有能な影法師の独白、にすらならないもの

 ――発条ぜんまいを回せ。

 ――発条を回せ。

 ――我等は尊き方の影法師である。


 物心ついた時には、彼の頭の中にはそれしかなかった。他者から言われる言葉は、それしかなかった。

 命じられた通りに動かなければならない。

 命じられていない時は動いてはならない。

 命令に理由を求めてはならない。

 命令に逆らってはならない。

 周りにいる者は全員同じことを教わった。少しでも禁を破ったものはいなくなった。

 彼は残った。単純に、環境に適応した。合っていた、ということなのだろう。

 季節の巡りを十数えたあたりで、お前の持ち主が決まったと命じられた。

 引き合わされたのは、見目麗しく優秀な皇子だった。

「顔を上げなさい」

 命じられ、平伏から上半身を持ち上げる。美しい男は、その細面の顔を花のように綻ばせ、そっと命じた。

「お前は此度の影法師達の中で、一際優秀だと聞いた。――命じよう。私の大事な弟を守ってくれ」

「御意」

 頭を下げ、是の答えを返す。逆らうことなど思いつかず、しようとも思わない。そもそも、己の意志というものはとうの昔に、彼の中に存在していなかった。

「では、お前の名前は小目としよう。私の目の代わりに、香々を見ていておくれ」

「御意」

 


 ×××



 次に引き合わされたのは、容姿はあまり似ていないが、主と血を分けた少年だった。年の頃は、小目とあまり変わらなかった。

「お前も大変だな、兄上についてたかっただろうに」

 これだけは似ている、濃い色の唇をつんと突き出して、膨れたように言われたので、ただ諾々と答える。

「瑞光様のご命令です」

「ふーん。面倒臭っ」

 これしか返せないことを知っているのかいないのか、主の弟である少年はもう小目の方を見なかった。

 皇子としては随分と、奔放な方だったということは小目にも解る。頭の回転は良いが、自分の興味のないことについては全くやる気を見せず、勉学の出来にかなりのばらつきがあった。

「北方語って面白そうだな。習ってみたい」

 その癖好奇心の赴くまま、やりたいことしかやらない。他者から白い目で見られても、治すつもりは無いようだった。そのおかげで敵を作っても、自分で反撃したがる皇子だつた――最も、ほとんどは小目が返り討ちにしたけれど。

「小目、これ食う?」

「――頂きます」

 何度目かの護衛の後、不意に目の前に黒くて丸い小さな果実を差し出される。黒雫果ヘイナクオだ。たった今庭木からもいだものだ、毒の心配はない。口に入れてすぐ噛み潰すと、口いっぱいに甘酸っぱい果汁が広がる。主の弟も大粒を口に丸ごと入れて、危うく口端から果汁を吹きかけて、やべ、と笑った。

「兄上には内緒な。約束だぞ?」

「……御意」

 不意に、目の前に差し出された指の意味が解らず注視していると、無造作に手を取られた。勿論弾くことはしなかったが驚きに一瞬動きが停まってしまい、無理やり小指同士を絡められる。

「約束な!」

 ……彼が、仲の良い下人に何かお願いをする度、そうやって約束しているのを知っていた。知っていても今の今まで、この行為がそれと同じであると認識できなかった。小目は影法師だ、貴人に触れることは原則許されない。

 是の答えは返さなかった。主の命は「瑞香を守ること」ただそれだけだから。主に、今日何があったのかと問われれば、つまみ食いのこともすぐに答える。主の弟は知らないのかもしれないが、小目はそういうものだ。

 ただ、それだけの話だ。



 ×××



 北方語の授業は主の弟の肌にあったらしく、熱心に習い続けた。気づけばこの国の詩篇も北方語で訳し、諳んじられるようになっていた。

「『どうぞこのまま行かれなさい。貴女は死んではなりません』

『何を申すか、愚かなことを。お前が居ねば、この菫青、生きては行けぬ』」

 この国では誰もが知っている建国史の中の一節。原初の王菫青が、自分の忠実なる部下である小影に、己を犠牲にして敵陣から逃げ出すよう言われる情景だ。

「えーっと、『どうぞお命じなさいませ』……違うな。ええと、」

「……『どうぞお命じくださりませ。ここで死ねと、お命じくださりませ』」

「え! お前北方語出来るの!?」

「……師様と、瑞香様のお話を、聞いておりまして、覚えました」

「すげぇ! じゃあこれで、兄上に内緒で話が出来るな!」

 ぱっと顔を輝かせた、主の弟の顔を見て。

 ことん、と何か、音が聞こえた。きりきりと発条を撒く音ではない何か。

 それが何なのか解る間もなく、上機嫌な主の弟の背を追う。

 その日の内に、小目は主に命じられた――

「そろそろ邪魔だな、彼女は。怪しまれぬよう、殺しなさい」

「御意」

 北方語の師である金色の髪の女性を指して、主は命じ、小目はただ是と応えた。



 ×××



 ――相手の男は、先日瑞香に不敬にも武器を向けた男を選んだ。無論、からかい混じりのものだったけれど、命を奪う理由になった。小目ではなく、主の中で。

「あら、小目くんだっけ? どうし――」

 誰何の間もなく近づき、手を伸ばして、金の髪を結い上げていた髪紐をほどく。細く白い首にそれを巻き付け、一気に引いた。苦しませず、首の骨を折る為に。

 がくん、と糸の切れた人形のように床にへたり込んだ体を、彼女の自室まで見咎められぬよう運ぶ。既にそこには、心臓を北方型の小刀で貫かれた男の死体がある。

 血に塗れた刀を彼女の手に握らせて、解いた髪紐を男の手に巻き付ける。それで、終わった。

 主はただ、ご苦労だったと言ったけれど――主の弟は取り乱した。

「どうして、なんでだよ! 兄上、先生はそんな事しない! だって恋人なんていないっていっつも言ってた! おかしいよ!」

 泣きながら訴える主の弟を抱き寄せて、しょうがないなと言いたげに主はその頭を撫でて言った。

「私には、香々以外必要ないのだよ」

 ひゅ、と小さく息を飲む声が聞こえた。丸く見開かれた、濃い瑠璃の瞳が、涙を零すことすら忘れたように震えるのを、小目は見た。

 宥められるように、自室に戻され。傍に控えた小目に、どこかもどかしげに訴えた――先刻よりは、小さな声で。

「小目、先生を殺した奴を探せ。お前なら出来るだろ、なあ……!」

「……瑞光様のご命令です」

「っ……」

 息を飲む主の弟の顔を、黙って見つめる。このやりとりで、下手人が小目であるということに気付いたのかもしれないし、気づかれなかったのかもしれない。別に隠す必要は無いと、主にも言われていた。所詮影法師は、貴人の道具。命じられたからそう為しただけで、それ以上でも以下でも無い。

 それなのに――見つめてくる瑠璃の瞳に浮かんでいる感情が、怒りなのか、恐怖なのか、そんな埒も無いことを小目は思考した。感情など、影法師に慮ることは出来ないのに。

「……馬鹿野郎」

 ただ、それだけ言って、もうこちらを見ることの無い目が、ほんの少しだけ――どう、自分が思ったのか、やはり小目には解らなかった。

 その日のうちに、主の弟は宮殿を出奔したからだ。

 小目が報告に主の元へ戻っていた隙だった。子供の逃走など、すぐに見つかる。そうたかを括っていたからこそ、主も小目を動かさなかった。しかし主の弟はずっと強かで、頭も良かった。宮殿を出る汚物入れ――川下の農家に届ける堆肥だ――その中に潜り込み、川を下って黒河まで逃げ切った。そして自分の祖父である黒鰐の屋敷に駆け込んだのだ。

「――何故だ香々! 私から離れても、お前には何もないのに!」

 小目はそこで初めて、取り乱す主の姿を目の当たりにした。確かに、主の弟の立つ位置も、自由も全て、主から賜ったものだ。しかし彼は、それを良しとせず自分の力で逃げ出した。

 それは――それは酷く――小目にとっては、有り得ない程に、強いと、感じて――。

 黒鰐が動いたことで、主の弟を皇籍から抜けさせ、黒河の大守にさせると達しが出た。北方との貿易を開く為に主の弟が有用であるという嘆願書が皇宮に届いたのだ。主は反対したが、他ならぬ皇帝が認めた。

「小目――」

「はい」

 どこか途方に暮れたような、それでも縋りつくような声で、主は小目に命じた。

「香々についていきなさい。何があろうと、香々を守りなさい。もしあの子に近づく人間が現れたら、必ず報告するように」

「御意」

 いつも通りの是を返す。踵を返して歩き出すその背に、もう一つだけ命令が飛んだ。

「それから――もしも、あの子が。どうしても戻らないということになったら」

「はい」

「体だけでも、傷ひとつなく持ち帰るように」

 まるで恋焦がれた生娘のような、蕩けた輝きの瞳でそう命じられ。

「――御意」

 ただ、是と答えた。それ以外の返事を、小目は知らない。

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