『悪魔です。』

猫犬鼠子

『悪魔です。』


 手紙が届いた。


『拝啓 A様 本日8時ごろに魂を頂きに参ります。最寄りの公園の時計台の下で待っていてください』

 

 新手の殺害予告か何かだろうか? 

 男は一瞬そう考えた。

 それから、この手紙が何もかもあいまいなことに気が付き、拍子抜けした。


 手紙には本日と書いてあるが、いつ出されたのかも分からない。

 朝か夜かも分からない。

 そもそも男の家の近くには公園が三つもあった。

 というわけで、男はこの手紙のことを忘れてしまった。


 それから三日が経った。その日は朝から大雨だった。

 いつもはお気に入りの革靴を履いて出勤し、帰宅する男も、この日は替えの靴を履いて帰ってきた。

 スーツを脱ぎ、TVの前でつまらない芸人の会話を聞きながら申し訳程度に笑っていると、ピンポーンという無機質なチャイム音が玄関口で鳴る。

 扉を開けると、そこには背丈の小さな女が立っていた。


「魂をもらいに来ました」

 女はそんなことを口にした。

 男は即座に扉を閉めた。こういう奴らとは関わらないのがベストである。

 宗教団体、キャッチセールス、エセ占い師。そのどれかだろうと男は思った。

 男は、女が玄関口から消えてくれるのを待った。だが、女はしばらく待っても一向に立ち去ろうとしない。

 男はしばし考え、それからまた少し扉を開けた。もちろんチェーン越しである。見ず知らずの者に油断してはならない。

 男が扉を開けると、女は待ってましたと言わんばかりに男を見つめた。


「あの、A様で宜しいでしょうか、私こういうものなのですけど」

 差し出された名刺らしきものには、

『魂管理局、人間界支部』

 こう書かれている。

 男はまた扉を閉めかけたが、すんでのところで踏みとどまった。というより踏みとどまらされた。

 女の、ひ弱そうな手が閉めさせまいというように扉の内側に入り込んでいる。このまま閉めたら怪我を負わせかねない。

 少しの傷で莫大な慰謝料を要求してくることも考えられる。長年の会社勤めで培われた処世術が、丁重に対応して帰ってもらうことが必要だと告げていた。


「三日三晩、時計台の下で待っていたんですけど、どうにもいらっしゃらないので、こちらから来させていただきました」

 女は鼻をすすらせながら言った。よく見ると、女は傘すら持っていない。身にまとう黒服はびしょぬれで、肌に張り付いている。風邪をひいていることは明らかだった。

 だが、わざと同情心を誘い、高価な壺でも買わせようという魂胆なのかもしれない。なにより、男は女が言う内容に覚えが無かった。


「人違いではないですか?」

 男はなるべく柔和な態度で話そうと試みた。女はびっくりした顔をした。

「手紙、届いていませんか?」

「手紙? 知らないけど」

 男はすっかり手紙のことを忘れていた。そういえば変な手紙が届いていたかもしれないという考えすら頭の片隅にも浮かばなかった。

 女はその場に座り込んで泣き出してしまった。

 男は居心地が悪くなった。

 よく分からないが、どうやらこの女は困っているらしい。三日三晩は誇張だろうが、少なくとも何時間かはこの雨の中、訪ね人を待っていたのだろう。大方、恋人に裏切られたといったところだろうか。


「なにかあったの?」

「魂が欲しいんです」

 頭のネジも数本はずれているのかもしれない。人はあまりにも悲しい出来事があったりすると現実から逃げたくなることがある。中学生の頃、告白する前に振られた時の男がまさにそうだった。


「私、後がないんです。人助けだと思って、あなたの魂、譲っていただけませんか?」

 女の主張にも見境が無くなってきた。かと言って家に入れるのは気が引けた。

 かわいい顔して、今の時代、実は無差別殺人者である可能性もある。腹に穴を開けられてからでは遅いのだ。

 男は一度台所に行き、昨日研いだばかりの包丁をポケットに忍ばせた。それから1・1・まで携帯のボタンを押し、0の上に手を添えて、いつでも電話をかけられる状態にして扉を開けた。


「魂、くれるんですか?」

「何言ってんだ、馬鹿野郎。とりあえず部屋に入れ」

 男に促された女はコクリと頷き、男についてくる。男のだぶだぶの服を着こむと、女はさらに幼く見えた。


「私、悪魔なんです。手紙送ったと思うんですけど、魂もらわないと家に帰れなくって」

 幼子は話に乗っかってやると満足すると聞いたことがある。男は話の設定に乗ってやることにした。


「で、その悪魔さんは何で魂がいるの?」

「学校の卒業試験で必要なんです」

「どうやって魂をとるの?」

「吸い取るんです」

「じゃあ、許可なんていらないんじゃないの?」

「気持ちの問題です」


 男は少し女から離れた。話が嘘だとはわかっていたが、なんとなく離れたい気分になったのだ。女の話し方があまりにも淡々としていたからかもしれない。


「でも、一方的に魂を奪うってのはあまりにも酷い話なんじゃないかな」

 女は男の言うことが理解できないとでも言いたげに首をひねった。


「ほら、よくあるじゃん。三つの願いを叶えるのと引き換えに魂をもらうっていうの」

「それは創作です」

 女はふくれっ面をして見せた。それから、少し迷うそぶりをした後で、渋々と言った感じで口を開いた。


「三つの願いを叶えたら、魂くれるんですか?」

「考えといてやる」

「後で納得してないとか言っても駄目ですよ!」

「前向きに検討しとく」

「それ、全部嘘つきの常套句じゃないですか」

「なるべく本当のことしか言わないように善処する」

 女はやれやれとため息をついた。男もやりとりに飽きたのか一つ伸びをした。


「で、何を叶えてくれるんだい。お嬢さん」

「何なりと」


 男は迷った。

 願いがありすぎて困ったのではない。願いが三つも思いつかなかったのである。

 男は今の生活に満足していた。会社で推し進めているプロジェクトは順調で、金も趣味につかっても余るくらいにはある。彼女は――、今はいないが、独身貴族もいいものだ。幸い、重い持病を抱えているわけでもない。友だちも多くいた。

 頭に浮かんだ歪んだ欲望もいくつかあったが、それは形を成す前に消えた。一通り迷ってみた後で、男はとりあえず適当に願ってみることにした。


「一生困らないくらいのお金が欲しい」


 女はひっくり返った。


「無理です! そんなに持ってません!」

「悪魔の癖にお金も作れないのか? 大抵の悪魔なら、ちょちょいのちょいだぞ」

 男は適当なことを言った。


「……そうなんですか。私、まだ一回も魂取ったことないからわかんなくて。もう少し、お安くなりませんか?」

「じゃあ、当分の間の飯代くらい」

「そこをなんとか」

「ところでいま、何円もってるの?」

「百円、さっき自販機の下で拾いました」


 男はクスクスと笑った。自称悪魔であることは分かっていたが、まさか全財産が百円しかない状態だとは思わなかった。これではまるで家出少女だ。


「まさか、家出?」

「違います、悪魔です」

 男と女は、相手の眼を見つめたまま黙り込んだ。


「まあ、今日のところは泊めてやるから、雨がやんだら帰りな」

「嫌です、魂をもらうまでは帰れません」

「じゃあ、今すぐ帰るんだ。ごねるなら魂は一生あげない。明日も帰らないと親が心配する。俺が誘拐したみたいに思われかねない」

「お願いの一つ目は――」

「百円じゃ駄目だな、昼飯代にもならない。ほら、早く寝ろ。これでも真っ当な大人だから襲ったりなんかしない、安心しろ」

「そうわざわざ言うところが逆に安心できませんが、寝ることにします」

 女は意外と素直だった。布団にもぐると、すぐに寝息を立て始める。男も少しの間は警戒していたが、眠気には勝てずたちまち眠り込んでしまった。


 * * *


 朝食のいい匂いが男の鼻孔をくすぐった。男は目を覚ました。昨日、家に上がり込んだ女はもう起きていて、ついでに朝食も出来上がっていた。

「なに、これ」

 男は片言のロボットみたいな声を出した。男一人だと朝食が雑になることも多い。男は普段、朝食を買ってきたパンで済ませていた。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 ジャージのポケットに手を突っ込んだ男は、昨日、護身用にこっそり入れ込んだ包丁が跡形もなく消えていることに気が付いた。ちょうど男の視界に姿を現した女の右手には見覚えのある包丁が握られている。途端に寒気が全身を走った。

 両の手で体中をまさぐり、身の安全を確かめる。幸いなことに、そこにあるべきものはあるようだった。顔も手足も傷ついてはいないし、体から刃物がひょっこり突き出ているわけでもない。


「さて、一個目の願いはお金でしたね」

 女は男が食卓に座ると声をかけた。男は無言で頷いた。

「私、今日から働くことにしました。アルバイトをして、お願いのためのお金を稼ぎます」

 男は今にも、『出ていけ!』と言うつもりだった。女の絶妙なタイミングでの一言が男を黙らせていた。

「隙間時間に家事をして、お金がたまったら次のお願いに入ります。そして魂を頂きます」

「住み込みってことか? そんなに家に帰りたくないの?」

「私は悪魔です」


 寝ている間に、女は男のポケットから包丁を抜き取っていた。殺すつもりなら男はとっくにやられている。男には女の狙いがわからなかった。たんなる家出なのか、否か。

 男が迷っている間に、女は軽く男に会釈して出かけて行った。男が難色を示す前に扉は閉まった。手持ち無沙汰になった男は、朝食に顔を近づけ、臭いを嗅いでから口をつける。毒は入っていなかったが、味はまさに毒だった。


 * * *


 男が帰宅すると、家の中からすすり泣きが聞こえた。女だった。

 世の中には、履歴書無しで即日雇ってもらえるバイトがあるらしい。通常、そのほとんどは肉体労働である。女は、その中では軽めにあたるティッシュ配りのバイトをしたらしかった。


 一体何があったのか。女をなだめ、話を聞いているうちに、男は女が全く常識を兼ね備えていないことに気が付いた。なんでも、女はティッシュを受け取ってくれない通行人を追いかけて、無理やり渡そうとしたらしい。苦情が行き、女は一生会わないはずの雇い先に怒られた。それで泣いているようだ。

 男はため息をついた。


 ――この子、何にも知らないんだな。


 男は、女にアドバイスを送ることにした。

 胸元あたりに差し出すこと。立ち止まっている人を狙うこと。意外と外国から来た人は狙い目なこと。間違っても追いかけたりなんてしないこと。


 女は最初のうちはぐずっていたが、次第に男の話を聞くようになった。話が終わった時には、女は「もう一度やってみる」とさえ言った。それからすぐに、泣き疲れたのか寝てしまった。


 * * *


 次の日は土曜日だった。女は休日だというのにバイトを見つけに行くらしい。男は、女がいない間に街に繰り出すことにした。行きついた先は寂れた交番。立ち番をしていた眠そうな顔のおまわりが、男を出迎えてくれた。


「どうしましたか?」

「捜索願とかって出てないですか?」

 男は、前もって決めていた言葉を口にした。

「いえ、出ていませんが、何か気になることでも?」

「それならいいんです。ただ、少し前に公園で雨に濡れていた少女を見かけたので、もしかしたら迷子ではないかと」

「情報ありがとうございます。よかったら詳しく話していただけると――」

 本当に迷子ならば、そろそろ捜索願が出されてもおかしくない。よっぽど酷い親か、見かけによらず一人暮らしをしているのでなければ。

 いずれにせよ、そろそろ帰ってもらわなければならない。男は適当に話の辻褄合わせをした後、交番を後にした。


 * * *


 女は毎日のようにバイトに出かけた。男もプロジェクトが山場に差し掛かり、毎日のように仕事に行った。無理やり女を追い出すことも出来たはずなのに、結局男は女を追い出せないままだった。

 朝、同じように出かけ、男の方が少し遅く帰宅する。家に帰ると、女のまずい手料理が出迎えてくれた。そんな歪な毎日は、一か月の間続いた。


「一つ目のお願い、そろそろ叶いましたか?」

 ある夜、女は突然、男が忘れかけていたことを口にした。

 男の前に、厚みのある札束がすっと差し出される。

『三十万』

 一か月、バイトだけをしていたにしてはあまりにも多い額だった。だが、男は、女が一生懸命バイトに勤しんでいたことを知っていた。

 ある時は、昼食先で。またある時は、帰宅中に。

 一日数時間だけ、日雇いのバイトをしている。女は男にそう言っていたが、女は明らかに数種のバイトを掛け持ちしていた。それも、男が帰ってくるギリギリの時間まで。

 少し寄り道してから帰るようにしていなければ、男が先に帰宅していたことも多かったろう。女は体を酷使してまで溜めたお金を、男に全額あげるつもりだった。


「駄目だ、受け取らない。どうしてもというなら、それを自分のために使うこと。それが俺の一つ目の願いだ。それから二つ目は、君がこの家を出て、真っ当な人生を――」

「嫌です。これはあなたの願いのための金です。私のものではありません」

「もし一つ目のお願いが、二度と金に困らないくらいの大金だったら一生叶わないぞ」

 男は女に詰め寄った。


「わかりました。一つ目の提案は受け入れます。その代わり……二つ目の願いの内容は違うものにしてください。できれば、私と遊園地に行きたいと願ってくれるのがいいです」

 女の顔が紅潮した。

 男は、微笑んで頷いた。


 二つ目の願いが終わっても、女の口から三つ目の願いが要求されることは無かった。

 休みの度に、女と男は遊びに出かけた。

 春には花見をした。夏にはキャンプに行った。秋には紅葉狩りに行き(女は紅葉を見ても腹は膨れないと拗ねた)、冬にはスキーをした。

 女と男は、長い間一緒に暮らした。

 男のプロジェクトが成功を収めた時は女が祝った。女がバイトから正社員に昇格したときは男が祝った。いつの間にか、男の日常に、女は入り込んでいた。


 * * *


「試験に落ちました」

 ある日、女は改まった様子で男にこう言った。

 男の記憶は女と出会った時に引き戻された。

 随分長い間、女がこの家に来た理由を男は忘れていた。


「私は明日にも強制送還されます」

 男は、女が悪魔だとは信じていなかった。いないはずだった。

 だが、女の言葉は、男を明らかに動揺させた。


「どうして、こんな急に」

「悪魔ですから」

 女は素っ気なかったが、男は自分の半身が居なくなってしまうような気がしていた。


 女が家に来た時は、早く帰ってほしいと思っていた。

 だが、いま男は、女に帰ってほしくないと思っている。


「これで最後になるなら三つ目の願いを言ってもいいかい?」

 男は硬直していたが、口だけは魔法にかけられたかのように言葉を紡いだ。

「卒業試験に関係なくても魂はもらいますよ」

「それでもだ」

 男の体の中で何かがドクンドクンと音を立てていた。

 もしかしたらこの音は、願いを言った後に止まるのかもしれない。

 ただ、その後のことなんて、もう考えてはいなかった。


「俺と一緒に暮らしてくれ」

「もう三年分は願いを叶えました」

 女はどこか懐かし気に言った。

「これでお願い、三個目ですよ。引っかかりましたね」

 女はクスっと笑った。


「騙したのか?」

 そう問い詰める割に、男の顔は随分と穏やかだった。

「ええ、卒業試験には期限がありません」

「別に罠でもいいさ。魂はやる」

 一緒に過ごしているうちに男の魂は既に抜き取られていたのかもしれない。

 抵抗なく女のいうことを受け入れている自分に、男は驚きを感じていた。


「私も出来れば魂はとりたくないのですが、契約ですから仕方ないですし……。それではこの書類にサインしてください。ここにサインすれば、あなたの魂は完全に私の物になります」

 男の前に薄い桃色がかった一枚の用紙が差し出された。既にその右側には女の名前が書き込まれている。

 男は目を見開いた。


「卒業するのは諦めました。代わりに、あなたの家に永久就職することにします。あなたの魂、一生返しませんからね」

 女は笑った。

「君は、君は本当に……」

 男は涙ぐんでいるようにも見えた。

「悪魔です。」

 女は言った。



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『悪魔です。』 猫犬鼠子 @nekoinunezumiko

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