毛を指す。そこに座れ、ということだろう。もう一度頭を下げ、素直に従った。

「吾は火の竜ギナの鱗より生まれしもの、イェラキが二の妻、ペラルゴス。三の妻、御前の名も聞かせよ」

「ツィスカ、と申します。既に家は無い故、家名はありません。その、三の妻、というのは如何なる意味でしょう?」

 純粋な疑問として聞いたのだが、ペラルゴスと名乗った竜人は淡い水色の目をぱちり、と何度も瞬かせ、鼻から細く息を吐き出す。

「妻、とは<アロコス伴侶>のことではないのか。吾の神人語が通じぬか」

「い、いえ、言葉の意味自体は解ります、大丈夫です。ですが私は、この国の捕虜として下った身です。妻ではありません」

 戸惑いのままに言葉を紡ぐと、ぐりんと大きく縦長の瞳孔が一回転した。驚愕したのかもしれない。

「なんと。――イェラキは誓っておらぬと? 健やかに強く、軽やかに美しく、全てを揃えて侍れと命じられなんだか」

 先日イェラキから間近で言われた言葉を嫌でも思い出し、ツィスカは驚愕で息を飲む。まさかあの言葉が、求婚の意味を持っていたなど気づけるわけもない。

「た、確かにそう言われましたが……私は何も返事を、返しておりません」

 不敬となるかもしれぬと思いながらどうにか答えると、ペラルゴスは喉の奥からぐるぐるぐる、と音を出した。多分これは、笑っているのだろう、イェラキもそうしているのを見たことがある。

「それは、イェラキの失策。面白いこと」

「あ、貴女方にとって、神人を伴侶に迎えるなど、許されるのですか?」

「王はイェラキ。王は全てを許される。不満に思うのならば、座を奪えば良い話。御前も、嫌なのならば、戦って勝てば良い話」

 あっさりと簒奪について語ったペラルゴスに、あまりの常識の差異からツィスカは絶句してしまう。彼らにとって王とは力の象徴であり、戦って奪うものなのだろう。何となく理解はしているつもりだったが、血を重んじていた自分達との国の違いにどう反応していいか解らない。つまり――あの強き王に勝たない限り、自分は妻という扱いになってしまうのだろうか。

 顔を赤くしたり青くしたりしているツィスカに、ペラルゴスはまた喉を鳴らしながら、抱いた卵をそっと舌を伸ばして舐めている。ツィスカならば両腕でなければ抱えきれない程、大きなものだ。息を吐いて漸く落ち着いてから、改めて問う。

「その、卵……は、貴女とイェラキの?」

「否」

 おずおずと聞くとはっきりと否定が返ってきた。気を悪くされただろうか、とツィスカが謝るよりも先に、ペラルゴスはそっと卵を抱き寄せてから続ける。

「吾等は生涯、ひとりしか子を産まぬ。吾が子は、神人との戦で死んだ」

 息を飲む。イェラキも嘗て、語っていた筈。二の妻の子は――

「……その、子を、殺したのは……私の、父です」

 リントヴルムの先王とその妻――つまり、ツィスカから見て祖父母を戦場で殺したのは、竜人の王の子であると、父から聞いていた。リントヴルムは鷲獅子を操るが故、時たま大陸にやってくる竜人と小競り合いはずっと続けていたけれど、決定的な決裂はこの事件だ。故に父は敵を討つため、竜人を不倶戴天の敵とし、ありとあらゆる手段を使って戦を起こし――王の子をひとり殺し、報復を果たした。しかし、その後も。

「それだけでは飽き足らず、貴女方の子を何度も奪い、絶やそうとした。如何なる戦場であろうと、そのような非道が見過ごされるわけにはいきません。既に亡国の血ではありますが、詫びる以外に償いの方法が見つかりません。果たされるのならば、どうか存分に」

 膝を揃え、首を差し出すように俯き丁寧に詫びるツィスカをどう思っているのか、洞の中には沈黙が続き。

「……知っている」

 ぽつりと言われた言葉に、はっと顔を上げた。竜人の表情を読み解くのは、とても難しい。しかしその皮膜で包まれた瞳には、どこか悲しみが滲んでいるように見えた。

「血の報復は血で返す。当然のこと。吾が子は弱いが故に負けた。弱き子を産んだ己を、責めるのみ」

「そんな……!」

「一度、子を産んだものは、二度と子を成せぬ。翼は萎え、鱗は割れ、魂はいずれ炎を失う」

 思わず反論するツィスカを押しとどめるように僅かに目を細め、何かを懐かしむように竜人王の妻は続けた。

「一の妻もククヴァヤを産んだ後すぐに、吾に託して果てた。この卵の母も、つい二十日程前に果てた。僅かながら命を繋いだものとして、役目を賜ってきたが……もうじきに、吾も果てる」

 そこで言葉を切り、水色の瞳がツィスカを射抜いた。

「イェラキは強い。まことの王。故に、どれだけ子を成しても……ひとりきりになってしまう」

 竜人の寿命は長い。強い個体であればあるほど、千年を生きて本物の竜となるものもいるという。イェラキも、いずれそうなるのだろうか。……その間に、どれだけの妻と子を失っても。

「故に、吾より三の妻に、願う。吾が果てた後、末永くイェラキの元に侍って欲しい。神人の御前ならば、それが出来る筈」

「……、」

 絶句した。彼女はこの願いを伝える為に、子の敵である神人の娘を呼んだのかと。神人と竜人の間には、まず子供は出来まい。神の奴隷として作られたヒトと、竜の体から零れ落ちたヒト。同じヒトと名がついていても、全く違う在り方で生まれたものだ。――つまり、神人の妻ならば、子を孕んで死ぬことも無いのだと、ペラルゴスは告げているのだ。

 竜人の数があまりにも少ない理由も、彼女の言葉でわかった。ひとり生まれるたびにひとり減っては、増え栄えることなど出来まい。それを哀れと嗤うのは簡単だが、女に産むに任せるくせ、女が生まれると責めて、男が産まれるまで続けさせるような嘗てのリントヴルムの者達よりも、余程子に対して真摯であるとツィスカは感じてしまった。

 何より――、生まれてこの方ずっと、役に立たぬと言われ続け、己には何も成せぬとすっかり諦めていた少女にとって、それはあまりにも大きな役目だったから。

「……神人の寿命は、どう足掻いても百年は持ちません」

「だが吾よりは、長い」

 既に覚悟を決めた目で見つめられ、ツィスカは頷いた。真摯に答えねば、彼女の誇りを侮辱することになる。

「解りました。虜囚の身であり、嘗ての敵国の女に、どれだけ叶うか知れたものではありませんが……出来うる限り、竜人の王のお側におりましょう」

 はっきりとそう告げると、水色の瞳は安堵したように細められ、長い首を落ち着けるようにそっと卵に降ろした。……本当に、彼女の体の寿命は、もう近いのだろう。

「良き話を得た。戻って良い」

「恐縮です。そして……その、私は翼が無いもので、このままでは部屋に帰れないのですが」

 頭を下げてからおずおずと告げると、そこで初めて彼女も気づいたらしく、何度も目を瞬かせてから、馬の噺きのような声を上げて下働きの竜人を呼んでくれた。



 ×××



「巨人の国へ行っていた」

 その日の夜遅く、久々にツィスカの部屋にやってきたイェラキは開口一番そう言った。その言葉がフェルニゲシュを指すことを知っていたツィスカは僅かに緊張し、ごく自然に膝に抱き上げられても身を緩めなかった。

「……戦ですか」

「まさか」

 あっさりと否定された。相変わらず竜人の表情というものは解り辛いが、どこか勝ち誇ったように顎を逸らしてイェラキは尚も続ける。

神人お前達竜人吾等を、血に飢えた獣同然に扱うのだな。神人なぞ、骨が多くて食いでの無い肉、好んで食いたがる者はいない」

 血のように赤い二つの眼が、ツィスカを見下ろす。強張る背が、鱗に包まれた掌で撫でられぞくりとした。いくら食わぬと言われても、簡単に自分の体を食い千切れる顎と爪の前に丸腰の身を晒すのは、竦んでしまう。

「神人が吾等の領域を冒すならば、戦もしよう、肉も食らおう。だが吾等にとって、広く寒々しい大地なぞ只の狩場だ、欲しくも無い。だが神人は大地にへばりつき、増えねば生きて行けぬのだろう」

 言い方は随分と傲慢だったが、事実ではあるので不承不承頷く。

「なれば、と巨人の国の王は吾等と新しき約定を結んだ。彼奴等は吾等の領域に船を出さぬ。吾等も彼奴等の大地を荒らさぬ。神人が育てる獣は彼奴等の財であり、許可なく奪うことを吾が国の全てに禁じた」

「それは……良き事かと」

 つまりは、明確に不可侵条約を結んだということなのだろう。今まで互いを矮小に見て蔑んできたふたつの種族が、対等な関係になろうとしている。偏見に囚われることなく、最良の答えに辿り着くまで絶対に諦めない、現フェルニゲシュ王ヴァシーリーの尽力があったのだろう。

 安堵と誇らしさを、胸にそっと手を当てて抑えていると、ぐる、と竜人の王の喉が短く鳴った。笑ったのだろうか、怒ったのだろうか、ちょっと判別はつかない。

「……巨人の国の王を、夫に望むか?」

「えっ!?」

 不意に思いもしなかったことを言われて、はしたなくも声がひっくり返った。また低くぐるりと喉が鳴り、硬い顎がツィスカの旋毛に擦り付けられる。噛みつかれるのかと肩を竦めたが、すぐに離れた。そのまま、無言。どうやら自分の答えを待っているのであろうことに気づき、おずおずと口を開く。

「その……ヴァシーリー殿は今や大陸の東半分を統べる王。国を失った私など、相応しいわけもなく――」

「戯け。神人の立場など知らぬ。貴様が望むか否か、と問うている」

 いよいよ困ってしまって、ツィスカは途方に暮れた。何せ自分の望みを口に出すのは、非常に勇気がいることで――それでも、真っ直ぐに見つめてくる血色の瞳から、逃げたくはなかった。戦場で邂逅し、真剣に矛を交えた時に、挑む瞳から目を逸らしたことなど無いのだから。

「……いいえ、望みません。ヴァシーリー殿が一途に愛する方と末永く過ごせる未来を、私も望んでいるからです」

 いつも彼の手紙を届けてくれた、腕の良い黒髪の斥候を思い起こす。あの二人の間にある絶対の信頼が、とても羨ましくて、同時にその二人の間にある絶対に越えられない壁が遣る瀬なかった。不遜にも、どこか自分の立場に重ねてしまっていたから。

 だが――自分とヴァシーリーは全く違う。自分のように諦めず、邁進し、望むものを手に入れようと今も戦い続けているからだ。それを応援こそすれ、邪魔をするなど有り得ない。

 己の真意がちゃんと届いたのか、ふしゅ、と鼻先から呼気を漏らす音がした。そしてもう一度、逃がさぬとばかりに声が続く。

「なれば、鷲獅子の国の王子を望んでいたか」

「ッ――!」

 侮辱と捉え、ツィスカの体がぞわりと総毛立つ。瞳を睨みつけると、その中にはやはり感情を見いだせず――しかし逸らされない。静かな瞳に、じわじわと己の理性が戻ってくる。

 ……ペラルゴスの話を思い出せば。そも、生涯にひとりしか子を成さぬのであれば、竜人達に「きょうだい」の概念が無いのだろう。妻を複数持てるのも王のみだと聞いた。ツィスカの道ならぬ思いなど、理解する以前の問題だ。そして尚も、竜人の王は問うている。立場やしがらみなど全て振り捨てて、お前の浅ましい思いを見せろと。唇を噛み締めて、絞り出すように囁く。己の罪を懺悔するように。

「……ええ。望んで、おりました。私は、兄上を――っ」

 だが、彼を思い起こし口を開いた瞬間、鱗の指の背がぺたりと唇に押し付けられた。指だけでも太いので、唇を完全に塞がれてしまう。ひやりとした感触に目を見開くツィスカに、相変わらず動かない顔でイェラキは囁く。

「死者の名を呼ぶな。眠りを妨げ、魔に堕としてしまうぞ」

 真剣な声音で言われ、何度も目を瞬かせた。――そういえば彼もペラルゴスも、亡くした妻や子の名を呼んだことが一度も無い。どうやら竜人の信仰の中で、大事なことらしいと理解できた。ただもしかして、彼はイオニアスの名が「アニウエ」であると思っているのだろうか。面白いやら、自分がそれだけ呼んでいたのが恥ずかしいやらで、ツィスカは口を塞がれたまま俯いてしまう。

 ツィスカの葛藤に気づかず、ただその様を見守ってからイェラキは口を開く。

「貴様にとって、その思いは罪悪か」

「……、はい」

 自然と指が離れ、解放された唇でそっとツィスカは答えた。

 愛おしかった。愛していた。そんな綺麗な思いだけではなかった。

「この望みは、ただの執着です。たったひとつの存在に、惨めたらしく縋りつくことしか出来なかった成れの果てです。それを失うだけでなく、沢山のものを犠牲にし、ここまで来ても、私は――その思いを捨て去ることが出来ぬ、愚か者です」

 今でも思う。何かもっと、良い方法があったのではないかと。自分ではなく、兄を生かし、リントヴルムを立て直す方法があったのではないかと。勿論、自分一人が出来ることなどたかが知れている。足掻いても無駄だった可能性の方がずっと高いだろう。あの国はツィスカにとって、そういう場所だった。

 だが、だからといって――諦めてしまってよいものではなかったのだ。そのせいで、父も、兄も、その妻も、沢山の民も、死んでしまった。自分一人がおめおめと、生き汚く今この場所にいる。目の前のこの傲慢な王は、虜囚の死を許してくれない。

「……闇の竜ラトゥは銀月の女神に恋焦がれ、封印を拒み、己が顎で月を飲み込んだ」

 不意に囁かれた昔話に、我に返ったツィスカがはっと顔を上げる。故郷でも有名な、創世神話の一節だ。その辺りの内容は、竜人達にも違わず伝わっているらしい。赤い瞳の王は、ただじっとツィスカを見下ろし続け、尚も語った。

「伴侶に焦がれ魂を焼くは、火の竜ギナの末でなくとも皆同じ。吾は妻を望み、子を愛した。慈しむ快きも、失いし痛みも、吾のみのものぞ。捨て去る訳などあるものか」

「……」

 何も、言えなくなってしまった。信じられないが、どうやらこの竜人の王は、ツィスカを慰めているらしい。道ならぬ思いであろうと、捨てなくとも良いと言われたようで――非常に、困った。

「……私を、甘やかしているのですか」

 どうにか言えたのは、そんな捻くれた文句だけで。

「そうとも。妻を甘やかさぬ夫が何処に居る」

 はっきりと言われて、ツィスカはいよいよ何も――まだ了承してはいませんとすら――言えなくなってしまった。

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