証印

 艶やかな髪が風にあそばれる。


 血と土の匂いに混じるわずかな香りが彼の鼻をくすぐった。


「また、いつかどこかで会えますように……」


 そうして差し出してきたのはひとつのかんざし

 それは、今まで彼女が美しい黒髪に挿していたものだった。


 流れるような黒髪と己の身に起こっている突然の出来事に戸惑いながら、彼は女中をちらりと見やる。


 隣に端座たんざしていた女中は静かに首を振った。


 その様子をみた彼は、その簪を受け取ろうと手を伸ばす。

 礼を言おうとした彼だが、その時あることに気付いたのだ。


「このあざは……」

 身に覚えのないものだった。


 それは左手の甲にあったのだが、不思議と痛みは感じない。


 さっきの騒動でどこかにぶつけたのだろうか。

 それにしても奇妙な形をしている。


「…………」


 突然黙り込んでしまった宋司に、娘は不安げな面差しで彼の顔をのぞき込んだ。


 様子に気付いた宋司は慌てて簪を受け取る。


「迷惑……だったでしょうか」


 気遣う娘に対して、宋司は苦し紛れに言い訳をした。

「いや、そういうんじゃないんだ。ただ、本当にもらっていいものかどうかと……」


 狼狽うろたえる宋司が必死に言葉を探していると娘は口元を隠し、やがてふふっと小さく笑った。


「左手をお出しください」

 着物の袷からひとつの手ぬぐいを取り出す様を見た彼は、素直に左手をそっと差し出した。


「気になるのでしょう、お傷の手当をさせていただきます」


 言うが早いか、娘は器用に手ぬぐいをさばいて痣を隠すように巻いていく。

 白く柔らかい娘の手はわずかに泥に汚れていたが、震えも止まり、少しではあるが温かさも戻りつつあった。


 安心した宋司は、手ぬぐいが結び終わるとともに立ち上がる。


「また、お会いできますでしょうか」

 娘の問いに、彼はそっと微笑んだ。


 その表情を見た娘は、その場で手をつき一礼する。


 それにならうように女中も一礼したその時、遠くからけたたましい様な音が響いてきた。


 はっと宋司が顔をあげると同時に、娘が口を開く。


「役人が参ります。気付かれないうちに、遠くへ……」


 巻き込まれると大変だ。

 後が気になるが、続いて追手がくる気配もない。


 この様子だと大丈夫だろう。

 そう判断した宋司はひとつ頷き、娘と女中に軽く手を挙げて足早にその場を後にした。



「橘、様……」

 確かめるように己の手のひらを見つめた娘の呟きは、隣にいる女中の耳には入らない。


 それはただ、少しの抵抗もしないまま静かに風に紛れていった。


 娘は意を決したように顔をあげ、女中に告げる。


はぎ、役人が来る前に。早く」

「かしこまりました、菖蒲あやめお嬢様」


 女中が頷き、立ち上がる。

 高い笛の音が近づいていた。




 少し離れたところまで歩いた宋司は、屋敷の方角を振り返る。


「ああ、いつかな…………」

 そう呟いた彼はそっと目を伏せ、ただ何事もなかったかのようにひたと前を見据えていた。



 彼は気付かなかった。

 彼を見張るついの視線に。


「みつけた……!」

 乾いたくちびるの間から音が漏れる。


 にぃと三日月の形にゆがんだ口元を隠そうともせず、その視線は娘に移った。


「たちばな、あやめ……」

 くつくつとわらう。


 ああ、みつけた。

 もう逃さない。



 その姿はまるで、餌を求める獣のようだった。








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散りゆく花は 夢をさがす 成柞草 @7239sou

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