鏡の中のグラン・ギニョル

遠海青

Ⅰ 運び屋

その日、荷物は黒々と艶のある革製のソフトケースで、細長く、小柄な人間が丸々入るほどの大きさだった。丈夫なベルトが巻かれ、銀の留め具がケースと肩紐を繋いでいる。

その仕事は実入りのいい仕事だった。彼は三年ほど前に知り合いに紹介されて以来、ずっとその仕事を続けていた。彼には素質があった。目立たず、小心者で、荷物と顧客に干渉せず、確実に仕事をした。

始点は新宿、摩天楼の足元をに密集する低いビルの谷間だった。路地で荷物を受け取り、雑踏と都会の匂いに紛れて歩き、地下鉄に乗って数駅。彼は慣れた様子で改札を抜け、誰にも目を留められることなく住宅街の方へ続く坂を下っていった。

目的地は煉瓦色の屋根の屋敷だった。青い垣根に囲まれ、白い門を構えるそこへたどり着くと、彼はさりげなく辺りを見回した。誰もいないことを確かめ、彼は呼び鈴を鳴らした。

「根津と申しますが」

これが決められた合言葉だった。根津は彼の本名ではなかったが、顧客にはそう呼ばれていた。

門はひとりでに開いた。もちろん、電力によって。それでも、彼は少しそわそわしながら足を踏み入れた。アザミが咲くその庭は、強烈に人を寄せ付けない雰囲気を放っていた。

彼が庭を抜け玄関の前で待っていると、頭上から声が降ってきた。

「裏に回ってくれ!」

彼は数歩下がって見上げた。二階の窓に人影があった。彼は言われた通り裏口を探そうと、庭をぐるりとめぐる石の小道をたどり始めた。

屋敷の裏手には林が広がり、ここが東京であることを忘れさせるようなほの暗いみどりの影を落としている。彼は小さな青い扉を見つけて、軽く三度ノックした。

「はい、ただいま」

高い響きを含んだ艶やかな声がして、中から若い男が扉を開けた。端正な所作に優美な憂いを漂わせるその男の美貌を、彼は呆けたように見つめた。

「根津様?」

呼び掛けられて彼は我に返った。

「ああ、はい、すみません」

「足元に段差がございます、お気をつけて」

「はい、どうも、ご丁寧に」

しどろもどろになる彼を、召使いの男は精巧な微笑を浮かべて招き入れた。埃っぽいそこは物置部屋であるようだった。カンバス地の古びたトルソー、足踏み式のミシンや使い道のわからない無数の道具類が雑然と押し込まれ、暗がりに眠っていた。

「表からお迎えしない非礼をお許しください」

この声には妙に人を惑わす響きがあるな、と彼はどぎまぎしつつ思った。

「ああ……お気になさらず」

「主は二階におります。どうぞ」

男に導かれて、彼はシャンデリアの照らす樫の木の階段を上る。敷かれた絨毯の上質さやちらりと見えた応接間の調度からして、屋敷の主は相当な資産家であるらしい。ただし彼にはまだ仕事の領分を守るだけの冷静さが残っていたから、余計な詮索はすまいと心に決めた。

「主、お客様です」

一瞬の間があって、くぐもった声が答えた。

「入りたまえ」

扉を開くと、まず彼の目に飛び込んできたのは若草色の薄羽のドレスを纏った、霞む森の幻のような乙女の姿だった。周りの草花は露にきらめき、芳しい木々の香りすら感じられるようだった。

彼が息を呑んで立ち尽くしていると、召使いの男は控えめな口調で言った。

「人形と模造花です、ガラスケースが見えるでしょう」

遅れて、奥から屋敷の主の声が飛んできた。

「片付いていなくて悪いね、奥まで来てくれ!」

彼はショーケースの迷路を緊張しながら抜けていった。あちこちから向けられる物言わぬ視線は交錯し、凝った衣装や小物はそれぞれの世界を静かに主張していた。

「……気品溢れる深い藍と群青のドレープが豊かに波打つベルベット嬢か、光映える黄色いシフォンを幾重にも纏う華やかな薔薇の君……ああ、お前はどちらに仕上げるべきかね」

布やガラス玉や造花の収められた棚の向こうから、独り言が聞こえてくる。窓際の作業台に座り、マホガニー色の巻き毛の頭部を執念の瞳で見つめるこの男こそが彼の依頼人、「人形作家」だった。

「やあ、君が『運び屋』だね?」

「そうです」

初め「人形作家」は顔も上げなかった。よほど集中して悩んでいるようだったが、辛抱強く待っているとようやく彼の方を向いた。

「荷物を、見てもいいかな」

彼が背中のケースを差し出すと、「人形作家」はベルトを一つだけ外し、ジッパーを注意深くそろり、と開けてすぐに閉めた。

「……なるほど、これは本物だ」

「……お代をいただいても?」

「人形作家」はふむ、と言った。

「いや、もちろん支払うとも。ただし、次の仕事を頼めるなら、倍額を出そう。個人的な依頼なのだが」

彼は特定の顧客に深入りしない原則について説明したが、「人形作家」は食い下がり、ついに彼は折れた。それは奇妙な依頼だった。


翌週、彼は開店前の百貨店に入っていった。彼は背丈と同じくらいの黒いケースの他に一つ、重いトランクを引きずっていたが、「人形作家」の言った通り、誰一人として止める者はいなかった。

それどころか、誰もが彼を当然そこにいるべき者だと思っているらしかった。

「ちょっとあなた遅いわよ、それ間に合うの?」

催事場の準備をしていたベテランの店員が腹立たしげに叫んだ。ドールの展示は今日の開店からだった。

「え、あ、すみません」

「急いでください!」

「は、はい」

彼はケースのジッパーを開けた。恐ろしく美しい二つのガラス玉が彼を見上げた。彼は人形と目を合わせないようにしながらそっと抱き上げ、展示用のビロードの台座へ運ぶ。瞬間、そこにいた全員の視線が彼女に吸い寄せられた。

彼女の名はマリー、「人形作家」の最高傑作だった。漆黒の長い睫毛の下で妖しくまたたく瞳は透き通っているようで底の見えない、夜霧にけぶる湖の深紫、肌は月光の如く冴え冴えと白く、濡れ鴉の黒髪に鮮やかだった。

彼はマリーの頭に小さな帽子を載せ、優雅なラインを描く顎の下で細いリボンを結んだ。マリーの装いはほとんど黒一色だったが、その豪奢さにおいて他のドールに劣ることは決してなかった。

最後に彼がかしずいて靴を履かせたとき、周りからは感嘆のため息がもれた。さくらんぼのジャムを乗せたようなマリーの唇が、幽かに微笑みを浮かべたような気がした。

他の展示に紛れ込むときもこのようなもので、彼はいつものシャツとジーンズ姿でどこへでも入り込むことができた。飾られたマリーはどの会場でも注目を集めるのに、出どころや運び屋の彼のことは誰も知りえなかった。彼は少しずつ仕事に自信を持ち始めていた。

度を重ねるごとに謎めいたマリーは有名になり、様々な噂が囁かれるようになった。それこそが「人形作家」の狙いだった。

「あの、お名前は出さなくていいんですか」

屋敷の出入りにもすっかり慣れ、毎度紅茶のご相伴にあずかるほどになった頃、彼はおずおずと尋ねた。「人形作家」は目を丸くした。

「これだけ有名になれば、名乗り出ても……」

「さては君、私がこれ以上金儲けをする必要があると言いたいのかね?」

「い、いえ、すみません」

彼が慌てると、「人形作家」はにやりとした。

「気持ちはありがたいがね、あれは作り手を明かす訳にはいかないのだよ。あれは独り歩きさせなくては」

「はあ」

彼はうっかり好奇心を顔に出してしまったらしかった。

「……君も知りたくなってしまったのかい?」

「人形作家」は優しい調子で言った。しかし彼は嫌な予感がした。

「……いいえ」

「よろしい、君は賢明だ」

「人形作家」は満足げに笑った。

「でもまあ、確かに仕事は十二分にしてくれた。もうここに来るのはやめたまえ」

彼は顔を強張らせた。

「そんな」

「君はよくやってくれた。感謝している」

「人形作家」の穏やかな声が、彼には最後通牒のように聞こえた。


彼が去ったあと、紅茶を下げにやってきた召使いは「人形作家」の耳元で囁いた。

「今度は上手に逃がしましたね……」

「人形作家」は苦い笑みを浮かべてため息をついた。先ほどよりずっと年をとったように見えた。

「これでどう転ぶか……予測がつかなくなりました」

召使いは口元を歪めた。ぞっとするような笑顔だった。

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