第参話
結局秋人はあのまま帰ってしまった。
あのあと少しでも長く秋人があの場いたらどうなっていたことだろうと美冬は思う。
母の前であんなことを言うわけにはいかない。
でも秋人には言ってしまった。
どうしてあんなことを言ってしまったのかいまだによくわからない。
父を送り出すときでさえこんな気持ちにはならなかったのに。
たかが幼馴染。
たかが他人。
たしかに昔はいつも二人で一緒に遊んだり、勉強したり、いろんなことをした。でもそこには特別な感情はなかったはずで。
この5年間、再会を待ちわびていたわけでもない。
ただ、関わりがなくなっても、どこか近くにいるように感じていただけ。
それなのになぜこんな気持ちになっているのか。美冬にとって秋人は何なのか。
秋人にとって自分は何なのか。
いくら美冬が考えたところで美冬にはわからない。
母は見送りに行くと言っていた。
わざわざ知らせに来てくれたのだ。それを無碍にするような真似はできない。
それでも美冬はどんな顔をして秋人に会えばいいのかわからなかった。
雪はあのあと激しくなり、夜になっても降っている。
頭に雪をかぶった街灯は当然のように沈黙してしまっている。
明かりという明かりはないので、外の様子はそこまでわからないが、不安げな景色には違いなかった。
秋人のことが頭から離れず、眠れない。
どうしたらいいのだろうか。
先程から美冬の頭の中はぐるぐると同じことばかり考えている。
たかが幼馴染にどうしてこんなにも悩ませなければいけないのか。
一家を代表して母だけが行くのはだめなのだろうか。
美冬の年齢でそれは幼い考えだろうと思い、考えるのをやめた。
◆ ◆
「美冬! 美冬!」
母の声で目が覚めた。
ここ二年間、母に起こされたことなんてなかったのに。
「いい年して寝坊なんかして。秋人君の見送りに間に合わないでしょ」
母はもう外行きの格好をしていた。
「私が寝坊した?」
美冬が慌てて起き出して窓を見ると、すでに雪は止んでいて日が昇っていた。
母に急かされるようにして、美冬は身支度を整えた。
結局昨晩悩んだことは意味がなかったらしい。
母に連れられて、駅の前まで来てしまった。
普段廃駅と化している駅は溢ればかりの人で埋め尽くされ、とてもではないがホームまで行けそうにない。
列車が来るのはまだらしく、美冬たちと同じ時間に着いた人も少なくなかった。
「え?」
いつの間にか立ち止まっていたのか、美冬の隣には母がいなかった。
「お母さん? どこにいるの?」
まさか逸れるなんで思っていなかった美冬は、慌てて母を探し始める。
美冬は人混みをかき分けて進んでいたが、人が多すぎてもう前には進めそうになかった。
美冬はどうしようもない不安に襲われる。
秋人にも会えなければ、母とも逸れてしまった。
自分が考え事をしていたばかりに。
美冬は後悔に似た思いを感じていた。前後左右を背の高い男性に囲まれてしまって、視界も悪い。
列車が過ぎて、周りが帰るまで待つしか無いと思っていた。
そんな時だった。
「美冬は来てないんですね」
秋人の残念そうな声が聞こえてきた。
「あれ?! 一緒にいたはずなんだけど。逸れてしまったのかしら」
母の驚く声を聞いて、美冬はこれが幻聴ではないことに気付いた。
しばらくの沈黙のあと、秋人が切り出した。
「お母さん、育ててくれてありがとう」
「そんなこといわんでいい」
秋人の優しげな声が聞こえてくる。
美冬は、やっぱりねと思った。
家族にとって、出征するというのは名誉なことだと理解しつつも、どこかで二度と帰ってこないのかもしれないという気持ちを生んでしまうものなのだ。
秋人のお母さんは、夫に続いて息子まで戦地に行くことになって、どんな気持ちなんだろうか。
美冬が秋人のお母さんの立場だったら、きっと耐えられないだろう。
赤紙自体をなかったことにしてしまうかもしれない。
「あんたは立派にお役目を果たして、胸張って帰ってきたらそれでいい」
秋人のお母さんは泣いている様子もなく、それでも強張った口調だった。
美冬は、これこそが日本人のあるべき姿なんだと思う。
陛下のために、お国のために、臣民が一つになって敵国と戦う。
玉砕は名誉。
全ては勝利のために。
美冬がこんなふうに思えないのは幼いからなのか、なんであれ異端思想であることには変わりない。
どうして自分が昨日感情をむき出しにしてあんなことを言ってしまったのか、少しわかった気がした。
「はい。そのつもりです。胸を張って行ってきます」
秋人がやはり誇らしげな口調でそういった。
「美恵子さん。美冬に伝言頼めますか? 」
秋人がそう言った瞬間、美冬は自分でも息を飲んだのがわかった。
「大丈夫よ」
母が応える。
「すみません。間通ります」
美冬はなぜか伝言ではなく、直接聞きたくなって、人混みをかき分けた。
「小さい頃から臆病だった自分と一緒に遊んでくれて嬉しかったよ。自分がいまこうして強くなれたのも、美冬のおかげだ」
今自分に別れの言葉が告げられようとしているからなのか、美冬の目頭が熱くなる。
「自分が、美冬だけに知らせに行ったのも、自分にとって美冬がただの幼馴染じゃないからで」
知らせに言ったのが自分だけなんて知らなかった。
「これは自分の一方通行の思いなのかもしれないし」
美冬にとって、幼い頃秋人と遊んだのは決して特別な感情があったわけではなくて。
「もしかしたら叶わないのかもしれない」
ただ一緒にいると心地よかっただけであって。
「こんなことを伝言で伝えるのは男として情けないかもしれんけど」
きっとそれは―――。
「自分、荻原秋人は、佐伯美冬がす―――」
キィィィィィィ。
タイミングが悪い列車のブレーキ音で、最後に彼がなんと言っていたのか、美冬がには聞こえなかった。
「秋人!」
美冬がようやくホームに顔を出した頃にはもう、秋人は列車に乗りかけていた。
「帰って来なかったら許さんからな」
秋人が驚いたような顔をしたあと、どこか嬉しそうに笑って、
「元気で行って来ます」
そう言い残し、列車の中に消えてしまった。
周りからは涙を流している人もいる。
やっぱり悲しいんじゃないか。
強がったっていいこと無いのに。
「美冬。どこ行ってたの」
周りに母もいた事を思い出し、美冬は母の方を向いた。
「あれ? あんた泣いてるよ?」
母の不思議そうな声を聞き、美冬は初めて自分が涙を流していることに気がついた。
父が行った時も流したが、それとはまた別の涙であるような気がした。
「あはは。そういうことか。確かに情けない男だわ」
美冬は思わず笑ってしまう。
秋人が最後に言いたかったことがなんとなくわかったから。
そしてその思いはきっと自分の中にもあるものだから。
もっと早く気付いていれば結果は違ったのかもしれない。
秋人を乗せた列車はどんどん小さくなっていく。
青年たちは車窓から身を乗り出して帽子を振る。
送り出す者たちはホームから身を乗り出して手を振る。
見えなくなるまで、ずっと。
雪を溶く熱 永坂 友樹 @1800236
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