第4話 シュレディンガーの亀
玄関前から少し右手にある駐車スペースに赤いマツダ車が止まっている。運転席側に立って、はつみさんはこちらに軽く手を降っていた。私は軽く会釈をして傍に駆け寄る。
「本当に駅まででいいの?家まで送ってもたいして時間はかからないけど」
「あ、途中で買い物しなきゃいけないんで、大丈夫です」
はつみさんは、「そうか」とうなづいてから、私を助手席にうながした。車内に無駄なものはなく掃除も行き届いていて、どことなく借りたばかりのレンタカーのような印象を受けた。はつみさんはゆっくりとボタンを押してエンジンをかけると、講習ビデオみたいな所作でシートベルトをし、車は静かに動き出した。
音楽もなく、ラジオもつけず、私たちはしばらく無言でいた。
「祥恵さんと会うのは初めてでしたよね」
無言に耐えきれないのはお互い様なのか、はつみさんが呟くように言った。「はい」と曖昧な声で返事をする。
「さっきも話したけど、僕は半年ぐらい前から、お父さんの雑用係兼占い師見習いみたいな感じで弟子入りしているんです」
改めてよろしく、と言うと、はつみさんは少し照れたような顔をして頭を下げた。
これまでも父には何人か弟子はいたが、みんな1年足らずでいなくなってしまった。父に何かを教えるような器用さがないからだろうなとは想像がつく。彼もいつまで父と一緒にいられるのだろうか。
「はつみさんって、名字ですか?それとも名前?」
ふと、思いついて訊いてみた。すると苦笑いを浮かべて不思議なことを言う。
「どちらでもないんだ」
私が答えに窮していると、彼は続けた。
「実は本名じゃないんですよ。お父さんが僕の顔を見てね、昔の知り合いの『はつみさん』って人にそっくりらしいんだよね。そうしたら『今から君のことは、はつみ君って呼ぶからね』って言われて……。それから『はつみ』を名乗ってる」
「そんなに似てるんですか」
「みたいです」
はつみさんはまた苦笑いをした。
父は人にあだ名をつける人ではないので、珍しいな、と思う。よっぽど似ていたのか、それともそう呼びたくなるあたりが、はつみさんのなかなかのもんらしさなのかもしれない。
「それにしても、お父さん、大事がなくて良かったね」
「はい。でも、正直、突然入院だなんて考えてなかったから、びっくりしました」
率直な感想を述べる。
「予期せぬ出来事だからね」
前を向いたまま、はつみさんはよく通る声で言った。
「もともと持病があって、とかなら想像がつくんだろうけれど、突然の事態にはなかなか対処ができないもんだよ。だから祥恵さんがわざわざ駆けつける気持ちもわかる」
「なんだかどんどん取り残されちゃう感じがしたんですよね」
ボソッと呟く。つい本音がでてしまった。
「取り残されちゃう、ですか」
私のセリフは、はつみさんの何かにひっかかったらしい。
「祥恵さん、なんか最近、そういう状況なの?」
返事をすべきか迷う。父の弟子とはいえ、初対面の人に自分の身の上を話すなんて馬鹿馬鹿しい気がした。いや、父の弟子だからこそ、話すのは余計馬鹿みたいだ。
「他人だからこそ、話せることってあると思うよ。まあ、話すも話さないも自由だけれど」
車が信号で一時停止する。はつみさんがこちらを向いてはっきりとした声で言った。
「でも、お父さんには話せなくて、吐き出したいって顔をしている」
私がそこで彼の顔に見てしまったのが、もう負けだったのだ。近くで見るとはつみさんは端正で穏やかな顔で、なんだか心の奥を読まれているような気がした。どうせ心を読まれているんだったら、それは言葉にしてしまったほうが良い。
信号が青に変わって、私たちの車はゆっくりと動き出す。
それを合図代わりに、私は最近、崇に別れを切り出したこと、今日、その彼から「覚悟がない」と言われたことを話した。
はつみさんは私が話し終わるまで、一切口を出さなかった。
「崇がそばにいなくなって、父までいなくなったら、私にとって大事なものがどんどん抜け落ちて……そのうちひとりになっちゃうのかな、と思ったら、なんだかたまらなくなったんですよね」
ふぅーん、と相槌のような息をついて、はつみさんが答える。
「でも、まだその彼氏とも別れたってわけじゃなさそうだし、お父さんだってただの熱中症だ。だから、まだ君は孤独ではないし、取り残されてもいない。自分で状況をコントロールできる範囲にいる」
「もちろん人の生き死には突然だけれど」
はつみさんが付け加える。
「それはそうだけど、最近どうしたらいいんだろうって、不安がよぎるんです。このままでいいのか。なにか変えたほうがいいのか……」
息を飲み込む。
「でも私は結局、どうしたいのかよくわからない」
そのまま、ふたりともしばらく黙っていた。話す前よりも、車内の空気は若干重苦しくなった気がする。やっぱり黙っておいたほうが良かったのかも知れない。
交差点を右に曲がった後、はつみさんは前を向きながらはっきりと言った。
「亀を投げたらいいんだよ」
ちょっと言っている意味がわからない。本当の意味で亀を投げるのだとしたら、動物虐待、絶対反対。
「それって、占いかなにかですか?」
「うーん、どうだろう」
自分で提案しておいて、曖昧なことを言う。
「亀って万年生きるって言われてるでしょ。もちろん占いでも縁起の良い生き物の代表なんだ」
「亀を投げてみる。勢いよく、じゃなくて“ちゃぽん”って感じで。池の、ああ川でもいい、そこに少し音を立てるぐらいに、だ。海はやめておこうか、海亀じゃない限りね。それで亀は果たして生きているのか。そのまま浮かび上がってくるのか、はたまた裏返しになっているのか。それは水の中からでてこない限りわからない」
淡々と説明する一方で、なんだか芯のほうでニヤついている印象を受ける。
「それって『シュレディンガーの猫』みたいなものですか?」
50%の確率で毒がでる箱に入れられた猫が、生きているか死んでいるかは箱を開けるまでわからない。だから箱をあけるまで、箱の中には、生きた猫と死んだ猫が重なり合った世界が存在する。物理学のパラドックスだ。私はこの話を海外ドラマで知った。
「よく知ってるね。シュレディンガーの猫の発想はそもそも『
絶対、嘘だろうけれど、本当のことのように言う。しかも満面の笑みを浮かべながら。この人は占い師というより詐欺師のほうが向いているんじゃないだろうか。私は訝しげにはつみさんの横顔を見つめる。
「あ、今、詐欺師みたいって思ったでしょ?」
ドキリとした。
「勝手に人の心を読まないでください」
「いや、前にもそう言われたことがあるんだ。その人、今の君とそっくり同じ顔してた」
そう言って自嘲気味に笑う姿は、父に似て愛嬌があった。人を食っているようで憎めない雰囲気は父の弟子である由縁かもしれない。それと「詐欺師みたい」と言ったのは、はつみさんの彼女ではないかと思ったけれど、訊くのはやめておいた。
それから無言になった私たちを載せて、車はまもなく最寄り駅に到着した。簡単な御礼を言って、車を降りると別れ際にはつみさんが言う。
「でも、亀を投げるのはちょっと考えておくといい。落ち込んでいる時は、そういうすがるものって結構大切だと思うよ。すがられる立場の僕が言うんだから、信憑性があるでしょ?」
私は返事をせずにお辞儀をして、そのまま改札口まで小走りした。
はつみさんは第一印象と違うタイプの、不思議な、そして計り知れない感じの人だった。小馬鹿にされているとまでは言わないけれど、子供扱いされているような気がする。でも、それが嫌な気分とはちょっと違う……
得体のしれない初めての感覚に、一刻も早くひとりになりたかったのだ。
途中、赤羽の駅ナカでタピオカミルクティーを飲んだ(15分並んだ)。予定と違う行動をして身体も疲れていたし、なにせ頭がまわらない。
過剰なカロリーと糖分が、今の私にはなによりも必要だった。
亀を投げる 高野ザンク @zanqtakano
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