紫煙で月を塗り潰す
玉山 遼
紫煙で月を塗り潰す
桃さんを見ていると、おれはまだまだ子どもだなあ、と思う。
大学とサークルとバイト先の三つの世界しか知らない俺とは違う。
何が違うのかと聞かれると上手くは言い表せないけれど、纏っている雰囲気がもう大人の女性といった感じなのだ。桃さんと同級生のひとを見ていても、その差ははっきりとある。
年上と付き合っているという噂を聞いたときは、ひどく落ち込むのと同時に納得した。そりゃ、おれみたいな子どもなんかじゃ太刀打ちできない。
桃さんはサークルの先輩だ。部室棟の一階にある喫煙所で煙草を吸っているのを見たのが最初だった。
喫煙所の前を通りがかったとき、ショートヘアに赤い口紅がよく似合うひとがいた。綺麗だな、と見惚れていたら目の前にあった柱にぶつかった。
おれはすっ転んで派手な音を立てた。そのひとが音を追いかけるようにこちらを見て、くすりと小さく笑った。その微笑みに、射抜かれてしまった。というわけだ。
そのあと、惚けた頭で部室にいたら、「あれ、きみさっきの」と声がして、振り向くと鎖骨の綺麗に見えるシャツを着た、さっきのひとがいた。煙たく霞んだような声をしていた。
桃さん、という名前を知ってから、部室でちょくちょく会うようになった。写真サークルという名目だが、実情は部室でゲームをしているだけに等しい。部員も男が多い。
そんなところになぜ桃さんのような綺麗なひとがいるのだろう。掃き溜めに鶴。
「ここね、私の学部学科の先輩がたくさんいたの。授業の情報とか集めるために入りなよって言われて入ったら、意外と居心地よくって、そのまま三年生になっちゃった」
湖畔の靄のような、掴めなくて遠い声。だけどおれの耳にははっきり残る。それが心地良くて、桃さんとはよく話すようになった。
他の僅かに残っている女の先輩は、桃さんを煙たがるように遠巻きに見ているだけだ。その理由を、女の先輩からでも桃さんからでもなく、唯一同じ学部学科の先輩から聞いた。
「桃ってな、同学年の女子部員の彼氏を寝取ったんだよ。男側は桃に熱をあげてたけど、桃は興味なさげだった。その女子部員は辞めちまったけど、未だに桃への敵対心があるらしいな、あいつら」
それは男子校で六年間育ったおれにとっては、なかなかに刺激の強い話だった。三女の先輩方の気持ちも分からないではないが、それは「女子部員の彼氏」が桃さんに言い寄って、桃さんは断れなかっただけではないのだろうか。
とにかく、桃さんはそんな悪いひとではない。おれはそう思っている。
いつか年上の彼氏と別れたら、おれもアタックしたいものだ。それがいつになるのかは、分からない話だけど。
おれは煙草を吸わない。体に悪そうだし、高いし、何よりおれは未成年だ。
だけど桃さんが吸っているところを見るのは、好きだ。
煙草を咥え、火を点ける。息を吸いこむと火口が橙色に光り、それが消えると甘い香りの煙をはきだす。その動作を伏し目がちに、なめらかに行うさまは美しい。
その姿をじっと見つめていたら、桃さんは吸う? と煙草の箱を差し出す。
「いや、おれ未成年なんで……」
「あぁ、そうだよね。えらいね。私、そのころには吸ってたから」
嫌味でない口ぶりで褒め、その後からからと笑う。そして、ふっと遠くを見るように、笑みを消す。
桃さんには何があったのだろう、と考えてしまう。誰に煙草を薦められたのか、とか、初めて吸ったときはどんな味がしたのだろう、とか。
「渉も吸うんだったらよかったのに」
「え?」
煙をはきだしながら、桃さんは気だるげに言う。赤い唇の動きが艶めかしくて、つい目を逸らす。
「今狙ってるひとね、煙草嫌いなの。渉にあげちゃおうかな、って思ってたんだけどね」
そうよね。未成年よね。そう呟いて、タバコの火をもみ消した。
狙ってるひと。意味は分かる。好きなひと、付き合いたいひと、そういうことだろう。
「桃さん、年上の彼氏は?」
「……そんなの、いたことないけど」
「えっ!?」
「渉、もしかして遠山の言うこと信じたの?」
遠山とは、おれと唯一同じ学部学科の先輩である。
「あいつはねえ、渉みたいに素直な子を騙すのが好きなのよ」
そう言い終えると、桃さんは声を上げて笑った。あー可笑しい、渉は可愛いね。
可愛いの一言に、顔が熱くなる。熱くなっているのは顔ばかりでない。頭もショートしそうなほど熱くなっていた。
桃さんには、彼氏がいない。でも狙っているひとがいる。つまり、おれの出る幕はない。
家に帰って、ベッドに突っ伏して、叫んだ。ちくしょう。下の階から、母親がうるさいわよ、と呑気な声を上げる。
でも、遠山さんが嘘つきだとしたら、女子部員の彼氏を寝取ったという話はどうなのだろう。
しかし、それが嘘であろうが本当であろうが、桃さんが三女の先輩方に煙たがれているのは事実だ。だとしたら、寝取っていようがいまいが、おれには特に関係ない。
「桃さん、フラれないかな」
口には出してみたものの、そんな未来は思い描けなかった。桃さんは綺麗で、優しくて、大人っぽくって、ちょっと可愛らしくて。桃さんに狙われて落ちない男なんているのだろうか。
好きなひとのしあわせは願ってやるべきだ。なんて綺麗事を言う奴もいるけれど、おれはそんな綺麗な感情を、到底抱けない。
フラれないかな。もう一度、心の中で呟く。
桃さんはあのあと一度も、喫煙所では見かけていない。
うまくいったんだろうな、よかった。そう念じても、おれの頭はそっちの方へ向かない。喫煙所に来ないかな、そう願ってしまっている。
影が濃くなってきた夏の日に、桃さんを見かけた。ノースリーブの、今頃の広葉樹のような色をしたタイトなワンピースを身に着け、喫煙所に立っていた。
勢い余って、喫煙所に通じる扉を開けて、桃さん、と大きな声をかけてしまった。桃さんは驚いた様子で振り向く。
「あ、渉か。どうしたの?」
「久しぶりに喫煙所にいるな、って思って」
「そうねぇ、ふた月ぶりくらいかしら」
おれは訊きたいことがあったが、指を組んだり離したりした。なんて切り出せばいいのだろう。
「……今渉が思ってること、当ててみせようか。『桃さん、狙ってたひとはどうしたんですか?』でしょ」
桃さんはおれの口真似をしてみせた。少し高くて、頼りなさげなその話し方は似ているかもしれない。
おれは肩を震わせた。見事なまでに、図星であった。
「……すんません」
「まあ、気になるわよ」
桃さんはからっと湿り気のない笑顔で手を振る。そうして煙草を咥え、大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「落としたよ、そのひと」
桃さんは先程の笑顔とは質の違う、蠱惑的な笑みを浮かべた。
こういうとき、どういうふうに笑顔を作ればいいのだろう。最初から叶わぬものとは知っていたが、いざ現実を突きつけられると、こうも胸が苦しくなるのか。
そうですか、とかそんなことを言って、首を縦に振る。何度か繰り返し頷いて、自分に言い聞かせるようにした。
「ま、それだけ。もうおしまい」
「おしまい?」
おしまいとは。
そういえば、桃さんの狙っているひとは煙草嫌いではなかっただろうか。それなのに桃さんは今煙草を吸っている。
つまり、おしまいとは。
「そのひとと、することはして、おしまい。なんか連絡来てたけど、面倒くさいから返信してない」
「することは、して」
身体だけの関係だった、ということである。
安心していいのやらよくないのやらわからなくて、おれは桃さんの言葉をオウム返しにすることしか出来なくなった。
しばらく放心した後、我に返る。
「桃さん、そのひととは付き合っていないんですね?」
「当たり前じゃない。しただけで、自分のものになったとでも思ってるのかしら。勘違いしない方がいいのにね」
当たり前。桃さんにとっては、落としたらそれでおしまい。付き合うとか、そういうことからは面倒くさいので距離を置いている。そんなふうなんだろうか。
「渉も、そういう勘違いするひとになっちゃだめよ」
「えっ、……はい」
だとしたら、今のままの関係でいい。一度関係を持ったら、桃さんはそれでおしまいなのだ。そうなると、この心地良い関係もおしまいになる。
それはどうしても避けたかった。桃さんとは、たまにこうして話せるだけで幸せだった。
テスト期間の真っ只中、図書館で遅くまで勉強していたら、桃さんが本を返却するところを見かけた。
囁き声で名前を呼ぶと、桃さんは小さく手を振り、隣に座った。
「どう、進んでる?」
「提出物はだいたい終わりました。あとはドイツ語の試験だけが怖いですね」
「ドイツ語か、私フランス語だったからなぁ、何にも教えてあげられないわ」
いやいや、桃さんの手を煩わせるようなことはしません、そんなことを言うと、桃さんは小さく吹き出した。
「そんなかしこまらなくっていいのよ、大学の上下関係なんてあってないようなものなんだから」
とはいえ、中高六年間の部活動で上下関係はきっちり叩きこまれた。今さら簡単に抜けるものではない。
「もう癖みたいなもんですね、部活でしごかれて」
「へぇ、渉って何部だったの?」
桃さんは小首を傾げる。すると咳払いが聞こえた。司書が、こちらを睨む。
「ごめん、邪魔しちゃったね。そろそろ行くわ」
そこで桃さんを引き留めると、司書に何と言われるかわからなかった。だから、おれもそろそろ帰ります、と席を立った。
図書館から出ると、月が柔らかな光を闇の中で発していた。図書館のすぐ傍に立つ外灯で、その明かりは弱々しい。
「月、きれいですね」
「夏目漱石?」
「違います! からかわないでください!」
桃さんは口元に手を添えてくすくすと笑う。おれの顔はもう真っ赤なのだろう。頬が太陽に焦がされるように熱い。
「でも、本当に綺麗ね。腹が立つくらい」
「桃さん、月嫌いなんですか?」
「んー、いやなこと、思い出すのよね。とくに満月が嫌い」
いやなこと。幼子が発するような響きだったが、芯には細く暗いものが通っていた。
だから、深追いはしなかった。けれどいつか聞いて、少しでもいやなことを忘れさせられやしないかと、おれはそっと願った。
この緩やかなサークルにも、合宿というものはある。
三泊四日で景観の良い地に行く。そこで各々写真を撮り、学祭の展示に出す物を決める。
行き先は毎年変わる。今年は京都。高二のときの修学旅行と行き先が変わらず、おれは少々つまらなかった。桃さんがいないのも相まって、つまらなかった。
目的地までのバスの車内に、知らないひとがいた。あのひとは誰かと隣に座る遠山さんに訊くと、「OBの竹村さん。俺たちが一年のころの三年生。まあコーチみたいな感じ」とざっくばらんに説明された。
宿に着き、荷物を置いて、京都の街へと各自で行く。おれは一年生で、おまけにカメラ未経験ということもあって、竹村さんに付き添われるとのことだった。
遠山さんみたいなちゃらんぽらんなひとだと感じはしないが、おれはどうやら「男の先輩」というものにやや気圧されるきらいがある。部活動でしごかれたせいだ。
それでかちこちになっているおれを見かねた竹村さんは自己紹介をした。すると、お互いに出身校が同じであることを知り、おれの心は更に硬くなった。
ビシバシしごいてやるからな、なんて笑みを浮かべる竹村さんは、意外なことに親切だった。的確なアドバイスと、柔和な笑顔。徐々に俺の心はほぐれていって、世界史の先生はすぐ話が脱線した、だの数学のあいつは授業が下手だった、だの無駄口を叩くようにもなった。
カメラを使いこなせるようになると、とても自由だった。撮りたい雰囲気に寄せていく作業もただ機械的に行うのではなく、まるで青の絵の具にほんの僅か緑を足して色味を変えるように行う。面白く、繊細で、楽しい。
一日の終わりには、それはもうたくさんの写真がメモリいっぱいに入っていた。
帰り道、竹村さんに尋ねたいとうずうずしていたことがあったことを思い出し、尋ねた。
「桃さんって、一年生のころどんな感じだったんですか?」
すると竹村さんはカメラのことじゃないのかよ、と笑い、答えてくれた。
「うーん、可愛かったよ。素直で。桃も初心者だったから、俺が教えた。最近はどうだか知らないけど。渉、桃のこと好きなんだ?」
「えっ、いや、そんな」
竹村さんは目を細め、大人びた笑みを浮かべた。そして爽やかに、頑張れよ。と肩を叩き宿に戻っていった。
竹村さんは親切だ。それなのに、「最近はどうだか知らないけど」という、何となく突き放したような物言いが不思議だった。
夜、先輩たちが酒盛りをしているところからふらふらとようやくのことで抜け出して、夜風に当たりに部屋のベランダに出た。
つい、桃さんに電話したくなった。今日あった出来事や、竹村さんの話をしたかった。
桃さんの連絡先を押そうか押すまいか逡巡する。今の時間ならばまだ起きているだろう。でも、いきなり電話されても迷惑なんじゃないか。だけど、声を聞きたい。あの少し掠れた声。
えい、と勢いをつけて押す。耳に端末をあてがうと、発信音の後、もしもし、と掠れた声が聞こえてきた。
「どうしたの? なんか用?」
すると、さっきまで山のようにたくさんあった話したい事が、一瞬のうちに立ち消えてしまった。電話口で、もごもごする。こういうときに「声が聞きたかったんです」とスマートに言えたなら。
「あの、おれ絵描くの好きなんです」
「唐突ね。美術部だったっけ」
「いや、美術部ではなかったんですけど、趣味で」
「へぇ」
だからどうした、と言い捨てられる話を始めたにもかかわらず、桃さんは耳を傾けてくれる。興味なさげではあるが。
「だから美術系のサークル探したんですけど、あまり合うのがなくて。結局このサークル入ったんですけど」
桃さんは時おり黙って、時おり相槌を打つ。煙草を吸っているのだろう。
「最初、写真って思った通りに撮れるものだと思ってたんです。でも実際は、そんなことなくて。難しいですね」
「そうね」
「だけど、撮りたい雰囲気に合わせてシャッタースピードとか、細かいところ変えるじゃないですか。その作業が、絵を描くのに似ているな、って思ったんです」
「……それは、どういうこと?」
桃さんは僅か、興味を示したように問いかける。
「絵具に色を足していく作業に似てるんです。いくら水の色が青くても、ただの青を使ったら強すぎる。そこに白やら緑やら水を足していって、ようやく求めていた色と近い色になる。完璧に同じ色にはならないのも、似ているなって」
「そっか、なるほどね。渉の話は感覚的でわからない」
桃さんに切り捨てられ、熱く語った自分が恥ずかしくなる。
でも、と桃さんは続けた。
「渉がカメラも絵を描くのも好きなことは、わかった」
やや嬉しそうな声。そんな声に聞こえる。電話越しだと表情が見えなくて、どんなことを思いそんな声を出しているのか、わからない。
おれが勝手に心拍数を上げていると、桃さんはいいこと思いついた、とさらに嬉しそうにこう言った。
「今度、美術館行かない? 絵は描けないけど、観るのは好きなの、私」
「行きます」
食い気味に、即答した。早いよ、と桃さんは笑う。
「合宿終わったらまた相談しよう。じゃあね」
電話を切ると、残されたのは早く鳴き始めている虫の声だけだった。静寂のような虫の声で、ついさっきまで話していたのにまた桃さんが恋しくなる。
早く会えないかな、とベランダでぼんやりしていた。誰かが、戻ってきたようだ。
嗅ぎ慣れたものより甘さがない、咳き込みそうになる煙が漂ってくる。隣のベランダを見ると、竹村さんが煙草を吸っていた。竹村さんは、こちらの視線に気づいていない。
もしかしたら、桃さんに煙草を教えたのは、竹村さんなのかもしれない。
そう思うと、ふいに胸がじくじく疼くような痛みを覚えた。
京都から帰ってきてすっかり日に焼けたおれを見て、桃さんは笑った。
「渉、焦げたパンみたい」
その例えが可愛らしくて、おれも笑った。
おれと桃さんは動物園の程近くにある美術館に入った。大学生にとっては夏休みであるが、もう九月に入っているから子どもたちの姿はない。おまけに平日なので、ひとが少なくゆっくりと観ることができた。
小さな国の侯爵が集めた美術品が、ゆうゆうと飾られている。
「絵に関するうんちくとか、ないの?」
絵を見上げながら、桃さんは問いかけた。見ている絵は、俺の好きな絵の一つだ。
「自分で観たままに感じた方が楽しいです」
こちらをちょっと見て、そっか、と目をぱっちりさせた。私、小難しく考えすぎていたのかも。
「今まで画家の生い立ちとか、書かれた当時の背景とか、そういう情報を気にしていたけど」
「そういう情報がないと分からない絵もありますね。でも、それって大体絵の横に書かれているんで、まずは観て楽しむのが一番です」
もう一度、そっか、と桃さんは頷いた。
「この赤ちゃんのほっぺ、可愛い」
そして見たこともないほど優しく、花がほころぶように笑みを溢した。
桃さんはもともととても綺麗なひとだけど、少し冷たく見える。そんなひとが、こんなふうに穏やかに笑みを浮かべるなんて。おれはどぎまぎしてしまって、次の句の声がちょっとひっくり返ってしまった。
「おれは、この絵が好きです。黄色い軽衣から透けて見える空の青が綺麗で」
その絵は虹の女神イリスをモチーフに、侯妃を描いた作品だった。
「本当だ。これは夏の空ね。青くて、山脈が綺麗で」
「きっとそうです」
「私、夏が一番好き」
帰りに桃さんは、先ほど目に留めた赤子の絵と、おれが好きだと言った絵のポストカードを買った。おれは『復讐の誓い』と題された、黒のヴェールがうつくしく描かれている絵のポストカードを買った。
秋学期が始まる直前、サークルの面々で飲もうという話になった。初めは酒飲めないし、と参加しないつもりであったが、メーリングリストに参加者が連なるその中に桃さんの名前を見つけ、ドタ参できますか、と連絡をとった。
「お前は現金な奴だなあ」
幹事の遠山さんは、呆れ気味に参加を許可した。
当日、二千円を握りしめて足取り軽やかに家を出た。行く途中の電車で桃さんに会い、さらに浮かれた。
「あれ、渉って来ないんじゃなかったの?」
「ドタ参ですっ」
「遠山にちゃんとお礼言うのよ」
「もちろんですっ」
語尾に浮かれているこの気持ちが表れている。桃さんはくすくす笑って、渉は可愛いね、と小さく呟いた。
宵の口で、まだ周囲はほんのり明るい。どこかで花火が上がっているのが、電車の中から見えた。
「桃さん、花火」
「わ、本当だ。まだやってるのね」
「十月に入ってからもいくつかありますよ」
今度一緒に行きませんか。そう言おうとした瞬間、電車が止まってドアが開く。おれはどうも間が悪いというか、間が抜けているというか。
駅のロータリーに集まって、遠山さんに金を渡してお礼を言う。次から気ぃつけろよ、と遠山さんはにやにやした。
ぞろぞろと飲み屋へ移動する。バナナジュースもあるから、渉は安心していいぞ、と誰かが言った。
「本当すか、ありがとうございます」
と返したら笑い声が上がる。どうやらおれをからかっていたようだ。
しかしそのバナナジュースが思いの外おいしくて、おれはぐびぐびと凄まじい勢いで飲み、ピッチャーを空にした。それを見ていた遠山さんはげらげら笑った。
しかしおいしかっただけが理由ではない。桃さんが喫煙者卓と称された別の卓に座ってしまったのが、もう一つの理由だった。
桃さんは煙をゆったり吐き出している。ハイボールをときどき傾けながら。
やっぱり桃さんには、竹村さんのような大人がお似合いなんだろうか。そんなことをうじうじ考えながら、二つめのピッチャーを傾けてバナナジュースを注いだ。
窓の外を見ると、陽が闇に呑まれていくところだった。六時を少し過ぎている。
「お、まだやってる。よかったぁ」
合宿中、隣で聞いていた声がした。するはずのない声。
「竹村さん! お久しぶりです。急ですね」
「久しぶりでもないだろ」
遠山さんが立ち上がって挨拶をする。それと同時に、誰かの足が卓にぶつかる鈍い音がした。その方向へ顔を向けると、桃さんも立ち上がっていた。
「桃、久しぶり」
「……お久しぶりです」
呆けたような声。桃さんは頭を下げた後、近くに置いていた自身のクラッチバッグを掴み、足早に店を出て行ってしまった。
「え? 桃さん?」
おれはびっくりしてその方を目で追うことしか出来なかった。
遠山さんに、肩を叩かれる。振り向くと、いつになく険しい表情をした遠山さんが、早く行け、とおれに囁いた。その肩の向こうでは、三女の先輩方がいやな笑みを浮かべていた。
いそいで鞄を掴み、店を出た。「渉?」と竹村さんは呼びかけたが、振り返っている場合ではなかった。
「桃さん!」
早足で駅の方へ向かっていた桃さんの背中を見つけ、声をかけると同時に手首を掴んだ。
「離してッ!」
怯えた声だった。周囲のひとが痴漢を疑っておれの方をじろじろ見る。手を離すと、桃さんは振り返った。
「――そうね、『桃さん』なんて呼ぶのは、渉しかいなかったわね。ごめん」
途切れがちで掠れた小さな声で、天を仰いだ。呼吸は荒かった。
「あぁ、月。なんで出ているのかしらね、こんなときに限って、満月で」
桃さんの切れ長の瞳から、はらはらと涙が散る。おれはどうしていいのか分からなくて、黙っていた。荒い呼吸が整うまで、黙っていた。
桃さんはゆっくりと歩きだした。おれもついて行って良いものか迷ったが、行き先が暗い裏路地だったため、ついて行った。
「何があったんですか」
薄々感づいてはいた。だけど、聞かずにそうと決めつけたくはなかった。
「竹村さんと、でしょ?」
涙を拭うこともせず、桃さんは唇を湿した。長くなるのかもしれない。赤い口紅が落ちかけていた。
桃さんはゆっくりと話した。その間も、涙を流し続けた。
竹村さんとは、合宿で仲良くなった。カメラ初心者だった桃さんの指導をしてくれた。的確なアドバイスと、柔和な笑顔。地方の女子高出身で、男性慣れしていなかった桃さんは、瞬く間に竹村さんを好きになった。
竹村さんは、今は独り暮らしをしているそうだけど、学生のころ、少なくとも桃さんが一年生のころは実家で暮らしていた。
だからデートの後、寄るのは決まって桃さんの部屋だった。初めてのデートの後も、「桃ちゃんの部屋、行ってみたい」と言われ、断る理由も思いつかずに部屋へ上げた。そこで身体を求められ、言われるがまま、差し出した。桃さんは、竹村さんが好きだったから。
そのうちに、デートの頻度は減っていった。しかし竹村さんが桃さんの部屋へ上がる回数は増えた。そのうちに転がり込んできて、半同棲のような形になった。合鍵を渡して、灰皿を置くようになって、次第に桃さんも竹村さんに教わって煙草を吸うようになった。付き合っているものだと、思っていた。
だけどある晩、自分の部屋に帰ると、竹村さんの靴と、見知らぬ女物の靴が玄関にあった。初めはよく分からず玄関でぽかんと立ち尽くしていた。けれど、部屋の奥から声が聞こえた。女の喘ぎ声が、聞こえた。
途端、吐き戻しそうになって外へ飛び出て、涙と嗚咽と吐き気が止まらないまま、煙草を吸った。途中、何度か吐き戻した。その晩は、満月だった。
「都合の良い女だったのに、付き合ってるんだと勘違いしてたんだ、私」
そんなこと、竹村さんがひどいだけです。
そんなこと、おれの身に起きたらおれだって付き合ってると思います。
そんなこと、桃さんは悪くないです。
幾つもの、「そんなこと」が思い浮かんだ。だけど、「そんなこと」で桃さんは深く傷つき、「そんなこと」を忘れられずに苦しんでいる。とても、言えやしなかった。
「桃さん」
三本目の煙草を吸っている桃さんを、おれは呼んだ。涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔を上げて、桃さんはなに、と首を傾げた。
「なんで、ひどいことされたのに、サークル辞めなかったんですか」
「辞めたら負けた気がするから。でも、私は何に抗ってたんだろうね」
息を吐く。煙が季節外れの白い息のようで、暑いのに寒々しかった。
「――おれにできること、ないですか。おれ、桃さんのためならなんでもします」
桃さんは煙草を揉み消す。
「なんでもするの?」
「はい」
「じゃあ、抱いてくれない」
「え、」
「そうされる以外、この傷の癒し方が分からないの。ねえ、お願い」
いつになく、媚びたような声。今までの話が全部嘘なんじゃないかと勘違いするほどの、いやらしい声を桃さんは出す。
そうでないことは、すぐに分かった。おれの腕に手を掛けている桃さんの手が、ひどく震えている。
分かりました、と頷いて、路地を出た。満月はいつの間にか渇いた桃さんの頬を、冷たく濡らしていった。
電車の中ではお互い黙りこくっていた。桃さんの部屋は、大学からそこそこ離れたところにある小綺麗なマンションだった。あれから、引っ越したのだという。
「部屋に呼ぶの、渉が初めて」
それは、他の男を呼ぶのが恐ろしかったからではないだろうか。また転がり込まれるようになったら。また合鍵を要求されたら。また他の女を連れ込まれたら。
桃さんは恋人を作らないのではなく、作れないのではないか。部屋に上がって、桃さんがシャワーを浴びている間、考えていた。
「上がったよ」
「おれも浴びた方がいいですか」
「そうよ。エチケットだからね」
桃さんはバスタオルだけを身体に巻いていて、目のやり場に困った。
そそくさとシャワーを浴びにいく。自分のモノはしっかりと反応を示していて、男の性が悲しくなった。
タオルを借りて、大事なところだけを隠し、ベッドに腰掛ける。横たわっている桃さんは、潤んだ瞳でおれを見上げる。
今まで何人の男に抱かれ、傷をいっとき癒していたのだろう。
桃さんの傷は、いっときでも癒えていたのだろうか。それとも、一瞬たりとも癒えてはいなかったのだろうか。むしろ、傷を抉り続けていたのだろうか。
その真相は、桃さんにしか分からない。桃さんだって分かっていないのかもしれないのに、おれに分かるはずがない。
「ね、早く」
甘ったるい声で、おれを呼んだ。吸い寄せられるように、桃さんの肌に触れていた。
だけど、触れるだけで、それ以上は何もできなかった。
触れたのだって、胸でもお尻でもなく、頬だった。
「……しないの?」
「おれには、できません」
そう言って、桃さんを抱きしめた。柔らかい肌、ほとんど残っていない香水の匂い、苦しい、と喘ぐ桃さんの、いつもの声。
「ごめんなさい」
身体をきつく抱きしめていた腕を緩め、もう一度優しく、抱きしめる。背中を擦ると、桃さんの潤んだ言葉が、耳元で聞こえる。
「渉。私ね、きみを見てるとね、竹村さんのこと、ちょっと思い出すの。優しそうで、ちょっといいところのお坊ちゃんで。だからこんなに構っちゃうのかなぁ」
「おれは、あんなひどいこと、できません」
心からの言葉だった。可愛いと思ったひとを、都合の良いひとになんてできやしない。最後に傷つく姿が見えるのに、そんなひどいことなんて。
「そうなのかな」
しかし、桃さんは不安そうに、宙に向かって発する。
「絶対に、できません」
「分からない。竹村さんだって、あんなことするひとには見えなかったし、思わなかったから。私、ひとを見る目がないのかもしれないから」
その言葉はおれの言葉を受けてのものだった。だけど、おれに届けようとしていない。また宙に向かって話すみたいに。
「私には分からない。何も、何も分からない」
その晩は、桃さんが泣きつかれて眠るまで、ずっと、ずっと抱きしめて背中を擦っていた。眠る桃さんは、かなしいことを知ってしまった子どものように、切ないほどにあどけなかった。
それから、桃さんは部室にも、喫煙所にも現れなくなった。
秋学期が始まっても、桃さんは姿を現さない。心配になって遠山さんに訊くと、「あいつは意外に単位取ってるから、全休が多いんだよ」と返される。
遠山さんには、桃さんとの一件は話していない。話すことで、桃さんがもう二度と姿を見せなくなってしまうのではないかと危惧した。
「大学にはちゃんと来てるみたいだし、部室棟に顔出さないだけで、生きてるだろ。大丈夫だって」
「でも」
「あいつはあんなことで死ぬ奴じゃないから。これは絶対だ」
遠山さんの目は、真剣そのものだった。友人を思うひとの目をしていた。だから、信じた。
しかし肌寒くなり始めても、桃さんを一向に見かけない。一体どうしているのだろう。
出るはずがないと、掛けていなかった電話。桃さんの連絡先をじっと見つめる。
夏のあの日の葛藤はどうしたのか、おれはためらいなくその連絡先に触れた。
「……もしもし」
気まずそうで霞んだその声は、間違いなく桃さんの声だった。
「渉です。今、少し話せますか?」
桃さんはやや間を置いて、いいよ、と答えた。煙草を吸っているのだろうか、溜息に似た吐息が聞こえる。
「おれたちって、まだ『してない』ですよね?」
「えっ、へっ?」
桃さんは桃さんらしくなく、ひっくり返った声を出した。おれの真似と言われれば、そうだと思ってしまうほど、桃さんに似つかわしくない声だった。
「だから、まだ、その、『してない』ですよね?」
「う、うん。まあね。未遂ね」
動揺しつつも、おれの問いかけには応じる。根は真面目なのだな、とあまり重要ではないことを思う。
未遂。未遂だと、桃さんは答えた。
桃さんは以前、することはして、おしまい。落としたらそれで、おしまい。そう言っていた。
「おれと、まだ『してない』なら、おしまいじゃないですよね」
ただの先輩後輩ではないような、心の奥底がむずむずするような、そういうじれったい関係も、まだおしまいではないはずだ。
「――それは、そうだけど」
「だったら、また会ってくれませんか。部室や喫煙所が嫌なら、他の場所で」
電話の向こうで、桃さんが困っているのが伝わってくる。煙草を揉み消す音、息を吐く音、髪を乱雑にかき回す音。
「できれば、おれの家がいいんですけど」
「はっ?」
想定していなかった場所を指定されたと如実に語る一声であった。
「――何するつもりなの?」
あの媚びの片鱗が見える。だけど、おれがしたいのはそういうことではなかった。
「おれの好きなことです。詳しくは会う日に」
そう言って電話を切った。なかなかスマートに決まったのではないだろうか。
悦に入っていると、スマートフォンが短く震える。
「何日に会うの?」
そのテキストに、おれは赤面した。どうやっても格好はつかない。
約束の日に、桃さんはおれの最寄り駅に時間通り立っていた。白いブラウスに、黒のスラックス。ヒールはいつもより低め。
「お昼、もう食べました?」
「うん。食べてきちゃった」
桃さんは目を合わせようとしない。俯き気味で、表情が見えにくい。
「なら良かったです。ウチ、何の用意もなかったんで」
母親が友人と遊ぶ日を聞き出して、その日を選んだ。父親は単身赴任で家にいない。だから家に食材はあるが、作れるひとはいなかった。
そこから家へ歩き出す。桃さんはなにも喋らない。美術館に行った日が嘘のように、笑みを見せない。
それは文句をつけるべきところではない。あんなことを言って、あんなことをしようとした後なのだから、気まずいのも当然だ。
だけどおれはそんな気分を拭いたくて、桃さんにいろいろ話しかけながら歩いた。この近くのおいしいラーメン屋の話。たばこ屋のおばあちゃんの話。小さい頃よく遊んだ公園の話。
話に集中すると、桃さんは顔を上げておれの目を見た。そして我に返ると、また目を伏す。それを何度も繰り返しているうちに、家に着いた。
おじゃまします、と小さく口の中で唱えて、桃さんは靴を脱いだ。
おれの部屋のある二階まで案内すると、桃さんは驚いたふうに目を瞠った。
それはおかしい反応ではなく、おれの予想していた反応だった。
部屋の中央に置かれた勉強机。その上に参考書の類は何も置かれていない。向かいにはベッドがあって、勉強机に座るとベッドしか見えないようになっている。デスクライトも外してある。
「渉、いつもこんな状態で勉強してるの?」
「この状態で勉強はできないです」
机の上には一面に新聞紙が敷かれ、ポスターカラーと呼ばれる絵の具と、何本かの鉛筆、厚めのケント紙、水入れなどが置かれている。
「絵、描くの?」
「はい、描きます」
「描くところ、見せたかったの?」
「うーん、ちょっと違うんですけど、まあそんなところです」
桃さんは不思議そうに眉を寄せ、唇をちょっぴり尖らせている。
「桃さん、ベッドに腰掛けてもらえますか? 勉強机に向かって少し斜めになる感じで」
「え、うん」
「それで、そのまま動かないでください」
鉛筆を手に取り、椅子に腰かけた。桃さんを、描く。
おれが口下手じゃなかったら、慰めの言葉が上手かったのなら、もっと上手に桃さんを喜ばせたり、笑顔にしたりできたのだろう。だけどおれは口が上手くないし、下手に慰めるのは傷を抉る行為だと知っていた。
このやり方で喜ばせられるか、笑顔にできるかは分からない。だけど、おれの一番好きなこと。それで桃さんを少しでも慰められるなら。
顔を上げると、桃さんは視線を下げる。紙に向かうと、額の辺りに視線を感じる。盗み見ようとしてみるが、やはり桃さんは視線を合わせてはくれない。
部屋には、鉛筆が紙に当たる音が充満している。あまり細かく描きすぎないように、と念じる。細かく描き込むと、おれは彩色の際にがっかりすることが多い。
きりの良いところで、一度休憩をとった。紙は裏返して置く。
「お疲れさまです」
「ありがとう」
下の階から取ってきたお茶を渡す。桃さんはゆっくりそれを飲む。
「渉があんな真剣な顔してるの、初めて見たかも」
指先で頬を掻く。おれはいつも真剣なんだけどな、と思いつつも口には出さなかった。
「いいね、絵を描けるって」
「桃さんも描いてみますか?」
紙や絵の具、筆記具の用意はたくさんあった。貸し出しても困らないほどのストックもある。しかし桃さんはゆるゆると頭を振って、私は観るのが好き、と言った。
また机に向かい、鉛筆を走らせる。
大まかな部分を鉛筆で書き終えたとき、ふと時計を見ると思ったよりも時間が過ぎていたことに気付く。最近描いていなかったせいで腕が鈍ったのか、時間配分を間違えてしまったのか、両方か。
色塗りに入っても、中途半端なところで終わってしまう。これでは、描き上げられない。
「……桃さん」
「なに?」
「白黒でもいいですか」
苦渋の決断だった。できることならば、桃さんの綺麗な肌や、艶やかに光る瞳に色をのせてみたい。しかし、残りの時間でそんな芸当ができるはずがなかった。
桃さんは何にも気にしていないふうに、構わない、と首を縦に振る。
「すみません」
そして、手を再度動かし始める。ざかざかと適当に書いていた部分に消しゴムをかけ、細かく描いていく作業に変更した。
重すぎないほどの黒髪。細心の注意を払って、その濃さを調整する。描いては消しゴムで叩くように消し、また描いて。
程よい丸みとシャープさが一緒に存在している輪郭。ああでもないこうでもないと主線を微妙に変えながら、位置を見つける。
耳はほんの僅か髪から見える程度だが、耳朶に開いている小さなピアスホールと、そこに填め込まれているピアスも小さく描く。
眉は顔の印象を大きく左右する。おれが描きたい桃さんの表情は、もう決まっていた。そのときの眉の形を想像して、ゆっくりと鉛筆でなぞるように。
そうやって作っていくと、おれの好きな桃さんの表情が浮かび上がってくる。
こんなので、桃さんは喜んでくれるのだろうか。途中、何度も考えて描くのを止めようと頭が指示を出す。だけど、手は一向に止まらなくて、どんどん、どんどん、描き進めてしまう。そのうちに、余計なことを考えることは止めた。手を動かすことだけを、考えた。
描き上がったころには夕暮れが差し迫っていた。想定していたよりは早く描き終わり、一ヶ所くらいなら彩色できることに気付く。
「桃さん。一ヶ所だけ色を付けられるとしたら、どこにしたいですか?」
おそらく、桃さんは唇と答えるだろう。いつも綺麗に赤く染められている、唇。こだわりがあるのかもしれない。
「多分ね、渉も分かってると思うけど」
「じゃあそこにします」
ようやく、桃さんは顔を上げておれの目を見た。そして、薄く笑う。
赤の絵の具をパレットに出して、濃さを調整する。ちょうど桃さんの唇の色のようになった赤を、そっと紙にのせた。
輪郭からはみ出ないよう、内側から滲み出しているよう、桃さんに似合うよう、色づけていった。
乾くのを待っておれはベッドに座り、掲げるように両手で持って、桃さんに絵を向けた。
「本当は、全部色塗りたかったんですけど、ごめんなさい」
桃さんは、いいよそんな、と言った後、絵を見つめ、黙る。
どうしたんだろう。変だったろうか。もしかして似ていないとか。こんなんじゃないのに、って傷つけてしまったとか。
それは一番恐ろしい。慰めるはずの絵が、桃さんを傷つけていたとしたら。
「あの、桃さん……?」
おそるおそる、顔色を窺う。桃さんは、頬を少女のように赤く染め、絵を見つめている。それは一体、どういう感情なのだろう。
「――私」
「……はい」
「私、こんな表情、してないよ」
紙の上の桃さんは、おれをからかっているときや、いたずらに成功したときのように目を細め、唇はゆるく弧を描いている。
確かに、さっきまでの桃さんはこんな表情をしていなかった。
「おれの一番好きな、桃さんの表情です」
おれの好きになった桃さんです。その言葉は呑みこもうとした。そのときだった。
桃さんの頬は更に赤く色づき、耳の端までも赤くなってゆく。上げていた顔を俯け、しゃくり上げ始める。
「えっ、あの、桃さん、ごめんなさい、傷つけるつもりはなかったんです」
「ううん、傷ついてない」
だとしたら、どうして泣いている? 喜びで泣けるほど、おれの絵はうまくない。
「嬉しかったの」
「嬉しかった?」
「渉がこんなふうに私を描いてくれて、慰めようとしてくれて」
本当に、ほんとうに、嬉しかった。
そう言い終わると、小さく声を上げて、ほとほと涙を落とした。
脇に絵を置いて、ティッシュを取って差し出す。
「桃さん、おれ笑ってほしくて、描いたんです。だから、笑って」
おれを見て、桃さんは泣きたいんだか笑いたいんだか、どっちつかずな表情をした。
「渉、それ差し出すのも、間違いじゃ、ないんだけどね」
しゃくり上げながら話すものだから、言葉が途切れ途切れになって、桃さんは子どもにかえってしまったようだった。
途端、強い力で腕を引かれた。バランスを崩して、桃さんを押し倒すような体勢になってしまう。
「あのっ」
起き上がろうとするおれの背に腕を回して、桃さんは耳元でこう言った。その声はいつもの少し霞んだ声より、どこか近いような声だった。
「こういうときはね、抱きしめんのよ。バカ」
紫煙で月を塗り潰す 玉山 遼 @ryo_tamayama
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