帰郷

Damy

息子が帰り、また息子も帰る

『今日の二時にそっち行く』


 津義人つぎひとがそのメールを息子の涼也りょうやから受け取ったのは十一時四十分のことだ。事前に帰郷するという連絡もなく、涼也が帰ってくるのは実に三年ぶりのことだった。

 急な連絡に妻の理子りこは忙しなく部屋の中を片付け始めたかと思うと、津義人に買い物に行ってきて、と茶菓子やら何やらが書かれたメモと一位万円札を渡してくる。


「涼也が帰ってくるだけだぞ。ここまでする必要ないだろ」

 そう苦言を呈する津義人に、理子は妙にニヤついた顔で答えた。

「必要ありますよ。あの子が家に帰ってくるのにわざわざ連絡をしてくると思いますか?」

「してきているだろ、現に」


 何やら矛盾したことを言う理子に、訳がわからんと眉間に力を入れ、五十四歳にしてはシワの多い津義人の顔にシワが増える。確かに涼也が帰郷のメールを入れるてくるとは津義人も思っていなかったが、それはこの三年間である程度の常識を身につけ成長したということだろう。まあ、三年間ろくに連絡をよこさなかった矢先のこれなのだから、程度が知れるというものだが。


「いいですから、時間もないんですし買ってきてくださいよ。前に言ってたゴルフのパターの購入を検討しますから」

「…………」

 理子がそこまで言うからには何かあるのだろう、と津義人は渋々と言った様子でソファーから腰を上げてコートを羽織った。




 近所のスーパーから三十分ほどで両手にビニール袋を下げて帰ってきた津義人は、玄関で思わず息を止めた。最近では滅多に嗅ぐことのないあからさまな芳香剤のラベンダーの匂い。鼻の奥を撫でるようなのったりとした匂いに嫌悪を露わにする。


「おい、理子!」

「あ、お帰りなさい。それ着ておいてくださいね。あと買ってきたものは台所にお願いします」


 リビングから顔だけを出してそう言うと理子はまたすぐリビングに消えた。よく見ると、靴棚の上には着替えが一式用意されている。服装に無頓着な津義人のため、数年前に『外出用』と理子が買っていたものだった。

 そこでようやく、理子の思っている涼也の帰郷の理由を察した。


「結婚……涼也が? それはないだろ……でもあいつも二十六だからな……」


 津義人が理子と結婚したのは二十四歳の時――三十年前の事だ。そう考えると涼也が結婚の報告という理由で突然帰ってきてもおかしくはない。そう考えるた津義人は、一応着替えておくか、と着替えを持って暖房の効いたリビングに向かった。

 十四時ちょうどにベルが鳴らされ、津義人と理子は揃って玄関へ出迎えた。

 久々に家に顔を見せた涼也は、玄関の扉をくぐるなり早々、


「彼女と結婚する」


 そう宣言した。後から入ってきた女性は、「あはは」と困った顔で理子に紙袋を渡して頭を下げる。


「お邪魔します。多岐たき 清子きよこです。この度は涼也くんとの結婚を認めていただきたく、ご挨拶に……」


 予め用意していたかのような台詞を言う清子に微笑みながら理子はリビングに上がるよう促した。

 後に残された涼也は津義人の近くによると、


「なんか芳香剤? の臭いキツくないか? 親父こうゆうの苦手じゃなかったっけ」

「買い物に行ってる間に勝手にな」

「あー……」


 妙に納得した声を漏らした涼也は女二人に続いてリビングに入っていく。その姿を見ながら、玄関に一人となった津義人は衝撃を受けていた。

 不出来な息子が綺麗で礼儀正しい人と結婚することにではない。芳香剤を設置したであろう理子に聞こえないよう、わざわざ自分に近寄ってきたことにだ。気遣いなんてものを自分の息子ができるようになっていることに感慨無量の面持ちになってしまう津義人だったが、息子の嫁となる人にそんな情けない姿は見せられないと気持ちを入れ替えリビングに向かった。




 清子との会談は数分のうちに終わってしまった。息子が女の人を連れてきたことに理子がテンションを上げ、涼也の恥ずかしい昔話を始めてしまったせいだ。

 恥ずかしがる涼也に腕を引かれる清子はどこか楽しげで、


「また来ますので、話の続きを聞かせてください」


 という言葉を残して帰って行った。

 理子は清子のことをえらく気に入った様子で、その日の夜まで思い出話を掘り返しては、あの時は実はこう思っていた、今度またあそこに行こう、とひっきりなしに話し、津義人は相槌を打つのに徹していた。

 ベッドに入る頃には理子のテンションも落ち着いたようで、津義人はようやく自分の話をするチャンスを得た。部屋の照明を消し、自分の後にダブルベッドに潜ってきた理子に声をかける。


「なあ」

「明日の朝は鮭です」

「そうか……いや、そうじゃない。明日、出かけてこようと思うんだ」

「また急ですね。どこにですか?」

「実家」


 その言葉を聞くと、眠そうだった理子が身体を勢いよく起こした。部屋の照明を消しているため津義人にその表情は見えはしなかったが、疑問と不安が綯い交ぜになった顔をしているんだろう、と予想した。長年連れ添ったからわかるというわけではなく、その反応が当然だと思ったからだ。

 なにせ津義人は勘当されている。数十世代に渡って続いてきた農家を継がずに上京したからだ。十八歳の頃から会っておらず、結婚式にも呼ばなかった。そもそも津義人が結婚している事すら知らないのでなないだろうか。


「そう、ですか……私もついて行っていいですよね」

「……好きにしろ。おやすみ」


 ぶっきらぼうに言った津義人に習うように、理子が勢いよく身体を倒してベッドを軋ませた。

 暗い寝室の天井を眺めながら、津義人は明日のことを考える。

 津義人の実家は北海道の当別にある為、東京から行くには様々な公共機関を駆使しなくてはならない。札幌の雪まつりは二ヶ月以上先の為、飛行機の席は当日であっても取れるだろう。千歳空港から当別まで出ているJRを使って一時間、駅からレンタル車で三十分くらいだ。

 朝方にこちらを出れば昼には実家に着くことができる。

 三十六年もの間、遠い遠いと思っていた実家も半日とかからずに着くのには、感慨深いものがある。両親はどれほど老けただろうか、あのボロい木造家屋は今も健在だろうか。ありえないと思うが、家が壊れて畑を手放してどこか違う土地に越していたらどうしようか。そんなことばかりが津義人の暗闇の視界に浮かんでは消えて行く。


「眠れないんですか」

「……。まあな」


 最初、何もかも見透かされている感じが悔しく、狸寝入りでもしてやろうかと思ったが結局返事をした。一生を連れ添う相手に意地を張っても仕方がない。


「涼也が清子さんを連れてきたからですか? 急に実家に帰る事にした理由は」

「明日は早いからさっさと寝ろ」

「いいじゃないですか。どうせ眠れないのでしょう?」


 そう言って理子はベッド横の照明に手をかけて電源を付ける。オレンジ色の暖かい光が寝室を照らす。

 こうなると理子が頑なに自分の意見を曲げないのを、津義人はよく知っていた。普段は敬語を使っているというのに、これでなかなか頑固な人間なのだ。


「ただの報告だ」


 仕方がないと見切りをつけ、津義人はそう切りだした。


「報告……ですか?」

「十八歳の男が親の仕送りもなく都会に出て、商社で営業として勤め、妻を娶り子供を持ち家庭を支え、息子も大きくなって今度結婚する。ただそれだけを報告したら帰る。昔話を交わすつもりも農家を継がなかったことを詫びるつもりもない」

「なんか……久しぶりの再会にそれだけっていうのは寂しくないですか? 私は津義人さんのご両親と色々とお話ししたいんですが」

「昔に勘当した息子が帰ってきても困るだけだろう、これくらいがちょうどいいんだ。今度こそ、おやすみ」


 さあ寝るぞ、と照明の電源に手を伸ばした津義人の手はしかし、理子によって阻まれた。不思議そうにする津義人の瞳に理子はかぶりを振って答える。


「まだ理由は教えてもらってませんよ」


 優しい声色の追求に津義人は辟易し、強引に照明の電源を切って目を瞑る。隣で嘆息のような、諦めの吐息が漏れた。

 先ほど述べた、向こうに着いたらやること、ではどうやら満足してくれなかったらしい。しかし理子の問う、急に帰郷を決めた理由は、抽象的でどうにも言葉にできる気がしなかった。

 発端は涼也が清子を連れて家に来たことだ。社会の荒波というやつに揉まれたからか、清子という礼儀正しい彼女と時を同じくしているからか、涼也はしばらく見ないうちに常識を弁えた大人として成長していた。

 その姿を見た時、津義人は子供としての義務のようなものを感じた。恐らく涼也にそんな気は無いだろうが。

 親の義務は生きる術を子供に身につけさせることだと津義人は思っている。

 そして子供の義務は立派に生きている姿を親に見せることだと思ったのだ。

 帰郷を決めた理由はこんなところだった。世間一般で言えば当たり前のことかもしれない。しかし数十年と親と顔を合わせていない津義人にとっては衝撃的なことだったのだ。それこそ、思い立った次に日に行動を移してしまうほどに。

 そんなことを考えていると、ベッド越しに理子の寝息が伝わってきた。

 ――俺も寝よう。明日は早い。

 津義人はそう考え、身体を這う眠気に従って目を閉じた。

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