フェルニゲシュ戦記・掌編
諦めの悪い王子と黒い子猫の出会い
「まるで猫の子だな」
揶揄しか籠っていない姉の言葉に、ヴァシーリーは恥じらいをもって俯いた。
王宮に帰る馬車の中、向かい合って座るのはフェルニゲシュ王国の王女アグラーヤと王子ヴァシーリー。父王は専用の馬車があり、かつ大神官と話すことがあると言って神殿に残った為、二人だけで帰ることになった。
そして、馬車の椅子に腰かけたヴァシーリーの膝の上には、丸まって眠る黒髪の子供がいる。
先刻、ヴァシーリーの腕で抱き上げられた時、漸く自分の運命が変わったことに気付いたのか、そのまま気を失うように眠ってしまった。細く小さな体は、年の割には広い膝にすっぽりと収まらんばかりで、正しく子猫が眠っているように見えた。
自然とぼさぼさの黒髪に伸びてしまう手を誤魔化すように止め、ヴァシーリーは姉に向かい合う。
「この子は、人です。奴隷身分は解放される向きがあると、父上も仰っていたではありませんか」
「まだ、奴隷だ。法の発令は次の月頭になる。だからこそあれだけ大勢の処刑を急いだのだろうな、帳尻を合わせる為に」
ひとつひとつ、代わりのない命を数としてしか捉えない姉の言葉に反発したくなるが、堪える。……人の上に立つものとしては必要な視点だからだ。個を見ていては大局が見えず、結果犠牲が増えることになると、教育係から散々叩き込まれている。
それでも――我慢が出来なかった。あの場所で、全てを諦めたような顔で引き立てられた奴隷の中で唯一、一瞬だけ――自分を見たような気がした、子供。
たったそれだけの行為だったけれど、見捨てることが出来なくなった。だから剣を抜き放って、儀式の場に躊躇いなく踏み込んだ。大神官は怒り心頭で、父からも後で叱責を受けるだろう。
また、自然に膝の上の頭に手が伸びる。手入れなどろくにされていないだろう黒髪はごわごわとして触り心地が悪かったが、それでも撫でると僅かな寝息が聞こえて、生きていることにほっとした。
「――お前が拾った命だ。好きにしろ」
見透かしたような姉の言葉に、息を詰める。改めて前に視線を移すと、姉はやはりいつもどおり、からかいの笑みを湛えたまま窓の桟に頬杖をつき、突き放すような言葉を告げる。昔からこういう姉だったけれど、半年前の事件から更にその傾向が強まったような気がする。
同じ青色でも、どろりと濁った深い海のような瞳。そこには既に、諦観しかないような気がして――
「……ぅ、あ」
その深淵に囚われそうになった寸前、耳に届いた僅かな声に我に返った。膝の上の体がもぞもぞと動き、緩やかに覚醒をしたようだ。
「目が覚めたか。どこか、痛むか?」
「……? あ、ぁ」
自分の置かれた状況がいまいち解っていないらしく、うろうろと彷徨う金色の瞳がヴァシーリーの顔を見てくるが、焦点が定まっていないようだ。喉から漏れる掠れた声は、言葉を成していない。
「喉を潰されたわけではあるまい。祝詞以外の言葉を習っていないか」
「っう、」
姉の声に驚いたのか、びくりと小さな体が震える。安心させるように頭や背を撫でてやると、おずおずとだが縋り付いてきた。
「これは育てるのが一苦労だな。リェフにでも押し付けたらどうだ」
「……それしか無いかとは、思いますが。全て任せるのは、責任逃れかと」
「ははは! 糞真面目め。良いではないか、私もアーゼとレルゼの普段の世話は使用人に任せているのだから」
姉が飼育している二匹の獅子の名を出され、ヴァシーリーは納得までしていないが頷く。命を預かり育てると言うのはとても大変なことだ、それが人であれば尚更だろう。まだ子供でろくに政務も任されていない自分に何が出来るのか、と顧みざるを得ないけれど。
もう声も出さず、ただ膝上で丸まって震える小さな子供。そのぬくもりはしっかりと、伝わってくるので、ヴァシーリーはもう一度、小さな頭を撫でてやる。
「……大丈夫だ。お前の命を、理不尽に奪うことだけはしない。約束する」
何度も撫でて、静かにそう言ってやると、信じてくれたのかどうか、震えは収まったので安堵する。
姉はやはり、にやにやと笑ったままこちらを見ていた。
×××
王宮に辿り着くと、姉はさっさと子供を抱きかかえたままのヴァシーリーを離宮へ追いやった。父の帰りを待ってご機嫌伺いをすると言い置いて。
姉の優しさを感じるのはこんな時だ。母が亡くなって以来、随分と楽ぎこみ、家族にも家来達にも声を荒げることが多くなった父王だが、姉のいう事は比較的良く耳を傾けてくれていた。嫡子であり、いずれは玉座を継ぐ身ゆえ当然かもしれないが、感謝の礼をしてヴァシーリーは、自分の部屋のある離宮へ帰った。
離宮と言えど、その広さは充分で、昔は側室などを住まわせる為の城だったらしい。多妻が認められなくなった今は無用の長物ではあるが、おかげでヴァシーリーはかなり自由な生活を与えられていた。
離宮の門の前に、教育係であるリェフが立っていた。すらりと背の高い、髭を蓄えた紳士であるが、その身のこなしに全く隙は無い。アグラーヤとは別の、油断のない笑顔で、自分の弟子であり主であるヴァシーリーに最敬礼をした。
「お帰りなさいませ、ヴァシーリー様。……それは?」
にこやかな顔を崩さないまま、ヴァシーリーが抱きかかえている子供に目を向ける。緊張を飲み込んで、命令を告げた。
「私が助けた。まずは湯と、食べやすい食事を用意してくれ」
「ふ、む。失礼」
顎に手を当てて僅かに思考したリェフは、遠慮の無い手をぐいと伸ばして、子供の顎を掴んで自分の方を向かせる。すっかり目を覚ましており、恐怖と緊張でがちりと固まった子供の、髪を掻き上げて額に刻まれた刻印を確認し、眉をぴくりと跳ね上げた。
「神殿の奴隷ですか。しかも奇跡は発現していないようです。……面倒なものを拾って参りましたな?」
あくまで慇懃に、しかし逃げは許されぬと言いたげな視線を、ヴァシーリーは腹に力を入れて受け止め、応えた。
「苦労をかけるのは、すまないと思っている。だが――見捨てることは出来ない」
「畏まりました。まずは湯殿に。食事を用意して参ります」
「ありがとう」
すいと礼をして下がっていくリェフにほっと息を吐き、最初の障害を乗り越えたことに安堵する。今でこそ引退しているが、昔は王家に仕える暗殺者だった。王家に、ヴァシーリー自身に不利益をもたらすものと判断したら、子供でも命を奪うことに躊躇いはないだろう。
もう一度子供を抱き抱え直して、湯殿に向かう。
主の帰りを待ってリェフが命じていたのか、既に湯は用意されていた。本来なら自分が身を清める為のものだったのだろうが、今は子供の方が先だ。
「……脱がして良いか?」
服と言うにはその機能を果たしていない艦棲布のようなものだったが、それでも一応問う。まだ幼い上に痩せぎすな為、性別すらよく解らない子供は、無言のままだが相手の言葉の意味は解るらしく、こく、と小さく頷いた。
「よし。……これは」
するりと服を脱がすと、現れたのは全身くまなく刻み込まれた痛々しい刺青だった。彫った後に何の手当もしていないのか、傷口となり膿んでいる場所がほとんどだ。全て、崩壊神アルードの祝詞だろう。神官は祝詞を体に刻み付け、それを唱えることによって様々な奇跡を発現する。その素質があるものは百人に一人とされ、更にそれが発現するのは千人に一人とされている。……この子供のように、ただ傷つけられただけで見捨てられる者も、きっと多いのだろう。
憤りを奥歯で磨り潰して、素裸の子供の手を引いて湯殿に入る。子供は全く抵抗せず、足の間の男の証を隠すことすらしなかった。湯を張った盥にそっと抱き上げて降ろした時だけ、驚いたように身を震わせたがそれだけだ。出来る限り痛みが無いように、そっと掌で掬った湯を体にかけてやる。
「っう……」
「痛いか? すまない、少しだけ耐えてくれ」
僅かに身を捩る子供を宥めるように、何度も優しく体を洗ってやると、あっという間に湯が黒くなってしまった。風呂どころか行水をしたことも無いのかもしれない。新しい湯を用意せねばと思った時に、盥を抱えたリェフが入ってきた。
「それだけでは足りないでしょう、お使いください」
「助かる。お前は本当に気が利くな」
「勿体ないお言葉。しかし、その子供――」
たっぷりとお湯が入った盥を下しながら、リェフはにこやかな笑みを絶やさぬまま――無造作に手を伸ばし、子供の股間にぐいと手を差し入れた。無遠慮すぎる動きに、流石の子供も目を見開いて硬直してしまった。
「リェフ!?」
「……やはり。両方持ちですか」
さらりと言われた言葉の意味が一瞬解らず、ヴァシーリーは目を瞬かせる。子供はきゅっと俯き、リェフは手を引きつつも淡々と事実を告げた。
「体に刻まれている祝詞の殆どは、崩壊神アルードの二人目の妻を言祝ぐもの。彼あるいは彼女は、諸説ありますが両性であったことが様々な文献に残っています。元は男で、アルードと交わったことにより、体の理が崩れたからなどと言われておりますが」
「そんなことが……本当にあるのか?」
「珍しいですが前例が無いわけではありません。事実、この国では昔からアルードの祝福のひとつとされ、優秀な神官の証とも言われておりました。……残念ながらこの子供は、叶わなかったようですが」
「……そんな。そんなことが許されていいのか。生まれてきた体がそうだったからという理由だけで、こんな有様が許されるのか」
「許されます。少なくとも、今の国の法では。神殿は優秀な神官を集める為、子供を召し上げることを認められていますので」
「そんなことは――!」
思わず、ヴァシーリーは声を荒げた。リェフは笑みこそ消したものの、歴史学を教える時と同じように冷静な顔を崩さなかったが、湯の中で立ち尽くす子供――少年でも少女でもあり、またどちらでもない――はびくんと体を引き攣らせ、しゃがみこんでしまった。
「あ……すまない。お前を怒ったわけでは、ないんだ」
震える体をそっと抱き上げて、自分の服が濡れるのも構わず、新しい湯の中に入れてやった。少しずつ安堵に弛緩していく体と、そこに刻まれた痛々しい傷を少しでも労わるように、丁寧に湯をかけてやる。
「……お前の名前は何と言う? 声を出せなければ、言えないか」
「……、………」
金色の瞳が、ゆらゆらと揺れてヴァシーリーを映す。嫌がっているわけではないが、戸惑っているように見える。口を小さくはくはくとさせているのを暫し待つが、喉から声は出てこない。やがて、リェフの方が口を挟んだ。
「お言葉ですがヴァシーリー様、神殿奴隷に名などはありますまい。奇跡の発現が出来ない限りは人として扱われぬでしょう」
何とも居心地の悪い説明に眉を顰めるが、首を軽く振って立ち直った。神殿の在り方について言いたいことは山ほどあるが、今では無い。絡まった黒髪を解くように、少しずつ湯をかけて揉んでやりながら、ヴァシーリーはそっと子供に語り掛けた。
「ならば、私が名づけよう。………コーシカ。コーシカは、どうだろう?」
「神言で猫の意ですな。成程、この髪色は黒猫のようですが」
頭の上で飛び交う言葉に、子供はぱちぱちと目を瞬かせ――漸く、ヴァシーリーの方をまっすぐに見てこくん、と小さく頷いた。
「良いのか? では、お前をコーシカと呼ぼう。私はヴァシーリー・ドゥヴァ・フェルニゲシュ……呼びにくければ、シューラでいい」
「……ぅー……らぁ」
「そうだ、上手いぞ」
鸚鵡返しをしようとしたのか、それでも掠れてしまったを確かに聞いて、ヴァシーリーは顔を綻ばせて、猫と呼んだ子供の頭を撫でてやる。小さな肩がびくりと震えたが、やはり抵抗はされなかった。
×××
ヴァシーリーは、子供の面倒を実に甲斐甲斐しく行った。空腹だろうに警戒して、出された皿どころか食堂の椅子に近づこうともしないので、無理やり膝の上に抱き上げて座った。暴れる細い体を抑え込み、パンを半分ちぎって自分で食べてから差し出してやると、漸く貪るように食べ始めた。……食事すら満足に与えられず、中身も碌なものではなかったのだろう。
子供もやがて僅かながら体の力を抜いて、ヴァシーリーの差し出す匙で掬われたスープを、怯えながらもちびちび舐め始めた。温かい食事すら、与えられていなかったのかもしれない。丁寧に冷ましてから、皿が空になるまで何度も運び与えた。
どうにか食事を終えた後、執事の冷たい笑顔から目を逸らしつつ、自分の寝室まで抱き上げて運んだ。子供はすっかり大人しくなっていたが、寝台が目に入った瞬間、また急に暴れだした。
「――!! ッ――!!」
「まて、落ち着け――ッつ!」
伸びっぱなしの爪が頬を掠め、堪らず腕を離してしまった。部屋から逃げられる、という予測は外れ、子供は寝台から一番離れた壁の隅まで退き、震えながら丸くなった。
「……そこは寒いだろう。こっちに」
「うーッ!!」
手を伸ばすと獣のような唸り声をあげて拒否された。理由は解らないが、とにかく寝台に近づくのが嫌なようだ。……ヴァシーリーがもう少し、聞の勉強を教え込まれていれば思い至ったかもしれないが、当時の彼にはとてもその理由を思いつけなかった。ただ、この子供が本当に怯えているのが解ったので、無理強いをする気にはなれない。
悩んだ末に、自分の寝台から毛布を一枚はぎ取って、小さく震える子供の背にそっとかけてやった。
「……?」
俯いていた顔をあげ、不思議そうにする子供に、胸を痛ませながら。出来る限り怯えさせないよう、静かにロを開く。
「夜は冷える、ちゃんと包まっていろ。部屋を出ると兵士に見とがめられるかもしれないから、ここにいてくれ。……頼む」
そっと手を伸ばすと慌てて俯かれたので、一回だけ黒髪を撫でてすぐに離した。……今は無理でも、いつかこの手だけでも怯えさせることの無いように願いながら。
寝巻に着替えて、自分の寝台に上がる。毛布に包まった子供はぴくりとも動かない。暗闇の方が落ち着くだろうかと思いながら、枕元の明かりを吹き消した。
×××
部屋が闇に落ち、沈黙も落ちて、暫く。子供はまだ起きていた。眠れるわけがない。あまりにもこの一日で、世界が変わり過ぎてしまったのが嘘か夢のようで。寝て起きたら、また元に戻ってしまうかもしれない。それが嫌だった。
だって初めてだったのだ、温かいお湯で体を洗われることも、熱のある食事を手ずから与えられたのも、無理やり寝台に連れ込まれなかったことも――命を助けられたことも。
どうしてこういう状況になったのか、は全く解らない。だが今の自分が本当に幸運であることだけは解る。そしてそれを手放す気はない。
……寝台の中から、僅かな寝息が聞こえる。空より綺麗な青い髪を持つひとは、眠りについているのだろう。だから起きていたいのに、先刻かけられた毛布は凄く毛足が長くて暖かく、瞼が自然に下がってしまう。眠気を晴らそうと、毛布をかぶったままもぞもぞと動く。設えられた立派な寝台――一国の王子としては簡素な方ではあったのだが、当然それには気づけない――の中、敷布に包まって眠っている青年の顔をまじまじと見る。
眉間に皺を寄せて丸くなっているので、どこか苦しげにも見える。貴人らしい染みの無い頬に、真新しい傷がついていることに気づき、僅かに蒼褪める。恐らく原因が自分の爪であることに気づいてしまったからだ。
……生きる為、逆らう為に、誰かを傷つけることに対して、何も感じたことは無かったのに、何故だか酷く居心地が悪い。その気持ちが、初めて感じた罪悪感であるということにも、子供は気づかない。
どうしたらいいのか解らないまま、そこに蹲り――やがて、寝息が二つに増えた。朝早くに起きたヴァシーリーが、いつの間にか寝台の側で眠りこけている猫に気づいて顔を綻ばせるのは、もう数刻先のことになる。
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